「鉄道の父」と呼ばれた、明治時代初めの日本の鉄道建設に大きな功績をもたらした井上勝について、わかりやすく解説してゆきます!
まず、井上勝とは?
井上勝(1843年~1910年)は、明治時代の日本の鉄道官僚になります。
つまり、
という、とんでもなくエライ人というわけです。
また、彼は長州藩(現在の山口県・萩市)の出身です。
日本の鉄道の父と呼ばれた、井上勝
また、彼は鉄道の歴史の発展に対して大きく寄与・貢献したことから、
- 日本の鉄道の父
と呼ばれています。
すなわち、明治時代に日本の鉄道建設をリードし、「鉄道の父」と称される人物です。
ちなみに、「鉄道の父」と呼ばれる人物にはもっと昔に、イギリスで本格的な蒸気機関車(ロコモーション号)を作ったジョージ・スチーブンソンという方がおられます。
「鉄道の父」ジョージ・スチーブンソンについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

長州五傑の1人・井上勝
また、井上勝さんは幕末に命がけでイギリスへ密航した「長州ファイブ」の一人としても有名です。
日本の未来を創った、5人の密航者たち!
長州ファイブ(長州五傑)とは、幕末の1863年に命をかけてイギリスへ密航留学した、長州藩(今の山口県)の5人の若者のことです。
当時の日本はまだ「鎖国」をしていたため、海外に行くことは死罪になるほどの重罪でした。
しかし、彼らは
という、まさに強い決意を持って海を渡ったのです。
イギリスへの留学
先述の通り、井上勝は20歳のとき、伊藤博文さんらと共にイギリスへと密航しました。
すなわち、密かに日本を脱出して、そこで鉄道や鉱山の技術を学び、その知識が日本の未来を救うことになります。
ともあれ、彼はまずは幕末にイギリスへと密航留学し、近代の鉄道技術を学びました。
なぜ「密航」だったのか?
では、なぜ幕末に長州ファイブが密航したのかというと、それは幕府が海外渡航を認めていなかったからなのでした。
ではなぜ幕府が海外渡航を禁止しているかというと、それはキリスト教に触れることを防ぐためでした。
しかし当時は既に開国はしていたため、かろうじて外国人が長崎で商売することくらいは認められていたのです。
後述するトーマス・グラバーが既に長崎で商売をやっていたのは、まさにそれにあたります。
帰国後は、初代鉄道頭となり、1872年に新橋~横浜間に日本初の鉄道を開通させました。
鉄道頭:明治時代の初めに、鉄道事業のトップである役職の名前です。
長州ファイブのメンバーと、「〜の父」
彼らは帰国後、それぞれの得意な専門分野においてトップとして活躍し、現代の日本の基礎を築き上げました。
- 伊藤博文【内閣の父】:初代の内閣総理大臣です。日本の憲法や、政治の仕組みを整えました。
- 井上馨【外交の父】:初代外務大臣です。不平等条約の改正や、外国との交渉に力を尽くしました。
- 井上勝【鉄道の父】:今回メインの、日本最初期の鉄道網を築いた方です!
- 山尾庸三【工学の父】:工部大学校(現在の東京大学工学部)を創設しました。「技術こそが国を支える」と信じていました。
- 遠藤謹助【造幣の父】:大阪の造幣局(つまり、お金を作る場所)を作り、日本の新しいお金の制度を整えてゆきました。
長州ファイブをサポートした、トーマス・グラバー
海外留学には、長崎の偉人である、トーマス・グラバーの協力がありました。
つまり、長崎の偉人であるトーマス・グラバーは、
と信じ、この5人の留学を全力でサポート・支援したのでした。
そして5人はイギリスに留学して、当時の最新鋭の近代技術を学んだのでした。
トーマス・グラバーについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

井上勝の、数々の最初期の鉄道への貢献・偉業
日本初の鉄道の開通に貢献
そして、帰国後に長州藩の資金をもとに、
- 新橋~横浜間
に、横浜の偉人・高島嘉右衛門らとともに、日本初の鉄道を開通させました。
高島嘉右衛門については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
すなわち、1872年、新橋〜横浜間に日本で初めての鉄道を開通させたわけです。
というまさに有名な歌(鉄道唱歌)の舞台ですね!
鉄道唱歌については、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
日本人だけでトンネルを掘った
当時は、外国人の技術に頼り切りでした。
しかし、1880年に京都と滋賀の間にある逢坂山トンネルを、なんと外国人の手をかりずに、日本人だけの力で完成させました。
これには彼の「日本の自立」への強いこだわりを感じますね!
