佐賀県・福岡県を結んでいた唐津街道について、わかりやすく解説します!
基本からかつての厳しすぎた体制まで、やさしく解説します!
はじめに:唐津街道の歴史に迫る

かつて唐津街道も通っていた筑肥線からの玄界灘の景色(福岡県・佐賀県)
今回は、唐津街道の地理・歴史を学んでゆきましょう!
この道は、北九州の小倉から、福岡を通って佐賀の唐津、さらに伊万里までを結ぶ重要なルートでした。
すなわち、現代の筑肥線や国道202号線のルーツとも言える存在なのです。
また、大名の参勤交代や、かつては長崎を守るための軍事的な役割もあったのですよ。
これらの知識を学ぶ事で、より観光・旅行・探訪が面白くなります!
唐津街道の拠点・佐賀県唐津市
唐津市とは?どこにある?
今回メインの唐津街道の重要都市である佐賀県唐津市は、佐賀県の北西部に位置する市です。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

唐津藩とは?
また、唐津藩は江戸時代に現在の唐津市周辺を治めていた藩のことです。
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

唐津街道(からつかいどう)とは?
唐津(藩)からの、当時の参勤交代のルート
参勤交代が義務付けられていた江戸時代、たとえ九州の大名であっても、はるか遠くの江戸(東京)に向けて、大名たちは定期的に向かわなくてはなりませんでした。
しかし、当時はまだ飛行機や新幹線などという便利なものはありませんでした。
参勤交代:全国各地の大名が、一年おきに江戸へ向かい、将軍さまに挨拶をする義務のことです。
移動には莫大なお金と時間がかかるため、これにより意図的に藩の勢力を抑える目的もありました。
そのため、唐津藩のをはじめとする九州の参勤交代のためのルートの中に「唐津街道」というものがあり、彼らはここを通っていくことになりました。
江戸時代の街道の一つ
唐津街道は、江戸時代に整備された街道の一つです。
街道:江戸時代に、主要な都市や宿場どうしを結んでいた、幕府により整備された当時のメインの道のことです。
詳しくは後述します。
唐津街道は、主に唐津と、現在の福岡県にある小倉を結んでいたルートで、現代の筑肥線にあたる海沿い(玄界灘沿い)を通るルートでした。
つまり、九州北部における交通や物流の、非常に重要な主要ルートだったのです。
特に、唐津藩の参勤交代のルートとしても利用されました。
そもそも「街道」とは?
街道とは、まだ新幹線も高速道路も無かった江戸時代に、旅人や参勤交代で江戸を往復する大名たちが通りやすいように、江戸幕府が整備した道です。
車も通れないような「じゃり道」だったものの、当時としてはキレイな道たった
今と比べてジャリや「ぬかるみ」が多く、非常に歩きにくい(車はまず走れない)ような道でしたが、当時としては非常に画期的でキレイな道だったわけです。
また、当時は徒歩または馬がメインで、そういった旅人たちが通れば十分という感じだったのでした。
現代、街道の多くは国道としてバージョンアップして面影をとどめていないものもあれば、地方や田園地帯だと残っている部分もあります。
旅人たちが泊まるための「宿場町」
旅人たちは何日も何日も歩いて進むため、途中で食事・休憩・宿泊や馬の交換などをするための「宿場町」が設けられました。
この「宿場町」には、現代も江戸時代の建物たちがそのまま残っていて、観光地となっている所もあります。
今回メインで解説する唐津街道においては、前原宿という大きな宿場町が、今は糸島市として発展している筑前前原の地にありました。
唐津街道の主なルート
唐津街道のルートは、鉄道でいうと
- 筑肥線:唐津~福岡中心地
- 鹿児島本線:福岡中心地~小倉
のルートとほぼ準拠していました。

かつて唐津街道も通っていた筑肥線からの玄界灘の景色(福岡県・佐賀県)
すなわち、唐津市と福岡市中心部を結ぶ、玄界灘に沿った海沿いのルートだったというわけです。
福岡市中心部からはさらに北東の小倉へと伸びてゆき、さらに小倉からは「山陽道」へと接続して、東の大阪・江戸へと至る道だったのでした。
明治時代からは、「街道」から「鉄道」の時代へ
ただし明治時代になると、この筑肥線が整備されていったため、必然的に唐津街道の意義は失われていくこととなりました。
変わりに、自動車用の道路が整備されていくことになったわけです。
筑前前原は、唐津街道の時代から栄えていた?

