佐世保の観光と、佐世保港の鎮守府・軍港としての歴史や、松浦鉄道・松浦党などの歴史を、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
佐世保港と松浦鉄道・松浦党の歴史

佐世保の海(長崎県佐世保市)
今回は、長崎県の佐世保港と松浦鉄道・松浦党の歴史を学んでゆきましょう!
佐世保の街は、天然の良港という素晴らしい地形を強みに、旧日本海軍の軍港として発展しました。
すなわち、近代日本の国防と産業を支える、重要な拠点だったのです。
そして、その発展の裏には、松浦党という海の武士団の歴史や、松浦鉄道による石炭輸送という、興味深い物語がありますね。
今回は、佐世保の海と陸の歴史を繋ぐ、これらのテーマを一緒に理解を深めてゆきましょう!

筆者・佐世保の海の景色より(長崎県佐世保市)
佐世保港とは

佐世保の海(長崎県佐世保市)
佐世保港は、長崎県の佐世保市にある港です。
ここは、かつて旧日本海軍の重要な軍港として栄えました。
すなわち、日本の国防を支える拠点の一つだったのです。
現在では、海上自衛隊やアメリカ海軍の基地が置かれている他、国際的な貿易港や、美しい九十九島観光の拠点としても利用されています。
つまり、国際色豊かな、活気のある港というわけですね!
佐世保市とは
長崎県・佐世保市は、長崎県の北部に位置する都市です。
この市は、佐世保港を中心として発展してきました。
また、佐世保は軍港都市としての歴史が深く、今も
- 海上自衛隊
- 米軍基地
が存在しています。
- 佐世保バーガー
- ハウステンボス
などの観光地でも知られています。
したがって、歴史と国際色、そして観光の魅力が詰まった、楽しい街というわけですよ!
米軍から直接、ハンバーガーのレシピ」を伝授された場所・佐世保
佐世保は、国内初のハンバーガー店が出来たことでも知られます。
つまり、米軍のアメリカ人の方から、ハンバーガーを直接伝授されたわけですね。
- 1950年頃、佐世保の米海軍基地の軍人さんから、
- 地元の日本人が、直接ハンバーガーの作り方を教わった
という記録が残っています。
すなわち、本場アメリカの味が、「公式に日本へと輸入された第一歩」が、まさにここ・佐世保だった、と言えるわけです。
直接伝授というのは、(例えばハンバーガーなどの)前提知識などがほとんどないような状態で、新しい技術や方法をそのまま受け継ぐことです。
鎮守府とは
また、佐世保には明治時代、日本海軍の非常に重要な拠点である鎮守府がおかれました。
鎮守府とは、かつての日本に存在した旧日本海軍が、全国の重要な(特に防御を固めないといけない)海域に設置した、海軍の非常に重要な拠点となる施設のことです。
すなわち、
- 軍事作戦の計画:絶対に敵にバレてはいけない
- 艦艇の整備:めっちゃデカイ軍艦がぞろぞろ置かれていた
- 物資の補給:そんなデカイ軍艦に対して、たくさんの武器・弾薬・食糧などを補給していた
- 兵士の訓練:船に乗って戦う兵士たちを、ビシバシ鍛え上げていた
などといったことを行うための、まさしく海軍の中枢機能が集中していたのでした。
明治時代に大和田建樹さんという方が作詞した鉄道唱歌 山陽・九州編にも、佐世保の鎮守府は以下のように歌われています。
その名知られし大村の
湾を占めたる佐世保には
わが鎮守府をおかれたり
詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

いわゆる「四大鎮守府」の一つ・佐世保
当時の日本には、横須賀・呉・佐世保・舞鶴という、特に四つの大きな鎮守府が置かれていました。
すなわち、それぞれの海域の防衛を担う、非常に重要な役割を持っていたわけですね。
艦艇:軍用の船、軍艦のこと。
佐世保鎮守府については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

佐世保港の地形の強み(天然の良港)
佐世保の港の地形は、以下の特徴を兼ね備えた、まさに「軍港」としてとてもふさわしい地形を持っています。
- 湾の入り口がとても狭い→敵艦隊が侵入してきにくい
- 湾の中・奥は広い→味方の軍艦をたくさん備えられる
という「袋状」の形をしています。
これは、天然の良港と呼ばれる条件を満たしており、敵が非常に攻めてきにくいという特徴を持っています。
また、佐世保の湾の形は、
- 波の影響を受けにくい→波が立ちにくい、船が波に煽られにくい
- つまり、停泊する船が安全に守られる
ということです。
さらに、佐世保の湾は水深が深いため、より大型の艦船の停泊に適していたわけです。
船は大きくなればなるほど、(船の底が水面よりも15m~20mほど下に到達することもあるため)より深い海や湾を必要とします。
逆にいえば、浅い海には大型船は泊めにくいのです。
これらの様々な要素も、佐世保が軍港として選ばれた、大きな強みとなりました。
- 船を隠しやすい
- 安全に停めておける
まるで佐世保は、まるで天が当時の日本人たちに与えたくれたかのような、自然の要塞のような場所だったわけですね!
