長崎・オランダ坂について、また長崎とオランダの関係性の歴史などについて、初心者の方にもわかりやすく解説していきます!
はじめに:長崎・オランダ坂を学ぼう!
さあ、今回は長崎とオランダ坂にまつわる、深い歴史と地理を学んでいきましょう!
オランダ坂がなぜこの名で呼ばれるようになったのか、そして、鎖国時代の長崎がどんな役割を担っていたのか、多くの発見がありましたね。
これらを知ることで、長崎への観光や旅行、探訪が、何倍も面白くなること間違いなしです!

筆者:長崎・オランダ坂より(長崎県長崎市)
オランダ坂ってどんなところ?

長崎・オランダ坂(長崎県長崎市)
長崎県長崎市にある「オランダ坂」は、かつて幕末に、外国人居留地へと続いていた石畳の坂道のことです。
石畳:平らな石を、隙間なく敷き詰めていって作った道のことです。
観光名所としても人気が高いわけですよ。
幕末・長崎開港とともに出来たオランダ坂
1858年に日米修好通商条約が結ばれ、その条約にしたがって1859年には長崎が開港五港の一つとなりました。
その後、1860年ごろから(外国人がまとまって住むための)外国人居留地を作ることになったのでした。
そのため、山を削って平らにしたり、また凹んだ谷を平らにしたりするといった町の造成工事が始まりました。
この工事の時に、現在のオランダ坂の原型となる道が切り拓かれました。
なぜ「オランダ坂」という?
地元の人たちが、そこに住む西洋人を「オランダさん」と呼んでいたことから、この名前がついたと言われています。
すなわち、正式な名称ではないわけですね!
なぜ長崎の坂道に「石畳」が多かったのか?
長崎の坂道に石畳が多いのには、実はきちんとした「実用的な理由」がありました。
つまり、当時ならではのメリットが多かったからなのでした。
馬車や人力車のため
幕末になって開国し、さらには外国人がまとまって住むための外国人居留地ができると、外国の人たちはみんな馬車や人力車を使うようになりました。
すると、もし「土の道」のままだと、雨が降るたびにぬかるんでしまい、車輪がとらわれてしまいます。
したがって、スムーズに移動できるように
という、強い要望があったというわけです。
当時の日本人からすれば、
という感覚でした。
しかし、外国人にはどうしても石畳が必要だという理由がありました。
それは先述の通り、西洋の人たちは移動や荷物を運ぶためにも馬車を使っており、土の道のままだと足を取られてしまう恐れがあったからなのでした。
雨から道を守るため
長崎は雨が多い街です。
その上、急な坂道が多いため、もし道路が土のままだと、大雨のたびに地面が削られて、崩れてしまいます。
すなわち、石を敷き詰めることで道を丈夫にし、雨水によって道路が壊れないように工夫したのですね!
排水の工夫「三角溝」
また、石畳の両脇には「三角溝」という、V字型の溝が作られました。
この溝に流し込むことによって、雨水を効率よく流して・逃がしてゆき、坂道がまるで「川のように」ならないような工夫がなされていたのです。
当時の技術で、これほど美しく、かつ丈夫な道を作ったのは本当にすごいことですね!
日本人の「石のプロ」が、オランダ坂の工事を担当
先述の通り、「石の道を作ってほしい」と要望したのは、確かに外国人からでした。
しかし、実際にその材料となる石を切り出し、その見事な技術によって石を敷き詰めたのは、なんと日本の職人さん(石工)だったということです!
長崎の石工(いしく)の技術
長崎には、江戸時代から「眼鏡橋」などといった石でできた橋を作るための、高度な技術がありました。
すなわち、このような日本の職人による、江戸時代から磨かれてきた「丁寧な手仕事」「高度な技術」がそれぞれ組み合わさって、あの美しいオランダ坂が誕生したわけです。
眼鏡橋:江戸時代の1634年に架けられた、日本最古のアーチ型石橋です。
川面(水面)に映る姿がメガネのように見えることから、その名がつきました。
これらの技術によって、そうした景色が今も長崎に残っているわけですね!

