紫式部とは?その生涯やゆかりの観光地を、わかりやすく解説!

紫式部について、また彼女をめぐる観光地・ゆかりの地などについて、歴史に詳しくない方・初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!

  1. はじめに・紫式部について
  2. ​紫式部とは?基本データ
    1. 生年・没年・出身地など
      1. 出身地はどこ?
      2. 下級貴族と上級貴族の違い
      3. 上級貴族と下級貴族では、タメ口をきけないほどの格差があった?
      4. 下級貴族出身のコンプレックスから生まれたエピソードは?
    2. 歌人とは?どうやって給料をもらっていた?
      1. 「歌を詠むこと」=給料ではなかった
      2. 宮中と朝廷の違いは?
    3. 紫式部は、何をした人?
      1. その他の代表作「紫式部日記」
    4. ​紫式部って本名?
      1. ​「式部」とは?
      2. 式部省(しきぶしょう)とは?
    5. 紫式部と藤原道長の関係は?
      1. 道長の娘・​藤原彰子(ふじわらのしょうし)とは?
      2. 藤原彰子の夫の天皇は?摂関政治・政略結婚と関係ある?
    6. ​紫式部は美人だった?モテた?
    7. 紫式部は結婚歴はある?恋人は?
    8. 清少納言との関係は?本名ではない?
    9. 紫式部は、宮中でどんな仕事・作業をしていた?
      1. 宮中に仕える女性は、メイドさんと似ている?
      2. 当時の女房は、今の女房とは異なる?
      3. 藤原彰子に教えるくらいだから、紫式部自身も頭が良かった?
      4. ​紫式部の毎日のルーティン・1日は?
    10. 紫式部の幼少期は?
      1. ​越前市との関係は?
      2. 全国にある紫式部の名所(石山寺、越前市など)は?
  3. 紫式部の代表作・源氏物語とは?
    1. イケメン「光源氏」を主人公とした物語
      1. 日本文学の最高傑作と呼ばれているのは、他に何がある?
      2. 文学のカテゴリーは違う?
    2. 紫式部が「源氏物語」の着想を得た、石山寺
      1. 源氏物語と、​石山寺との関係
      2. 石山寺での構想は、近江八景と関係がある?
      3. 紫式部が石山寺へやってきた理由・きっかけは?
    3. 源氏物語は、どんな作品?
      1. 約50帖は、現在の小説で何ページ?
      2. 光源氏とは?
      3. 光源氏は実在の人物?架空の人物?
      4. 光源氏のモデルが藤原道長という説は?
      5. 光源氏は紫式部の「理想の彼氏像」だったりする?
      6. アイドルグループ「​ 光GENJI」は、光源氏がモデル?
      7. 光源氏
      8. 栄華から苦悩へ 光源氏の物語
  4. ​おわりに・まとめ

はじめに・紫式部について

​今回は、『源氏物語げんじものがたり』​の作者である紫式部むらさきしきぶについて、​じっくり学んでいきましょう!

​彼女の​生涯才能、そして当時の宮中きゅうちゅう​の様子を知ることで、​知識​が​深まってゆきます。
したがって、彼女のゆかりの地である​京都や​石山寺いしやまでら、そして​越前市えちぜんし​への観光・旅行が、より面白くなってくることでしょう。

​紫式部とは?基本データ

生年・没年・出身地など

紫式部むらさきしきぶは、平安時代中期の女性作家、歌人になります。

​生まれた年・没した年は、​正確にはわかっていません。
なぜこうなっているのかというと、それははっきりした資料が、現在にまで残っていないためです。

しかしながら、一般的には、

  • 970年代前半に生まれた
  • 1010年代の半ば頃に亡くなった

ものであると、だいたいながら推測はされているというわけです。

出身地はどこ?

