伊東の観光や歴史など(また、ハトヤホテルや地獄の伊東キャンプなどについても)を、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
今回は、静岡県伊東市の話題

伊東の海(静岡県伊東市)
今回は、静岡県の中でも特に(首都圏から)鉄道で行きやすい観光地・伊豆の伊東についての話題となります!
伊豆半島の東・伊東市
そもそも伊東市って、どこ?

伊東線・伊東駅(静岡県伊東市)

伊東の海と、はるか向こうの初島(静岡県伊東市)
静岡県伊東市は、静岡県のかなり東側にあり、ほとんど神奈川県に近いところにあります。
- 静岡県の本当に東側にある
- 伊豆半島の本当に東側にある(というか、これこそが「伊東」の地名の由来)
- 温泉地・熱海のやや南に位置する
- 神奈川県にも比較的近い
- JR線(青春18きっぷ等)でもかなりアクセスが良い
伊東市のいいトコロは?

では、次に伊東のいいところをたくさん挙げてゆきましょう!
- 先述の通り、JR線でのアクセスが比較的良い
- 熱海のやや南に位置するため、首都圏からのアクセスも比較的良い
- 熱海ほど混雑しないため、ゆったりしたレジャーが楽しめる
- とにかく海がキレイ
- 街並みも、なんだか南国っぽくてイイ(街中にはたくさんのヤシの木も植えてある)
- みかんや干物などの名物も良い!
- 温泉やホテルなど、観光客へのもてなしが抜群
伊東へのアクセス
一番メジャーな方式としては、
- 東海道新幹線
- 東海道線
の熱海駅から、伊東線に乗り換えます。

伊東線で、伊東市へGO!(静岡県)

熱海の景色
熱海については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

駅からほど近い、伊東の海

伊東の海
伊東市の地名の由来は、まさしく
- 「伊豆の東」
にあたるからとされます。
また、かつてこの地を拠点とした伊東氏は、藤原氏の南家(※後述)をルーツとする、有力な御家人でした。
さらに、伊東という名字は言うまでもなく、ここ伊東を本拠地としたことに由来しています。
藤原氏南家とは?
ここで藤原氏南家は、奈良時代の藤原不比等の長男である、藤原武智麻呂に始まる藤原氏の(子孫代々続く)系統です。
すなわち、武智麻呂の邸宅が弟の藤原房前(北家)の邸宅よりも南にあったことから、「南家」と命名されたのでした。
この南家は、武智麻呂の子である藤原仲麻呂の時代(奈良時代)に、主に権力を振るったのでした。
しかし、その後は北家に押されて衰退してゆきましたが、武士・武家の有名な一族である工藤氏や伊東氏、二階堂氏、泉田氏、相良氏などの派生した家系を輩出したとされています。
藤原武智麻呂などをはじめとする奈良時代の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

