【福岡】筑肥線・糸島市の旅について、楽しく解説!

​福岡県の路線・筑肥線と、その沿線の中心都市である糸島市について、その観光・歴史について初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!

筑肥線・糸島市の地理・歴史を学んでゆきましょう!

さて​今回は、​筑肥線ちくひせん・​糸島市の観光・地理・歴史などについて学んでゆきましょう!

​​筑肥線の​石炭輸送の役割から、​糸島市いとしましの古代「伊都国いとこく」としてのルーツまで、そこにはとても深い歴史の物語が詰まっているわけです。
また、玄界灘げんかいなだの美しい海の景色や、九州大学伊都いとキャンパスといった現代的な側面も魅力的ですね!

では、この地域の多彩な魅力をもっと探求していきましょう!

​筑肥線とは?どこにある?

九州の北海岸を走る路線

筑肥線・玄界灘の景色(福岡県)

筑肥線・玄界灘の景色(福岡県)

​​筑肥線ちくひせんとは、

  • 福岡県の​姪浜駅めいのはまえき(福岡県福岡市西区)ら、
  • 佐賀県の​唐津駅からつえき(佐賀県唐津市)を経由し、
  • 終点の​西唐津駅にしからつえき(佐賀県唐津市)

をそれぞれ結んでいる、JR社(​JR九州/九州旅客鉄道株式会社)による鉄道路線です。

「筑前」「肥前」のそれぞれの頭文字で「筑肥線」

筑肥線ちくひせんは、「筑前国ちくぜんのくに」「肥前国ひぜんのくに」をそれぞれ結ぶ路線という意味合いの名称です。

  • 筑前国ちくぜんのくに:現在の福岡県の西部にあたります。
  • 肥前国ひぜんのくに:現在の佐賀県長崎県にあたります。

この筑肥線は、​福岡市の地下鉄と直通運転しているのが最大の特徴ですね。
つまり、福岡市街地の都会を出ると、地下鉄をずっと進みます。
そしてある程度西(佐賀方面)へ進むと、地上に出てくるわけですね。

筑肥線は​いつできた?何のためにできた?

この筑肥線ちくひせんは、​もともとは​石炭の輸送を目的として、明治時代末期から大正時代にかけて順次開通してゆきました。
明治時代の九州には、石炭がたっぷり採れる山がとても多く、それらを掘って運んで売ればとても儲かったのでした。
それだけ当時の九州は石炭の全盛期だったため、九州の鉄道は「石炭を運ぶ」ことを目的とした鉄道路線をルーツとしているものがとても多いのです。
詳しくはまた後述します。

また、筑肥線は1983年に​福岡市営地下鉄との相互直通運転が開始されたのでした。
このことで、​糸島市あたりからの福岡市街地への通勤・通学がとても便利になり、そして観光などの役割が非常に大きくなりました。

したがって、元々は石炭を運ぶために作られた筑肥線は現在、福岡都市近郊の重要な「人々の生活に不可欠な路線」としての役割を担っています。

筑肥線 ​海の景色はきれい?

もちろん​筑肥線は、海がとてもきれいです。

筑肥線からの玄界灘の景色(福岡県・佐賀県)

筑肥線からの玄界灘の景色(福岡県・佐賀県)

特に、

  • 筑前前原駅ちくぜんまえばるえき(福岡県糸島市)
  • 唐津駅からつえき(佐賀県唐津市)

の間は、

  • 玄界灘げんかいなだ
  • 唐津湾からつわん

の美しい海岸線に沿って走る区間があります。

すなわち、車窓からは​青い海と​白い砂浜、そして緑の松林などが織りなす、素晴らしい景色を楽しむことができます。

虹の松原にじのまつばらの近くを走る区間は、まさに絶景です!

​​玄界灘げんかいなだとは、 ​九州の​北西部にある海域のことです。

玄界灘については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 山陽・九州編 第28番 朝夕問わず関門海峡をゆく船は、玄界灘を渡ってゆく
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​途中沿線の見どころは?

筑肥線・唐津駅(佐賀県唐津市)

唐津駅(佐賀県唐津市)

​​唐津からつは、歴史的な見どころがたくさんあります。

まず、有名なのは、優美な姿の​唐津城からつじょうです。
さらに、国の特別名勝である​虹の松原にじのまつばらも外せません。
さらには、レトロな雰囲気の​唐津の街並み散策や、新鮮な海の幸を楽しむこともできます。

筑肥線沿線の観光地:虹の松原(佐賀県唐津市)

虹の松原(佐賀県唐津市)

したがって、筑肥線の沿線には、週末のお出かけにぴったりな魅力的なエリアが点在しています!