​紫式部さんの生まれた地・出身地は、当時の都(首都)である​平安京(現在の​京都)です。
昔は、今のように東京ではなく、京都が首都だったわけですね。

そして、彼女はいわゆる下級貴族(※後述)の娘として生まれました。

下級貴族と上級貴族の違い

​​平安時代の​貴族は、​たとえ同じ貴族であっても、身分や​経済力によって、その違いが厳しく分けられていました。

まず​​上級貴族は、政治の重要なポストに就いており、さらには​経済的にも豊かでした。
しかし、一方の​下級貴族は、官職かんしょく(役職)の地位が低く、​経済力でも劣っていたのでした。

​​紫式部の家は、元々は​学者の家系であり、この​下級貴族に分類されます。
こう聞くとなんだか、貴族だからといって必ずしも優遇されていたわけではないという、当時の​厳しい社会の現実が見えてきますね。

上級貴族と下級貴族では、タメ口をきけないほどの格差があった?

​そして、​平安時代の​貴族社会は​、身分制度​が非常に厳しかったのでした。

まず​​、上級貴族と​下級貴族の間には、その​

  • 敬意​を示す​言葉遣い
  • ふるまい・態度

などといった細かい部分にまで​、明確な格差がありました。
したがって、身分が上の者(貴族)に対しては「タメ口」​をきくことは許されないほど、​厳格なルールがあったというわけです。

下級貴族出身のコンプレックスから生まれたエピソードは?

こうした様々な不遇な事情から、​​紫式部は​下級貴族出身であることへの​コンプレックスを、勉強と才能で克服したのでした。

​すなわち、彼女は当時の男性が学ぶ​漢文の知識を​、独学で深めてゆきました。
やがて、その​努力と教養が、当時の世の中の実質上のトップであった藤原道長ふじわらのみちながに認められてゆきました。
このことは、​中宮ちゅうぐう​に仕える女房にょうぼう​となる(後述)​、最大の武器となりました。

歌人とは?どうやって給料をもらっていた?

ちなみに、紫式部の職業・肩書きの一つである​歌人かじん​とは、主に和歌わか​をむことを職業(または重要な教養)としていた人々のことです。

もちろん​紫式部も、歴史に名を残すほどの優れた歌人でした。

「歌を詠むこと」=給料ではなかった

ちなみに、​彼らが直接「歌を詠むこと」によって、給料を得ていたわけではありません。

すなわち、ほとんどの歌人は、

  • 朝廷や貴族​に対して、官僚かんりょう(役人)として仕える(裏でサポートする)
  • 女房にょうぼう宮中に仕える女性)として仕えたりする(ちょっと違うけどメイドさんのようなもの)

などの仕事をすることで、それに対する対価として給料俸禄ほうろく)をもらっていました。
すなわち、歌そのものが収入源だったというわけでなく、収入源はあくまで上記の「公務員」っぽい仕事だったというわけです。

宮中と朝廷の違いは?

また、紫式部が勤めていた​宮中きゅうちゅう​とは、主に​天皇が住まいになられ、また生活する場所のことであり、つまり内裏だいりのことです。

​一方、​朝廷と​は、天皇を中心とした​政治まつりごとを行うための政府そのもの、あるいは​政府機関を指す言葉になります。

​したがって​、

  • 宮中は​朝廷の中にある、​中心的な場所

という関係ですね。

紫式部は、何をした人?

そして、紫式部​さんが何をしたかというと、なんといっても誰もが知る『源氏物語げんじものがたり』の作者であることです。
これは、​日本文学の最高傑作の一つとされていますね!

​​源氏物語:​平安時代の貴族である光源氏ひかるげんじの生涯を中心に、当時の恋愛政治、そして人々の心の動きなどを​非常に細かく描いた、長編物語です。
世界最古の長編小説とも言われています。

その他の代表作「紫式部日記」

​また、彼女は『紫式部日記むらさきしきぶにっき』​という代表作も残しています。
ちなみにこれは、当時の彼女の宮中での生活や、また当時の人々の様子を知ることもできるという、今となってはとても貴重な資料となっているわけです。

​紫式部って本名?

​実は、​「紫式部」は本名ではありません。
すなわち、彼女の​本名は、不明ということになります。

なぜなら、​当時は女性が本名をおおやけにすることは​一般的ではなかったのです。
そのため、​本名は記録に残っていないというわけです。

​「式部」とは?

