山口県・山陽小野田市の観光と、セメントと歩んだ歴史をわかりやすく解説!

山口県・山陽小野田市の観光・歴史と、小野田の名産品「セメント」の歴史について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!

  1. 山陽小野田市の魅力と、セメントとともに歩んだ歴史を探る!
  2. 山口県・山陽小野田市とは?
    1. ​山陽小野田市の歩み
    2. 「小野田(おのだ)」の由来
  3. 日本有数の「セメントの名所」山陽小野田市
    1. 国の重要文化財「徳利窯(とっくりがま)」
    2. 日本で初めて、「民間のセメント会社」を作った街
      1. かつての日本の建物は、レンガ・石・木造などが主流だった
      2. 関東大震災をきっかけに、徐々にセメントが主流になっていった
    3. なぜ小野田でセメントが盛んだったのか?
      1. 港が近く、材料も近くにたくさんあった
      2. 小野田・宇部周辺で、多くの石炭が手に入った​
      3. 美祢からの​材料・石灰石の輸送 小野田港から全国への積み出し
      4. 鉄道と工場の直結 非常にムダのない構造だった
      5. 自動車・トラックの普及にともない、多くの専用線は廃止へ
      6. 鉄道→​船へのバトンタッチ
      7. ​小野田港駅周辺・多くの人達で賑わっていた記憶
    4. レンガ→セメントへと転換していった大正時代
      1. 関東のレンガ造りが少ないのは、震災のせい?
      2. レンガ造りから、​セメントへのシフト
      3. 浅草・凌雲閣はレンガ造り?
    5. 埼玉・​深谷のレンガは大ダメージを受けた?
      1. 深谷レンガの栄光
      2. ​時代の交代 レンガ→セメントへ
    6. ​イギリスでレンガ造りの建物が多いのは、地震が少ないから?
    7. 小野田のセメントで補強された、日本の建築
    8. 小野田線で、かつて多くのセメントが運ばれた歴史をしのぶ
  4. おわりに:山陽小野田市の魅力の再発見

山陽小野田市の魅力と、セメントとともに歩んだ歴史を探る!

小野田線・小野田港駅(山口県山陽小野田市)

小野田線・小野田港駅(山口県山陽小野田市)

さて​今回は、山口県山陽小野田市さんようおのだしが持っている、なかなか知られざる観光の魅力と奥深い歴史について、ぜひ学んでいきましょう!

ここにはまさに、明治時代のセメントの歴史から、それらを運んだ小野田線・小野田港駅・小野田港まで、たくさんの発見があると思いますよ!

​それでは、山陽小野田市の歴史をしっかりと掘り下げていきましょう!

小野田駅より・筆者(山口県山陽小野田市)

山口県・山陽小野田市とは?

​山陽小野田市の歩み

小野田駅(山口県山陽小野田市)

小野田駅(山口県山陽小野田市)

山口県​山陽小野田市さんようおのだしは、2005年

  • 小野田市おのだし
  • 山陽町さんようちょう

とがそれぞれ合併がっぺいして誕生した都市になります。

また、日本初の民間セメント会社「小野田おのだセメント」の発祥地でもあるため、工業都市としても発展してきました。

「小野田(おのだ)」の由来

​ちなみに「小野田」という地名の由来には、いくつかの説があります。

  • ​小さな田んぼが多かった地域であるという説
  • ​地元の伝説に由来するという説

筆者・小野田駅より(山口県山陽小野田市)

日本有数の「セメントの名所」山陽小野田市

山陽小野田市では、なんといってもセメントが有名です。

1881年に、日本初民間セメント会社である小野田セメントが誕生した、まさに

民間セメント発祥の地

となります。

国の重要文化財「徳利窯(とっくりがま)」

​また、街のシンボルとして、国の重要文化財である「徳利窯とっくりがま」が、今でも残っています。
徳利窯とっくりがまは、明治時代にセメントを焼くために作られた、巨大なレンガ造りのかまのことです。

日本で初めて、「民間のセメント会社」を作った街

山陽小野田市は、あくまで国による官営ではなく

民間の力で、日本の近代化を支えた

という自負・地域の誇りが非常に強い街であるわけです。

他にも、セメントが盛んな街としては、

  • 埼玉県・秩父市ちちぶし
  • 大分県・津久見市つくみし
  • 福岡県・北九州市・苅田かんだ

などの街が挙げられます。

かつての日本の建物は、レンガ・石・木造などが主流だった

セメントは、建物を作る鉄筋コンクリートなどに用いられます。
しかし、山陽小野田市のセメントが出てくる前の明治時代は、主に石やレンガなどが主流でした。

さらにもっと前の江戸時代は、木造建築が主流だったというわけです。

関東大震災をきっかけに、徐々にセメントが主流になっていった

しかし1923年の関東大震災以来、

従来の石やレンガに代わる、もっと丈夫な建築材が必要だ!

