紫式部について、また彼女をめぐる観光地・ゆかりの地などについて、歴史に詳しくない方・初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!
はじめに・紫式部について
今回は、『源氏物語』の作者である紫式部について、じっくり学んでいきましょう!
彼女の生涯や才能、そして当時の宮中の様子を知ることで、知識が深まってゆきます。
したがって、彼女のゆかりの地である京都や石山寺、そして越前市への観光・旅行が、より面白くなってくることでしょう。
紫式部とは?基本データ
生年・没年・出身地など
紫式部は、平安時代中期の女性作家、歌人になります。
生まれた年・没した年は、正確にはわかっていません。
なぜこうなっているのかというと、それははっきりした資料が、現在にまで残っていないためです。
しかしながら、一般的には、
- 970年代前半に生まれた
- 1010年代の半ば頃に亡くなった
ものであると、だいたいながら推測はされているというわけです。
出身地はどこ?
紫式部さんの生まれた地・出身地は、当時の都(首都)である平安京(現在の京都)です。
昔は、今のように東京ではなく、京都が首都だったわけですね。
そして、彼女はいわゆる下級貴族(※後述)の娘として生まれました。
下級貴族と上級貴族の違い
平安時代の貴族は、たとえ同じ貴族であっても、身分や経済力によって、その違いが厳しく分けられていました。
まず上級貴族は、政治の重要なポストに就いており、さらには経済的にも豊かでした。
しかし、一方の下級貴族は、官職(役職)の地位が低く、経済力でも劣っていたのでした。
紫式部の家は、元々は学者の家系であり、この下級貴族に分類されます。
こう聞くとなんだか、貴族だからといって必ずしも優遇されていたわけではないという、当時の厳しい社会の現実が見えてきますね。
上級貴族と下級貴族では、タメ口をきけないほどの格差があった?
そして、平安時代の貴族社会は、身分制度が非常に厳しかったのでした。
まず、上級貴族と下級貴族の間には、その
- 敬意を示す言葉遣い
- ふるまい・態度
などといった細かい部分にまで、明確な格差がありました。
したがって、身分が上の者(貴族)に対しては「タメ口」をきくことは許されないほど、厳格なルールがあったというわけです。
下級貴族出身のコンプレックスから生まれたエピソードは?
こうした様々な不遇な事情から、紫式部は下級貴族出身であることへのコンプレックスを、勉強と才能で克服したのでした。
すなわち、彼女は当時の男性が学ぶ漢文の知識を、独学で深めてゆきました。
やがて、その努力と教養が、当時の世の中の実質上のトップであった藤原道長に認められてゆきました。
このことは、中宮に仕える女房となる(後述)、最大の武器となりました。
歌人とは?どうやって給料をもらっていた?
ちなみに、紫式部の職業・肩書きの一つである歌人とは、主に和歌を詠むことを職業(または重要な教養)としていた人々のことです。
もちろん紫式部も、歴史に名を残すほどの優れた歌人でした。
「歌を詠むこと」=給料ではなかった
ちなみに、彼らが直接「歌を詠むこと」によって、給料を得ていたわけではありません。
すなわち、ほとんどの歌人は、
- 朝廷や貴族に対して、官僚(役人)として仕える(裏でサポートする)
- 女房(宮中に仕える女性)として仕えたりする(ちょっと違うけどメイドさんのようなもの)
などの仕事をすることで、それに対する対価として給料(俸禄)をもらっていました。
すなわち、歌そのものが収入源だったというわけでなく、収入源はあくまで上記の「公務員」っぽい仕事だったというわけです。
宮中と朝廷の違いは?
また、紫式部が勤めていた宮中とは、主に天皇が住まいになられ、また生活する場所のことであり、つまり内裏のことです。
一方、朝廷とは、天皇を中心とした政治を行うための政府そのもの、あるいは政府機関を指す言葉になります。
したがって、
- 宮中は朝廷の中にある、中心的な場所
という関係ですね。
紫式部は、何をした人?
そして、紫式部さんが何をしたかというと、なんといっても誰もが知る『源氏物語』の作者であることです。
これは、日本文学の最高傑作の一つとされていますね!
源氏物語:平安時代の貴族である光源氏の生涯を中心に、当時の恋愛や政治、そして人々の心の動きなどを非常に細かく描いた、長編物語です。
世界最古の長編小説とも言われています。
その他の代表作「紫式部日記」
また、彼女は『紫式部日記』という代表作も残しています。
ちなみにこれは、当時の彼女の宮中での生活や、また当時の人々の様子を知ることもできるという、今となってはとても貴重な資料となっているわけです。
紫式部って本名?
実は、「紫式部」は本名ではありません。
すなわち、彼女の本名は、不明ということになります。
なぜなら、当時は女性が本名を公にすることは一般的ではなかったのです。
そのため、本名は記録に残っていないというわけです。
「式部」とは?