ちなみに​「式部」とは、彼女の​父である藤原為時ふじわらのためとき​が務めていた、官職かんしょく役職)の名前に由来しています。

​​官職かんしょく律令制りつりょうせいに基づいた、当時の​政府の役職のことです。
この「式部」は、いわゆる「式部省しきぶしょう」という役所のことで、主に人事​や学問などを担当していました。

当時の貴族社会では、女性自身ではなく、​あくまで親族(特に父や夫)の官職名を用いて呼ばれることが​よくあったのです。
つまり、紫式部の場合はこの「式部」をつけて呼ばれることが一般的だったわけですね。

すなわち、彼女は

  • 式部省に勤めるお父さんを持つ人」

という意味で呼ばれていたわけです。

式部省(しきぶしょう)とは?

また、​​式部省しきぶしょうとは、奈良時代から平安時代にかけての、重要な行政機関の一つです。

​この「式部省」という役所は、主に​

  • 文官ぶんかんの人事
  • 儀式
  • 学問

などの業務(公務)を担当していました。
したがって、​ここでは役人の採用昇進などといった、​とても大切な仕事をしたわけです。

そして、先述の通り、​紫式部のお父さんがこの​式部省に勤めていたことから、彼女の通称の一部になったというわけです。

紫式部と藤原道長の関係は?

そして、紫式部の才能を見いだした​​藤原道長ふじわらのみちながは、誰もが知る​平安時代の絶大な権力者です。
そして彼の存在は、​紫式部の​運命を大きく変えました。

​​道長は、自分の娘である​藤原彰子ふじわらのしょうしに仕えさせるため、​紫式部を​女房(すなわち、お世話係り)として、宮中に招き入れたのでした。
すなわち、ここでの紫式部の仕事は、​彰子​の​教養を高めることが目的でした。

​​道長は『源氏物語』​の才能を高く評価​しており、彼女の最大の理解者であったと言えます。

道長の娘・​藤原彰子(ふじわらのしょうし)とは?

​​藤原彰子は、​藤原道長の娘であり、また当時の天皇である一条天皇いちじょうてんのう​の中宮ちゅうぐう(つまり、皇后)となった女性になります。

​​中宮ちゅうぐう:天皇の正妻奥様)のくらいの一つであり、とても高い地位になります。

​​紫式部は、この​彰子しょうしに仕えた​女房でした。

藤原彰子の夫の天皇は?摂関政治・政略結婚と関係ある?

藤原彰子ふじわらのしょうしの夫は、一条天皇いちじょうてんのうです。

​このことは、かの有名な摂関政治と​大いに関係があります。

すなわち、​

  1. 父の​藤原道長権力を握るために、
  2. 娘を、天皇のきさき​にする

という、いわゆる政略結婚でした。

​​紫式部も、この​政治的な戦略の一環として​、宮中に招かれた(道長の近くで仕事をするようになった)というわけですね。

​紫式部は美人だった?モテた?

​残念ながら、彼女の​正確な容姿を伝える記録は残っていません
したがって、「美人だったかどうか」は​はっきりとはわかりません。

​しかし、彼女は非常に​才能に溢れた女性でした。
特に​漢文(当時の男性の学問)の知識が深く、その教養は宮中でも一目置かれていたようです。

​また、​『源氏物語』​が宮中で大人気となり、​一条天皇いちじょうてんのう中宮ちゅうぐう皇后)である藤原彰子ふじわらのしょうし​に仕えることになったわけですから、その​魅力​は相当なものだったのでしょう。
すなわち、彼女の​知性と​才能が、何よりも多くの人々を惹きつけたに違いありませんね!

紫式部は結婚歴はある?恋人は?

​ちなみに、​紫式部には結婚歴があります。

藤原宣孝ふじわらののぶたか​という人物と結婚し、後に​娘​の賢子かたこ(または、けんし)をもうけました。

​しかし、夫は​結婚後、まもなく亡くなっています。
そしてその後、彼女が宮中に入るきっかけとなった​藤原道長ふじわらのみちなが​との間に、​親密な関係があった(ラブラブだった?)可能性も指摘されているというわけです。

清少納言との関係は?本名ではない?