長崎市に数多く存在する、石造りの橋(長崎県長崎市)
「オランダさん」は親しみを込めた名前?
「オランダ坂」の由来にもなった「オランダさん」は、当時の長崎の人々が、親しみを込めて、西洋人全般のことを呼んでいた愛称です。
幕末になって、たとえアメリカ人やイギリス人などの人々が長崎へやってきたとしても、当時の人々にはまるで区別がつきませんでした。
そのため、
と思い込んでいたわけですね。
これは、江戸時代の鎖国時代にオランダ人だけが(長崎での)交流を許されていた唯一の西洋人だったため、
- 「西洋人=オランダ人」
という認識が広まっていたからだ、と言われています。
つまり、温かい気持ちが込められた、素敵な呼び方だったわけですね!
長崎とオランダの関係って?
長崎は、江戸時代の鎖国中も唯一、オランダと貿易を続けていた場所です。

かつてオランダとの貿易が唯一許されていた、長崎(長崎県長崎市)
後述するオランダ商館が置かれた出島を通して、日本と西洋をつなぐための貴重な窓口でした。
オランダ商館って何?
「オランダ商館」は、江戸時代に長崎の出島に設置された、オランダとの貿易を管理するための施設です。
ここは、当時鎖国中だった日本が唯一、西洋の国と貿易を行うための窓口でした。
当時の幕府は、キリスト教が入ってくるのを防ぐことと、貿易の利益を独占することを目的としていました。
また、オランダ人は、長崎の出島という人工の島の中に閉じ込められていました。
したがって、町の中の「普通のお店」において自由に商売をすることは、絶対に許されませんでした。
また、商館の中には、商人をはじめ、後述するような医師や学者も滞在していました。
出島ってどんなところ?
オランダ商館がおかれた出島は、鎖国時代に長崎に築かれた人工の島です。
そこは、オランダ人やポルトガル人など、海外の人々を一ヶ所にまとめて厳しく管理するための場所でした。
出島の中には、例えば役所や住居などが立ち並び、厳しい規則・ルールのもとで生活が営まれており、自由は少なかったのでした。
自由な商売ができないなんて、現代の私たちからすると、少し窮屈にも感じてしまいますね。
しかし、その限られた「出島」という窓口から、最新の医学や科学(蘭学)が入ってきて、日本の発展に繋がっていったという複雑な面もあるわけです。
また、幕府の行動もちょっとやり過ぎでは?とも思うところですが、幕府としても当時の日本の安全を守らなくてはならないという、色々な苦悩・複雑な事情があったわけですね。
長崎の出島については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

