愛知県小牧市にある小牧山について、「小牧・長久手の戦い」や織田信長から秀吉・家康へと受け継がれたその歴史を、わかりやすく解説します!
愛知県小牧市にある「小牧山」
信長が築いた「理想の城下町」と、天下分け目の心理戦

小牧山(愛知県小牧市)
愛知県小牧市にある小牧山は、標高86mほどの小高い山になります。
愛知県小牧市とは?
ちなみに愛知県小牧市とは、愛知県における名古屋市のやや北東にある街となります。

名鉄小牧線・小牧駅(愛知県小牧市)
小牧山城とは?(愛知県小牧市)
小牧山城は、そのポツンとそびえる小牧山の上に建つお城です。
ただし、わずか86mほどの山とはいえ、回りの平野にあるビルや家よりは高い山となっています。
そのため、周辺地域からもそこそこ目立つ山にはなっています。
戦国時代、誰からも欲しがられた小牧山
また、戦国時代までは、まだ立派なお城を建てるのは難しかったのでした。
そのため、高い場所にあり防御力も高く、見通しもいいこの場所は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった時の権力者からすれば、喉が出るほど欲しいような立地にありました。
小牧山城のワクワクするエピソードを探しに行こう
しかし小牧山城は、日本の歴史を大きく動かした武将たちが、知恵を絞った特別な場所というわけですよ!
歴史を紐解くと、ワクワクするようなエピソードが盛りだくさわけです。

筆者、小牧山前より(愛知県小牧市)
小牧山城とは(愛知県小牧市)
信長が初めてゼロから作った「小牧山城」

小牧山(愛知県小牧市)
織田信長は、かつて美濃(現在の岐阜県)を攻略していくための拠点として、1563年にこの小牧山城を築きました。
織田信長が作り上げた、それまでの城の役割との「変化」「革命」
それまでの従来の城は、ほぼ防御のみがメインであり、それ以外の用途はなるべく削減したような、簡素な城も多かったのでした。
しかし、信長はここ(小牧山城)にきて初めて、
- 「見せるため(権力者の威厳を示すため)の城」であること
- 山の上に政治の拠点を作ることで、下(ふもと)で暮らす人々を「見下ろす」ような形となり、いい意味での威圧感を作る
- 「本格的な城下町を作り、そこで経済を発展させる」
などの機能をセットで作り上げたというわけです!
なぜ濃尾平野に「小牧山」だけがポコっとあるの?
濃尾平野という見渡す限り平らな平野に、標高86mほどの山が一つだけあるのは、少し不思議に見えますよね。
これには、大地の成り立ちが関係しています。
硬い岩石が侵食されず、たまたま残った孤立丘(こりつきゅう)
小牧山は、
- かつて周囲にあった「柔らかい(削られやすい)」地層が、
- 長い年月をかけて、雨風によって削られていった(浸食された)後に、
- たまたま真ん中にあった「硬い岩石」の部分だけが、
- なぜか削られずに(耐えて)残されて、山になった
というものです。
このように(小牧山のように)、平野の中においてあえて一つだけポツンとして残った丘や山のことを、「孤立丘」と呼びます。
平野を広く見渡せる、天然のレーダー装備拠点
小牧山は、広大な愛知県・岐阜県にまたがる平野である濃尾平野の中に、ぽつんと立っています。