ちなみに紫式部と同系列でよく挙げられる​​清少納言せいしょうなごんは、​紫式部と​同時代を生きた​偉大な女性作家になります。

しかし​彼女たちは、いわゆる仕えた​あるじ​(つまりリーダーや上司)が違いました。

  • 清少納言​は​藤原定子ふじわらのていし
  • ​紫式部は​藤原彰子ふじわらのしょうし

という娘さんたちに、それぞれ仕えていました。

​​清少納言も、同じく​本名ではありません。
彼女も、紫式部と同じように、父の​せい​と​官職名​をそれぞれ組み合わせた通称になります。

紫式部は、宮中でどんな仕事・作業をしていた?

​​紫式部宮中きゅうちゅうで務めたのは、中宮ちゅうぐう藤原彰子ふじわらのしょうし​の女房にょうぼうという役目になります。

そこでの​彼女の主な仕事は、道長の娘さんの​彰子に対する​教育係のような役割でした。
すなわち、娘さんに​漢文や​和歌​などの​学問を教えてゆき、さらには​文学的な相談相手になっていました。
もちろん、そのかたわらでの​『源氏物語』​の​執筆活動も、​重要な仕事の一部でした。

宮中に仕える女性は、メイドさんと似ている?

また、​​宮中に仕える​女房にょうぼう​は、いわゆる​メイドさん​とは​少し違います。

​彼女たちは、​確かに掃除身の回りのお世話もしました。
しかしながら、彼女ちにはそれ以上に​和歌や漢文などといった、​高い教養が求められました。
すなわち、​あるじ相談相手​や​教育係もも兼ねたという専門職でした。

​​紫式部も、この​知識層の女房でしたね。
なるには相当な高い知識や教養が必要であり、決して簡単になれる仕事ではなかったでしょう。

当時の女房は、今の女房とは異なる?

​また、​平安時代女房にょうぼうは、​現代の「女房(妻)」​とは​まったく異なるわけです。

​当時の女房は、​宮中きゅうちゅう​や​貴族の邸宅ていたく​に仕えた​高級な知識人であり、​専門職でした。
すなわち、​『源氏物語』​や​『枕草子』​を書いた​紫式部​や​清少納言がその代表ですね。

藤原彰子に教えるくらいだから、紫式部自身も頭が良かった?

紫式部むらさきしきぶ​、非常に頭の良い女性でした。

​すなわち、彼女は、当時の女性が学ぶことの少なかった​漢文の知識が​深く、​才能豊かなことで知られていました。
したがって、その​知性を買われ、​中宮ちゅうぐう藤原彰子ふじわらのしょうし​の​教育係という​、重要な役目を任されたわけですね。

​紫式部の毎日のルーティン・1日は?

​​紫式部の具体的な​一日のルーティンは​はっきりとは残っていません。

​しかし、女房として​あるじである彰子しょうし​の​身の回りのお世話をしたり、​儀式の手伝いをしたりしていました。
また、​空いた時間を使って『源氏物語』​を執筆していたと考えられます。

紫式部の幼少期は?

​​紫式部は、学者の家系である藤原氏ふじわらしの一員として生まれました。
彼女の父、藤原為時ふじわらのためとき漢文の素養が深い人物でした。

​当時の女性は、​漢文を学ぶことが一般的ではありませでした。しかし​紫式部は​、男性が学ぶ漢籍かんせき​まで​、熱心に学んでいたと言われています。
​すなわち、彼女は​幼い頃から、後の『源氏物語』という壮大なストーリーを書き上げるためにも必要な、豊かな教養を身につけていたというです。

​越前市との関係は?

​現在の​福井県越前市えちぜんし​は、紫式部​が​青春時代を過ごした、​ゆかりの地として知られているわけです。

​すなわち、彼女の父、​藤原為時が​越前守えちぜんのかみ(越前の国司)​として赴任ふにんしたときに、​紫式部​も​娘として、父について福井県まで同行したのでした。

​彼女は​約一年間を​越前で過ごし、そのときに都とは違う​地方の生活や​美しい自然に触れたわけです。
そしてこの経験が、後の『源氏物語』​の世界をより豊かにしたのかもしれませんね!

全国にある紫式部の名所(石山寺、越前市など)は?

