福島出身の音楽の偉人・古関裕而について、その生涯や数々に渡って作曲してきた名曲などを、わかりやすく解説してゆきます!
今回は、福島出身の偉人・古関裕而の話題
さて今回は、福島が生んだ偉大な作曲家、古関裕而さんの人生と偉業について、じっくりと学んでいきましょう!
彼のメロディーは、戦前・戦後の激動の時代に、たくさんの人々の心を温め、そして勇気づけてきました。
つまり、「栄冠は君に輝く」や「オリンピック・マーチ」といった、誰もが知る名曲の裏側には、彼の熱い情熱と物語があるのです。
彼の音楽に触れることは、日本の昭和史をたどることでもありますね。
では、福島の誇りである古関メロディーの世界へと出発しましょう!
古関裕而とは?いつどこで生まれた?
古関裕而は、昭和を代表する偉大な作曲家です!
彼は1909年(明治42年)8月11日に、福島県福島市で生まれました。
本名は、古関勇治といいます(読み方は同じ)。
彼はなんと、10歳の頃から作曲を始めていたわけです。
こんな幼少期から音楽を作るなんてなかなか真似できないため、本当にすごい情熱ですね!
古関裕而は、何をした人?
彼は、生涯で約5,000曲もの作品を作曲しました。
すなわち、日本の音楽史に計り知れない功績を残したわけです。
- 歌謡曲:昭和のヒットソングなど
- スポーツの歌:プロ野球や甲子園の歌など
- ラジオドラマの主題歌
- 校歌
- 社歌
など、ジャンルは多岐にわたります。
紫綬褒章や、福島市名誉市民にも選ばれました。
紫綬褒章:日本政府が授与する「褒章」という栄典の一つです。
主に、学術や芸術、スポーツの分野で、目覚ましい成果を上げた人に贈られます!
すなわち、彼は戦前・戦後の激動の時代に、人々の心に寄り添うようなメロディーを届け続けたという、まさに「国民的作曲家」なのです!
だからこそ、多くの人に愛され続けているのですね!
古関裕而は、主にどんな曲を作った?
彼の代表曲はたくさんあります。例えば、
- 全国高校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」
- 1964年東京オリンピックの行進曲「オリンピック・マーチ」
などはあまりにも有名です。
また、
- 「長崎の鐘」
- ラジオドラマの主題歌「君の名は」「とんがり帽子」
といった曲なども大ヒットしました。
甲子園やプロ野球の応援歌なども作曲
さらに、プロ野球の応援歌では
- 「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」
- 「巨人軍の歌(闘魂こめて)」
などといった曲も手がけています。
スポーツから歌謡曲まで、本当に幅広い名曲ばかりで驚きますね!
戦時中は「軍歌」なども作曲
また、彼は戦時中は「露営の歌」「若鷲の歌」などの戦時歌謡も作曲しました。
1989年に80歳で亡くなるまで、生涯作曲に捧げた人生でした。
したがって、まさに昭和の歩みと共にあった人生と言えるでしょう。
彼がいないと、日本はどうなっていた?
もし彼がいなかったら、日本の音楽文化は大きく変わっていたでしょうね。
「栄冠は君に輝く」や「オリンピック・マーチ」がないと、高校野球や国際大会の感動は違ったものになっていたかもしれません。
戦後の混乱期には、彼の明るいメロディーが人々に希望を与えました。
すなわち、彼の楽曲は、単なる歌ではなく、復興と勇気のシンボルでした。
古関メロディーは、戦後の日本人の心にエールを送り、団結力を生み出す大きな力になったのです。
その存在は、日本の社会や精神の支柱の一つだったと言っても過言ではありませんね!
古関裕而さんの波乱の人生を、さらに詳しく
1909年、福島県で生まれる
先述の通り、彼は1909年に福島市で生まれました。
あの小説家・太宰治も、同じ1909年に同じ東北地方の青森県で生まれています。
つまり太宰治とは同じ東北地方出身の同学年であるといえるでしょう。
幼き日々の古関裕而は、彼のお父さんが大の音楽好きであり、当時はまだ珍しかったの蓄音機が家にあったおかげで、幼くして音楽漬けの毎日を送っていました。
そして、買ってもらったピアノが上手くなったことなどがきっかけで、わずか10歳で作曲を行うなど、若い頃から音楽の才能を開花させてゆきました。
なぜ呉服商なのに、音楽家になった?音楽との出会いは?
