伊豆の名所・天城峠や旧天城トンネルなどの地理や歴史について、基本から初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!
はじめに 今回は、天城峠・旧天城トンネルなどの話題!
今回は、天城峠や旧天城トンネルの地理や歴史について、一緒に学んでいきましょう!

旧天城トンネル(静岡県伊豆市)
今回は主に、
- 伊豆半島の地理・歴史など
- 偉大な文豪・川端康成の物語
などの知識に触れることで、天城越えが持っている、本来の深い意味が見えてくるようになります。
そして、これらの知識を学ぶをことで、実際に現地を観光や探訪をしたりするときに、もちろん景色を見る楽しさに加え、歴史を体感する面白さが格段に増してくるはずです!
それでは、伊豆の奥深い魅力を、これから発見する旅に出発しましょう!
探訪:未知の場所や、まだ知られていない事柄を尋ねて探ることです。
天城峠(あまぎとうげ)とは
天城峠は、静岡県の伊豆半島にある峠ですね!
また、今回も解説する、
- 川端康成の小説『伊豆の踊子』
- 演歌歌手・石川さゆりさんの、1986年の名曲「天城越え」
のそれぞれの舞台としても知られていますね。
この天城峠は、まさに文学や日本の文化の香りを感じられる場所というわけです。
そもそも、天城峠の存在する「伊豆半島」とは?
伊豆半島は、静岡県の南東に突き出た半島になります。
南の島が移動してきて、本州にぶつかってできた半島
また、伊豆半島は、
- 大昔、南の島がプレートに乗って北へ北へと移動してきて、
- 本州にぶつかってできた半島
ということになります。
火山が多いゆえに、温泉も多い伊豆半島
伊豆半島は、いわば
のようなものなので、火山が多くなっています(そこまで噴火しまくってるわけではありませんが)。
ということは、火山のマグマが地下水を熱するため、温泉もとても多い観光地があることが特徴です。
伊豆の代表的な温泉地
このように、伊豆半島には多くの素晴らしい温泉地があります。
修善寺温泉や湯ケ島温泉は、その中でも特に有名ですね。
修善寺温泉:伊豆の小京都とも呼ばれる、歴史ある温泉地です。
また、
- 熱海温泉
- 伊東温泉
も、伊豆を代表する大規模な温泉地です。
したがって、伊豆は、旅の疲れを癒すのに最高の場所だと思われます!
修善寺温泉については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「伊豆国」とは
ちなみに、この伊豆半島にある天城峠は、旧伊豆国と呼ばれる地域に位置しています。
伊豆国:昔の日本の「国」の一つであり、現在の静岡県・伊豆半島のエリアにあたります。
- 静岡県西部:遠江国
- 静岡県中部~東部:駿河国
- 静岡県・伊豆半島の地域:伊豆国
険しすぎる山道古くからの難所・天城峠
あまりに急峻な伊豆半島の山々をつらぬく天城峠は、古くから徒歩で行き交う旅人たちにとっての難所として知られていました。
難所:人々にとっての通行が、非常に難しい場所のことです。
しかし、現在では国道414号線が通っており、観光名所としても人気です。
国道414号線は、
- 下田:言わずと知れた、函館と並ぶ1854年開港の地
- 河津
- 旧天城峠(今回のメイン)
- 修善寺
- 伊豆の国市:この辺りは、伊豆箱根鉄道・駿豆線と並行
- 西へ大きく迂回、海側へ
- 静浦(アニメ・ラブライブ!サンシャイン!!の舞台・内浦に近い)
- 沼津市へ
- 沼津市の北にある、国道1号と合流して、終了
となる道路です。
この道は、かつて下田街道と呼ばれていました。まだ車も無かった時代、人々は徒歩または馬で、この険しい山道を越えていたわけです(天城越え)。
伊豆半島の「険道」静岡県道59号
また、そんな険しい伊豆半島を代表する“険道”といえば、間違いなく
- 「静岡県道59号 伊東西伊豆線」
になります。
険道:いわゆる酷い「県道」のこと。
他にも似たようなワードに
- 「酷道(酷い国道のこと)」
- 「吐道(酷い都道のこと)」
- 「腐道(酷い府道のこと)」
などがあります。
この「険道59号線」は、伊豆半島を東西に横断するルートでありながら、極めて狭く、急勾配・急カーブが連続することで知られています。