かつては唐津街道の宿場もおかれた前原の主要駅、筑肥線・筑前前原駅(福岡県糸島市)
また、筑前前原(今の糸島市)は、唐津街道の中でも特に栄えた最大級の宿場町である「前原宿」として、非常に多くの人たちで賑わっていました。
筑前前原の地は、(今でもそうですが)昔からまさに交通の要所でした。
前原の地は、当時の福岡藩の支配する西の拠点であり、さらにはエラいお殿様(大名)が泊まる「本陣」も置かれていました。
すなわち、現代の糸島市の中心地(筑前前原駅周辺)が今でも賑わっているのは、江戸時代のときから続いている、歴史的な役割がそのまま続いているからというわけです!
本陣はどの宿場にも置かれているわけではなかった?
また、本陣はどの宿場にも置かれているわけではありませんでした。
本陣は、基本的にはどの宿場にも置かれますが、例外や規模の違いがありました。
- 本陣:お殿様(大名)や公家(天皇など)が泊まる豪華な専用の宿場です。今でいう豪華なスイートルームみたいな感じでしょうか。
- 脇本陣:本陣が混んでいる時に使われた、予備の宿場でした。
- 旅籠:庶民が使う宿場。今でいう格安のビジネスホテルみたいな感じでしょうか。
小さい宿場町などには、本陣が置かれないこともあった
その一方で、
- 小さな宿場町
- 隣の大きな宿場町と、距離が近い場合
には、本陣が置かれないこともありました。つまり、どこの宿場町にも本陣が置かれている、というわけではなかったのです。
逆に、前原宿(今の筑前前原駅周辺/糸島市)のようにとても行き交う旅人たちや交通量が多かったような場所には、立派で豪華な本陣が整備されていました。
厳しすぎた、唐津街道での外様大名への監視体制
唐津街道における、外様大名への「ヤバすぎる」監視とは
そんな唐津街道における監視は、単に「見張る」というだけでなく、さらに
- 「ルールを厳守させ、心理的なプレッシャーを与え続ける」
という高度なマネジメントでした。
どんな大名たちが「監視対象」となった?
主な監視対象となるターゲットの大名は、街道を参勤交代で利用する、
- 強大な外様藩である福岡藩(黒田家):福岡→小倉への(鹿児島本線のような)唐津街道のルートを通る
- 逆方向の長崎へと向かう、西国(九州)の強力な外様大名たち
です。
これだけ強力で、幕府にしてみれば反乱軍となっては困る外様大名が多い九州。
そんな九州を通る唐津街道においては、具体的には、以下のに挙げていくような巧妙な監視が行われていました。
そもそも、なぜ外様大名は「監視対象」になった?
ちなみに、外様大名がなぜ「監視対象」になったのか?については、
- 「関ヶ原の戦い」において、徳川家康の敵に回り、家康を苦戦させた→江戸幕府からの信用度が低い
- 「関ヶ原の戦い」で家康に敗北し、徳川家に恨みを持っている可能性がある→江戸幕府に反乱を起こす可能性がある
- 「関ヶ原の戦い」の直前になって家康の味方をしたため(それまでは敵だったり、無関心だったりした)→「いつ裏切るのでは?」と思われていたため
など、様々な理由がありました。
詳しくは、こちら(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
「宿場」での厳格な序列確認
まず、宿場町での振る舞いは、そのまま幕府への忠誠心としてチェックされました。
一つ目は、本陣の利用制限でした。
本陣(殿様の宿)に泊まる際、格式に見合わない勝手な振る舞いがないか、唐津藩の役人が目を光らせていました。
さらには、供(つまり、付き添い人)の人数制限もなされました。
参勤交代の行列の人数は、藩の石高の大きさによって、厳格に決められていました。
この人数制限を大幅に超えて、まるで「軍隊」のような強大な規模になっていないか、さらには街道を通過するときにも人数を密かに数えられ、カウントされていました。
外様大名への厳しすぎたチェック・監視の数々
そして、「長崎警備」の実施状況チェックというものがありました。
これこそが、唐津街道特有の監視項目でした。
唐津街道を通る、外様大名(福岡藩など)のチェック
まずは、「交代劇の監視」というものがありました。
福岡藩と佐賀藩は1年交代で、幕府から長崎の警備を命じられ、それぞれ担当していました。