現代でも海上自衛隊・米軍の拠点として重要な佐世保
佐世保港は第二次世界大戦後、軍事的な要素は解除されました。戦争がそもそも終わったわけなので、軍事力などは解除されたわです。
そして、戦後は海上自衛隊とアメリカ軍の基地としての歴史を歩みはじめたわけです。
現在でも佐世保には海上自衛隊とアメリカ海軍基地が置かれており、さらに国際貿易や観光の拠点としても、重要な役割を担っているわけです!
佐世保から北へ延びる、松浦鉄道
松浦鉄道とは?どことどこを結んでいる?
佐世保駅から北へ延びている松浦鉄道は、長崎県・佐賀県にそれぞれまたがる西九州線を運営する、第三セクター方式の鉄道会社です。
第三セクター鉄道:「国や自治体」と「民間企業」が一緒にお金を出し合って作った会社が運営する鉄道のことです。
すなわち、「公」でも「民」でもない「第3の路線」なので、第三セクターと呼ばれます。
主に、廃止の危機にあった国鉄の赤字路線を救済するために、この措置が取られています。
この路線は、長崎県の佐世保駅を起点とし、
- 佐々
- 平戸
- 会社名の由来でもある松浦
といった北部の街を通り、
- 佐賀県の有田駅
とを結んでいます。
また、この路線は、かつての
- 国鉄松浦線
を引き継ぎ、地域の重要な生活の足として運行を続けています。
この国鉄松浦線が赤字だったため、廃止が検討されていたのでした。
しかし、それだと地元住民にとっては困るため(特に車が運転できない人などにとっては)、1988年からは第三セクター線「松浦鉄道」として残され、現代に至るわけです。
現在はもしかして赤字?
残念ながら松浦鉄道は現在、厳しい経営状況にあります。
もちろん開業当初は、利用促進策が成功し、黒字だった時期もあります。
しかし、
- モータリゼーション(自動車社会)の進展→多くの人は車を利用する
- 燃料費・人件費といった経費の高騰
などの要因により、2001年度以降は赤字に転落しています。
したがって、沿線自治体からの支援を受けながら、なんとか運行を維持している状況となっているわけです。
もちろこれは松浦鉄道だけに限らず、全国の地方ローカル線が抱えている、共通の課題であるとも言えます。
松浦鉄道の歴史 なぜ出来た?