- 道幅の狭さ:車1台がやっと通れるほどの狭い道が多く、すれ違いが困難な区間が連続しています。
- 路面の状況:道路に苔、落ち葉、湧き水が多く、滑りやすくなっており、バイクや車の走行には注意が必要です。
- 景観と雰囲気:深い山林を縫うように走るため、秘境感があり、夏でも涼しくなっています。ただし、景色はあまり開けていなく、見通しも悪くなっています。
伊豆半島は、火山活動によって作られた険しい地形です。
特に、天城山や達磨山などの火山が連なる、急峻な山岳地帯となっています。
そのため、地形的な制約から、道路の幅を広げることが困難な場所が多くあります。
「険道マニア」には人気のスポット
この道は、いわゆる“酷道・険道”マニアの間では聖地的存在となっており、YouTubeやブログでも多くの走行記録が紹介されています。
したがって、この道はよほどのマニアや運転のプロでもない限り、この道は通らない方が無難でしょう。
旧天城トンネルの解説
旧天城トンネルは、1905年(明治38年)に完成したトンネルです。
正式名称は「天城山隧道」と言います。
隧道:トンネルの和風な呼び方、または昔の呼び方です。

旧天城トンネルこと、天城山隧道(静岡県伊豆市)
天城山隧道は、明治時代の代表的な石造りトンネルであり、また国の重要文化財に指定されています。
重要文化財:日本の歴史的・芸術的に価値の高い建築物や美術品のことです。
重要文化財の基礎については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

まっ暗なトンネルの中
ちなみに旧天城トンネルの全長は、約445メートルになります。
これは現代のトンネルからすれば短い方ですが、実際に中を歩くとかなり真っ暗であり、意外に長く感じられるため、注意してゆきましょう。
しかし、トンネルの中はひんやりとした空気が流れていて、とても趣があります。
つまり、当時の高い土木技術を示す貴重な遺構ですね!
旧天城トンネルへのアクセス
ちなみに、旧天城トンネルへは、伊豆箱根鉄道・駿豆線の最も南にある終着駅である、
- 修善寺駅(静岡県伊豆市)
からスタートします。
ここから、東海バス(とうかいバス)に乗車し、約40分ほど伊豆半島の南へ走り、かなり道が険しくなってきたところで「水生地下」というバス停で降ります。
ここがトンネルへの入口です。
そして、この水生地下のバス停から、カーブが多い森の中の道へと入っていくわけです。
ここからの道はヘアピンカーブの多い、つまり「つづら折りの道」を歩いて登ります。
つづら折りの道:曲がりくねっている、(ヘアピンカーブのような)道のことです。
昔はトンネルを掘る技術が発展していなかったため、距離を稼いで勾配をゆるくするために、このような曲がりくねった道が多かったのです。
旧天城トンネルまで、結構かかる道
この道を通って旧天城トンネルにまでたどり着くには、徒歩でさらに約40分から1時間ほどかかります。
すなわち、
- 東京→(新幹線)→三島駅(約1時間)
- 三島駅→(伊豆箱根鉄道・駿豆線)修善寺駅→(約30分)
- 修善寺駅→(東海バス)→水上地下(約40分)
- 水上地下→(つづら折りの道・徒歩)→旧天城トンネル(約40分)
なので、東京からだと結構遠いんですよね…。
少し大変ですが、自然を満喫しながら歴史あるトンネルを目指すというのは、川端康成さんと同じ気分を味わうことができます。
そのため、とても素晴らしい体験になると思いますよ!
昔の技術と道路設計
では、なぜこのような「つづら折りの道」が出来たのか。ここから
それは先述の通り、昔は技術的な制約が大きかったたのでした。
そのため、まっすぐで長いトンネル、つまり現在のような新天城トンネルのような真っ直ぐ・キレイなトンネルを建設・作ることは、技術的に難しかったのです。
制約:あることを行う上での制限や、限界のことです。
したがって、急勾配の峠を越えるには、以下の方法に頼るしかなかったのです。
- 勾配を緩やかにするために、カーブを何度も繰り返す「つづら折りの道」にする。
- 山頂付近の、特に山の「短い距離」の部分だけを掘削するという、つまり「短い旧天城トンネル」に頼る。
掘削 :地面や山などを掘り進めることです。
これは、当時なりの最善の策だったわけですね!