ちなみに「式部」とは、彼女の父である藤原為時が務めていた、官職(役職)の名前に由来しています。
官職:律令制に基づいた、当時の政府の役職のことです。
この「式部」は、いわゆる「式部省」という役所のことで、主に人事や学問などを担当していました。
当時の貴族社会では、女性自身ではなく、あくまで親族(特に父や夫)の官職名を用いて呼ばれることがよくあったのです。
つまり、紫式部の場合はこの「式部」をつけて呼ばれることが一般的だったわけですね。
すなわち、彼女は
- 「式部省に勤めるお父さんを持つ人」
という意味で呼ばれていたわけです。
式部省(しきぶしょう)とは?
また、式部省とは、奈良時代から平安時代にかけての、重要な行政機関の一つです。
この「式部省」という役所は、主に
- 文官の人事
- 儀式
- 学問
などの業務(公務)を担当していました。
したがって、ここでは役人の採用や昇進などといった、とても大切な仕事をしたわけです。
そして、先述の通り、紫式部のお父さんがこの式部省に勤めていたことから、彼女の通称の一部になったというわけです。
紫式部と藤原道長の関係は?
そして、紫式部の才能を見いだした藤原道長は、誰もが知る平安時代の絶大な権力者です。
そして彼の存在は、紫式部の運命を大きく変えました。
道長は、自分の娘である藤原彰子に仕えさせるため、紫式部を女房(すなわち、お世話係り)として、宮中に招き入れたのでした。
すなわち、ここでの紫式部の仕事は、彰子の教養を高めることが目的でした。
道長は『源氏物語』の才能を高く評価しており、彼女の最大の理解者であったと言えます。
道長の娘・藤原彰子(ふじわらのしょうし)とは?
藤原彰子は、藤原道長の娘であり、また当時の天皇である一条天皇の中宮(つまり、皇后)となった女性になります。
中宮:天皇の正妻(奥様)の位の一つであり、とても高い地位になります。
紫式部は、この彰子に仕えた女房でした。
藤原彰子の夫の天皇は?摂関政治・政略結婚と関係ある?
藤原彰子の夫は、一条天皇です。
このことは、かの有名な摂関政治と大いに関係があります。
すなわち、
- 父の藤原道長が権力を握るために、
- 娘を、天皇の后にする
という、いわゆる政略結婚でした。
紫式部も、この政治的な戦略の一環として、宮中に招かれた(道長の近くで仕事をするようになった)というわけですね。
紫式部は美人だった?モテた?
残念ながら、彼女の正確な容姿を伝える記録は残っていません。
したがって、「美人だったかどうか」ははっきりとはわかりません。
しかし、彼女は非常に才能に溢れた女性でした。
特に漢文(当時の男性の学問)の知識が深く、その教養は宮中でも一目置かれていたようです。
また、『源氏物語』が宮中で大人気となり、一条天皇の中宮(皇后)である藤原彰子に仕えることになったわけですから、その魅力は相当なものだったのでしょう。
すなわち、彼女の知性と才能が、何よりも多くの人々を惹きつけたに違いありませんね!
紫式部は結婚歴はある?恋人は?
ちなみに、紫式部には結婚歴があります。
藤原宣孝という人物と結婚し、後に娘の賢子(または、けんし)をもうけました。
しかし、夫は結婚後、まもなく亡くなっています。
そしてその後、彼女が宮中に入るきっかけとなった藤原道長との間に、親密な関係があった(ラブラブだった?)可能性も指摘されているというわけです。
清少納言との関係は?本名ではない?
ちなみに紫式部と同系列でよく挙げられる清少納言は、紫式部と同時代を生きた偉大な女性作家になります。
しかし彼女たちは、いわゆる仕えた主(つまりリーダーや上司)が違いました。
- 清少納言は藤原定子
- 紫式部は藤原彰子
という娘さんたちに、それぞれ仕えていました。
清少納言も、同じく本名ではありません。
彼女も、紫式部と同じように、父の姓と官職名をそれぞれ組み合わせた通称になります。
紫式部は、宮中でどんな仕事・作業をしていた?
紫式部が宮中で務めたのは、中宮・藤原彰子の女房という役目になります。
そこでの彼女の主な仕事は、道長の娘さんの彰子に対する教育係のような役割でした。
すなわち、娘さんに漢文や和歌などの学問を教えてゆき、さらには文学的な相談相手になっていました。
もちろん、そのかたわらでの『源氏物語』の執筆活動も、重要な仕事の一部でした。
宮中に仕える女性は、メイドさんと似ている?
