佐賀県唐津市の観光・歴史を、わかりやすく解説してゆきます!
唐津藩の寺沢家にはじまり、譜代へと変遷した歴史をやさしく解説してゆきます!
今回は唐津藩の歴史に迫る
前回に続いて、今回も佐賀県にある街である、唐津の魅力を深く探ってみましょう!
今回は唐津藩の興味深い歴史を学んでゆきましょう。
こうした知識を学ぶことで、唐津の観光・探訪も、より面白いものになることでしょう!!
唐津市とは?どこにある?

唐津駅(佐賀県唐津市)
佐賀県・唐津市は、佐賀県の北西部に位置する市です。
唐津市の基本的知識については、前回の記事(こちら)でも解説していますので、ご覧ください。
唐津藩とは?

海に浮かぶ唐津城(佐賀県唐津市)
唐津藩は、江戸時代に現在の唐津市周辺を治めていた藩です。
初代藩主(つまり、最初のトップ)は寺沢広高というエラい人でした。
唐津藩は、途中で諸事情により何度も大名が代わりはしたものの、江戸時代のおよそ250年間にわたり大きな反乱を起こすこともなく、明治維新まで続きました。
したがって、唐津市の歴史や文化は、この唐津藩によって大きく形作られたといえますね。
唐津藩は外様大名?
唐津藩は、藩主(リーダー)が途中で何度か変わっていますが、初期は幕府からあまり信用されていないという外様藩という扱いした。
途中で「島原の乱」など様々な問題が起きたため、江戸時代の前半には早くも譜代大名の治める藩に変わったというわけです。
すなわち、初代藩主(トップバッター)の寺沢広高が外様大名であったため、このようなというわけです。
そもそも「外様大名」とは?
外様大名とは、徳川家康に元々仕えていたというではなく(それどころか、以前はむしろ徳川家の敵だったりもする)、「関ヶ原の戦い」の直前または後に新しく(仕方なく)従った大名たちのことです。
全てではありませんが、外様大名はどちらかというと幕府から嫌われ・警戒・監視・冷遇されることが多かった大名のクラスです。
また、「関ヶ原の戦い」において徳川家康を苦しめた・苦戦させた大名ほど遠くへ飛ばされ、冷遇・監視される傾向にありました。
そして、江戸幕府から遠かった九州には、この外様大名がたくさん配置されており、常に幕府からの警戒・監視対象でした。
徳川家康や江戸幕府が、それでも外様大名を滅ぼさなかった理由
ではなぜ、徳川家康はそもそも外様大名を全員倒さなかったのか?
そんなことをすると、恨まれる・再び大戦争になる可能性があったため、幕府にとってはコスパが悪かったわけです。
例えば、福岡の外様大名・黒田氏や鹿児島(薩摩)の外様大名・島津氏はとても強大で、全滅させるのはとても現実的ではありませんでした。
なので、彼らには
- 「自分の領地(藩)の中では支配権を与えて、花をもたせる」
- 「けど参勤交代などで監視したり、他の大名より冷遇する」
など、巧妙な策を取ることで外様大名を暴れさせないほうが現実的である、と判断したわけです。
こうした外様大名の徹底管理があったからこそ、江戸時代は約260年間も長続きしたわけですね。
途中で譜代大名に変更された唐津藩
最初こそ外様大名(寺沢氏)の藩からスタートしたものの、唐津藩は様々な問題があったこともあり、のちに譜代大名の大久保氏に変わりました。
つまり、徳江戸幕府からみて特に重要な土地だと思われていた唐津の地は、外様から譜代に「格上げ」されたというわけです。
譜代大名:徳川家康が大名になる前から仕えていた、徳川家からの信頼のある家臣たちのことです。
すなわち、そのときの支配体制によって、藩の立場も変わるのが江戸時代の面白いところですね!
なぜ唐津藩は、外様→譜代に代わったのか?