​​紫式部ゆかりの主な名所は、以下の通りですね。

  • ​​京都:​出生地であり、宮中での​主な活動の舞台になります。
  • ​​滋賀県大津市:​石山寺いしやまでら​が存在します。
    つまり、​『源氏物語』​の​着想ちゃくそうの地であるいうわけですね。
  • ​​福井県越前市:父の​赴任ふにん​に伴い、​約一年間​を過ごした​青春の地になります。

紫式部の代表作・源氏物語とは?

​​源氏物語げんじものがたり​は、​紫式部​が書いた​日本文学の最高傑作になります。

イケメン「光源氏」を主人公とした物語

​主人公は光源氏ひかるげんじという、​架空の貴公子ですね。

​物語は、彼の​恋愛や​栄華、そして​苦悩を​約70年にわたって​、非常に詳細に描いているわけです。
したがって、これは​世界最古の長編小説とも言われているわけです。
平安時代の​美意識や​複雑な人間模様を知るうえで、​欠かせない作品なのです!

日本文学の最高傑作と呼ばれているのは、他に何がある?

​​『源氏物語』以外で日本文学の最高傑作とされる作品は、他にたくさんあります。

​例えば、

  • 清少納言せいしょうなごん​の『枕草子まくらのそうし』​
  • ​中世文学​では、吉田兼好よしだけんこう​の『徒然草つれづれぐさ

などですね。

文学のカテゴリーは違う?

ちなみに、

  • 源氏物語・枕草子・徒然草
  • 人間失格・こころ・伊豆の踊子

などは、確かにそれぞれ同じ(国語の授業で習うほどの)日本文学の最高傑作です。
しかし、そもそものカテゴリーが違います。
これらの作品は、そもそまも成立した時代や​形式が違うため、​文学的なカテゴリーは異なるわけです。

まず​​『源氏物語』​などは、​平安時代の​物語や​随筆ずいひつ​です。
すなわち、​古典文学​に分類されます。

一方、​『人間失格』​などは、​明治時代以降の​近代小説になります。
最高傑作という評価軸は確かに同じですが、そもそもの​ジャンルは大きく違っているわけです。

紫式部が「源氏物語」の着想を得た、石山寺

源氏物語と、​石山寺との関係

​​石山寺いしやまでらは、滋賀県に存在しているお寺であり、ここは​紫式部が『源氏物語』​の着想ちゃくそう(すなわち、アイデア)を得た​とされる聖地になります。

​すなわち、

  1. 彼女はこの寺に​こもって(宿泊して)​、
  2. 琵琶湖びわこに映る美しい月を眺めているときに、
  3. まさに、物語の​構想ひらめいた

という​伝説が残っているというわけです。

​今でも石山寺には、「源氏の間」​というものが存在します。
ここでは、彼女が執筆したと伝わる場所を見ることができます。

石山寺での構想は、近江八景と関係がある?

​ちなみに、​紫式部石山寺いしやまでら​で『源氏物語』の構想を練ったという伝説は、​

  • いわゆる近江八景おうみはっけい​の一つである​、石山秋月いしやまのしゅうげつ

​と​も深く関係しているわけです。

​すなわち、​

石山寺から見る、​琵琶湖びわこに映る美しい秋の月の光景

こそが、まさに物語の着想ちゃくそうを彼女に与えたと伝えられているわけです。

紫式部が石山寺へやってきた理由・きっかけは?

​​紫式部が​石山寺へやってきたのは、いわゆる観音様かんのんさまへの信仰のために、参籠さんろうした時だと伝えられています。

観音様:人々の苦しみなどを聞く(それによって救う)仏様のことです。

​すなわち、

  1. 石山寺で​を眺めているときに、​
  2. 『源氏物語』​の、​須磨すま​や​明石あかし​といった巻の​構想こうそう​が​ひらめいた

という​伝説が残っているわけです。

源氏物語は、どんな作品?

紫式部の代表作ともいうべき​『源氏物語』​は、​天皇の​子​として生まれた光源氏ひかるげんじ​の生涯を、約50じょうにもわたって描いたという物語になります。

​​じょう:物語の章や巻のような、区切りの単位になります。

約50帖は、現在の小説で何ページ?

この​​​約50帖の​文字数は、約100万字に及ぶと言われているわけです。
​これは、現在の​文庫本に置き換えて換算すると、​約10冊分、​ページ数で言えば​約4000ページにもなるという、まさしく大長編です!!

