明治時代、大阪の産業・経済および鉄道の基礎を作った偉人である五代友厚について、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
今回は、五代友厚についての話題
さあ、今回は五代友厚という偉人について学んでゆきましょう!
五代友厚は、幕末から明治にかけて活躍した、まさに日本の礎を築いた一人です。
そして彼は、大阪の鉄道の基礎を作った人物でもあります。
彼の功績を知ることで、大阪の鉄道旅や観光がさらに充実するだけでなく、こんにちの私たちが享受できている経済やインフラが、いかにして成り立っているのかが見えてくることでしょう!
偉人・五代友厚とは?
五代友厚は、江戸時代の終わりごろにあたる、1836年(天保7年)に生まれました。
薩摩の武士から、商人のプロ(実業家)として成功した
出身地は、現在の鹿児島県にあたる、薩摩藩です。
彼は、薩摩藩士の家に武士の子どもとして生まれ、幼少期の早くから既に「異国の文化や知識」に触れていくことになりました。
例えば、
- 成長したらイギリスへ留学したり、
- 藩から使わされた使節団の一員として、世界を回ったり…
などといった具合で、その行動力は他の人よりも並外れていました。
彼の青春時代は、黒船来航~幕末の動乱期だった
そんな彼の若かりし頃・青年期の日本は、まさに
- ペリー来航とともに鎖国を解き、
- 日本という国が大きく変わろうとしていた、
- 反乱あり・争いありの、まさにカオスかつ激動の時代
だったというわけです。
すなわち、彼の青春時代は、のんびりとデートしながらゲーム・漫画に入り浸る暇など無い時代だったというわけですね。(^^;)
(逆にそれで鍛えられて、結果的には良かったのかもしれませんが)
彼の出身地である鹿児島には、五代友厚の銅像がある
先述の通り、彼は鹿児島(薩摩藩)の出身です。
そのため、五代友厚の出身地である鹿児島には、彼を称える銅像があります。
この銅像は、故郷の人々が、彼の大きな功績を忘れないようにという思で建てられたというわけです。
すなわち、彼は薩摩の偉大な先人として、今も人々に敬愛されている証拠です。
彼は西郷隆盛など、他の偉人の像と並び、鹿児島のシンボル的な存在になっています。
鹿児島出身の「武士」の生まれ
五代友厚は、先述の通り、薩摩藩の武士の家に生まれました。
武士の家系に生まれたということは、幼い頃から学問や武術を学んでいた、ということですね。
親が武士であれば、子も武術を学んでいくのは、(当時としては)ある意味必然のことでしょう。
明治時代からは「実業家」として成功
しかし彼はよく知られている通り、明治時代は実業家として成功することになります。
彼の強い精神力や、海外の文化を積極的に学ぼうとする姿勢は、幼少期からの、武士としてのバックグラウンドに支えられていたと言えるでしょう。
この武士の精神が、後の彼の実業家としての活躍の土台となったのです。
明治時代、多くの元・武士たちは、職・特権を失い困り果てた
しかし逆にいえば、明治時代は四民平等により武士は廃止されたため、彼も他の多くの武士ともに、「職にあぶれてしまうリスク」も否定できなかったわけです。
明治時代は、武士としての特権を失い、新しい職にありつけなかった士族たちがたくさんいたのでした。
ちなみに、そうした職を失った武士たちは、中には反乱を起こすような人もいましたが(士族反乱)、例えば北海道に移住して「開拓使」などとなり、土地を耕したり石炭を掘ったりするなどの仕事につき、新たな活躍の場を見出したりしています。
もちろん、五代友厚のように事業に成功した人もいるわけです。
何をした人?何がすごい?