新しくできた「新天城トンネル」
そして時代が進むにつれて、トンネルを作る技術は向上してゆきました。
新天城トンネルは、旧天城トンネルよりも低い場所に、しかもまっすぐに掘られてゆきました。
そのため、
- 急な上り・下り(急勾配)
- つづら折りの道(ヘアピンカーブ)
がそれぞれ解消され、安全性・速達性が向上したわけです。
このように、「新天城トンネル」ができたおかげで「つづら折りの道」を通る必要がなくなり、従来よりも車の走行は格段にスムーズになりました。
そして先述の通り、移動時間も大幅に短縮され、天城越えは昔と比べて、とても楽になったというわけです。
とても大きな進歩ですね。
昔のトンネルは真っ暗だった?
ちなみに、昔のトンネル、特に旧天城トンネルが造られた明治時代当時のトンネルは、基本的に真っ暗だったのでした。
もちろん、現在のような電気の照明は整備されていませんでした。
そのため、昼間でもトンネル内は暗く、当時の人々はランプや提灯などを頼りに通行していたのでした。
今で例えるだとスマホ画面の明かりを便りに、暗闇を進むようなイメージですね。
他にも現代の、明るく換気も良いトンネルと比べると、当時のトンネルは
- 閉鎖的で心細い
- 湿気もあり
というような状態だったため、中にはかなり怖いと感じる人が多かっただろうと思われます。
天城越えは、主要ルートかつ難所だった?
天城越えの道は、古くから
- 伊豆の北
- 伊豆の南、すなわち下田方面
とをそれぞれつなぐ、メインルートでした。
この昔の道は、先述の通り、下田街道と呼ばれました。
しかし、この道は非常に急峻な山越えのルートとなるため、かつては「難所」として恐れられていたわけです。
難所:通行が非常に困難な場所のことです。
したがって、昔の人々にとって、この峠を越えるのは非常に大変な、もはや大がかりな一大イベントだったというわけですね!
文学・ロマンあふれる、天城峠
「天城越え」とは?
演歌歌手・石川さゆりさんの名曲
よく知られる
というフレーズは、石川さゆりさんが1986年に発表した大ヒット曲『天城越え』に由来するフレーズです。
歌詞の内容は、
を、天城峠の困難な道に、重ね合わせているというわけです。
すなわち、このフレーズは、物理的な峠を越えるというだけでなく、
- 「あなた」との人生における、さまざまな試練を乗り越えてゆきたい
という情熱的な願いを込めているというわけです。
なんとも感情豊かで、素敵な表現ですね。
石川さゆりさんとは?
石川さゆりさんは、1970年代から活躍している、日本を代表する演歌歌手です。
代表曲は、もちろん天城峠をテーマにした『天城越え』や、青森の港から津軽海峡を渡る切なさを歌った『津軽海峡・冬景色』など、多くの名曲があります。
すなわち、石川さゆりさんの歌は、
- 日本の美しい風景
- 情熱的な人間模様
などを歌い上げ、今でも多くの人々に感動を与え続けているという、まさに国民的な歌手であるというわけです。
川端康成・伊豆の踊子との関係
川端康成の小説『伊豆の踊子』と天城峠は、切っても切れない関係です。
この作品は、天城峠を越えていく主人公と、旅芸人である踊子との出会いを描いた名作です。
したがって、この峠を訪れると、小説の世界に浸れる気分になることができるわけです。
川端康成とは?
川端康成は、1899年(明治32年)生まれの日本の小説家です。
彼が19歳になる大正時代の1918年に伊豆にやってきた動機は、高等学校の寮生活がまるで自身に合わず、幼少期の孤児としてのコンプレックスからくる憂鬱な気持ちをリセットするためだった、と言われています。
彼は幼い頃に両親を亡くしており、またずっと孤独と戦い生きて来たこともあり、伊豆へ一人やってきたのでした。
その他の代表作としては、冒頭の
という美しい文章が有名な『雪国』などが知られます。
特急「踊り子」の由来
特急列車「踊り子」は、伊豆半島へ向かう観光特急として運行されています。
その名前は言うまでもなく、川端康成の小説『伊豆の踊子』に由来しており、1981年に様々な人の意見をつのった公募によって決定したのでした。
この「踊り子」という列車名であることによって、伊豆へ観光しにいくことのワクワク感・ロマンチック感が増大するというわけですね!
「踊子」「旅芸人」とは?