という機運が高まり、セメントによる鉄筋コンクリートに徐々にシフトしていったのでした。
そんな中、山陽小野田市セメントはとてもバズって大ヒットしていったわけです。

なぜ小野田でセメントが盛んだったのか?

鉄筋コンクリートは、セメントを主原料の一つとして作られています。

したがって、

セメントなしでは、鉄筋コンクリートは作れない

と言っても過言ではないわけです。

港が近く、材料も近くにたくさんあった

まず山陽小野田市でセメントが盛んになった最大の理由は、

  • セメントの材料となる「石炭」と「石灰石」の両方が、大量に手に入る土地だったこと
  • さらには「港(小野田港)」という便利な交通インフラがあったこと

にあります。

小野田・宇部周辺で、多くの石炭が手に入った​

まずセメントを作るには、材料を高温で焼くために必要な燃料・エネルギーである、石炭が大量に必要です。
つまりこれを大量に燃やすことで、セメントが出来上がるというわけですね。

小野田周辺は、「宇部・小野田炭田」として石炭が豊富でした。

美祢からの​材料・石灰石の輸送 小野田港から全国への積み出し

また、セメントを作るための主な原料となる石灰石せっかいせきは、小野田にほど近い美祢みねから運んでくることができました。

さらには、小野田線の小野田港駅と、その駅に隣接している小野田港は、まさに作られたセメントを(関東地方をはじめとする)船で全国へ送り出すための、超重要拠点でした。

鉄道と工場の直結 非常にムダのない構造だった

まず、小野田港​駅の近くには、巨大なセメント工場がありました。

ここでは、かつては工場から小野田港駅へと、直接的に線路が伸びていました。
つまり、工場で作ったセメントを、ダイレクトに駅まで運んで貨物列車に載せられるような、まさに便利な構造になっていたわけです。

すなわち、

  1. 工場で作ったセメントは、人間が運ぶには、とても重いものでした。
  2. そのため、小野田線から分岐して、それぞれの工場に対してダイレクトにつながった線路(専用線)が敷かれていました。
  3. そして、重いセメントを即座に貨物列車に積んで、
  4. 専用線小野田線に合流→小野田港駅小野田港へと運べる

というような、まさに無駄のない構造になっていました。

自動車・トラックの普及にともない、多くの専用線は廃止へ

しかし、1960年代は自動車トラックなど)での運搬が主流になってゆきましたので、こうした多くの専用線廃止されています。

鉄道では「駅と駅」とでしか運べませんが、トラックなら「工場から工場へ」と、ダイレクトで運ぶことができます。
さらに、貨物列車の頃は「袋に詰めて」運んでいましたが、トラックになるとわざわざ袋に詰めない「バラ詰み」が主流になっていったため、袋に詰めるという手間が省けたというわけです。

鉄道→​船へのバトンタッチ

そして、これらの工場で作られたセメントは、貨物列車に載せられ、小野田港駅まで運ばれました。
そしてそこから、小野田港に待機している船へと、次々にセメントが積み替えられてゆきました。

つまり関東の震災復興や、日本中のビル・橋の材料となっていった多くのセメントは、まさにこの小野田港駅から旅立っていったと言っても過言ではないわけです。

​小野田港駅周辺・多くの人達で賑わっていた記憶

また当時の小野田港駅の駅周辺では、多くのセメント袋を積み込んだ貨物列車が、ひっきりなしに(休む間もなく)行き交っていたようです。

そして駅周辺はセメントの粉が舞うほどに、活気に満ちていたそうです。
つまり、ここの鉄道駅周辺で、セメントの仕事に携わる人達が本当に多く働いていたというわけですね。

しかし今はほとんど自動車・トラック輸送なので、こうした鉄道駅周辺での賑わいは消失しているわけです。

レンガ→セメントへと転換していった大正時代

関東のレンガ造りが少ないのは、震災のせい?