そしてその移動には、(福岡藩の場合は)必ずといっていいほど唐津街道やその周辺を通ります。
それは福岡藩からすれば、内陸の長崎街道よりも、その方が近いからです。
装備までもチェックされた(不足してないか、逆に過剰でないか)
次に、外様大名たちは装備のチェックもなされました。
すなわち、
- 長崎などの警備に向かっていく武士たちの武器や装備に、不足がないか
- さらには士気が十分か、あるいは逆に「警備」という名目で過剰な武装をしていないか
など、譜代である唐津藩が、これらの項目を非常に厳しい視線で見極めつつ、幕府に報告していました。
密貿易と隠れキリシタンの摘発をすること
また、唐津から伊万里にかけては海岸線が存在していますが、ここは外様大名が特に海外と内密に接触しやすい、幕府にとっては警戒すべき危険なエリアでもありました。
そのため、海岸線のエリアを監視するという浦の監視というものがありました。
すなわち、街道から少し外れた海岸線の集落(浦)の中に(つまり、海辺の小さな小屋などに)、
- 外様大名の密使(スパイ)が潜んでいないか
- 長崎以外での荷揚げが行われていないか→当時は、長崎以外で海外のモノを仕入れるのは厳禁
というのを、海辺地域においては厳しく取り締まっていました。
キリシタンの流入防止のため
また、あの「島原の乱」以降、キリスト教からの影響(思想や信条など)が、万一外様大名の領地から漏れ出し・溢れだしてきてしまうこと、幕府はとても恐れていました。
そのため、キリスト教の影響が外様領から出てこないように、街道ルートのあちこちに存在していた関所や番所において、厳しい「改め(検問)」・チェックが行われていました。
関所・番所で行われた「改め(あらため)」とは?
ちなみに「改め(あらため)」とは、関所や番所において、通行人の身分や持ち物を厳しく調べることです。
この当時は、特に「入り鉄砲に出女」といって、
- 江戸に武器(鉄砲など)が入ってくること
- 参勤交代で江戸に人質にとっている大名の妻(=女)が、江戸から逃げ出していくこと
を、幕府はとても強く警戒していました。なので、関所を通過しようとする武器や女性は、念入りにチェックされたというわけです。
外様大名対策:凄すぎた情報収集体制
そして、唐津街道の宿場町には、主に幕府の公認を受けた「飛脚」や「宿役人」が配置されていました。
彼らはいわば外様大名たちの「監視役」でした。
幕府への不満・噂話は、すべて監視・報告された
彼らの仕事は、まずは噂話の収集でした。
すなわち、
- 大名行列の足軽たちが宿場において漏らす幕府への愚痴・不満→幕府への反乱につながる可能性がある
- 外様大名の藩内で何が起こってるかなどの情勢についての噂話→幕府への反乱を企てている可能性がある
などといった「愚痴・不満・噂話」などに関する情報は、こうした宿場に配属されていた役人たちを通じて、唐津藩そして江戸の老中へと報告される・情報共有されるというシステムになっていました。
外様大名への監視の目が光っていた、唐津市や糸島市の中心地
唐津(唐津城下)や糸島(前原宿)は、街道の中でも特に「監視の目」が鋭かった重要ポイントでした。
それぞれの場所がどのような役割を持っていたのか、整理してみましょう。
唐津(唐津城下):監視の本丸
唐津市の中心部は、譜代大名が直接統治する「監視の指令塔」でした。
まず、お城(唐津城)からの、外様大名への監視はとても厳しかったといいます。
そもそも唐津城は海に突き出した場所にあり、ただ街道だけでなく、海上での不穏な動き(ヤバい船がいないかなど)までをも全て一望できたのでした。
厳格だった、唐津城下町の検問
また、城下町の検問も厳しかったといいます。
まず外様大名たちが唐津に入るためには必ず城下を通過しなければならず、そこでは譜代藩である幕府から信頼された武士たちが、常に不審な動きがないかをチェックしていました。
また、西九州各地から集まる「外様大名の動向」に関するレポートは、一度ここに集められ、そこから江戸へと送られていました。
糸島(前原宿):福岡藩への「睨み」の拠点
また、現在の糸島市の中心部である前原は、当時は
- 外様大名の領地である福岡藩の領内にありながら、