ではなぜ唐津は、途中で外様→譜代に代わったのか。
それは、外様だった寺沢家が、「島原の乱」の責任を取らされ、1647年に譜代大名の大久保氏が入ってきたからです。
すなわち、唐津藩が外様→譜代に変わったタイミングは、まさにこの大久保家が唐津に入ってきた1647年です。
後に「譜代」大久保家が唐津へ入ってきた
最初の寺沢家は「外様」でしたが、その後を継いだ大久保家は「譜代」でした。
そしてこれ以降、唐津藩は幕末まで一貫して、ずっと譜代大名が治めていくという藩となりました。
しかも途中で、何度も「人事異動」のように大名の家系が交代しています(これも実は「わざと」「江戸幕府の計算」でした)。
譜代大名は、幕府の役職(例えば老中など)に就けるというエリート層でした。
なぜ寺沢家が、「島原の乱」の責任を取らされたのか?
ではなぜ寺沢家が、「島原の乱」の責任を取らされたのか。
その理由は、かつて寺沢家が、島原の乱の舞台となった天草の地域を持っていて、相次ぐ失政のせいで反乱がおきた、と幕府からみなされたからです。
まずは、「過酷な年貢の取り立て」がありました。
すなわち、初代・広高の死後、二代目の堅高の時代に、凶作にもかかわらず極めて厳しい取り立てを行い、領民を追い詰めてしまいました。
つぎに、「キリシタン弾圧」がありました。
つまり、キリスト教の信仰を持つ人々への激しい弾圧が人々の不満を招き、一揆の大きな引き金となりました。
幕府に「寺沢家に藩を治める能力は無い」と判断されてしまった
このように、幕府は
と判断しました。
そのため、乱の終結後、天草領は幕府に没収されてしまい、これに絶望した堅高は自ら命を絶ち、ここに寺沢家は断絶してしまったのでした。
唐津藩初代藩主・寺沢広高
寺沢広高(てらさわ ひろたか)とは?
寺沢広高は、唐津藩の初代藩主を務めた武将です。
彼は江戸幕府が出来る以前は、時の権力者であった豊臣秀吉に仕えながら活躍してきました。
つまり、そこでの働きぶりが秀吉らから評価され、出世してきたわけです。
また、彼は唐津城を築き上げ、今に至る唐津の街の発展・繁栄の基礎をここで築きあげてきました。
初代藩主を、他の藩に例えると?
また、初代藩主を例えるなら、
- 金沢→前田家
- 仙台→伊達家
- 唐津→寺沢家
みたいなイメージです。
したがって、唐津の歴史を語る上で、寺沢広高の存在は欠かせませんね!
ただし、唐津の寺沢広高(=初代藩主)は、確かに唐津城を築き、さらには虹の松原を植林した功労者でした。
しかし、二代目の時に「島原の乱」の責任を問われ、寺沢家は断絶してしまいました。
一方、金沢(前田家)や仙台(伊達家)は、幕末までずっとその家系が治めたため「藩の顔」として定着しています。
ここがちょっと違うところですね。
寺沢広高が、はじめ「外様大名」だった理由
関ヶ原の「直前」に味方したため、家康からの信頼度が低かった
寺沢広高が外様大名とされたのは、彼が関ヶ原の戦いの「直前」に徳川家の家臣になったためです。
この「直前」というのが、徳川家康にとって非常に「引っ掛かる」ポイントであり、むしろこれが寺沢広高を「譜代」ではなく「外様」にさせた理由でした。
「譜代」というからには、「関ヶ原」以前よりもずっと前から家康の味方である必要がありました。
徳川家康はその約60年前に愛知県東部の「三河」という場所で育ってからとても苦労した幼少期・青年期を送ってきました。
家康が苦労していたずっと昔から味方していた譜代大名たち
すなわち、実際に譜代になった大名たちは、その家康が苦しんでいた時代から味方・世話をしてきた人達ばかりで、家康からの恩義や信頼も厚いわけです。
しかし寺沢広高が家康の味方についたのは、関ヶ原の「直前」でした。
なので、家康からすると
- 「俺が天下を取りそうで勝てそうだから、こっちになびいてきたんじゃないか?」
- 「何かあるとすぐ裏切るんじゃないか?」
と思われてしまったわけです。
もちろん、寺沢広高としても
と思ったかもしれません。
唐津藩がのちに譜代大名になった理由
このように、はじめは外様大名の藩からスタートした唐津藩がやがて譜代大名に変わったのは、途中で寺沢家が途絶えた後に、徳川家に以前から仕えてきた大きな一族である大久保家などの藩主が唐津に入ってきたからです。
譜代大名:徳川家康がまだ江戸の将軍になる前から仕えていた(幕府の味方だった)、幕府からみて信頼の厚い家臣(部下)たちのことです。
江戸幕府は、とくに重要な地域である唐津を、より信頼できる譜代大名に治めさせようと考えました。
したがって、唐津藩は外様から譜代へと変わり、幕府にとってより重要な拠点となったのですね。
幕府の信頼を得ることは、本当に大切だったのでしょう!