オランダ人は信頼されていなかった?
残念ながら、幕府はオランダ人を完全に信頼していたわけではありませんでした。
彼らはキリスト教の布教をしないことで貿易を許可されていましたが、その行動は常に厳しく監視されていました。
先述の通り、出島での生活はかなり不自由なものだったと考えられています。
しかし幕府としても、日本という国を守るための、苦し紛れながらも徹底した管理体制が必要だったわけですね。
「外国人居留地」と「出島」の違い
幕末以降の「外国人居留地」は、外国人が比較的自由に生活でき、また商売もできるような、先述の出島と比べると比較的自由な区域でした。
キリスト教信仰国に関わらず、オランダが貿易を許可された理由
当時のオランダは、あまり布教活動に熱心ではなかったプロテスタントを信仰していました。
プロテスタントは、カトリックに比べて布教活動に熱心ではなかったため、キリスト教の禁教を徹底していた幕府にとっては、貿易相手として比較的受け入れやすかったわけです。
つまり、こうした信仰の差異が、オランダとの貿易をするための大きな鍵だったと言えます。
幕府はオランダを通じて情勢を把握していた?
江戸幕府はまさに、オランダ商館の館長が江戸(東京)へと参府するときに、当時の世界情勢についてまとめた「風説書」を提出させていました。
これは、鎖国下の日本が、世界で何が起きているかを知るための、とても重要な情報源でした。
すなわち、オランダは、日本の「窓」としての重要な役割を担っていたわけです。
オランダってどんな国?
オランダは、正式には「ネーデルラント」と呼ばれる、ヨーロッパ北西部に位置する国です。
当時は「オランダ共和国」として、アジア貿易で大きな力を持っていました。
特に、強力な「オランダ東インド会社」を中心に、世界各地に植民地を築き、莫大な富を築いていたわけです。
つまり、当時のオランダは世界で最も進んだ、経済力のある国の一つだったと言えます。
当時のオランダは日本のことをどう思っていた?
オランダは、日本を貴重な貿易相手国として、とても大切に思っていました。
鎖国中の日本と唯一、公的な交流があった国ですからね!
彼らは、幕府に風説書を提出するなど、日本の信頼を得ることに努めていました。
一方で、オランダ国王・ウィレム2世は、ペリー来航の9年前に、日本に開国を勧める親書を送るなど、日本の将来を案じていた(心配してした)面もあったようです。
しかし、当時の幕府は、この勧告を断ってしまいました。
日本が西洋に遅れを取った理由は?
このように、幕府はオランダが日本へもたらす風説書によって海外の情勢を知っていたにもかかわらず、日本が西洋から遅れを取っていた主な理由は、やはりその情報を生かすための「行動」が伴わなかったからです。
というのも、やはり幕府の鎖国政策が、(西洋の科学技術や軍事力の発展が)国内で広まっていくことを阻んでいました。
つまり、情報だけは知っていても、それをどう活用すれば良いか分からず、また、活用するための国内の仕組みが整っていなかったというわけです。
そのため、ペリーが来た時、日本は黒船の技術力に驚くばかりでした。
蘭学(オランダの最新医学)を学ぶには、長崎へ行くしかなかった?
また、当時の最新医学である「蘭学」を本格的に学ぶためには、長崎へ行くのが一番確実でした。
なぜなら、オランダ人から直接、西洋の知識や技術を学べるという唯一の場所だったからです。
また、一部の日本人学者は、この地でオランダ人医師へも弟子入りし、解剖学や植物学などを学びました。
まさに、この長崎において新しい知識を求めていたわけですね!
オランダ語の医学書は解読が難しかった?
当時、オランダ語の医学書は、解読をするのに非常に苦労しました。
というのも、当時の日本にはオランダ語を専門的に学んだ人がほとんどいなかったわけです。
例えば、杉田玄白らが、元々はオランダ語で書かれていた『解体新書』を翻訳したときにも、その当時は辞書などはまともに存在せず、わずかな知識と試行錯誤によって、何年もかけて解読したのでした。
すなわち、彼らは、たった1枚の解剖図から、多くの文章を推測しながら、訳していったと言われています。
その情熱と苦労は、想像を絶するものがありますね!
大槻玄沢ってどんな人?
また、大槻玄沢は、江戸時代後期の蘭学者であり、医師です。
彼は岩手県一関市の出身で、はるか長崎へと遠征してきてから蘭学を学び、さらには江戸で杉田玄白や前野良沢の弟子となりました。
彼は『蘭学階梯』というオランダ語の入門書を出版するなど、日本において蘭学がどんどん普及し広まっていくのに大きく貢献しました。
まさに、後の日本の近代化にも影響を与えた、すごい人物だったわけですね!
大槻玄沢と杉田玄白・前野良沢の関係は?
また、大槻玄沢は、杉田玄白と前野良沢にとっては、蘭学を若い次世代に引き継いでいくための「優秀な弟子」でした。
彼は、師匠である二人が苦労して翻訳した『解体新書』を、よりわかりやすい形で改訂し、『重訂解体新書』として出版しました。
すなわち、玄沢は、蘭学という新しい学問を、さらに発展させた功労者と言えます。
師匠である玄白と良沢も、さぞ嬉しかったことでしょう!
大槻玄沢については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

おわりに・まとめ:知識が深まると旅はもっと面白い!

筆者:長崎より(長崎県長崎市)
長崎とオランダ坂の地理・歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。
出島での生活や蘭学の苦労など、感動的なエピソードもたくさんありましたね!
つまり、この知識を持つことで、石畳の一歩一歩が、より意味のあるものに変わります。
したがって、これらの歴史を学ぶことで、あなたの長崎への観光や旅行、探訪は、きっと面白くなるはずです!
ぜひ、現地で歴史の重みを感じてみてくださいね。
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