武士から「商人(実業家)」として成功した
そして五代友厚のすごいところは、先述の通り
- 武士出身でありながら、その地位に満足することなく、
- また明治時代以降は、単なる役人や政治家としてだけではなく、
- 本来は商人の仕事であったはずの実業家として、
- 才能や精神力をいかんなく発揮し、日本の近代化をリードした
という点にあります。
「これからの日本には、経済の発展が重要だ!」
というのも、彼は明治時代の新しい国づくりのためには、産業と経済の発展が絶対に不可欠だと考えていました。
そのため、彼は大阪に拠点を移し、今でもよく知られている大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)を設立したのでした。
武士出身なのに、商人を見下さず、対等に接した
また、当時の武士出身者たちは、身分の低かった商人たちを見下すところがありました。
しかし、五代友厚は武士出身にも関わらず、商人たちを見下すこともなく、対等に接して対等な関係を築くことを心がけていたため、多くの商人たちから慕われていたのでした。
彼のこうした寛容さも、大阪で実業家として成功した大きな要因といえるでしょう。
大阪を「東洋のマンチェスター」に
五代友厚は、大阪を
にすることを目指して、大阪経済の基盤を作ったのです。
イギリスの都市・マンチェスターとは?
ちなみにマンチェスターは、イギリス・ロンドンの数100kmほど北にある都市の名前です。
マンチェスターの街は19世紀に、
- 当時としては非常に画期的だった蒸気機関による大量生産を使った、産業革命の中心地
として、非常に栄えてゆきました。
1830年 初の都市間・蒸気機関車のみの営業運転「リバプール・マンチェスター鉄道」
また、1830年には、日本で1872年に新橋~横浜で鉄道が開通する42年前、当サイトでも以前解説したジョージ・スチーブンソンが主任技師として深く関わった、リバプール・マンチェスター鉄道が開通した都市でもあります。
このリバプール・マンチェスター鉄道は、
- 世界初の蒸気機関車のみによる(つまり、馬車を一切使わない)営業運転
を実現した鉄道路線だったのでした。
五代友厚が目指した、マンチェスターのような都市・大阪
すなわち、五代友厚が目指した「東洋のマンチェスター」とは、大阪をまるでマンチェスターのような、活気ある
- 「工業と商業が結びついた、国際的な経済都市」
にしてゆきたい、という大きな夢があったわけです。
余談:イギリスの各都市を、日本の都市に例えるなら?
ちなみに以下は余談ですが、個人的な、イギリスの主要都市を「日本の都市」に置き換えたら?のイメージです。
- ロンドン→東京(首都なので当然?)
- マンチェスター→大阪(今回解説するように、五代友厚の功績も大きい)
- バーミンガム→名古屋(自動車産業の拠点)
- リヴァプール→神戸(港町・音楽の町。リヴァプールはビートルズの出身地)
- オックスフォード→茨城県・つくば(学園都市のため)
- エディンバラ→京都(歴史ある古都)
- ニューカッスル→仙台
- グラスゴー→福岡
- インヴァネス→旭川・名寄あたり
- ネス湖→屈斜路湖
- サーソー→稚内(サーソー駅は、イギリス最北端の駅)
- ベルファスト(北アイルランドの州都)→札幌
五代友厚が大阪を「東洋のマンチェスター」にしたかった理由
この当時の大阪は、江戸時代からすでに「天下の台所」と呼ばれており、
- 「日本の商業の中心地」
として発展していたのでした。
そのため、五代友厚はマンチェスターの成功事例を参考に、大阪をさらに「世界的な産業都市」へと進化させてゆきたかったというわけです。
元々持っていた大阪の経済基盤を、さらに進化
すなわち、大阪が持っていた(江戸時代で既に確立されていた)既存の商業基盤の上に、さらに
- マンチェスターが持つような、近代的な工業
- 国際的な貿易の仕組み
を組み合わせることで、世界に通用する、最強の経済都市を作りたかったのですね!
つまりこれは、非常に合理的で、かつ夢のある構想だったと言えるでしょう!