- 譜代大名の領地である、唐津藩との境目に近い
という、なんとも緊張感の高い、非常にデリケートな場所でした。
まずここは、国境の緊張感がとてもすごかったのでした。
前原は福岡藩にとっての西の拠点でしたが、そこを過ぎればすぐに譜代・唐津藩の勢力圏へと入ります。
とても厳しかった本陣での(外様大名への)監視
本陣での監視は、とても厳しかったといます。
前原宿には立派な本陣があり、外様大名が泊まるときには、幕府の意向を受けた役人たちが常に目を光らせ、外様大名たちのの振る舞いや動き、さらには「(幕府に対する)不満」や「噂話(領民が反乱を企ててるなど)」などをしていないか、などを細かく観察・監視していたといいます。
また、筑前前原(糸島市)は軍事的な要所でもあり、福岡藩側(=外様大名)も、唐津の譜代大名(=幕府の目)を意識していました。
このように、前原周辺の警備や町の整備を非常に厳格に行っていました
監視の目が光っていた「具体的な理由」
なぜこの2地点が特に重要だったかというと、以下の「境界線」だったからです。
まず、前原宿(糸島) は、「外様の出口」という位置付けの場所にありました。
すなわち、福岡藩が外の世界である唐津・長崎方面へと向かうときにおける、まさに最終チェックポイントとというべき関門・通過点でもありました。
そして、唐津城下 はまさに「譜代の入り口」ともいうべき場所でした。
ここから先は徳川のルールがより色濃く支配するエリアでした。
現代へのつながり
今の唐津市や糸島市が、福岡市と密接に関わりながらも、どこか
- 「独自の落ち着いた城下町の雰囲気」
- 「歴史的なプライド」
を感じさせるのは、江戸時代にこうした「国家レベルの緊張感」の中に置かれていた名残かもしれませんね。
すなわち、我々が今旅をしている糸島の商店街や唐津の城下町は、かつてはお殿様たちが常に「粗相があってはならない」と、背筋を伸ばしながら通り過ぎた場所だったわけです。
かつては外様大名たちが怯えていた道 今では鉄道で「するり」と抜けられる
今では、鉄道でするりと博多→糸島→唐津→長崎方面へと抜けられるわけですから、安全・便利になったと思います
かつては外様大名たちが参勤交代のといに「監視の目」に怯え、ときには険しい峠越えに何日も費やしたルートが、今では筑肥線や西九州新幹線、そして特急列車で「するり」と移動できてしまう。
この平和と便利さは、歴史を知れば知るほど感慨深く感じられますね。
いとも簡単に通り抜ける、現代ルートの魅力
そして今の私たちが享受している「安全・便利」には、こんな変化があります。
「関所」もなくなり、「難所の峠」が「トンネル」となりました。
かつての旅人を苦しめた立花峠や冷水峠も、今は鉄道や道路のトンネルでによって、あっという間に着いてしまいます。
「監視の緊張感」が「車窓の楽しみ」に
かつてお殿様たちが周囲を警戒しながら通った糸島の海岸線や、唐津の「虹の松原」。
今は、筑肥線の窓から「あ、海が綺麗だな」とのんびり眺められる最高の観光ルートになっています。
歴史の「道」を繋ぐ現代の旅
今では、福岡(博多)から糸島・唐津、そして長崎へ。
このルートを移動することは、江戸時代の「唐津街道」と「長崎街道」という二つの歴史的なルートを、現代の技術で一本に繋いで旅していることになります。
すなわち、私たちが特急の座席で駅弁を食べているその場所は、かつての武士たちが命がけで駆け抜けたり、重い荷物を背負った旅人が汗を流した場所というわけですよね。
もし実際にこのルートを移動されることがあれば、かつての「宿場町」だった駅で途中下車してみるのも面白いかもしれません。
おわりに・まとめ
唐津街道の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
かつては外様大名を監視する厳しい目が光っていたような道も、今ではいとも簡単に鉄道で移動できるという平和な場所になりました。
したがって、車窓に登場する糸島や玄界灘の海も、当時とは違った感動を与えてくれますね!
これらを学ぶ事で、現地での観光・旅行・探訪がより面白いものとなることでしょう!
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