飫肥藩主・日向伊東氏
また、伊東氏はやがて有力な御家人となり、その子孫が全国に広がって発展してゆきました。
その中でも、日向国(宮崎県)へと転じた一族は、日向伊東氏として、飫肥藩主となりました。
そしてその一族は、明治維新まで続きました。
宮崎と伊東との関係性については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「伊藤」との関係
ちなみに、「伊東」と「伊藤」は似ていますが、当然ながら全く異なる由来を持つ名字です。
「伊藤」は、「伊勢の藤原氏」に由来する名字になります。
それに対し、「伊東」は先述の通り、伊豆の地名に由来しています。
「伊東に行くならハトヤ」ハトヤホテルとは?
伊東市といえば、高度経済成長期のあたりから人気となった「ハトヤホテル」の存在を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
高度経済成長期、レジャーブーム全盛期だった伊東
まず1960年代頃の高度経済成長期の頃は、多くの人がお金に余裕があったため、多くの人が伊東(と、北隣の熱海)を訪れていたのでした。
熱海は東海道新幹線も止まる便利な街であるため、その分大人気で、多くの観光客で混雑することも多かったのでした。
そうした混雑を避けたかった人々にとって、伊東は家族で楽しめる、まさにゆったりしたレジャーに適していた場所だったというわけです。
そして、伊東の後ろの山にあるやや高台にそびえ建つハトヤホテルは、海がキレイに眺められることから、とても人気だったのでした。
全国的に有名になったCM
その後、ハトヤホテルは人気を博していったことで、順調に増改築を重ねてゆくことになりました。
そして、まさに高度経済成長期にあたる1960年代~70年代にかけては
「♪電話はよい風呂(4126)」
といった非常に覚えやすいフレーズでおなじみのCMで全国的に有名になり、まさに最盛期を迎えました。
このCMソングとともに、ハトヤホテルを全国的に知名度のある存在にしました。
ハトヤホテルは、先述の通り、
- 海がとてもきれい。
- 伊東でも屈指の海の景色が、そこにある。
ことで人気を博しました。
現代でも、その1960年代っぽいレトロな雰囲気が若い世代に注目され、SNSでも話題になるなど、再び人気を集めています。
「地獄の伊東キャンプ」とは
1979年、伊東市において行われたキャンプ
「地獄の伊東キャンプ」とは、1979年の秋に、読売ジャイアンツ(巨人)が伊東市において行った、あまりに過酷なことで伝説となっている秋季キャンプのことです。
このキャンプは、
- 1979年10月28日から、
- 1979年11月21日まで
という、約1ヶ月間行われました。
そもそも「キャンプ」とは?
ちなみにキャンプとは、
- 秋や冬などの比較的寒い時期(つまり、試合をしていない時期に)に、
- チーム全体で暖かい場所(例:現代では主に宮崎や沖縄など)に行って、合同練習をすること
となります。
キャンプやその主要拠点である宮崎については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

なぜ「地獄の伊東キャンプ」は行われたのか?
つまり、
- 当時の長嶋茂雄監督が、
- あまりにも弱すぎるチームを立て直すため、
- 若手選手を中心に伊東に連れてきて、
- ビシバシと鍛え上げたことで有名なキャンプ
ということです。
長嶋茂雄さんについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