逢坂山トンネルについては、こちらの記事(当サイト)でも解説していますので、ご覧ください。
すなわち、
- 日本人だけでも鉄道を作れるような、後継の技術者の育成
- 逢坂山トンネルの建設
- 国が作っていく、国有鉄道の推進
- そして、今も岩手県にある小岩井農場の創立
にも関わるなど、日本の近代化に大きく貢献した人物です。
東海道線を全通させた
また、1889年には、東京〜神戸間(つまり現在の東海道本線)の全区間を繋げたことで、現代へとつながる日本の大動脈を作り上げました。
小岩井農場の創設に関わった
実は、井上勝さんは岩手県にある有名な「小岩井農場」の創設者の一人でもあります。
社名の「井」は、彼の苗字から取られているわけですよ!
詳しくは、最後の方で解説します!
東京駅に、井上勝さんの銅像がある?
東京駅の「丸の内北口」を出てすぐの広場には、彼・井上勝さんの銅像が、堂々たる姿で立っています。
彼の像はまさに、鉄道の発展を見守るような心優しく、しかしながらとても力強い表情をしています。
なぜ東京駅に、彼の銅像が?
それは、まさに彼が日本の鉄道の基礎を築いた「鉄道の父」だからです。
実は、今の立派な東京駅舎が完成する前に、彼は亡くなってしまいました。
しかし、彼の功績を称えて、日本の鉄道の象徴である東京駅に銅像が建てられたのです。
井上勝をはじめとする、4人の偉人たち
1872年、新橋~横浜間の鉄道開通に携わった偉人たち
1872年の新橋・横浜間鉄道開通には、
- 技術的な面ではイギリス人技術者のエドモンド・モレル
- 鉄道を引いていくための事業の計画をしたのは、高島嘉右衛門
- 明治政府の中から鉄道建設に携わったのは、大隈重信(民部省・大蔵省主導)
- 初代・鉄道頭の井上勝
が中心となって携わりました。
エドモンド・モレルとは?
エドモンド・モレルさんは、明治政府によって日本に招かれてきたイギリス人の技術者です。
今の線路の枕木の形についても、彼の提案が大きく関わっています!
枕木:線路でレールと垂直に何本も敷かれてる、あの板です。
主に、列車の重みでレールがズレてしまうのを防止するために使われています。
いわゆる「木の枕木」をすすめた偉人
当時のイギリスでは、鉄製の枕木も使われていました。
しかし、モレルさんはあえて
と助言しました。
これこそが、まさに現代の日本の鉄道でも使われ馴染みのある「木の枕木」のルーツの一つであると言えます。
日本に合わせた「枕木」の工夫
他にも、日本の険しい地形や、限られた予算に合わせて「狭軌」という少し幅の狭いレールを提案するなど、モレルさんは日本特有の実情に合わせ、寄り添った指導をしてくれました。
狭軌:レールの幅が標準より狭いタイプのことです。
建設費が安く済むというメリットがあるため、当時まだ鉄道建設の予算が少なかった日本にとってはぴったりだと判断されました。
残念ながら、彼は鉄道の完成を見ることなく、若くして亡くなりました。
しかし、彼の教えはしっかり現代へと受け継がれているのです。
高島嘉右衛門とは?
高島嘉右衛門は、横浜で有名な実業家です。
お金持ちの商人であったがゆえに、自らの私財を投資してゆき、鉄道を建設していくための資金の調達に、特に力を入れていったのでした。
また、(後に鉄道の用地となった)海の埋め立て地を作ったりもしたのでした。
そのため、横浜の一部では現在も彼の功績をたたえ、「高島」という地名として残っています。
大隈重信とは?
大隈重信は、鉄道の建設を強く推進したことでも知られる、明治政府のエラい人です。
つまり明治政府の中で、鉄道の敷設を実現させていくための中心人物として、このお仕事をリーダーとして引っ張ってゆきました。
大隈重信による、建設の決断と説得
当時は
- 「鉄道なんていらない!」
- 「軍事にもっとお金を使え!」
などという反対意見がとても多かったのです。
しかし大隈さんは、
と信じ、反対派を説得して、鉄道のための予算を確保していったのでした。
四人の功績まとめ
- モレル:日本特有の地形にあわせて、木製の枕木や、狭軌の採用を提案した
- 大隈重信:鉄道反対派を、政治レベルで説得・押しきった
- 高島嘉右衛門→資金を投じ、鉄道建設や埋め立て地などの予算を作った
- 井上勝→外国人の力を借りず日本人だけで鉄道を作れるようにした
新橋~横浜間の開通の効果
この1872年の鉄道開通により、当時歩いて一日かかる約29kmの距離が約53分で結ばれることとなりました。
これにより、人々の生活や物流に、大きな革命をもたらしました。
開通当初、鉄道は1日に9往復運転されており、所要時間は約53分でした。
しかも(現代価値にして)安い席で5,000円、高い席で30,000円という、かなりリッチで贅沢な乗り物でもあったのでした。
この日は「鉄道の日」として記念されています。
新橋〜横浜間は「丸1日」かかっていた?
