佐賀県唐津市にある「日本三大松原」の一つ「虹の松原」について、その観光と唐津藩からつながる歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
今回は、日本三大松原「虹の松原」の話題

虹の松原(佐賀県唐津市)
さあ、今回は佐賀県の誇り、日本三大松原の一つである、虹の松原の魅力を深掘りしていきましょう!
虹の松原は、ただシンプルに美しい景色というだけでなく、
- 唐津藩の初代藩主が人々の生活を守るために作ったという、驚きの歴史
- 人々の生活を守る、保安林としての役割
など、学んでおいて決して損は無いポイントがたくさんあるというわけです。
したがって、その美しい景色はもちろん、その背景にある地理や歴史を知ると、より虹の松原への観光・探訪への感動が深まってゆくことでしょう!

筆者・虹の松原より(佐賀県唐津市)
虹の松原とは?どこにある?
日本三大松原の一つ・虹の松原とは、佐賀県唐津市にある、唐津湾沿岸に広がる、全長約4.5kmにも及ぶ雄大な松林のことです。
ちなみに、虹の松原が存在する佐賀県唐津市は、佐賀県のやや北西の海側にある街であり、佐賀県で第二の都市になります。

筆者・虹の松原より(佐賀県唐津市)
「虹の松原」へのアクセス
鉄道で虹の松原へ行くなら、以前も解説した筑肥線の
- 虹ノ松原駅(佐賀県唐津市)
からが一番便利であり、なおかつかつ唯一の選択肢となります!
特に福岡方面(例えば博多・天神など)から来るの場合は、福岡市営地下鉄空港線とつながっています。
そのため、博多駅や天神駅、または福岡空港駅から
- 「唐津行き」
- 「西唐津行き」
に乗れば、乗り換えなし(または最小限)で、最寄りの虹ノ松原駅まで行けます。
ただしこの直通便は少ないため、もちろん途中の
- 姪浜駅(福岡県福岡市)や、
- 筑前前原駅(福岡県糸島市)
からのアクセスでもよいでしょう。
そのため、非常にスムーズにアクセスできますよ。
「虹の松原」の名前の由来
この虹の松原においては、約100万本にもおよぶクロマツが、まるで弓状(弓のような形)に連なっている様子が、
ということから、この「虹の松原」という名前が付きました。
クロマツ(黒松):海岸の近くに生えることが多い、幹が黒っぽくて力強い姿をしている、マツの仲間です。
すなわち、この松原を上空から見下ろすと、まるで海岸線のカーブに合わせて松林がゆるやかな弧を描いている形となるわけです。
その形がまさに「虹のように」見えるわけですね。
特別名勝にも指定
虹の松原は、その美しい景観から、国の特別名勝(つまり、特に価値の高い名勝地)にも指定されているわけです。
特別名勝:国が指定する名勝(=景色が良い場所)の中でも、特に価値が高い「国宝級」の場所のことです。
かつては「二里の松原(にりのまつばら)」と呼ばれていた?
虹の松原は、かつては「二里の松原」と呼ばれていました。
つまり、ちょっと違う(似た)名前で呼ばれていたわけです。
「二里」となっていた理由
では、なぜ「二里」と呼ばれたのか。
それは、その長さが理由でした。
「里」というのは、昔の距離の単位です。
すなわち、かつての虹の松原は約8kmの長さがあったため、
ということになります。
すなわち、かつて松原がそれだけ非常に長く続いていたことから、その長さを「そのままの名前」にして呼ばれていたというわけですね!
「虹の松原」へ名前が変わったのはいつ?
そして現在のように「虹の松原」というロマンチックな名前で呼ばれ始めたのは、おおよそ明治時代の終わりから大正時代にかけてだと言われています。
すなわち、海岸線の緩やかなカーブが虹のように美しいことから、多くの観光客の皆さんを呼びこむぶためにも、より魅力的な名前へと変わっていったわけですね!
また、歴史的な古文書や江戸時代の記録を調べると、「二里の松原」という名前で登場することが多いようです。
里:かつての昔の日本で使われていた距離の単位であり、1里は約3.9km(正確には約3,927メートル)となります。
古文書:かつて昔の人が書いた、例えば公的な書類や手紙などといった、現代の我々が歴史を知るためにも必要な貴重な資料のことです。
すなわち、昔の人も、その松原の圧倒的な長さに驚いて
といったノリ・勢いで名付けたのかもしれませんね!
虹の松原 何のために作られた?
まず、虹の松原が作られた主な目的は、
- 防風林:海側から吹き付けるキツい潮風を防ぐことで、農作物がダメージを受ける塩害を防ぐ
- 防砂林:海側から吹き付けるキツい砂を防ぎ、住宅地や人々を守る
といった役割を果たすためでした。
江戸時代初期、初代唐津藩藩主の寺沢広高が、
- キツい風によって、やばい砂が農地へと飛んでくる
ことで人々の生活が脅かされるのを防ぐため、計画的に(しかも人の手で地道に)松の植林を始めたのがきっかけです。
したがって、この「虹の松原」決して自然にできたものではなく、人々が生活を守るために意図的に整備していったという、まさに「人工の森」というわけです。
松原の役割は?津波・高潮・塩害から守るため?
また、虹の松原は、単なる防風・防砂だけではありません。
安全意識が当時とは比べ物にならないほど高い現代においては、多くの重要な保安林(公益的な目的を持つ森林)としての機能を持っています。
つまり、
- 潮害防備保安林:津波や高潮、そして潮風による塩害(つまり、潮風に含まれる塩分による農作物などへの被害)を防ぎます。
- 防風保安林:海から吹き付ける強い風から、内陸にある田んぼ・畑や、住宅など人々を守ります。
- 保健保安林:シンプルに「癒し」・レクリエーションの場としてや、さらには植物による空気の浄化といった、生活環境を守るための役割もあります。
つまり、私たちの生活に欠かせない、大切な緑の防波堤というわけですね!
塩害(えんがい)とは?
塩害とは、主に潮風などに含まれている塩分によって、植物や農作物、また建物などが被害を受けることです。
つまり、塩が紛れ込んだ土だと、浸透圧によって水分を吸収してしまい、植物の水分を奪ってしまうわけです。
するとどうなるか。例えば、
- 植物:塩に水分を奪われることで、葉がしおれたり、枯れたりします。
- 農地:土壌に余計な塩分がたまり、作物が育ちにくくなります。
- 建物:塩分によって金属が錆びたり、コンクリートが劣化したりします。
すなわち、虹の松原は、こうした恐ろしく人々の生活に脅威な塩害から、内陸にある農地や人々の生活を守るための、非常に大切な役割を担っているというわけです。
保安林(ほあんりん)とは?
また、保安林とは、森林が持つ公益的な機能、つまり、人々の生活や環境を守るために、特に指定された森林のことです。
主な機能としては、
- 水害を防ぐ(※)
- 土砂の崩壊を防ぐ(※)
- 水源を涵養する(つまり、水を蓄え、ゆっくりと流し出すこと)(※)
などといった役割があります。
※これらの役割・機能は、主に山地にある保安林のものです。
なので、海にある虹の松原とはあまり関係ありません。
したがって、虹の松原も(海からの)風や潮から守るための
- 「防風保安林」
- 「潮害防備保安林」
などに指定されており、さらには法律によって伐採が厳しく制限されているというわけです。
保安林の伐採を禁止している法律は?
ちなみに保安林の伐採の禁止や、土地の形質の変更などを制限している法律は、主に森林法になります。
つまり、森林法第34条に、
と定められています。
したがって、無許可で伐採すると、罰則が科せられるわけですよ!
つまり人々の生活を守る保安林を維持するために、こうした厳しいルールがあるのですね。
虹の松原は、歴史的に厳重に守られてきた!
また、虹の松原は過去も現在も、法律や掟によって、厳しく守られてきたという歴史がある、非常に特別な場所というわけです。
例えば江戸時代には、唐津藩が松の伐採を禁止し、しかももし松を切ってしまえば死罪という、なんとも厳しいルールによって松原を守ってきたのでした。
すなわち、当時から現代のように、虹の松原のマツの木々は、人々の生活を守るための保安林として重視されてきたわけです。
そして現在は先述の通り、森林法などに基づいて国の特別名勝や保安林に指定されており、マツの木々は今なお大切に守られています。
このように、虹の松原はそれだけいつの時代も手厚く守られてきたという歴史があるわけです。
日本三大松原とは?
「虹の松原」も含まれる日本三大松原とは、日本全国にある数ある松原の中でも、特に景観が優れているとされる三つの場所のことです。
具体的には、
- 三保の松原:静岡県にある松原で、富士山とのコントラストが絶景です。世界文化遺産の一部でもあります。
- 気比の松原:福井県にある松原で、敦賀湾に面した景勝地です。
- 虹の松原:佐賀県にある松原で、まさに今回話題にしている、特別名勝にも指定されている松原です。
したがって、虹の松原は日本を代表する美しい松原の一つであるというわけです。
そう考えると、とても素晴らしいですね!
三保の松原については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