現在ある松浦鉄道の路線は、先述の通り、元々は国鉄松浦線として、明治時代に建設されました。
その目的は、主に
- 軍港・佐世保→たくさんの軍事物資を、港まで(あるいは、港から)鉄道で運ぶ必要があった
- 商港・伊万里
→伊万里焼といった特産品を、(売って利益にするために)全国へ運ぶ必要があった。
といった重要な街をそれぞれ結び、モノの輸送を円滑にすることでした。
特に、この鉄道の沿線には石炭がガッポリ採れる炭鉱があったため、列車は石炭の運搬という、重要な使命を担っていました。
すなわち、国鉄松浦線と佐世保港は、北松浦炭田からガッポリ採れた石炭を全国へと運んで販売し利益を上げていく上でも、非常に重要な役割を担っていました。
北松浦炭田:当時、佐世保市から北の松浦半島一帯にかけて存在した、石炭がたくさん採れた採掘地のことです。
また、伊万里焼を作る町の職人たちにとっては、鉄道があれば、自分達の作品・商品を、全国へ送り届け、出荷することができます(すなわち、販路の拡大)。
つまり、国鉄松浦線の存在は、地元住民にとってはとてもありがたいものだったのでした。
松浦鉄道が三セクとして残った理由
松浦鉄道と佐世保港の重要性
先述の通り、現在ある松浦鉄道の路線は、元々は
- 近くにあった炭田からガッポリ採れた石炭を輸送するため
に、当初は国鉄松浦線として整備されたものです。
すなわち、佐世保港は、
- 石炭を、貨物列車から船に積み替えて
- 全国各地や海外へ送り出す(その販売利益によって儲ける)
といったことを行うための、とても重要な一大積出港でした。
特に、明治時代から戦前にかけての日本においては、あらゆる産業や軍事において、蒸気機関車や蒸気船・工場の機械などを動かすためのエネルギー源として、石炭が不可欠でした。
現在は石油・電気・ガソリンなどが主流ですが、当時は何を動かすにも石炭がとても重要だったわけです。
積出港:貨物を船に積んで、他の場所へ送り出すための港のこと。
すなわち、当時の松浦線と佐世保港は、軍事・産業的な物資輸送にとって、不可欠なライフラインだったわけです。
佐世保港は江戸時代に何をどこまで運んでいた?
かつてより、松浦線(現在の松浦鉄道)は、
- 佐世保港と連携して、地域の重要な物資を運び出す
という、非常に重要な役割を担っていました。
しかし、江戸時代までは、佐世保は長崎のように外国と貿易をするための、いわゆる対外貿易港ではありませんでした。
つまり、佐世保港は軍港としての重要性が高まってきた、明治時代以降に発展した港であるというわけです。
江戸時代、当時の日本は鎖国体制であり、国際的な貿易については長崎港に限定されていました。
つまり、当時の佐世保港はもっぱら
- ほぼ地域の中での生活物資
- 天下の台所・大坂へ送り届けるための年貢米
などの輸送に使われるに過ぎない、ごくごく小規模な港であったと考えられています。
しかし、そんな中でも周辺の船番所では、長崎の警備を行う平戸藩の役人が、この佐世保港において外国船の監視を行っていたという、一定の役割を果たしていたという記録は残っています。
船番所:いわゆる海の関所のような場所で、通行が許可されていない船なとを取り締まりを行うための場所です。
かつて佐世保周辺の海に存在したツワモノ集団・松浦党
佐世保港の周辺では、さらに時代を遡った戦国時代頃までには、
- 平戸
- 松浦
の地域には、かつて松浦党という有力な武士団がいました。
松浦党とは?
松浦党は、平安時代から戦国時代にかけて、肥前国(現在の長崎県と佐賀県の一部)の松浦地方を拠点とした武士団の連合組織です。
彼らは、海という海を知り尽くしたスペシャリストです。すなわち、
- 船の運転技術・航海技術
- 海の険しい地形
- 海での敵との戦い方
などの特殊スキルを持ち合わせていたため、時の権力者などから評価され、権力者について戦うことも多かったのでした。
つまり、現代でいう海上自衛隊のような存在ですね。
まさに海のスペシャリスト・ツワモノ集団
そのため、松浦党は海上交通にも深く関わり、
- 時には、海賊的な活動をしていた→行き交う船を襲って、モノや金品などを奪う、通行料を徴収するなど
- また、水軍として活躍した(先ほどの「権力者の下について戦う」など)
などといった歴史があります。
すなわち、松浦党は佐世保湾をはじめとする周辺の地域全体において、海の安全や支配を巡って活動を行う勢力だった、というイメージですね。
松浦党は、時の権力者に従って戦った?