​筑肥線はその昔、どこで掘り出された石炭を運んでいた?

先述の通り、​​筑肥線は、元々は​明治時代に石炭を運ぶために作られました。
それは主に、沿線の近くに広がっていた​唐津炭田からつたんでんで掘り出された沢山の​石炭を、​唐津港へ輸送していたわけです。
つまり筑肥線の歴史は​、石炭産業とともに歩んできたと言えますね!

​​唐津炭田からつたんでん佐賀県北部に位置する、かつての重要な​石炭産出地です。

明治時代の石炭と筑肥線の役割

この​​明治時代は、それまで西洋に遅れを取っていた日本が、近代国家へと大きく成長・発展していった「産業革命」の時代でした。
つまり当時の日本では、例えば工場を動かすための機械から、街を走る​蒸気機関車じょうききかんしゃまで、あらゆるものを動かすためにも​石炭が欠かせませんでした。

蒸気機関車じょうききかんしゃ:​石炭を燃やして発生させた​蒸気の力で走る​機関車のことです。

蒸気機関車については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

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また、その蒸気機関車を動かすための動力源である蒸気機関については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

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当時の主流エネルギー源・石炭

石炭は、今の「ガソリン」「石油」「電気」などのように、まさに当時のエネルギーの「心臓部」だったわけです。
つまり石炭は、1960年代の高度経済成長期あたりにエネルギー革命が起きて石油が主流になっていくまでは、当時の主流エネルギーだったわけです。

​したがって、​筑肥線ちくひせんは、その貴重なエネルギー源である石炭を大量に運ぶためのす大動脈として、非常に重要な役割を担っていました。
石炭を沢山掘って売れば、どこの工場なども買ってくれるようになるため、それは儲かったわけですね。

すなわち、沿線の​唐津炭田からつたんでんで大量に掘り出された​石炭を、鉄道によって​唐津港へと迅速に運び出してゆき、さらにそこか船で全国へと送り届けていたわけです。
この筑肥線があったからこそ、この地域の​石炭産業利益が出て潤うようになり、人々は給料を得て生活ができるよつになり、果ては日本の近代化が大きく進んだ要因の一つになったと言えるでしょう。

​​蒸気機関車じょうききかんしゃとは、​石炭を燃やして発生させた​蒸気の力で走る​機関車のことです。

蒸気機関車については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

玄界灘とは?魚はたくさん採れる?

筑肥線・玄界灘の景色(福岡県・佐賀県)

筑肥線・玄界灘の景色(福岡県・佐賀県)

​​玄界灘げんかいなだは、​九州の北西部に広がる海域です。
ここには、南からやってきた暖かい海の流れである​対馬海流つしまかいりゅうが流れてきています。
さらに​は、大陸棚たいりくだなも広く大きく広がっています。

​​対馬海流つしまかいりゅうとは、​対馬付近から​日本海沿いに流れる、温かい​海流です。

​​大陸棚たいりくだなとは、大陸のへりにある、比較的浅い海底のことです。

ここには魚が大好きなエサであるプランクトンがたくさんあります。
そのため、玄界灘では​アジや​イカ、​マダイなどといったたくさんの魚介類が獲れる、まさに​世界有数の好漁場こうぎょじょうというわけです。

すなわち、たくさんのおいしい魚が採れるという、まさに新鮮な海の幸が豊富で、本当に素晴らしい海というわけですね。

大陸棚に魚が集まりやすい理由

ちなみに、​魚が​大陸棚に集まってきやすいのは、シンプルに「栄養が豊富だから」​です!

​すなわち、ここでは

  1. 水深が浅いため、
  2. 太陽の光​が海底まで届きやすく、
  3. ​魚のエサとなるプランクトン(微細な生物)が大量に発生する

というわけです。

さらに、陸地(主に川など)から流れ込む​栄養分や、海流がぶつかり合うことによって、海底の​栄養塩が発生しやすく、それらが魚が食べる位置にまで湧き上がってきやすいわけです。
したがって、​エサが豊富で棲みやすい​大陸棚は、魚たちにとって最高の​すみかになっているわけですね!

​​栄養塩えいようえんとは、​プランクトンが食べる・成長するために必要な、海水中に溶けているリン窒素ちっそなどの​栄養分のことです。

虹の松原とは?