古関裕而さんの実家は、福島市のにあったとある老舗の呉服店でした。
しかし、彼の人生の転機は幼少期にありました。
まず、音楽好きだったお父様が当時珍しい蓄音器を持っていたのです。
蓄音器とは、音楽や音声をレコードなどに記録し、それを再生する装置のことです。
つまり、幼い頃から音楽に囲まれた環境で育ったことが、彼の原点です。
古関裕而の実家・呉服屋とは?今の「しまむら」や「ユニクロ」とどう違う?
呉服屋とは、主に和服である着物や帯などといったものを扱う専門店のことです。
古関さんの実家の呉服屋もそうでした。
一方、しまむらやユニクロは、洋服を中心にした大量生産・大量販売のアパレルチェーン店です。
アパレルとは、既製服(=つまり既に作られて売られている服)や、ファッション関連商品などのことを指す外来語です。
呉服屋最大の特徴は「オーダーメイド」
この「呉服屋」と「アパレル」の最大の違いは、商品と商売の仕組みにあります。
まず古関裕而さんの実家のような呉服屋では、
- まず反物から選び、体に合わせた仕立て(オーダーメイド)を行う
- 高額な正絹などの高級品を扱う
などを行う店のことをいいます。
反物:着物に仕立てる前の、「巻物状になった布地」のことです。
呉服屋さんに並んでいるあの長いロール状の布こそが、まさに反物です。
正絹:まじりっけのない「絹100%」の糸で織られた布のことです。
「本絹」と呼ばれることもあります。
つまり、呉服屋では一生ものの和服として提起し、さらにはきめ細やかなアフターケアを提供するという、ある意味コンシェルジュ(つまり、専門的な世話役)のような存在だったというわけです。
したがって、呉服屋は単に服を売るだけでなく、その後の和服の維持や、和装文化にまで関係する役割も担っていると言えますね!
すなわち、「呉服屋」も「アパレル」もどちらも服を扱うお店であることには変わらないですが、そもそもの役割や伝統が大きく違うことがわかります。
10歳頃には既に卓上ピアノを用い、独学で作曲を始めていた
話がズレてすみません。
そして、古関裕而さんは10歳頃にはもう卓上ピアノを使って、独学で作曲を始めていたわけです。
彼は市販の楽譜を買い求め、友人たちの作った詩に対して曲を付けていた、というエピソードまであります。
この事からも、彼の並々ならぬ、音楽・作曲への情熱がうかがい知れれます。
もちろん、呉服屋の跡取り・後継ぎとして商業学校に進みますが、それでも大好きな音楽への情熱は捨てられませんでした。
そもそも音楽が好きすぎて、まともに授業も身にはいっていなかった可能性もありますね。
したがって、後に銀行に就職したものの、それでもやはり最終的には音楽の道を志して、上京することになったのです。
成績はどうだった?
彼の学校の成績に関する具体的な記録は、実はあまり残されていません。
しかしながら、音楽の勉強に関しては、授業だけでは到底もの足りないほど熱中していたのでした。
福島商業学校に通っていましたが、放課後や休み時間は常に音楽のことばかり考えて・やっていました。
しかし、家業(呉服店)を継ぐための勉強は決して疎かにはせず、商売に必要な知識も学んでいました。
その結果、古関裕而は決して留年や落第をすることなく、無事に卒業されています。
音楽という「夢」を持ちながらも、現実の生活とのバランスを上手く取れていたと言えますね!
商業高校へ進みなお音楽に熱中するも、勉強を怠らず卒業
先述の通り、古関裕而は家が呉服屋というだけあって、商売について学ぶためにも、商業高校へ進みます。
福島商業学校(現:福島県立福島商業高等学校)時代には、先述の通り(休み時間や放課後などは)ずーっと音楽のことばかり考えていたため、既に独創的な音楽作品を生み出していました。
そして、卒業後には、伯父が頭取を務める銀行に就職しています。
つまり、音楽以外の科目でも落第することはなく、ある一定の成績を得ていたとは推測できます。
しかし、あくまで彼の本質的な才能と情熱は、間違いなく音楽に向けられていたと言えます。
好きなことに夢中になる力は、何にも勝る才能です!
音楽の才能が認められ、日本コロムビアと契約
そして、1930年に日本コロムビアの専属作曲家となります。
現代でもそうですが、普通こんな大きなレコード会社と契約なんて、そうそうできるものではありまん。
しかし彼はピアノがめちゃめちゃ上手すぎて、20歳で国際的なコンクールに入賞するなど、世界を轟かせるような実力を持っていたのでした。
これにいたく感動した業界のスカウトの目に留まり、コロムビアに古関裕而を推薦し、契約と同時に福島から東京へと晴れて上京してきたのでした。
コロムビアとは?