唐津が譜代大名に治めさせるほど、幕府に重要視された理由
唐津藩が「外様」から「譜代」へと切り替えられ、幕府が直接コントロールする重要拠点となったのには、主に3つの決定的な理由がありました。
一言で言えば、唐津の地は、
- 「長崎を守り、九州の有力大名を監視するためのフロントライン」
だったからです。
長崎警備の「要(かなめ)」となる地だったから(唐津藩)
当時、長崎は幕府にとって「唯一の海外窓口」であり、莫大な利益を生む貿易の拠点でした。
しかし同時に、ここ・長崎を経由して外国勢力のが侵入してくるという最悪のシナリオを、最も警戒すべき場所でもありました。
そのため、まず唐津は地理的に長崎に近いため、もし万一の有事のときに、すぐに兵を送り込めるような距離にあったわけです。
福岡藩・佐賀藩の監視・チェックの役割もあった(唐津藩)
また、幕府は長崎の守りを、福岡藩と佐賀藩に交代で命じていました。
そして、唐津に信頼できる譜代大名を置くことで、
- これらの藩が、正しく任務を遂行しているか
- あるいは、不穏な動きがないか
を(唐津において)間近でチェックさせるための役割(目付役)を担わせていたというわけです。
西国大名の勢力監視として(唐津藩が譜代になった理由)
また、当時の九州には、
- 島津氏(薩摩藩)
- 細川氏(熊本藩)
- 黒田氏(福岡藩)
といった、かつて関ヶ原で敵対したこともあるような、まさに強力な外様大名がひしめいていました。
もし彼らが団結して反乱を起こせば、幕府にとって大きな脅威となります。
そのため、そのど真ん中に「徳川の身内」である譜代大名を配置することで、物理的・心理的なブレーキをかけました。
唐津街道を通る、外様大名たちの監視のため(唐津藩の目的)
さらには、江戸時代のメインルートである唐津街道(※次回詳しく解説)は、これらの大名が参勤交代のときに(ほぼ必ず)通るルートでもありました。
すなわち、譜代大名がここ・唐津の地を治める・押さえておくことで、ここを参勤交代で通過しようとする大名たちの通行を監視しておき、もしヤバい事をしようものならすぐさま幕府に情報を伝えるような仕組みができていました。
貿易ルートの管理・監視のため
また、唐津は古くから大陸に近い港町であり、密貿易の温床になりやすい場所でもありました。
すなわち、もし海外からヤバい物やマズイ物が入ってくると治安の悪化にもつながるため(逆に、日本から大事なものが海外へ出ていくのもマズい)、外国に唐津の地は何がなんでも監視しておきたかったわけです。
「島原の乱」の責任 寺沢家の断絶 (外様→譜代となった一要因)
また、寺沢家が島原の乱で失政を犯したことは、幕府にとって
という強い危機感を与えました。
したがって、二度とこのような混乱を起こさせないよう、徳川の息がかかった大名を送り込み、この地域の秩序を完璧に保つ必要があったのです。
譜代大名も、その後コロコロ変わった(それもワザと)
唐津藩は、実は大久保家のあとも松平家・土井家・水野家・小笠原家と、名だたる譜代大名が頻繁に入れ替わっていったのでした。
転封:幕府の命令によって、大名の領地を別の場所へ移し替えることです。
いわゆる人事異動ですが、左遷のような意味合いも強いです。
これは、特定の家系がその土地で力を持ちすぎるのを防ぐためであり、同時に「出世コース」としての側面もありました。
あの水野忠邦も、唐津→浜松→江戸(老中)と出世した!