気比の松原については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

虹の松原の歴史
虹の松原の歴史は、江戸時代初期の17世紀初めに、唐津藩の初代藩主である寺沢広高(※後述)による植林から始まります。
彼は、農地を守るために松の植え付けを(恐らく部下たちに)命じ、その後の藩政時代には、先述の通り、勝手に松を切ることを死罪とするという、なんとも厳しい禁伐の掟を設けて、貴重なマツの木々を守り育ててきました。
すなわち、この松原は数百年にわたる人々の努力と、藩による徹底した(厳しすぎるほどの)管理によって、今もその姿が美しく保たれているというわけですね。
唐津藩主・寺沢広高とは?
寺沢広高は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、唐津藩の初代藩主を務めた人物です。
藩主とは、今でいう市長のようなイメージですね。
彼は唐津藩主として、唐津城を築城したり、また(江戸時代の爆発的な人口増加に伴い)たくさんのお米を増やすために新田開発を進めたりと、現在の唐津の発展の基礎を築き上げてきました。
虹の松原の計画的な植林を命じたのも、この寺沢広高というわけです。
すごく行動力・実行力があったことがわかります。
虹の松原がきれいに見える場所は?楽しむためのポイント・コツは?
虹の松原の全体像を見るなら、南にそびえる鏡山の展望台からが一番おすすめです。
ここでは、まさに松原が弓なり(まるで弓の形のように)に海岸沿いに広がっている様子を、まさに「虹」のように一望できるという、絶好のビュースポット(眺めの良い場所)となっています。
すなわち、この展望台から見る景色こそが、松原の名前の由来をその名の通り実感できるというポイントとなっているわけです。
もちろん、虹ノ松原駅からのマツの木々景色も、松の香りに包まれて気持ちが良いですよ。
おわりに・まとめ
虹の松原の地理や歴史を学んでみて、いかがでしたか?
単に美しい松林というだけでなく、江戸時代から続く人々の生活を守るための英知と努力の結晶、初代唐津藩藩主の寺沢広高らによって必死に守られてきた緑の防波堤であることが分かっていただけたかと思います。
この学びが、次に虹の松原を訪ねられる時の感動を深めてもらえればと思います!
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