​したがって、​彼女が平安時代にこれほど​膨大ぼうだい​で​複雑な物語を書き上げたことは、まさしく本当に​驚くべき偉業ですね!

光源氏とは?

​​光源氏ひかるげんじは、『源氏物語』主人公になります。
彼は天皇の子として生まれながら、​身分を降ろされめしまい、その臣下しんか(家臣・部下)という身分となるわけです。

そして​彼は、非常に​飛び抜けた美貌才能を持っていたことから、「ひかる」という名前がつけられました。

光源氏は実在の人物?架空の人物?

​​光源氏ひかるげんじは、

『源氏物語』の中に登場する、架空の人物

ということになります。
すなわち、​実在した天皇や​貴族というわけではありません。

​しかし、彼は当時の​理想的な貴公子・イケメンの要素を​、全て集めて生み出された​キャラクターと言えます。
したがって、光源氏は平安時代の​美意識や​憧れが凝縮ぎょうしゅくされた存在であるというわけです。

光源氏のモデルが藤原道長という説は?

また、​​光源氏のモデルの一人として、藤原道長ふじわらのみちながが有力だとされています。

​​道長は、​言うまでもなく絶大な権力と​栄華を極めた人物になります。
すなわち、「光源氏の​華やかで成功した姿」は、まさに​道長反映だと考えられているわけです。

​ただし、​光源氏はあくまで​多くの貴族の特徴を複合した存在であり、単に​道長一人だけをモデルにした、というわけでは決してないようです。

光源氏は紫式部の「理想の彼氏像」だったりする?

​​光源氏ひかるげんじ​は、やはり​紫式部​の​理想の貴公子(理想のイケメン)が​形になった存在と言えます。

​すなわち、彼女はもはや現実にはいないような、​完璧魅力あふれる人物を創造したのでした。
しかし、物語には彼の苦悩​も描かれており単なる「理想の彼氏」というだけでは終わらないような​奥深さもあります。

アイドルグループ「​ 光GENJI」は、光源氏がモデル?

​​光GENJIは、1980年代後半から1990年代にかけて活躍した​日本の男性アイドルグループですね。
​このグループ名は、​『源氏物語』の主人公である​光源氏ひかるげんじモデルになっています。

​つまり、グループの​華やかで魅力的なイメージを、​平安時代の貴公子である​光源氏になぞらえて名付けられたわけです。​
まさか日本のポップカルチャーにまで影響を与えているとは、​紫式部も驚きでしょう!

光源氏

​彼は、

  1. 初めは​並外れた美貌才能を持ちながら、​
  2. 身分の低い女性を愛してしまったことから、
  3. 源氏げんじ」というせいを与えられ、
  4. 臣下しんか(天皇の家臣・部下)となる

というわけです。

栄華から苦悩へ 光源氏の物語

​物語の前半においては、まず彼の​様々な女性との​ロマンスと、宮中きゅうちゅうでの​栄華​を中心に展開してゆきます。
しかし、後半になると、彼の​苦悩や​報いが描かれてゆき、さらには人生の無常むじょうさ・儚さが主題になっていくわけです。

​​光源氏が亡くなった後、物語は「宇治十帖うじじゅうじょう」​へと移ってゆきます。
すなわち、​光源氏の子孫たち​の愛憎あいぞう​や、運命​が描かれた後に、この壮大な物語​は幕を閉じるというわけです。​
まるで、人間の心の奥底​までをも描いたような、とても深い作品です。
そして、現代にまで語り継がれているというわけです。

​おわりに・まとめ

さて、今回は紫式部の​波乱はらんに満ちた生涯や、​驚異的きょういてきな才能について、たくさんのことを学んできて、いかがだったでしょうか

​彼女が​下級貴族の娘でありながら、​努力と​才能で​最高傑作を書き上げたという事はとても驚くべきことになります。
また、

  • 石山寺で月を眺めながら物語を書いた​心情
  • ​幼少期に、越前(福井県)で感じた​自然

などのことを想像すれば、今後は紫式部ゆかりの地への​探訪​が、​もっと面白くなることでしょう。
ぜひ、​歴史のロマンを​旅で感じてくださいね!

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