ちなみに従来は、徒歩だとほぼ丸1日という、かなりの時間がかかっていました。
距離は約29km(現在の徒歩ルートで約30km弱)あります。
大人の足で休まず歩いて、約7〜8時間。
また、途中で休憩や食事を挟むと、朝に出発して、夕方や夜に到着するという、まさに「1日がかりの旅」だったのでした。
カゴ(駕籠)の場合は?
また、当時の人に担がれで乗る「カゴ」を使ったとしても、約7時間ほどかかったと言われています。
しかも、カゴを担ぐ人(人足)へのチップ(料金)なども必要であったことから、移動は本当に大変なことだったわけですね。
しかし、鉄道が開通すると、なんと約53分(当初は58分程度)で結ばれました。
すなわち、1日がかりだった移動が、わずか1時間足らずになったのですから、当時の人々にとって鉄道はまるで魔法のような乗り物に見えたはずですね!
全国のモデルケース(手本)となった新橋~横浜間
また、この新橋~横浜間の開通には、モデルケースの建設の意味もありました。
つまり、この区間を全国のお手本として作っていったというわけです。
井上勝について、もう少し詳しく
はじめは外国人の力無しに、鉄道は作れなかった
鉄道の建設は、国際的な(外国からの)サポートも大きかったのでした。
例えば、「お雇い外国人」と呼ばれる存在や、またイギリスからの資金や技術、そして鉄道建設技師の指導・監督のもと、進められてゆきました。
というのも、はじめは日本人だけの技術では、鉄道を作っていくのは難しかったからです。
そのため、初めは外国人を雇って日本に招き入れて、鉄道を作っていったのでした。
「日本人が自力で鉄道を作る」井上勝の功績
日本人の技術者を育成していくことも大きかったのでした。
つまり、外国人技術者に頼らない鉄道建設を目指し、技術者を育成していくために、養成所を設立したのでした。
つまり、鉄道を自力で作れる人を育成するための「塾」を開いた、というようなイメージですね。
これにより、日本人だけの実力で逢坂山トンネルを開通させるなど、技術の国産化を推進しました。
つまり、それまでは外国人の助けが無いと、自力で鉄道を作っていくことはできなかったのでした。
それもこれも、井上勝が、自力で鉄道を作れる技術者を育成していったことによる功績が大きいといえます。
鉄道の国有化と発展への貢献
井上勝は、主要な鉄道の国有化を主張してゆき、さらには東海道線の建設にも貢献してゆきました。
また、鉄道の車両を国産化(つまり日本が、自力で作ったもの)するための会社を設立したのでした。
こうして、彼は鉄道の事業を発展させていくために、その生涯・人生を捧げていったのでした。
岩倉具視と、井上勝の関係
この二人は、まさに「鉄道を広めたい」という夢を共有した、当時の強力なタッグでした!
立場こそ違いましたが、岩倉具視さんと井上勝さんは、日本の鉄道網を広げるために手を取り合った、まさに強力な仲間同士であったと言えます。
当時、1877年の西南戦争で国の予算を使い果たし、政府にお金がなくて鉄道建設が止まりそうになっていたのでした。
しかし、この時この二人の連携が、まさに日本を救ったのです。
岩倉具視については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「官」を主張する井上勝と、「民」を主張する岩倉具視
二人の関係を分かりやすく言うと、
- 「技術と線路建設」の井上勝
- 「政治力と資金集め」の岩倉具視
という、完璧な役割分担でした。
政府にお金がない!というピンチ
明治時代の初期、政府は西南戦争などでお金を使い果たしてしまい、鉄道を新しく作る余裕がなくなってしまいました。
そこで岩倉さんは、
と考えました。
これこそがまさに、日本初の民間の私鉄である「日本鉄道」の誕生でした。
井上勝さんの「建設全面協力」
また、井上勝さんは本来、
という強い考えを持っていました。
この考え方自体は、民間で鉄道を推し進めていた岩倉具視さんと、意見が対立してしまいます。
しかし、背に腹は代えられません。
岩倉さんの熱意に応え、井上勝さんはあくまで政府の技術者でありながら、民間の日本鉄道の建設を、技術面・建設面で全面的にバックアップしたのです!