筑肥線沿線の観光地・虹の松原(佐賀県唐津市)

筑肥線沿線の観光地・虹の松原(佐賀県唐津市)

​​虹の松原にじのまつばらは、佐賀県唐津市からつしの​唐津湾からつわん沿いに広がる松林です。
​静岡県の​三保みほの松原などと並ぶ​日本三大松原の一つであり、国の​特別名勝にも指定されています。

この虹の松原は、初代​唐津からつ藩主の​寺沢広高てらざわひろたかが、​防風林や​防砂林として植えた​約100万本の​クロマツからなります。
これらの松が、まるで​のような弧を描いているわけです。
すなわち、その「虹の松原」という名の通り美しい場所であるわけです。

​​特別名勝とくべつめいしょう:特に優れた庭園や景色であるとして、国が指定・サポートしているものです。

虹の松原について詳しくは、また後の会で解説します。

筆者・虹の松原より(佐賀県唐津市)

​唐津城とは?

また​​唐津城からつじょうは、​佐賀県唐津市にある​平山城ひらやまじろです。
まるでその姿が「鶴が舞う姿」に似ていることから​舞鶴城まいづるじょうとも呼ばれます。
江戸時代初期に、先述の​「虹の松原」を植えていった唐津藩の藩主・​寺沢広高てらざわひろたかによって築かれました。

ちなみに現在の​天守閣は、当時のままの本物というわけではなく、あくまで​1966年に再建・復元された​模擬天守もぎてんしゅになります。
しかしながら、​玄界灘を一望できる素晴らしい展望台としての機能もあるわけです。

​​模擬天守もぎてんしゅ史料しりょうに基づかず、観光目的などで新しく建てられた天守閣てんしゅかくのことです。

​筑肥線・筑前前原駅とは?なぜ「糸島駅」ではない?

筑前前原駅(福岡県糸島市)

筑前前原駅(福岡県糸島市)

​​筑前前原駅ちくぜんまえばるえきは、福岡県糸島市いとしましに存在する、​筑肥線ちくひせんの中心となる駅の一つです。

この駅名は、かつて「糸島市」になる前の地名である​前原町まえばるまちに由来しています。
2010年に、周辺の町が合併して​糸島市いとしましが誕生しました。
ただし、駅名はあえて「糸島駅」とはせず、その地域の歴史を尊重して、「前原まえばる」の名前を今に残しています。
そして、多地域の「前原」という地名と重複を避けるために、旧町名の「前原」に対して旧国名の​筑前ちくぜんを冠した駅名が、今も残っているわけです。

したがって、この「筑前前原駅」は、地域の人々にとっては昔からの愛着・伝統のある駅名というわけですね!

筑前前原駅は、糸島市の由来である前原町・前原市に由来?

​先述の通り、筑前前原駅は、糸島市の合併前の前身である前原町まえばるちょう前原市まえばるしに由来です!

筑前前原駅ちくぜんまえばるえきは、元々この地域にあった​前原町、および後の​前原市まえばるしという自治体の名前に由来しています。

昔からの地元の方々に配慮した駅名

また、2010年に周辺と合併して​糸島市いとしましができましたが、地元の方々の​愛着や​歴史を尊重し、駅名は変えずに残されました。

したがって、これは昔からの​地元の人々に配慮した結果と言えますね!

​九州の地名で「原」を「はる」「ばる」と読む理由

また、​​九州の地名では、「」を「はら」ではなく、「はる」や「ばる」と読むことが非常に多いです。

例)

  • 田原坂たばるざか(熊本県)
  • 木崎原きざきばる(宮崎県)
  • 春日原かすがばる(福岡県)
  • 白木原しらきばる(福岡県)

これは、元々「はら」が意味する「平らな土地」​ではなく、

​という動詞に由来するとされています。

すなわち、

  • 「​新しく切り開いた土地
  • 「​開墾地

という意味合いを持っていたわけです。

​​開墾地かいこんち:山や荒地などを切り開いて、​新しく田畑などに変えた土地のことです。

したがって、時間が経つにつれて「はる」や、さらに濁った「ばる」という読み方が地名として定着したと考えられています。

歴史を感じる、面白い読み方ですよね!

糸島市とはどんな町? (筑肥線沿線の観光地)

​​糸島市は、​福岡市の西隣に位置しています。
玄界灘げんかいなだに面しており、​と​の豊かな自然に恵まれた、とても美しい町です。

すなわち、​福岡都市圏ふくおかとしけんへのアクセスも良いため、住みやすいベッドタウンとしても発展しているわけですよ!