武士でありながら、商業と経済を発展させることが大事だと考えていた
このように彼は、元々の薩摩の武士の身分から、大阪へその活動の拠点を移し、新しい時代の実業家へと大きく転身したのでした。
すなわち、彼はこれからの新しい日本が、世界と対等に渡り合っていくためには、単に強いという軍事力だけでなく、強固な経済力こそが、必要不可欠だと見抜いていたのです。
その軍事力だって、経済力(つまり、国がお金を稼ぐ力)が無ければ成り立たない、という風に考えていたわけですね。
こうした彼の視点は、
- 時代の変化に合わせて切り替わっていた
というわけであり、まさに彼には「この先の未来を見抜く力」である先見の明があったと言えるでしょう。
その他、五代友厚に関する基本事項
薩摩藩から彼のような偉人が多く出た理由
また、彼の生まれである薩摩藩からは、五代友厚だけでなく、
- 西郷隆盛
- 大久保利通
などといった、後の明治時代にも活躍する偉人が数多く輩出されています。
その理由は、薩摩藩がまさに教育に力を入れていたからです。
薩摩の偉人の基礎となった「郷中教育」
特に、郷中教育という、独自の仕組みが大きな役割を果たしました。
郷中教育:薩摩藩に古くから伝わる教育制度です。
この郷中教育は、単に知識を教えるだけでなく、
- 団結力
- リーダーシップ
- 郷土愛(つまり、ふるさとを愛する心)
を育んでいくためのものだったわけですね。
したがって、薩摩藩では、こうした厳しく徹底した教育による武士の活力の維持が、多くの優秀な人材を育てることとなったわけです。
五代友厚がもし存在しなかったら、日本はどうなっていた?
もし五代友厚がいなかったら、日本の近代化は大きく遅れていたかもしれません。
そして特に、大阪の発展は全く違ったものになっていたでしょう。
彼は、大阪において多くの民間企業を立ち上げ、金融や貿易の仕組みを整えました。
金融:お金を融通すること。
- お金が足りない人に貸したり、
- 逆にお金を多く持っている人から、預かったりする
という仕組みのことです。
彼の提唱した「商工業の振興・発展」がなければ、今の西日本の経済は、もっと脆弱なものになっていたか、遅れていた可能性がとても高いというわけです。
大阪の経済・発展に大きく貢献した、五代友厚の偉業
五代友厚と、大阪の鉄道との関係は?
五代友厚は、大阪における初期の鉄道敷設にも深く関わっています。
彼は、単にモノを運ぶためだけでなく、
- 経済を活性化する
- 人々の生活を便利にする
ために、交通インフラがとても重要だと認識していたのでした。
そして、まだ自動車も航空機も無い時代の当時の交通インフラといえば、やはり鉄道でした。
国だけに頼らない 民間の力で鉄道を敷設
すなわち、彼は大阪と周辺地域を結ぶための鉄道網の整備を、積極的に進めていったのでした。
特に、私鉄の設立にも尽力し、いわゆる国が運営する官営の鉄道だけに頼らない・依存しない、民間のパワーでの鉄道の活力を生かした、交通事業の発展に貢献していったのでした。
こうした取り組みは、現代の日本の交通網のあり方にもつながっていくわけです。
大阪商工会議所と、五代友厚の関係
また、五代友厚と(現在でも存在する)大阪商工会議所の関係は、
- 「創設者」
- 「組織」
という、非常に重要なものです。
彼は、明治維新後の大阪の衰退を憂慮し、「官」つまり「国」に頼るのではなく、民間の力で経済を立て直すことを目指していったのでした。
商人たちの意見をまとめ、国へ提出する「商工会議所」
すなわち、
- 商人や実業家たちが、お互いに協力しあって、
- 商業や工業の発展のために、「ああした方がいい、こうした方がいい」と意見交換してゆき、
- それらをまとめた意見を、政府に対して要望として伝えるための、しっかりとした組織が必要だ
と考えたわけです。
したがって、五代友厚は1878年(明治11年)に、大阪の有力な商人たちを(日本の経済のために、お金を出してくれ!などのように)説得してゆき、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)を設立したのでした。
その「初代会頭」となった、五代友厚
彼は、その初代会頭を務め、先述の通り大阪を「東洋のマンチェスター」にするべく、自身の大きな構想の実現に向けた、中心的な役割を果たしたというわけです。
この「大阪商工会議所」は、現代に至るまで、大阪経済の発展に不可欠な意見を会議や意見交換などによってまとめ、国へ提言するための、重要な役割を担い続けているというわけです。
商工会議所は、こうした商売する人たちの意見をまとめ、国へ提出するという、いわば「代弁者」としての、重要な役割を持っているわけです。
「会頭」とは?