そもそも伊東でキャンプが行われた理由は?
なぜ静岡県伊東市でキャンプが行われたのか。
それは、
- 長嶋監督が、大学(立教大学)時代にキャンプを行っていた場所であったこと
- 首都圏と比べれば緯度が低く、比較的温暖な地域であったこと
しかし、プロ野球のキャンプは、先述のように宮崎や四国などの、比較的(もっと)暖かい場所で行われるのがメインとなっていったのでした(現代ではほぼ、より暖かい沖縄が主流)。
そのため、徐々に「地獄の伊東キャンプ」が行われた伊東スタジアムは、次第に使われなくなり、現在では閉鎖されています。
「地獄の伊東キャンプ」の経過
さて、この「地獄の伊東キャンプ」は先述の通り、
- 第一次・長嶋茂雄監督時代の巨人軍が、
- V9時代(つまり1965年~1973年に、9年間連続で巨人が優勝した時代)の黄金期を支えたベテラン選手たちが次々に衰退してゆき(王貞治さんもこの頃から徐々に衰退)、
- 彼らベテランの引退後、チームの若返りと「立て直し」を迫られていた
という、球団にとっても長嶋監督にとっても切羽詰まっていた中で行われました。
リーグ5位 「強いジャイアンツを取り戻す!」
この年(1979年)、巨人は5位(6チーム中5位なので、かなりの最下層)に沈み、チームだけでなく長嶋監督自身もかなりの批判を浴びていた最中でした。
そのため、長嶋監督は「かつての強いジャイアンツ」を復活させるために、若手選手を中心に、徹底的に鍛え直すことを決意したのでした。
キャンプ前の巨人の状況
「V9」黄金期を支えたベテラン勢の高齢化・衰退
1979年の「地獄の伊東キャンプ」が行われた頃の巨人は、1960年代からの
- 王貞治さん
- 長嶋茂雄さん
といった偉大な選手たちが中心だった『V9(ブイナイン):9年間連続優勝』という黄金時代が、彼らの高齢化と衰退とともに、終わりを告げかけていました。
1960年代に大活躍し「ミスタープロ野球」とも呼ばれた長嶋茂雄さんは、1972年頃から衰えが見え始め、1974年(38歳の年)に巨人を現役引退しました。
そして、翌年の1975年には早くも監督に就任しました。
また、それまで毎年50本前後のホームランを打ち続けていた王貞治さんも、1978年にはホームランをわずか39本しか打てなくなるなど、徐々に衰えが見えはじめていました(1980年に、30本しかホームランを打てなくなり引退)。
こうして、巨人ではこの時期になるとチームを支えてきたベテランの選手たちが、次々と引退していました。
「強い巨人」を取り戻すための、若手を育てる長嶋監督の覚悟
したがって、当時の長嶋監督には、
- 次時代を担う若手選手たちが、まだ十分に育っていない
という危機感がありました。
すなわち、このキャンプの目的は、若手選手たちの
- 「基礎体力」
- 「精神力」
を、これでもかというほど鍛え上げて、
という、長嶋監督の強い決意が込められていたのです。
地獄のキャンプに参加した、若き精鋭たち
このキャンプには、平均年齢23.7歳という、後の1980年代に巨人で大活躍することになる、若き選手たち18名が選ばれました。
たとえば、
- 江川卓さん:高校時代から全国を熱狂に包んだ投手として「怪物」と呼ばれ、あまりにも多くの球団からドラフトで欲しがられた、すごいピッチャーです。
- 中畑清さん:長嶋監督との師弟関係が有名で、熱いプレーが持ち味だった選手です。
といった、後にジャイアンツの黄金時代を支えることになる選手たちが、参加していたのですね!
「地獄」と言われた、過酷な猛特訓
伊東キャンプが「地獄」と呼ばれた理由は、
- 朝から日が暮れるまで、休みなく続く練習
- 宿舎まで這うようにして戻るという、長距離走と急な階段上り
- 倒れ込んでも、ボールを追いかける「千本ノック」
など、まさに本当に想像を絶するような、過酷な猛特訓が連日にわたって行われていたからなのです。
そのため、選手たちはあまりにもつらい練習のためにヘトヘトになり、せっかくの食事も喉を通らず、吐いてしまう選手もいたそうです。
これはもはや、聞いているだけで、胸が苦しくなってきますね。
キャンプ伝説の言葉「あの月に向かって打て!」
そんな過酷な練習の中、とあるコーチ(※)が選手に向かって言ったとされる、こんな言葉が伝説として語り継がれています。
※このセリフは当時のコーチが放った言葉のようですが、どうも長嶋監督本人が放った言葉のような気がします。
というかこんなアニメの主人公のようなセリフ、長嶋監督以外に言いそうにない…(^^;)
そしてこの言葉は、単に打つだけではなく、
を示していたわけですね。
地獄の先にあった、最高の成果
この「地獄の伊東キャンプ」を乗り越えた選手たちは、翌年からは次々とチームの主力選手に成長してゆきました。
そして1981年には、リーグ優勝と日本一という、素晴らしい成果を達成したのでした。
したがって、このキャンプは、選手たちの心と身体を大きく成長させ、さらにはチームの結束力も高めるきっかけとなったのでした。
すなわち、このキャンプの過酷な内容は、その後のプロ野球界にも大きな影響を与え、
となったというわけです。
まさに、日本のプロ野球史に輝く、最高の「伝説」として語り継がれているのです。
おわりに
さて、今回も一段と野球メインの話題になってしまった感もありますが、伊東は前にキレイな海が広がり、さらには首都圏からのアクセスも比較的良い、とても癒される観光地となります!
今回の知識を踏まえ、伊東への観光がますます楽しく、そして充実したものになればよいですね!
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