日本コロムビアは、日本で最も歴史のあるレコード会社の一つです。
レコード会社とは、歌手や演奏家と契約を結んで、音楽作品を制作・販売する会社のことです。
古関さんが作曲家として専属契約したのが、この日本コロムビアです。
1910年(明治43年)に「日本蓄音器商会」として創業しました。
すなわち、レコードの制作と販売を最初期から行ってきた老舗です。
古関裕而さんは、ここで「露営の歌」や「長崎の鐘」など、数多くの大ヒット曲を生み出しました。
したがって、彼は日本における大衆音楽が広がっていくという歴史を、このコロムビアという会社とともに築き上げてきたと言えるでしょう。
なぜ戦時中の曲を作るようになった?
彼が20代前半の若かりし頃にコロムビアの専属作曲家となってキャリアを進み始めた頃、時代は1930年代という、日本にとってはまさに戦争という時代へと、大きく変わってゆきした。
戦争が始まると、国民の戦意高揚や団結を促すための歌が必要とされました。
すなわち、新聞社や軍部からの要請により、多くの作曲家が戦時歌謡の制作に関わっていくこととなりました。
そんな時代にあって、古関裕而さんの持つ勇壮で明るいマーチ調のメロディーは、まさに時代が求めていたものだったのでした。
最初のヒット曲「露営の歌」
彼の最初のヒット曲「露営の歌」も、新聞の公募歌に曲をつけたものです。
したがって、作曲家として時代の要請に応えるという使命感、そして自身の才能が、戦時中の曲を数多く手がけることにつながったのです。
つまり、激動の時代に、求められた役割を果たしたということですね。
戦時中は、「軍歌」が多く作曲された
戦時中、日本は非常時体制となり、音楽も国家統制の対象となりました。
すなわち、軍隊や国民の士気を高めるための軍歌や戦時歌謡が、国策として積極的に作られたのです。
つまり、音楽が戦争遂行のための強力なプロパガンダ(宣伝)の道具として利用されたという背景があります。
そんな中、古関裕而さんの作品は大衆性がとても高く、国民の間に広く受け入れられ、浸透してゆきました。
彼は戦後、
という、罪の意識にも苦しんだと言われています。
したがって、戦時中の作曲活動は、彼の偉大な功績の一部であると同時に、複雑な時代の重みを背負ったものでもあったというわけです。
音楽の持つ力の大きさを、改めて感じますね。
有名な軍歌「露営の歌」に対して、本人はどんな気持ちだった?
先述の通り、彼は自らの曲が戦地へ向かう兵士たちの士気を高める力を持ったことに対して、とても複雑な思いを抱いていました。
彼の代表的な戦時歌謡である「露営の歌」も、その一つです。
すなわち、曲自体は確かに勇壮なメロディーですが、後に彼は
という自責の念に、常に駆られていました。
自責の念とは、自分の行為や責任について、深く反省し、心を痛める気持ちのことです。
彼は戦地へ慰問に赴き、そこで兵士たちの悲惨な現実も目の当たりにしています。
したがって、戦後の
- 「長崎の鐘」
- 「鐘の鳴る丘」
といった曲には、戦争で亡くなった人々への鎮魂と、生き残った人々への希望を込めるという気持ちが強く表れていると言えます。
すなわち、彼のメロディーには、激しい時代に生きる人々の悲哀と祈りが込められていたというわけです。
戦後は、軍歌からは卒業した?
古関さんは戦後、見事に軍歌から「卒業」し、新しい音楽を生み出してゆきました。
終戦後、彼は戦時中の作曲活動について戦犯となる可能性までをも案じるほど、心を痛めていました。
しかし、彼はそんな絶望的な世の中にあって、
という強い使命感を持って活動を再開します。
すなわち、彼の才能は、
へと注がれていき、また進化していくこととなりました。
例えば、「長崎の鐘」「とんがり帽子」といった歌謡曲、そして「栄冠は君に輝く」「オリンピック・マーチ」といったスポーツ音楽が、まさにその証拠です。
したがって、彼は過去の経験を乗り越え、戦後の日本人を鼓舞し続けるという「国民的作曲家」として、新たな道を歩み始めたというわけです。
そのポジティブな気持ちの転換は、本当にすごいことですよね。
平和への鎮魂歌「長崎の鐘」、「鐘の鳴る丘」
「長崎の鐘」は、原爆で被爆した永井隆博士の手記を基に作曲されました。
つまり、この曲は戦争の悲劇と、その後の平和への鎮魂歌として、戦後の人々の心に深く響きました。
一方、「鐘の鳴る丘」は、戦災孤児が主人公のラジオドラマの主題歌として、大ヒットしました。
鎮魂歌:亡くなった人々の魂を慰め、安らかにするために捧げる歌のことです。
英語でレクイエム(requiem)です。
したがって、これらどちらの曲も、戦争の傷跡が残っていた時代に、暗く沈みがちだった国民の心に対して、まさに温かい光と希望を与えた作品であると言えます。
まさに、古関さんのメロディーは、人々の心の復興を支えたのです。
戦後・古関裕而の明るい名曲の数々
「栄冠は君に輝く」はどんな歌?鉄道との関係は?