日本鉄道:1881年に設立された、日本で最初の私立鉄道会社です。
今のJR東日本の路線の多く(東北本線など)は、もともとこの会社が作ったものです。
二人が協力して成し遂げたこと
この二人の完璧なコンビネーションがあったからこそ、現在の「東北本線」や「高崎線」の基礎が出来上がりました。
岩倉さんは、
と願っていました。
そのため、井上さんの技術が、まさにそれを形にしたというわけです。
すなわち、岩倉具視さんが集めた資金を使い、井上勝さんが率いる技術チームが、実際に線路を敷いていきました。
結果として、
- 井上勝さんの「技術」
- 岩倉具視さんの「政治力」
それぞれ見事に組み合わさることで、日本の鉄道は爆発的に広がることになったのです!
二人の深い信頼関係
岩倉具視さんが亡くなったとき、井上勝さんはその死を深く悲しみました。
また、先ほどお話しした「小岩井農場」の設立にも、岩倉具視さんの意志を継ぐ人々が関わっています。
二人の絆は、鉄道という枠を超えて、日本の近代化そのものを支えていたわけですね!
もし、この二人が対立していたら、日本の鉄道はもっと遅れていたかもしれませんね。
「政治」と「技術」がガッチリうまく噛み合った、まさに明治時代の黄金コンビと言えるでしょう!
小岩井農場の創立
井上勝は、日本の鉄道建設を続ける中で、そのとても広大な土地を利用して、岩手県に小岩井農場を創設したのでした。
ちなみにこの小岩井牧場は、現在でも岩手県に存在します。
というかむしろ、有名な観光地ですね。
井上勝さんが小岩井農場を作った「意外な理由」
「鉄道の父」である井上勝さんが、なぜ畑違い・ジャンル違いの「農場」を作ったのか。
そこには、彼の技術者としての誠実さと、美しい日本の風景への強い思いがありました。
鉄道建設への「贖罪(しょくざい)」の気持ち
井上勝さんは、日本中に鉄道を敷くという大きな仕事を成し遂げましたが、その一方で、ずっと心に引っかかっていることがありました。
それは、美しい田畑を壊してきたという後悔でした。
鉄道を作るためには、まず多くの山を削り、そして田んぼや畑を無くしていかなければなりません。
しかし彼は、
と、ずっと深く心を痛めていたというわけです。
「壊した分、新しく作ろう!」という決意
1888年、東北本線の建設のために岩手県を訪れた際、岩手山のふもとに広がる、広大な「不毛の荒野」を目にしました。
不毛の地:土が悪かったり環境が厳しかったりして、植物がうまく育たない土地のことです。
そして彼は、
と考えたというわけです。
「小岩井」という名前に隠された友情
井上勝さんは、決して一人で農場を作ったというわけではありません。
すなわち、彼の熱い想いに共感した、強い協力者が2人いたわけです。
- 小野義眞:日本鉄道の副社長
- 岩崎彌之助:三菱の2代目社長
- 井上勝
すなわち、この3人の苗字から一文字ずつ取って、「小・岩・井」と名付けられました。
すなわち、小岩井とは元々あった地名というわけではなく、「人の名前」を繋げたものだったわけですね!
おわりに・まとめ
これまでのエピソードを振り返ると、井上勝さんという不屈のチャレンジャーとしての魅力がハッキリと見えてきます。
まずは、死罪を覚悟してまでイギリスへ密航・留学し、そこで見た鉄道の力を信じて、日本へと持ち帰りました。
つまり日本人だけの力でトンネルを掘り、技術を自分たちのものにし、また後進へと教えていった「自立心」の塊のような人でした。
また、彼は鉄道建設のためなら、たとえ相手が誰であっても一歩も引かない強さ・情熱を持っていました。
その情熱こそが、反対意見をはねのけ、今のJR線の基礎となる東海道本線などを完成させる原動力になったのです。
そして、鉄道を通すために自然を壊したことを「罪」と感じ、その埋め合わせとして小岩井農場を作りました。
井上勝さんは、人生の最期まで鉄道と向き合っていました。
彼は66歳となる1910年、視察先のロンドンで病に倒れてしまいますが、そこはかつて若き日に密航して学んだ、彼の原点の地でもありました。
今でも東京駅の広場に立ち、今も行き交う電車を見守っている彼の像は、まさに「鉄道の父」として日本を支え続けているかのようですね!
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