ちなみに、「踊子」や「旅芸人」とは、あちこちを「旅」しながら、
- 歌や踊り
- 曲芸
などを披露して、お金をもらいつつ生計を立てていた人々のことです。
特に伊豆の踊子の時代(大正時代)には、(いわゆる興行の許可が必要な劇場でパフォーマンスをやっていたわけではなく)旅館や広場などで芸を見せていました。
もちろん当時は今のような「YouTube」やか「TikTok」などの動画プラットホームが無かった時代でしたから、なかなか彼らが演じる舞台は限られていたと思われます。
すなわち、「旅芸人」とは、現代で例えるなら、
- インディーズの「パフォーマー」
- 「路上ミュージシャン」
などに近い存在だったと言えるかもしれません。
つまり、特定の場所を持たずに、移動しながら活躍するというエンターテイナーだったのでした。
「踊り子」のファンは大正時代、アイドルのようにたくさんいた?
ちなみに「踊り子」は、残念ながらたくさんのファンがついていて大人気だったというわけではありませんでした。
すなわち、旅芸人であった「踊子」が、現代のアイドルのような熱狂的なファンを大勢抱えていた、というわけではなかったわけです。
というのも、当時は「旅芸人」に対する社会的な評価・地位は低く、むしろ蔑まれることすらもありました。
確かに、地道にあちこちを回って躍りながらお金をもらう人たちであり、いわゆる「公務員」や「会社員」などのようなお堅い仕事ではなかったわけなので、偏見があったのでしょうね。
現代のYouTuberも、今でこそかなり定着した職業となっていますが、当初は「YouTuber」の地位は低く、ローンの審査に通りにくいこともあったようです。
もちろん、踊り子には川端康成の小説にあるような、純粋で淡い交流は存在していました。
しかしトータルでみると、皆が踊り子に対して、アイドルのように熱狂していたという事実はなかったようです。
踊り子が小説で取り上げられた理由とは?
しかしそれでも、川端康成が、当時の社会的な地位が低かった踊子を小説で取り上げたのは、その踊子が持つ「純粋さ」と「美しさ」に心を動かされたからです。
また、川端康成は、
- 孤児であった自分のめぐまれない人生を、
- 踊り子という、社会的に低い地位にありながら、純粋・健気に踊る女の子に、
それぞれ重ね合わせた(重なる部分があった)のかもしれませんね。
川端康成の創作で、「踊り子」に与えた影響とは
つまり彼は、孤独で屈折した心を、踊子の持つ汚れのない人柄・キャラによって「浄化」「払拭」したいと願っていたのでした。
すなわち、社会的な「当たり前の価値観」にとらわれない、本来の人間としての美しさを描くことが目的だったのです。
その結果、『伊豆の踊子』は多くの人に読まれ、踊子という存在に、「文学的な価値」と「永遠のロマン」を与えるという、大きな影響を与えたわけです。
大正時代の宿泊施設は?
また、川端康成が主に活躍した大正時代の宿泊施設は、今のようなビジネスホテルやカプセルホテルなど、多様なバリエーションは存在しませんでした。
特に、伊豆のような温泉地では、当時は「旅館」こそが宿泊のメインでした。
旅館は、日本の宿泊施設の伝統的な様式であり、また温泉を楽しむための施設として発展していったわけです。
川端康成も、伊豆での滞在中には、
- 湯ヶ島の「湯本館」
- 湯ヶ野の「福田家」
といった、歴史ある旅館に泊まっています。
すなわち、旅館こそが、当時の旅の情緒を形づくっていったわけですね。
文豪と旅館の関係
また、川端康成や太宰治などをはじめとする文豪たちが、旅館を執筆の場に選んだり、小説に登場させたりしたのは、先述の通り、
- 当時の宿泊施設は、旅館がメイン(主流)だった
ことが大きな理由です。
当時は、先述の通り現在のようなビジネスホテルやカプセルホテル、そしてコワーキングスペースなどいった、様々な選択肢は存在しませんでした。
加えて、旅館には、
- 創作に集中できる、静かな環境
- 温泉で疲れを癒せる
といったメリットもありました。
したがって、旅館は、もちろん「旅の拠点」であると同時に、彼らにとっては大切な「仕事場」でもあったのですね!
おわりに・まとめ
天城峠と旧天城トンネルの地理や歴史について、学んでみていかがだったでしょうか。
伊豆半島のダイナミックな地理・歴史や、伊豆の踊子や「天城越え」などの作品に込められたロマンを知っていくと、ただの山道やトンネルではない、一味違った見え方がしてくることと思います!
したがって、これらの知識は、実際に伊豆・天城の地を訪れた際に、景色一つ一つがそれぞれ持っている重みや物語を感じさせてくれることと思います。
ぜひ、今回の学びを活かして、より深く伊豆の観光や探訪を楽しんでくださいね!
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