この曲は、全国高等学校野球選手権大会の大会歌として、今も歌い継がれている国民的なスポーツソングです。
つまり、決して勝者だけではなく、敗者にもエール(応援)を送るという、清々しいすがすがしいほどのメロディーが特徴です。
また、この曲と鉄道との関係については、作曲者の故郷・福島市の東北新幹線・福島駅で発車メロディーとして使われています。
したがって、古関裕而さんの生誕100周年を記念して採用されて以来、新幹線ホームから多くの旅人や球児を送り出しているというわけです。
音楽が鉄道と結びつき、それによって地域の顔・シンボルとなることは素晴らしいことですね。
福島駅については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
福島駅の発車メロディーに 代表曲「高原列車は行く」
古関裕而さんが作曲した「高原列車は行く」は、1950年代に岡本敦郎さんの歌唱で大ヒットした歌謡曲です。
つまり、軽快でとても明るい曲調が特徴で、人々の旅情をかき立てました。
古関裕而さんの故郷である福島駅では、
- 新幹線ホームでは「栄冠は君に輝く」であるのに対し、
- 「高原列車は行く」は在来線ホームの発車メロディー
として流れています。
したがって、この曲は、故郷の福島と鉄道という、古関さんの人生にとって重要な二つの要素を結びつけるシンボルとなっています。
「高原列車は行く」は、聴いていると、本当にどこかへ旅に出たくなるような、楽しい気持ちになりますね!
「高原列車は行く」の舞台になった、沼尻鉄道とは
沼尻鉄道は、かつて福島県・猪苗代町を走っていた軽便鉄道です。まつまり、この鉄道が「高原列車は行く」のモデルの一つとされています。
沼尻鉄道は、主に沼尻鉱山から硫黄を運ぶ役割を担っていました。
地元ではまるで「マッチ箱」のように小型で可愛らしい列車として親しまれていましたが、1969年に廃線となりました。
したがって、この鉄道は、古関メロディーによって今も人々の記憶に残り続けているという、まさに福島の産業史を伝える貴重な存在なのです。
廃線になっても歌と共に生き続けるわけであり、ここに音楽の力すごさを感じさせられます。
沼尻鉄道については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
古関裕而さんの故郷、福島駅では実際に
- 「栄冠は君に輝く」
- 「高原列車は行く」
の両方を、発車メロディーとして聴くことができます。
現代の福島における地元の誇り・古関裕而
古関裕而さんは、間違いなく福島市にとっては、揺るぎない「地元の誇り」となっています。
彼は1979年(昭和54年)に、福島市名誉市民第一号に選ばれています。
この事実は、地元の人々からの高い尊敬を受けていることを物語っています。
現在の福島市は、彼を活かした「古関裕而のまち・ふくしまシンフォニー」というまちづくりに取り組んでいます。
したがって、彼の曲は福島駅の発車メロディーとなり、また古関裕而記念館は多くの観光客が訪れる聖地となっています。
彼の音楽は、今も福島の文化と観光を支える、大切な宝物となっているのです!
おわりに・まとめ
古関裕而さんの波乱万丈な人生と、数々の偉業を学んでみて、いかがだったでしょうか。
つまり、呉服屋の息子として生まれながら、音楽への強い情熱を貫き通した才能は、素晴らしいとしか言いようがないでしょう。
また、戦時中は苦悩を抱えながらも、戦後には希望あふれる明るい曲を送り続けたという、彼の人間性もまた素晴らしいですよね!
彼の残した約5,000曲のメロディーは時代と人々の心を記録した音の歴史書であり、これからも、古関メロディーが、私たちに勇気を与え続けてくれるでしょう。
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