また、宮中に仕える女房は、いわゆるメイドさんとは少し違います。
彼女たちは、確かに掃除や身の回りのお世話もしました。
しかしながら、彼女ちにはそれ以上に和歌や漢文などといった、高い教養が求められました。
すなわち、主の相談相手や教育係もも兼ねたという専門職でした。
紫式部も、この知識層の女房でしたね。
なるには相当な高い知識や教養が必要であり、決して簡単になれる仕事ではなかったでしょう。
当時の女房は、今の女房とは異なる?
また、平安時代の女房は、現代の「女房(妻)」とはまったく異なるわけです。
当時の女房は、宮中や貴族の邸宅に仕えた高級な知識人であり、専門職でした。
すなわち、『源氏物語』や『枕草子』を書いた紫式部や清少納言がその代表ですね。
藤原彰子に教えるくらいだから、紫式部自身も頭が良かった?
紫式部は、非常に頭の良い女性でした。
すなわち、彼女は、当時の女性が学ぶことの少なかった漢文の知識が深く、才能豊かなことで知られていました。
したがって、その知性を買われ、中宮藤原彰子の教育係という、重要な役目を任されたわけですね。
紫式部の毎日のルーティン・1日は?
紫式部の具体的な一日のルーティンははっきりとは残っていません。
しかし、女房として主である彰子の身の回りのお世話をしたり、儀式の手伝いをしたりしていました。
また、空いた時間を使って『源氏物語』を執筆していたと考えられます。
紫式部の幼少期は?
紫式部は、学者の家系である藤原氏の一員として生まれました。
彼女の父、藤原為時は漢文の素養が深い人物でした。
当時の女性は、漢文を学ぶことが一般的ではありませでした。しかし紫式部は、男性が学ぶ漢籍まで、熱心に学んでいたと言われています。
すなわち、彼女は幼い頃から、後の『源氏物語』という壮大なストーリーを書き上げるためにも必要な、豊かな教養を身につけていたというです。
越前市との関係は?
現在の福井県越前市は、紫式部が青春時代を過ごした、ゆかりの地として知られているわけです。
すなわち、彼女の父、藤原為時が越前守(越前の国司)として赴任したときに、紫式部も娘として、父について福井県まで同行したのでした。
彼女は約一年間を越前で過ごし、そのときに都とは違う地方の生活や美しい自然に触れたわけです。
そしてこの経験が、後の『源氏物語』の世界をより豊かにしたのかもしれませんね!
全国にある紫式部の名所(石山寺、越前市など)は?
紫式部ゆかりの主な名所は、以下の通りですね。
- 京都:出生地であり、宮中での主な活動の舞台になります。
- 滋賀県大津市:石山寺が存在します。
つまり、『源氏物語』の着想の地であるいうわけですね。 - 福井県越前市:父の赴任に伴い、約一年間を過ごした青春の地になります。
紫式部の代表作・源氏物語とは?
『源氏物語』は、紫式部が書いた日本文学の最高傑作になります。
イケメン「光源氏」を主人公とした物語
主人公は光源氏という、架空の貴公子ですね。
物語は、彼の恋愛や栄華、そして苦悩を約70年にわたって、非常に詳細に描いているわけです。
したがって、これは世界最古の長編小説とも言われているわけです。
平安時代の美意識や複雑な人間模様を知るうえで、欠かせない作品なのです!
日本文学の最高傑作と呼ばれているのは、他に何がある?
『源氏物語』以外で日本文学の最高傑作とされる作品は、他にたくさんあります。
例えば、
- 清少納言の『枕草子』
- 中世文学では、吉田兼好の『徒然草』
などですね。
文学のカテゴリーは違う?
ちなみに、
- 源氏物語・枕草子・徒然草
- 人間失格・こころ・伊豆の踊子
などは、確かにそれぞれ同じ(国語の授業で習うほどの)日本文学の最高傑作です。
しかし、そもそものカテゴリーが違います。
これらの作品は、そもそまも成立した時代や形式が違うため、文学的なカテゴリーは異なるわけです。
まず『源氏物語』などは、平安時代の物語や随筆です。
すなわち、古典文学に分類されます。
一方、『人間失格』などは、明治時代以降の近代小説になります。
最高傑作という評価軸は確かに同じですが、そもそものジャンルは大きく違っているわけです。
紫式部が「源氏物語」の着想を得た、石山寺
源氏物語と、石山寺との関係
石山寺は、滋賀県に存在しているお寺であり、ここは紫式部が『源氏物語』の着想(すなわち、アイデア)を得たとされる聖地になります。
すなわち、
- 彼女はこの寺にこもって(宿泊して)、
- 琵琶湖に映る美しい月を眺めているときに、
- まさに、物語の構想がひらめいた
という伝説が残っているというわけです。
今でも石山寺には、「源氏の間」というものが存在します。
ここでは、彼女が執筆したと伝わる場所を見ることができます。
石山寺での構想は、近江八景と関係がある?