そのため昔から、山の上から平野を広く見渡すことができるという、その展望がまさに最高によい場所でした。
また、小牧山からの景色は、周りに遮るものがあまりないため(今でこそ周辺は多くのビルや住宅地が建っていますが)、遠くにいる敵の動きが「丸わかり」だったというわけです。
つまり、それくらい広く見渡せるという、絶好の防御拠点であったというわけです。
だからこそ、小牧山は(当時の戦国武将や権力者ならば)誰もが欲しがるような、軍事的な重要拠点として選ばれたわけですね。
計算された城下町
また、小牧山城のように、山の下に家臣(部下)や商人たちを住まわせるというスタイルは、後の安土城のモデルになったと言われています。
引越しはたったの4年
しかしながら、小牧山城は織田信長がこれほど力を入れて作ったのにも関わらず、美濃(岐阜県)を制圧すると、すぐに岐阜城へ移ってしまいました。
つまり、すぐに引っ越ししたというわけですね。
これは、時代の変化に合わせて速やかに環境を変えたからと言われています。
彼(信長)のスピード感には、本当に驚かされますね!
秀吉vs家康!唯一の直接対決「小牧・長久手の戦い」
小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いとは
「小牧・長久手の戦い」は、織田信長が「本能寺の変」で亡くなった後に「誰が本当に一番エラいのか」について争った、羽柴秀吉と徳川家康による、最初で最後の直接対決です!
この戦いは、
- 軍事的には、家康が勝利(つまり勝負には勝ったが、試合には負けた)
- 政治的には、秀吉が勝利(つまり勝負には負けたが、試合には勝った)
- 結果、お互いを認め合い和睦という形で終了
という、なんとも不思議な決着を見せた戦いでした。
戦いはその名のとおり、現在の愛知県・名古屋のやや東にあたる、小牧市・長久手市の周辺で行われました。
戦いのきっかけ:信長の息子・信雄の訴え
織田信長が滅んだ後、羽柴秀吉がどんどん力をつけていくことに危機感を持ったのが、信長の次男である織田信雄でした。
すなわち、息子の信雄は、
と考え、父・信長の旧友である徳川家康に対して助けを求めたのでした。
一方の家康もまた、巨大化・強大化していく一方の秀吉をここで食い止める必要があると考えていたため、(信長の息子の)この誘いに乗りました。
このように、名目上は「織田家を救う」という大義名分のもと、ここに家康と秀吉が激突することになったのです!
大義名分:行動を起こすための、もっともらしい正当な理由のことをいいます。
犬山城が夜襲により、織田側→秀吉側へ
秀吉の電撃作戦、総大将・秀吉の入城
そしてこの当時、
- それまでは、織田信長の息子である織田信雄の家臣(部下)が守っていた犬山城を、
- 秀吉側の池田恒興が、新たに夜襲を仕掛けたことによって、
- 犬山城を奪い取り、犬山城は織田側から秀吉側のものとなった
というわけです。
犬山城は、愛知県犬山市にある国宝天守になります。
この「犬山城攻略」という一報を聞いた秀吉は大きく喜び、その後にめでたく犬山城へと入ってくることとなりました。
そして、この犬山城を家康軍を攻めるための本陣(司令部・本拠地)としました。
犬山城については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