ちなみに五代友厚が初代として就任した会頭とは、会議所や大きな団体のトップかしらを指す役職名です。
特に、先述の商工会議所において、その組織全体の代表者であり、また最高責任者として、非常に重要な役割を担います。
すなわち、会頭は、先述の商工会議所においてまとめられた意見を、トップとして国に責任を持って提出するという、重要な役割を持っていたわけです。
いわば商工会議所の「顔・まとめ役」
このように、五代友厚が大阪商法会議所の初代会頭になったということは、彼が大阪の民間経済をまとめるリーダーとして、正式に認められたことを意味します。
いわゆる「商工業界の顔」のような存在で、
- 組織の意見をまとめる
- 外部との交渉を行ったりする
のが主な仕事というわけです。
明治時代初期の大阪が衰退した理由
江戸時代、大阪は「天下の台所」として、商業の中心地として栄えていました。
しかし明治時代になり、政治と経済の中心が東京(旧江戸)へと移っていったために、相対的に大阪の地位が低下してしまったというわけです。
幕府という「大きなお客様」が消えたのは(当時の大阪に)大ダメージだった
また、江戸幕府と仲の良かった大阪の商人たちにとっては、江戸幕府の消滅というのも、かなりのダメージになりました。
つまり、
- 大阪(大坂)には、江戸幕府の御用達となる商人たちがたくさん存在していた。
- しかし、明治時代になり、江戸幕府という大きな得意先・大口顧客・スポンサーを失ってしまった。
- 結果、大阪の商人たちは大きな損失を被ることになった。
というわけです。
御用達:元々は天皇・皇室などに納入されるサービスを提供する店や人を意味します。
しかし、それが転じて「よく使う店」などの意味でも使われます。
そして後述しますが、明治時代になるとそれまで大阪にあった各地の諸藩の多くの蔵屋敷などが廃止されたことで、多くの雇用が失われてしまったのでした。
大阪で蔵屋敷が次々に廃止されると、大阪の町自体が衰退した理由
また、先述の通り、江戸時代の大阪は、「天下の台所」と呼ばれていました。
その大きな要因の一つとして、以下のような蔵屋敷がありました。すなわち、
- まず全国の諸藩が、年貢として集めた米や特産品などを保管しておくための施設であり、
- また、それらを「お金」に換金するための施設である、蔵屋敷が集中していたから
ということになります。
蔵屋敷:全国の各藩が、年貢米や特産物を貯蔵しておき、必要に応じてそれらを売却し、お金に変えて財源を得るための施設です。
すなわち、こうした蔵屋敷の周りには、多くの米商人や両替商の人たちが集まってきていたのでした。
そして、そこでは彼らによって大規模な(巨額の金が動くような)商取引が行われており、さらにそこには多くの雇用が生まれていたのでした。
蔵屋敷の廃止ラッシュ 多くの雇用が失われた
しかし、明治時代になり、廃藩置県によって蔵屋敷が次々に廃止されると、これらの商取引と経済活動が一気に失われました。
すると、先述の多くの雇用も、それにともなって失われてしまうことになり、失業者が溢れてしまうことにもなります。
したがって、大阪の経済を支えていた基盤が崩壊し、一時的に町全体が衰退してしまった、というわけなのですね。
衰退した大阪を、五代友厚が建て直す決意
したがって、明治時代になると、それまで江戸時代の大阪(大坂)の商業を支えていた基盤が失われてしまい、一時的に活気がなくなってしまったのでした。
だからこそ、五代友厚は大阪の立て直しが必要であると判断したわけです。
こうした明治時代初期の大阪の産業・経済の衰退こそが、五代友厚が救うべき大きな課題であり、大阪の発展という大きな目標があったというわけです。
南海鉄道と、五代友厚の関係
五代友厚は、大阪の産業をさらに発展させていくためためには、交通インフラの整備が不可欠だと考えていました。
