三重県伊勢市の美しい海・二見浦(ふたみのうら)について、その観光と歴史を、初心者にもわかりやすく解説してゆきます!
はじめに:二見浦の物語へようこそ!

さて今回は、三重県伊勢市にある美しい海である、二見浦の地理や歴史を一緒に学んでゆきましょう!
ここでは、単なる景色として眺めるだけでなく、その背景にある物語を知ることで、旅の深みはぐっと増してくることでしょう。
これらの知識を学ぶことで、より観光や旅行、そして現地での探訪が面白くなることでしょう!
聖なる海岸「二見浦」の魅力

二見浦は、三重県伊勢市の東部に位置する、伊勢湾に面したとても美しい海岸です。
すなわち、とても美しい初日の出などが眺められるため、古くから「日の出の聖地」として崇められてきた場所というわけです。

二見浦(三重県伊勢市)
かの有名な「夫婦岩」もある二見浦
また、二見浦には有名な夫婦岩があり、
- 2つの大きな岩と小さな岩が、しめ縄で結ばれていて、
- まるで夫婦のような愛らしい姿
は、見ているだけで心が温まりますね!
夫婦岩については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

日本で最初の公認海水浴場としても知られる、二見浦
ここは砂浜が広がる穏やかな入り江で、日本で最初の公認海水浴場が開かれた場所でもあるわけです。

筆者・二見浦より(三重県伊勢市)
二見浦という名前の場所

二見浦駅(三重県伊勢市)
実は、二見浦という地名は他の場所にも存在します。
有名なのは、
- 滋賀県の琵琶湖にある二見ヶ浦
- 福岡県の糸島市にある二見ヶ浦
などですね!

参宮線・二見浦駅(三重県伊勢市)
太古の昔・第11代天皇の頃に創建された伊勢神宮
ちなみに、三重県の二見浦の場合は、
- 倭姫命が、その海の美しさに二度振り返ったという伝説から、その名がついた
と言われています。
すなわち、たとえ同じ名前の海であっても、それぞれの場所で全く違う景色や物語があるというのは、興味深いですね。
倭姫命:第11代天皇である垂仁天皇の娘であり、天照大神を祀る場所を探して旅をしていたところ、伊勢神宮を創建したとされる、伝説の女性です。
伊勢神宮が創建された頃の第11代天皇の時期は、第32代・推古天皇の飛鳥時代よりも、さらにずっと昔のことです。
すなわち、そんな太古の昔に伊勢神宮が建立されのたかと思うと、またここで旅の感慨深さが出てきますね。
伊勢神宮については、以下の各記事でも解説していますので、ご覧ください。
↓↓外宮について

↓↓内宮について

二見浦と、伊勢神宮との深い絆
まず、伊勢神宮を参拝する前には、まず二見浦で身を清めてから参拝を行う、というのが古くからの正式なマナーとされています。
したがって、江戸時代の人々も、まずはこの海で「浜参宮」という儀式を行ってから、お伊勢さんへ向かったというわけです。
もちろん現代においても、多くの参拝客の方々がこの地(二見浦)を訪れ、穢れを払ってから、神聖な伊勢神宮・神宮の森へと足を運んだりしているわけです。
まさにこの二見浦こそが、神様にお会いする前の大切な準備の場所だと思うと、とても気が引き締まる場所という実感がわきますね。
浜参宮:伊勢神宮に参拝する前に、二見浦の海水で心身を清める(つまり、禊をする)習慣のこと。
身を清める具体的な作法
ちなみに「身を清める」とは、神様の前に出るために、心と体の汚れを落とすことです。
例えば、神社にある「手水舎」において、手と口を洗うのが、最も身近な方法ですね。
かつては、川や海に全身を浸かって「禊」という行為を行うのが一般的でした。
二見浦では、海水に浸かる代わりに、神聖な海水を浴びたり、お祓いを受けたりします。
清々しい気持ちで参拝に向かうのは、とても気持ちが良いものですよ!
手水舎:神社の入り口近くにある、参拝者が手や口をゆすいで清めるための水場のこと。
浜参宮の意味と役割
また、浜参宮とは、伊勢神宮へお参りする前に、二見浦の海で心身を清める儀式のことです。
現代ではさすがにわざわざ海に入るのは大変なので、その代わりに二見浦の東端に存在する二見興玉神社に参拝し、無垢塩草という海草でお祓いを受けるのが今の形ですね。
無垢塩草:二見浦の海で採れる「アマモ」という海草のことです。
これを使って神社でお祓いを受けることで、昔のように海に入ることなく、禊ぎの代わりとするわけです。
「一生に一度はお伊勢参り」旅の疲れを癒す、二見浦の海
昔の人々ははるか遠くから、中には江戸から伊勢神宮へ、東海道とよばれる昔の道を使って「お伊勢参り」する人もいたのでした。
昔は「一生に一度はお伊勢参り」といって、まだ新幹線もない時代に、東海道とよばれる道を約20日ほどかけて、徒歩で宿場町を伝いながら旅をしてきたのでした。
そんなた旅人たちにとって、旅の疲れや汚れを、この二見浦という聖なる海でリセットしたのでしょう。
すなわち、この海でみそぎをすることは
という、心の切り替えスイッチのような役割もあったのかもしれませんね!
参拝客をもてなす「禊の町」としての発展
二見浦の街並み、とても素敵ですよね。
なぜあのような風情ある姿になったのか。
二見浦が宿場町のような風情なのは、ここが「浜参宮」を行う参拝客の宿泊拠点として栄えたからです。
すなわち、伊勢神宮へ行く前に身を清める人々が、ここで一晩を過ごし、心支度を整えたのですね。
明治時代には、皇族や高官(身分の高い役人のこと)も宿泊する高級な旅館が立ち並び、賓客を迎えるための気品ある街並みが作られました。
賓客:大切なお客様や、身分の高い大切なお客様のこと。
歴史を感じさせるような木造建築が並ぶ景色は、まるでタイムスリップしたような気分になれて、本当に癒やされますね!
伊勢街道の宿場町ではない理由
実は、二見浦は伊勢街道の正式な宿場町ではありません。
したがって、これらの宿場町は江戸から続くメインルートからは少し外れた「立ち寄りスポット」のような位置づけでした。
しかし、江戸時代からの「お伊勢参り」のブームにより、多くの人が
とこちらの宿場町へと足を伸ばしたため、メインの宿場町とは別に独自の発展を遂げてきたとはいうわけです。
伊勢街道:江戸時代に、各地から伊勢神宮へ向かう人々が通った主要な道路のこと。
すなわち、正式な街道沿いの宿場とはまた違う、海辺の門前町としての華やかさと落ち着きが混ざり合った、独特の雰囲気があるのが魅力ですね!
このように、メインの街道ではないからこそ、あの独特で優雅な雰囲気が守られてきたのかもしれませんね。
豊かな恵みの海「伊勢湾」
伊勢湾は、三重県と愛知県に囲まれた、日本でも有数の大きな内海のことです。
すなわち、木曽三川などの大きな川から栄養たっぷりの水が流れ込む、生命のゆりかごのような場所ですね。
内海:陸地に囲まれており、また外の海(外海)との出入り口が狭くなっている海のことです。
ここで獲れる伊勢海老やアサリは絶品で、私たちの食卓を豊かに彩ってくれます!
木曽三川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