かつて大正時代の​1923年に起きた関東大震災のときに、関東地方の多くのレンガ造りの建物がもろくも崩れ去ってしまったのでした。
そしてこのことが、関東地方にあまりレンガ造りの建物が現存していないという、最大にして決定的な要因となりました。

そして震災の後、復興にあたって、政府や多くの建築家たちは、

レンガは地震に弱い
レンガに代わる、新しい建築材が必要だ

と判断したのでした。

レンガ造りから、​セメントへのシフト

この関東大震災の復興にあたって、地震に強い鉄筋コンクリートが、国レベルで推奨されてゆきました。
それに伴って、従来の主流だったレンガは、もはや「過去の材料」となっていったわけです。

こうして、建物の主役はレンガからセメントへと代わってゆきました。

浅草・凌雲閣はレンガ造り?

また、かつて東京・浅草あさくさにあった凌雲閣りょううんかくは、まさにレンガ造りの代表的な建物でした。

凌雲閣の​構造は、1階から10階までがレンガ造りであり、また11・12階が木造でした。

​しかし、凌雲閣は関東大震災の激しい揺れにより、8階付近でポッキリと折れてしまいました。
すなわち、当時の人なら誰もが知るこの東京・浅草のシンボル的な建物がもろくも崩壊してしまったことが、当時の多くの人々に対して「レンガの限界」を強く印象付けることになったというわけです。

埼玉・​深谷のレンガは大ダメージを受けた?

関東大震災にともない、レンガの安全性が見直され、これからはセメントで行こうという機運が高まってゆきました。

​しかしながら、小野田のセメントをはじめとするコンクリート技術が普及していったことにより、残念ながらそれまで栄えていた埼玉・深谷ふかやのレンガ産業に対して、甚大なダメージを与えることとなってしまいました。

深谷レンガの栄光

現在でも埼玉県・深谷市ふかやしは、レンガの街としてよく知られています。

深谷出身の渋沢栄一しぶさわえいいちが設立した日本煉瓦製造にほんれんざせいぞう深谷市)などの工場において作られた深谷のレンガは、例えば東京駅日本銀行などの建築に使われてゆき、当時の多くの近代建築を支えてゆきました。

深谷市については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。

​時代の交代 レンガ→セメントへ

しかし震災後、先述の通り需要がレンガからコンクリートへ一気に移っていったため、深谷に多く存在していたレンガ工場は儲からなくなってしまい、次々と閉鎖に追い込まれていきました。

まさにこれは、建築技術の「主役交代」「世代交代」が起きたわけですね。

​イギリスでレンガ造りの建物が多いのは、地震が少ないから?

​また、イギリスレンガ造りの建物が多いのは、

日本のような大きな地震がほとんどないから

というのが一番の理由です。

​イギリスは、そもそもレンガの材料に適した石灰岩粘土が豊富であり、古くからレンガ作りが適していました。
​また、イギリスでは耐火性へのこだわりから、1666年の「ロンドン大火」以降、燃えやすい木造よりも、火に強いレンガ石造りが、法律で推奨されるようになりました。
日本と異なり、イギリスのように地震が少ない国では、レンガ作りで何百年も持たせることができるわけです。

小野田のセメントで補強された、日本の建築

こうして見ると、日本の建築史は「地震との戦い」の歴史そのものですね!
もし日本に地震がなかったら、今でも東京をはじめとする関東地方は、埼玉・深谷のレンガで出来た赤い街並みだったかもしれません。

しかし、災害という悲しい出来事をきっかけに、小野田のセメントが日本の安全を守る盾(つまり、鉄筋コンクリート)として選ばれたと言う歴史があることも、知っておくとよいかもしれません。

小野田線で、かつて多くのセメントが運ばれた歴史をしのぶ

今回の学びで、かつて貨物列車が全盛期だった頃、小野田線を通じて、かつて多くのセメントが運ばれた歴史があることがわかりましたね。

もし今度小野田線に乗られるときは、かつてここで多くのセメントが運ばれた歴史をしのびながら旅をされると、より観光も充実し、思いが深まるのではないでしょうか。

おわりに:山陽小野田市の魅力の再発見

​さて、今回の山陽小野田市の話題は、いかがだったでしょうか。

山陽小野田市のセメントや小野田港の交通の歴史、さらには震災をきっかけにレンガからセメントへシフトしたという奥深い歴史など、たくさんの発見がありましたね。

山陽小野田市には、魅力的な伝説や歴史が詰まっていることが分かって、とても興味深いです。

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