そこで彼が強い関心を示していたのが、他ならぬ鉄道でした。
そんな彼が深く関わった鉄道の一つが、現代の南海本線の原型である、いわゆる南海鉄道です。
この南海鉄道(現在の南海電気鉄道)は、大阪の私鉄の先駆けとして、非常に大きな意味を持っていたのでした。
民間の力で、鉄道を作る重要性を認識していた
このように五代友厚は、
- いわゆる国がお金をかけて作っていく官営の鉄道だけでなく、
- 民間の資本による鉄道事業が、
- これからの日本の地方の発展にはとても重要になってくる
と認識し、その設立に尽力してゆきました。
西南戦争により、国の予算は尽きていた
また、この時期は1877年の西南戦争により、膨大な軍事費のために、国の予算は尽きていたのでした。
これが、五代友厚や後述する岩倉具視らが、国の予算に頼らず、民間で鉄道を敷設していった理由の一つになります。
鉄道が出来たことで、大阪のモノ運びは容易に
そして南海鉄道は、大阪の中心地と南の地域を結びつけ、沿線の工場や住宅地の発展に、大きく貢献してゆきました。
鉄道があれば、材料や商品を運ぶのも凄く簡単になるからですね。
したがって、こうした五代友厚の活動は、単に「線路を引く」ことではなく、
- 「鉄道を通じて、大きな経済圏を創造していく」
という、近代的な交通と都市開発のビジョンに基づいていたものである、と言えますね。
五代友厚と、岩倉具視の共通点は?
五代友厚と、当サイトでも以前解説した岩倉具視との最も大きな共通点は、両者ともに、
- 日本の近代化のためには、西洋の知識や技術を学ぶことが不可欠である
と認識していたことにあります。
すなわち、
- 五代友厚は、薩摩藩の留学生としてイギリスへ渡った
- 岩倉具視は、明治政府の中心人物として「岩倉使節団」を率いて、欧米へと渡った
という共通点があるわけです。
すなわち、二人はこれらの行動を通じて、日本の新しい国づくりに貢献した、という共通点があるというわけですね。
岩倉具視とのさらなる共通点
また、岩倉具視も明治時代の同じ頃、民間の鉄道会社・日本鉄道を作っていったのでした。
そのため、同じく民間の南海鉄道に携わった五代友厚と似ている?と思いますよね。
まさしくその通りであり、
- 岩倉具視が、日本鉄道の設立に尽力した点
- 五代友厚が、南海鉄道に携わった点
のそれぞれには、
という、非常に重要な共通点があります。
日本鉄道は、東京から北へ向かう、日本で最初の私鉄でした。
先述の通り、1877年の西南戦争により、国は膨大な軍事費を使って、国の予算は頼れなくなっていたのでした。
そのため、岩倉具視も五代友厚も、国(官営)の力だけでは、急速な鉄道網の整備は不可能だと見抜いていたのです。
したがって、二人の偉人には、
- 民間の資本と活気を、鉄道事業にもたらした
という共通点があったと言えるでしょう。
おわりに・まとめ
以上、五代友厚の歴史や偉業を学んでみて、いかがだったでしょうか。
まず彼は、
- 武士の身分を捨てて、
- 新しい時代の日本の発展には「経済」が必要だと見抜き、
- その生涯を、大阪の近代化に捧げた
ということがわかりましたね。
すなわち、
- 大阪商工会議所の設立
- 南海鉄道への貢献
といった彼の功績は、こんにちの私たちが享受している経済的な豊かさの、確かな基礎・土台となっているというわけです。
そして、元々は薩摩出身の彼が、「東洋のマンチェスター」にしようと大阪に誰よりもいち早く目を付け、奮闘したという「時代を先読みする力」と行動力には、本当に感動させられるばかりです。
あなたが今度大阪の観光に行かれたときに、また南海鉄道に乗るときに、五代友厚のこうした偉業を思い出してもらえればと思います!
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