一方の家康は、小牧山城に本拠地を構え、秀吉の攻撃に備えた
一方の家康の軍は、近くの小牧山城にたどりつき、陣を張りました。
つまりお互いに「秀吉 vs 家康」がにらみ合うという、緊張感マックスの最前線となったわけです。
天下人・家康が実際にこの小牧山城において、部下たちと軍議(=重要な軍事会議のこと)を重ねたのかと思うと、なんだかワクワクしてきませんか?
小牧山を包囲し、家康を攻撃した秀吉 しかし「おびき寄せ」には失敗
秀吉軍の側は、約10万もの大軍を率いて家康が構える小牧山を包囲しましたが、家康側は忍耐強く、一歩も動きませんでした。
そして、これに焦った秀吉軍が、家康の本拠地である三河地方(愛知県東部)を後ろから突こうとして、逆に返り討ちにあったというのが、やや南にある長久手の(愛知県長久手市における)戦いです。
そのため、「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるわけですね。
なぜ家康は、秀吉を迎え撃つ場所に「小牧山」を選んだのか?
ちなみに、徳川家康が小牧山を陣地にしたのは、ここが「天然の要害」であり、また「高いところから、敵を広く見渡せる」という最高の場所だったからです。
見通しがよく、秀吉の動きが「丸見え」だった小牧山
例えば、北にある犬山城に秀吉軍が入ってきたとき、小牧山の頂上からは彼ら(敵の秀吉軍)の動きが、クリアに把握できたのでした。
逆に秀吉側からは、家康が小牧山の中で、果たして何を企んでいるのかが見えにくく、わかりにくかったということです。
このように小牧山は、まるで「レーダーを備えたような、広く見渡せる拠点」という役割を果たしていたというわけですね!
信長の遺産・基礎をフル活用 家康、小牧山城をさらにバージョンアップ
また、家康が小牧山に来る20年前には、織田信長が山を削って平地を作ったり、便利な道を整備したりしていたため、既にお城としての基本は出来ていたのでした。
そして家康は、そんな信長が作ったベース(基本)をさらに巨大な堀や土塁を付け加えて、バージョンアップしてゆきました。
土塁:敵の侵入を防いだり、矢や鉄砲から身を守ったりするために、土を盛り上げて作った、まるで堤防のような壁のことです。
自然の造形が、歴史を動かした!
もし小牧山が、もっと削れやすくモロい岩の山で出来ていたら、家康はここで防御を構えることができず負けてしまい、日本の歴史はもっと変わっていたかもしれません。
もし負けていると、1603年に江戸幕府を開くことも無かったからですね。
つまりそれだけ硬い岩からなる小牧山という防御拠点があったからこそ、家康は秀吉に負けなかったというわけですね!
秀吉、長久手への奇襲 家康による返り討ち
長久手へ回る秀吉→背後から見事に突いた家康 秀吉「家康恐るべし」
それだけ屈強な小牧山を落とせずに焦った秀吉は作戦を変更し、家康の本拠地である三河(愛知県東部)方面を奇襲しようとしたのでした。
そして秀吉の別軍が三河方面へと移動しようとしていたところを家康は事前に見事に読み切り、やや南東にある長久手の地において、なんと背後から秀吉軍に襲いかかり、木っ端微塵に返り討ちにしたのでした。
まるで「忍者」の情報網? 秀吉軍の「こっそり移動」をいち早く察知
このように家康は、秀吉軍の不穏な(三河方面へ攻めようとする)動きを素早く察知しました。
すなわち、
- 秀吉が、家康自らの地元である三河地方を破壊しようと移動していると分かった瞬間に、
- 家康は小牧山を、なんと夜の陰に身を任せて抜け出し、
- 逆に秀吉の別働隊を、後ろから追いかけ奇襲した
というわけです。
てっきり「家康にバレずにこっそり攻めているつもり」だった秀吉軍は、いきなり目の前に徳川家康・本人が現れたために、パニック状態に陥ってしまったのでした。
家康が軍事的に、圧倒的に秀吉軍を上回った理由
このように家康が軍事的に、圧倒的に秀吉軍を上回った理由は、他にもたくさんあります。
チームワークが固かった家康の味方「三河武士」たち
例えば、「三河武士」と呼ばれた最強の家康身内チームの部下たちは、非常に結束・チームワークが固く、士気も高かったのでした。
一方の秀吉軍(別働隊)は、あくまで「寄せ集めの軍勢」で士気も低かったこともあり、不意を突かれたときのもろさが露呈してしまいました。
別働隊:本隊(メインの大きな軍勢)とは別に、特別な目的(例えば奇襲や裏切り、拠点防衛など)のために、本隊と切り離して行動させる部隊のことです。
家康の意地「何がなんでも、地元・三河を守る!」
さらには、徳川家康にとって本拠地・地元の三河地方を荒らされることは、絶対に許されないことでした。
その怒りと執念こそが、スピーディーな察知と軍の移動を可能にしたのかもしれませんね!
徳川家康の出身地である愛知県岡崎市および岡崎城については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