あの有名な「天保の改革」を行った水野忠邦も、もともとは唐津藩主でした。
しかし江戸から遠く、しかも長崎の警護という重要な役割にあった唐津藩にいては、「老中」への道は現実的になかなか閉ざされたままでした。
そんな中、何がなんでも老中になって江戸幕府の真ん中で政治をしたかった水野忠邦は、老中になるために、当時から「出世への登竜門」であった静岡県の浜松まで転封(つまり、人事異動)を願い出たほどだったのでした。
唐津→浜松→江戸(老中)への出世ルート(?)
例えるなら、
- 唐津: 地方支社のエース。仕事は重要でやりがいもあるが、本社役員への道は遠い。
- 浜松: 本社近くの戦略拠点。ここでの実績は社長(将軍)の目に留まりやすく、役員昇進への最短ルート。
すなわち、唐津は「徳川幕府の九州出張所」のような、極めて政治的なポジションにあった場所であると言えますね。
唐津を捨ててでも、何がなんでも「浜松」「江戸(老中)」へと出世したかった水野忠邦
水野忠邦は、唐津の豊かな土地を捨ててでも、老中への切符が手に入る「浜松」という肩書きを欲しがりました。
家臣(部下)たちは「生活が苦しくなる!」と泣いて止めたそうですが、彼はそれを押し切って「夢」を買ったわけですね。
したがって、水野忠邦は「地方支社の王様」で終わるよりも、「本社の役員」になって国を動かしたかったという、まさに超上昇志向の持ち主だったと言えますね。
唐津藩の譜代大名・大久保氏
大久保氏は、徳川幕府に近いイメージの一族?
大久保氏は、徳川幕府から非常に信頼されていた一族です。
彼らは譜代大名の中でも特に重んじられていました。
また、大久保氏の一族からは、老中などの幕府の要職にも就いた人物を、多く輩出しています。
老中:江戸幕府の最高職で、将軍が政治に興味無かったり無関心だったりしたときに、将軍に代わって政治をまとめる、政治の専門家のことです。
したがって、唐津藩の藩主が大久保氏に変わったということは、唐津の地が幕府にとって、非常に重要な場所になっていたことを意味していたわけです。
つまり、唐津藩は幕府からも信頼されており、間違っても反乱など起こさないと思われていたというわけですね。
沼津藩をはじめ治めていた「大久保家」とは家系が異なる
また、一概に大久保家といっても、複数の家系がありました。
例えば、唐津に入った大久保家は、もともと美濃国・加納藩(現在の岐阜県)から移ってきた家系です。
このように、大久保家にはいくつかの系統があり、沼津藩(静岡県東部)を治めていた大久保家は、元々は小田原藩から分家してできた、別の流れになります。
少し紛らわしいですね!
もちろん、沼津は江戸(東京)に近いため、こちらの大久保氏も譜代という、徳川家からバッチリ信頼された名高い家系でした。
唐津城とは?
唐津城は、慶長年間(1596年~1615年)に寺沢広高によって築かれました。
別名は「舞鶴城」といいます。
唐津城以外に「舞鶴城」と呼ばれる城は多い?
唐津城の別名である「舞鶴城」は、全国の他のお城にも見られる通称です。例えば、
- 京都府舞鶴市の田辺城
- 山梨県甲府市の甲府城
などが有名ですね。これは、
- お城の形が、まるで鶴が舞い降りるような姿に似ている
ということなどに由来しています。
京都府舞鶴市は、まさにこの「舞鶴」が市名の由来になります。
なぜお城に「舞鶴」というネーミングが好まれたのか?