ちなみに、紫式部が石山寺で『源氏物語』の構想を練ったという伝説は、
とも深く関係しているわけです。
すなわち、
こそが、まさに物語の着想を彼女に与えたと伝えられているわけです。
紫式部が石山寺へやってきた理由・きっかけは?
紫式部が石山寺へやってきたのは、いわゆる観音様への信仰のために、参籠した時だと伝えられています。
観音様:人々の苦しみなどを聞く(それによって救う)仏様のことです。
すなわち、
- 石山寺で月を眺めているときに、
- 『源氏物語』の、「須磨」や「明石」といった巻の構想がひらめいた
という伝説が残っているわけです。
源氏物語は、どんな作品?
紫式部の代表作ともいうべき『源氏物語』は、天皇の子として生まれた光源氏の生涯を、約50帖にもわたって描いたという物語になります。
帖:物語の章や巻のような、区切りの単位になります。
約50帖は、現在の小説で何ページ?
この約50帖の文字数は、約100万字に及ぶと言われているわけです。
これは、現在の文庫本に置き換えて換算すると、約10冊分、ページ数で言えば約4000ページにもなるという、まさしく大長編です!!
したがって、彼女が平安時代にこれほど膨大で複雑な物語を書き上げたことは、まさしく本当に驚くべき偉業ですね!
光源氏とは?
光源氏は、『源氏物語』の主人公になります。
彼は天皇の子として生まれながら、身分を降ろされめしまい、その臣下(家臣・部下)という身分となるわけです。
そして彼は、非常に飛び抜けた美貌と才能を持っていたことから、「光」という名前がつけられました。
光源氏は実在の人物?架空の人物?
光源氏は、
ということになります。
すなわち、実在した天皇や貴族というわけではありません。
しかし、彼は当時の理想的な貴公子・イケメンの要素を、全て集めて生み出されたキャラクターと言えます。
したがって、光源氏は平安時代の美意識や憧れが凝縮された存在であるというわけです。
光源氏のモデルが藤原道長という説は?
また、光源氏のモデルの一人として、藤原道長が有力だとされています。
道長は、言うまでもなく絶大な権力と栄華を極めた人物になります。
すなわち、「光源氏の華やかで成功した姿」は、まさに道長の反映だと考えられているわけです。
ただし、光源氏はあくまで多くの貴族の特徴を複合した存在であり、単に道長一人だけをモデルにした、というわけでは決してないようです。
光源氏は紫式部の「理想の彼氏像」だったりする?
光源氏は、やはり紫式部の理想の貴公子(理想のイケメン)が形になった存在と言えます。
すなわち、彼女はもはや現実にはいないような、完璧で魅力あふれる人物を創造したのでした。
しかし、物語には彼の苦悩も描かれており、単なる「理想の彼氏」というだけでは終わらないような奥深さもあります。
アイドルグループ「 光GENJI」は、光源氏がモデル?
光GENJIは、1980年代後半から1990年代にかけて活躍した日本の男性アイドルグループですね。
このグループ名は、『源氏物語』の主人公である光源氏がモデルになっています。
つまり、グループの華やかで魅力的なイメージを、平安時代の貴公子である光源氏になぞらえて名付けられたわけです。
まさか日本のポップカルチャーにまで影響を与えているとは、紫式部も驚きでしょう!
光源氏
彼は、
- 初めは並外れた美貌と才能を持ちながら、
- 身分の低い女性を愛してしまったことから、
- 「源氏」という姓を与えられ、
- 臣下(天皇の家臣・部下)となる
というわけです。
栄華から苦悩へ 光源氏の物語
物語の前半においては、まず彼の様々な女性とのロマンスと、宮中での栄華を中心に展開してゆきます。
しかし、後半になると、彼の苦悩や報いが描かれてゆき、さらには人生の無常さ・儚さが主題になっていくわけです。
光源氏が亡くなった後、物語は「宇治十帖」へと移ってゆきます。
すなわち、光源氏の子孫たちの愛憎や、運命が描かれた後に、この壮大な物語は幕を閉じるというわけです。
まるで、人間の心の奥底までをも描いたような、とても深い作品です。
そして、現代にまで語り継がれているというわけです。
おわりに・まとめ
さて、今回は紫式部の波乱に満ちた生涯や、驚異的な才能について、たくさんのことを学んできて、いかがだったでしょうか
彼女が下級貴族の娘でありながら、努力と才能で最高傑作を書き上げたという事はとても驚くべきことになります。
また、
- 石山寺で月を眺めながら物語を書いた心情
- 幼少期に、越前(福井県)で感じた自然
などのことを想像すれば、今後は紫式部ゆかりの地への探訪が、もっと面白くなることでしょう。
ぜひ、歴史のロマンを旅で感じてくださいね!
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