秀吉、有力な部下も次々に撃ち取られた
秀吉側は、この「長久手の戦い」における敗戦により、
- 先述の池田恒興
- 森長可(織田信長の側近だった森蘭丸の兄)
といった有力な家臣(部下)たちを討ち取られてしまいました。これは大幅な戦力ダウンにつながります。
そして、「家康、恐るべし…」と、秀吉はその軍事能力の高さを痛感したと言われています。
すなわち、戦場での駆け引きにおいては、完全に家康側に軍配が上がていたというわけですね!
森蘭丸をはじめとする森氏については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

秀吉による巧みな交渉、最後は「和睦」で決着
家康の軍事力に圧倒された秀吉 やむを得ず信長の息子の「説得」にかかる
このように、もはや戦場で勝てないと悟った秀吉は、すぐに得意の「外交・政治交渉」に切り替えました。
つまり、この戦いにおいて家康が小牧山において鉄壁の守りを見せたため、秀吉はそれ以上の正面衝突を避け、それまで家康が掲げていた「大義名分」を、根こそぎ奪い取る作戦に出ました。
なんと、家康の同盟相手であった織田信雄を、家康に無断で説得し、勝手に和睦(仲直り)させてしまったのです!
秀吉にうまく説得された、信長の息子 家康は戦う理由を失う
このように、助けるべき対象(信雄)が戦いをそこでやめてしまったため、家康としてはこれ以上戦い続ける理由を失ってしまいました。
これによって、家康は「助けるべき相手」が完全にいなくなってしまいました。
それまでの家康は「信雄さまのために戦っている!」と言っていたのに、その信雄本人が、
と言い出したというわけです。
こうなってしまうと、もはや家康は戦いを続ける理由(戦闘意義)が、完全に失われてしまいました。
和睦 家康は、秀吉の部下になる道を選んだ
結局、この場所では決着がつかず、和睦することになりました。
すなわち、家康も秀吉と和睦せざるを得なくなり、後に秀吉の臣下(部下)になる道を選んだわけです。
そして、この戦いがあったからこそ、その後の秀吉は家康のことを「ただの部下」ではなく「一目置くべき実力者」として、それからは特別扱いするようになりました。
その後の秀吉・家康は
小牧・長久手の戦いの後、秀吉と家康が争うことは無くなった
この後、徳川家康が豊臣秀吉と争うことは(大坂の陣で息子の秀頼と争う以外は)これ以降は一度もありませんでした。
つまり、まさにお互いが認め合ったような関係となります。
その後に羽柴(豊臣)秀吉が天下を統一していく中において、徳川家康は秀吉の部下として、忠実に働きました。
また、後北条氏を倒すための小田原征伐でも大きな功績を挙げています。
後北条氏および秀吉の小田原征伐などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

関東への「左遷」と「チャンス」
その後、秀吉は家康の力を恐れ、家康を先祖代々の土地(三河地方)から引き離し、当時はまだ開発も進んでいないような田舎だった江戸(現在の東京)へと移り住むように命じたのでした。
これは普通なら怒るところですが、家康はこれを「新しい巨大な領地を作るチャンス」と捉えて、静かに力を蓄えたのです。
また、家康は、秀吉が生きている間は決して反旗を翻すことはありませんでした。
すぐに天下を欲しがるのではなく、秀吉という巨大な太陽が沈むのを、じっと待ち続けていたというわけですね!
秀吉の死後、ついに動き出す
やがて1598年に秀吉が亡くなると、徳川家康の中で止まっていた時計の針がついに動き出します。
ここで起きたのが、1600年の天下分け目「関ヶ原の戦い」です。
秀吉の息子・秀頼ではなく、三成と戦う「豊臣家を守る」というポーズ
この「関ヶ原の戦い」は、まだ豊臣秀吉の息子である豊臣秀頼との戦いであったわけではありません。
では誰と戦ったのかというと、秀吉の遺志を継ごうとする石田三成や小西行長ら(西軍)であり、その西軍に対する家康(東軍)の戦いでした。
この「関ヶ原の戦い」のとき、徳川家康はあくまで「私は秀頼さまのために、相応しくない部下である石田三成を成敗してやるのだ」という理由・大義名分のもとに戦いました。
したがって、この時点ではまだ豊臣家そのものと戦っているわけではなかったというわけです。
関ヶ原の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

最後の最後、大坂の陣へ
しかし、そんな徳川家康が約15年という沈黙を破り、「豊臣家」を倒そうと決意し、直接対決したのが、秀吉の死から16年以上も経った1614年・1615年の「大坂の陣」でした。
- 秀吉が生きている間は、協力関係(表面上は主従)だった。
- 「関ヶ原の戦い」においても、まだ豊臣家の家臣(部下)としての立場を、あくまでも崩さなかった。
- しかし大坂の陣において、ようやく豊臣家(秀頼)を滅ぼし、完全に江戸幕府の基礎を固めた。
徳川家康の人生は、まさに「長い長い待ち時間」の連続だったと言えます。
秀吉という天才が生きている間は絶対に無理をせず、自分の時代が来るのを待つ…。
その忍耐強さこそが、最終的な勝利を招いたのかもしれません。
大坂の陣については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

小牧山城まとめ:歴史のターニング
このように、小牧山からは当時の武将たちが「ここから天下を見るぞ!」と意気込んでいた姿が目に浮かぶようです。
- 織田信長が城下町の基礎を築いた。
- 徳川家康が秀吉を食い止めた要塞だった。
- 濃尾平野を広く見渡せるという、最高の立地だった。
すなわち、小牧山城は家康の軍事力の凄さを秀吉に思い知らせたという、まさに歴史的な場所ですね!
おわりに・まとめ
小牧山の地理や歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。
一見すると平野にぽつんとある可愛い山ですが、徳川家康がなぜここを選んだのか、その視点を想像しながら歩くと、当時の風まで感じられそうですね。
その成り立ちや戦略的な価値を知ることで、より観光や探訪が奥深いものとなることでしょう!
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