​​ベッドタウンとは、大都市に勤務する人が住むために、その周辺にできた住宅地のことを指します。

​糸島市の名所は? (筑肥線沿線の観光地)

​​糸島市には、魅力的な名所がたくさんあります。
特に有名なのは、海に立つ白い​鳥居が印象的な​桜井二見ヶ浦さくらいふたみがうらです。

さらに、​芥屋の大門けやのおおとという、壮大な​玄武岩げんぶがん海食洞かいしょくどうも有名ですね。
したがって、美しい海岸線沿いのドライブは、最高の思い出になること間違いなしです!

​​玄武岩げんぶがんとは、火山活動によってできた、黒っぽい岩石がんせきのことです。

​糸島市の名所・桜井二見ヶ浦と、三重県の二見浦・夫婦岩は似ているけど、関係ある?

また、​​糸島市の​桜井二見ヶ浦さくらいふたみがうらは、

  • ​三重県伊勢市いせしの​二見浦ふたみのうら・​夫婦岩めおといわ

とは、かなり似ています。

直接的な関係はありませんが、​景観や​信仰の面で、共通点があります。

どちらも​夫婦岩めおといわと呼ばれる岩が、​注連縄しめなわという縄によってつながれ、結ばれています。
そのため、どちらも​縁結びや​夫婦円満の象徴として、多くの信仰を集めています。

​​注連縄しめなわとは、​神様のいる場所と​俗世を区切るために、張られる縄のことです。

したがって、自然が形作った造形を​神聖なものとしてあがめる​日本の​信仰文化が、まるで両者を似た景色にしたのかもしれませんね!

三重県二見浦については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

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糸島市の歴史

​​糸島いとしまの地域は、古代から​大陸との交流が盛んな地でした。

当時は

  • 「​伊都国いとこく」:糸島市の「いと

と呼ばれる有力な国があったとされています。

2010年に​前原市まえばるしなど3つの自治体が合併して、現在の​糸島市が誕生しました。

​糸島市の名前と、伊都国の名前は似ているけど関係ある?

糸島市いとしまし伊都国いとこくは、大いに関係があります!

糸島いとしまという地名は、古代​弥生時代にこの地域に存在したとされる、先述の伊都国いとこくが由来だと言われています。

つまり市の名前が、実は数千年の時を超えた歴史的なルーツを持っているという興味深いエピソードがあるわけです。

​九州大学と、糸島市との関係

また、九州で一番偏差値の高い・頭のいい大学である​​九州大学の​伊都いとキャンパスが、ここ・​糸島市の東部にまたがる形で立地しています。
この大規模なキャンパス移転により、​糸島市は全国でも有数の​学術研究都市としての性格を強めてゆきました。

したがって、​九州大学の存在は地域の活性化や産業振興において、とても重要な役割を果たしています。
すなわち、学生さんや研究者さんが多く暮らす、活気ある学園都市の側面も持っているわけですよ!

​​学術研究都市がくじゅつけんきゅうとしとは、​大学や​研究機関が多く集まり、​学問や​技術開発が盛んな都市のことです。

九州大学のメインとなるキャンパスは、伊都キャンパスにある?

ちなみに、九州大学のメインとなるキャンパスは、伊都いとキャンパスにあります。

九州大学きゅうしゅうだいがくは、元々あった都市部から​、糸島市いとしましにまたがる広大な​伊都いとキャンパスへの移転を、段階的に進めてゆきました。

現在では、この​伊都いとキャンパスが、

  • 本部機能
  • 大部分の学部
  • 大学院

がそれぞれ集まる、​メインキャンパスとなっています。

すなわち、九州における​最先端の研究と​教育が、まさにこの​糸島の地で展開されているわけです。

とても大きなキャンパスなので、一度は行ってみたくなるような場所であることは間違いないでしょう。

おわりに・まとめ(筑肥線・糸島市)

​​筑肥線ちくひせん・​糸島市いとしましの地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。

​​明治時代の​石炭から古代​伊都国まで、​糸島の歴史の奥深さを感じていただけたのではないでしょうか。
例えば、​筑前前原駅ちくぜんまえばるえきの駅名に地元の​歴史が詰まっているのは、とても素敵ですよね。

したがって、次回​筑肥線に乗る際は、車窓から見える​玄界灘や​虹の松原にじのまつばらの景色が、さらに感慨深いものになるでしょう!

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