松浦党は、一族の所領を守ること、つまり一所懸命のために行動しました。
したがって、時の権力者の動向に合わせて、柔軟に味方を変えることが多かったのです。
一所懸命:いわゆる「一生懸命」という言葉の語源になった言葉です。
鎌倉幕府の武士たちが、自分達の領地(一所)を命を懸けて守ることからつけられました。
例えば、松浦党は平安時代終わりの源平合戦においては、平家方の水軍の主力メンバーとして戦いました。
つまり、源氏の敵ではありましたが、平氏にうまくついて戦ったわけです。
しかし、鎌倉時代中盤の元寇では、今度は幕府側として勇敢に戦い、活躍しています。
また、松浦党は南北朝時代には、
- 南朝方
- 北朝方
にそれぞれ分かれて争うなど、それぞれの勢力の伸縮に応じて(臨機応変に)行動していました。
元寇で、日本を守るために必死で戦ったというエピソード
先述の通り、松浦党は文永の役と弘安の役という二度の元寇で、最前線の御家人として活躍しました。
特に、彼らの領地である松浦地方は元軍の上陸地点に近かったこともあり、領地に攻め込んできた元軍に対して一所懸命に立ち向かい、奮戦したという記録が残っています。
つまり、松浦党は、
- 地の利(つまり、地元民だからこそわかる、地形への詳しさや地元民を味方につけるなど)を活かして、
- 小舟で元軍の大型艦船に立ち向かう
など、当時の日本の国防を担う重要な役割を果たしたというわけです。
松浦党と新潟県・粟島には、実は歴史的なつながりがある?
新潟県の粟島には、松浦さんや本保さんという姓を持つ方々が多く住まわれています。
そして、その一部は松浦党の子孫だという説があります。
すなわち、海の道を通って、九州の遠方から日本海側の粟島まで移動し、そこで定住した可能性が指摘されているわけです。
なぜ九州の松浦党が、新潟の粟島にいたのか?
九州の松浦党が、新潟の粟島にいた理由については、主に以下のことが考えられます。
- 松浦党は、九州の特産物や、あるあは外国から手に入れた特産物を、東北や北海道へと海のルートで輸送・販売していた
- 逆に、北海道や東北からは、海産物などの特産物を持ち帰り、(地元の九州などで)販売した
- その船のルートの途中で、休憩・宿泊などをするための寄港地が必要だった
- ちょうど便利だったのが、新潟の沖に浮かぶ粟島だった
まさにこれは、江戸時代の北前船・西廻り航路などと同じようなビジネスでした。
海を知り尽くした松浦党にとっては「海は職場・稼ぎ場」であり、その名前は遠く・新潟(越後)までも知れ渡っていたのでした。
松浦党と、既存先住の蝦夷・後から来た本保氏との土地争い
このように、新潟県の粟島では、歴史的に海の安全なルートを確立したい者達にとっては、何としても押さえておきたい、便利な立地だったのでした。
そのため、粟島をめぐっては、歴史的に
- 先に住んでいた蝦夷
- 後からやってきた本保氏
らといった他の部族の人たちと、土地をめぐる争いもあったりしたのでした。
これについての詳細、もしくは粟島の観光などの関連事項については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

九州のこの地と、はるか新潟での「つながり」「関連性」
松浦党の一部が移動したとされる粟島では、現代でも先祖の松浦党に対して、誇りを持っておられるようです。
すなわち、九州のこの地と、はるか新潟の土地の間で、どこかつながりがあるという事実はとても興味深く感じられますね。
おわりに・まとめ(佐世保・松浦鉄道・松浦党)
以上、今回は佐世保港・松浦鉄道・松浦党の歴史などを学んでみて、いかがだったでしょうか。
佐世保の歴史は、国防・産業、そして地域の海の文化などがそれぞれ深く絡み合っていることが分かりましたね!
また、松浦党という誇り高き海の武士団の活躍から、松浦線が運んだ石炭が日本の近代化を支えた話まで、学びは盛りだくさんでした。
今回の学びを通じて、佐世保の観光がより充実したものとなることを実感していただけたらと思います!
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