ではなぜ、お城に「舞鶴」というネーミングが好まれたのか。
「鶴(ツル)は千年、亀は万年」という言葉があります。
そのため、ツルは「長寿」や「円満」の象徴であり、お城(藩)が末長く繁栄していく、ということを願って名付けられました。
このように「舞鶴城」という名前はは、美しい姿を持つお城によく付けられる、昔から縁起の良く各地で好んで付けられた名前というわけなのですね!
唐津藩・唐津城と虹の松原の関係
そして、唐津藩と唐津城にとって、虹の松原は非常に重要な存在でした。
こうした大量のマツが植えられた松原は、例えば防風や防砂の役割を果たし、さらにはそういった「飛んでくる危険物質」から城下町の人々や作物などを守るための、まさに天然の防壁だったのです。
防壁:敵の攻撃や、自然の災害を防ぐために築かれた、壁や構造物のことです。
特に、先述の初代藩主である寺沢広高が、松の植樹を命じて、この松原にマツを植えていって整備したと伝えられています。
したがって、虹の松原は決して単に唐津のキレイな景観を守るというだけでなく、藩の人々の安全を守るための、大切な役割を担っていたわけですね!
虹の松原については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

辰野金吾とは?
日本を代表する、唐津出身の建築家
唐津市の偉人・辰野金吾は、明治時代から大正時代にかけて活躍した、日本を代表する建築家です。
そもそも「建築家」とは?
建築家とは、建物や橋などのデザインや設計をするための専門家のことです。
この建築家は、実際に自分で建築作業をするわけではありません。
あくまで建築家は設計・デザインを(建物がおしゃれになるよう)担当するのであり、実際の建築工程(力作業であり、危険で専門的な作業も含む)は施工業者に任せます。
辰野金吾の築き上げた、今も日本を代表する建築
彼は佐賀県唐津市の出身で、幼少期から非常に勉強熱心でありロンドンの大学で学び、帰国後に数多くの重要な建物を設計しました。
特に、
- 東京駅
- 日本銀行本店
など、赤レンガを使った、重厚で華麗なスタイルが有名です。
したがって、唐津が輩出した、日本の近代建築の基礎を築いた偉大な人物といえますね!
なぜ建築家と施工業者で「分業体制」となっているのか?
建築家が施工をしない・できない理由は、
- 設計は「オフィスで図面を書くプロ」
- 施工は「現場で家やビルを建てるプロ」
と、そもそもの役割や求められている知識・スキル・専門性がそれぞれ違うからになります。
したがって、(建築家が)客観的な立場で工事をチェックするためにも、あえて分かれているわけですね。
建築家と施工業者 お互いの強みを生かして「分業体制」が築かれている
また、建築家は施工業者のように、危険な現場で作業するトレーニングを基本的には積んでいません(中には後述する辰野金吾のように、そういう優れた建築家もいるかもしれませんが)。
施工業者も、お金持ちのお客さんとヒアリングするトレーニングを積んでいるかといえば厳しいでしょう(逆にそういう知識やスキルがある施工業者は強いかもしれません)。CADツールなど、PCの専門的なスキルも必要となるでしょう。
しかし、最近では両方こなす会社(施工業者)も登場してきており、それぞれの分野スキルの強みを活かしているわけですよ!
辰野金吾のように、両方のスキルを持った建築家は強い
ちなみに、どちらのスキルも持ち合わせている建築家は最強です。
実際、辰野金吾は現場を非常に大切にしており、工事の進捗を厳しくチェックしたことで知られています。
すなわち、あの重厚な東京駅が100年以上経っても美しいのは、彼のデザイン力と、それを形にする現場技術がハイレベルで融合したからこそなんですよ!
今回はここまで 続きは次回
おわりに:いかがだったでしょうか。
- 島原の乱での寺沢氏の失政
- 責任を取らされ、代わりに譜代大名が入ってくる
- 幕府による、九州の外様大名の徹底監視
などなど、驚くべき歴史がたくさんありましたね!!
今回は長くなったので、続きは次回に解説します!
次回は、唐津街道の歴史について解説してゆきます!
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