波が穏やかで、船の通り道・漁業にも適してきた伊勢湾
伊勢湾は、波が穏やかで船も揺れずに進みやすいわけです。
そのため、伊勢湾は古くから漁業だけでなく、船を使った物流の拠点・海上ルートとしても重宝され、人々の生活を支え続けてきた大切な海というわけです。
木曽三川が育む豊かな海の幸
この伊勢湾で採れる伊勢海老やアサリがとても美味しいのは、木曽三川のおかげというわけです!
したがって、山から運ばれてきた豊富なミネラルが、海のプランクトンを育ててゆき、それらを食べて海の生き物たちが大きく成長してゆきます。
木曽三川:濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の3つの大きな川のこと。
このように伊勢湾は、栄養が豊富で、魚介類にとって最高の環境なわけです。
すなわち大自然が、私たちの美味しい食事を作ってくれているわけですね!
伊勢湾が歩んできた歴史
伊勢湾の歴史は非常に古く、かつては「伊勢の海」として、奈良時代の万葉集などの和歌にも数多く詠まれてきました。
しかし、戦国時代には織田信長が九鬼水軍と呼ばれる海のツワモノたちを率いて、この海を戦いの舞台にして、覇権を争ったという激しい一面・歴史も持っています。
その後、江戸時代には江戸と上方(すなわち、大阪のこと)をそれぞれ結ぶ航路・ルートとして、多くの千石船が行き交うという、まさに経済の動脈となりました。
当時は東海道新幹線も東名高速道路も存在しなかったため、まさにこの伊勢の海こそが、主要な交通手段だったわけです。
九鬼水軍:戦国時代に伊勢・志摩を拠点に活躍した、非常に強かった船で戦うツワモノ軍団たちのことです。
九鬼水軍と海賊の違い
九鬼水軍は、戦国時代に活躍した、最強の船の軍団です。
すなわち、単なる略奪を行うことをメインとしたいわゆる「海賊」たちとは違い、大名といった権力者に仕えて組織的に戦う、いわゆるプロの海軍(今でいう海上自衛隊)のような存在でした。
彼らは鉄で装甲を固めた「鉄甲船」を操り、織田信長の天下統一を海から支えたわけですよ。
海の男たちが命を懸けて荒波を駆ける姿を想像すると、その勇ましさに圧倒されてしまいますね!
鉄甲船:木造の船の周りを、鉄板で覆った、当時の最新鋭の軍艦です。
織田信長が、それまでの敗戦から「燃えない船を作れ!」ということで、鉄で防御力を固めた船で、大砲などの攻撃に非常に強かったのでした。
海を渡る巨大な運搬船「千石船」
千石船とは、江戸時代に大量の物資(モノ・人)を運ぶために使われた、大きな木造の帆船のことです。
すなわち、お米なら約1000石(約150トン)も積めるほど巨大で、当時の物流の主役でした!
一石:重さや体積の単位です。
お米でいうと、大人が1年間に食べる量(約150キログラム)に相当します。
当時はまだ蒸気船など無く、風を便りに動く帆船がメインだったのでした。
なので、風の力だけで動く、大阪から江戸まで重い荷物を運ぶ技術は、まさに当時の職人たちの知恵の結晶ですね。
広い海の上を白い帆をなびかせて進む姿は、きっと現代のタンカーにも負けないような迫力があったはずですよ!
まとめ・おわりに:歴史を知れば旅はもっと輝く

二見浦駅より(三重県伊勢市)
二見浦の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
これらの知識を学ぶことで、より観光や旅行、そして探訪が、きっと面白くなることでしょう!
次にあなたがこの地を訪れるときは、打ち寄せる波の音や古い街並みが、きっと今までとは違う、特別なメッセージを語りかけてくれるはずです!
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