福島県伊達郡国見町にある東北本線・藤田駅について、その知られざる興味深い地理・歴史などを、わかりやすく解説してゆきます!

東北本線・藤田駅(福島県伊達郡国見町)
今回は、福島県・藤田駅についての深い話題

東北本線・藤田駅(福島県伊達郡国見町)
今回の話題は、福島県伊達郡国見町にある、藤田駅についてです!
この藤田駅は東北本線の駅であり、県庁所在地の福島市・福島駅のやや北にある駅ですが、歴史や地理の視点で見ると、実はとても奥が深くて、様々な歴史的エピソードがあるとても興味深い駅であるというわけですよ!
東北本線のこの地域(福島県・伊達地域)については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

福島県国見町の駅・藤田駅
なぜ「国見駅」ではなく「藤田駅」なの?
まず、駅が所在する町名は国見町なのに、中心にある駅の名前が藤田駅なのはちょっと不思議ですよね。
実はこれ、市町村合併の歴史が深く関わっているわけです。
- 合併前→藤田町
- 合併後→国見町
- 駅名→「藤田駅」のまま
このように、「名前が違うのには、ちゃんとした理由があったんだ!」と分かると、スッキリしますね!
合併前の伝統的な「藤田」という地名が、そのまま駅名として残された
さらに具体的に言うと、
- 藤田駅が開業したのは、まだ日本では鉄道の歴史が始まった頃の明治33年(1900年)のことでした。
- 当時は「藤田町」という独立した自治体でした。
- 1954年(昭和29年)に、藤田町を含む5つの村が合併して、「国見町」が誕生したのでした。
すなわち、「藤田駅」という駅名は合併前の伝統的な(古くから存在した)町名・地名である「藤田」を現在に至るまで使い続けている、というわけです。
まさしく地名に歴史が刻まれている、ということが感じられますね!
藤田駅の存在する、福島県・国見町
では次に、藤田駅の存在する町である、福島県伊達郡国見町について詳しくみてゆきましょう。
「国見町」は合併で生まれた「新しい名前」
先述の通り、国見町という名称は、1954年の合併時に新しく採用された名前です。
では、なぜ合併の際に「藤田町」から「国見町」へと変わったのか。
それは、おおむね以下のような理由になります。
- もし特定の村の名前(例えば「藤田町」など)だけを使って合併すると、
- 既存の他の村から「まるで吸収されたみたいで寂しい」という、切ない声や反対意見が出る
ということがよくあります。
つまり、吸収合併のようなイメージが付きまとうことになるわけです。
これは、それまでの地元の伝統や地名に誇りを持ってきた人々のプライドを損ねることにもつながりかねません。
そこで、みんなが納得できるように、この地域のシンボルである阿津賀志山にちなんだ名前である、「国見町」という名前を合併後の町名として選んだというわけですね。
すなわち、これは地域・地元の人々の気持ちを一つにするための、優しい知恵だったと言えますね!
伝統的な地名は「藤田」、合併後の新たな地名は「国見(町)」
したがって、歴史の重なりは以下のようになります。
- 藤田:古くから宿場町として栄えてきた、この地域の中心地の伝統的な名前です。
- 国見:昭和期の合併において、既存の5つの町村からなる、新たに付けられた名前です。
すなわち、伝統的な「藤田」という地名の上に、新たな(合併前の周辺地域を含めた)広域の地名を指す「国見」という名前が重なっているようなイメージになります。
駅名だけが「タイムカプセル」のように残った!
ちなみに鉄道の駅名は、今回の「藤田駅」のように、
- たとえ町の名前が変わったとしても、そのまま使い続けられる
ということがよくあります。
それは、駅名を変えるためには、多額の費用やさまざまな手続きが必要になってくるという、複雑な事情があるからです。
そのため、明治時代からの「藤田町」だった頃の名前「藤田駅」そのまま駅名として残り、今に至るまで生き続けているというわけです。
すなわち、合併のときも全国の人にとっては既に「藤田駅」として定着していたため、合併して「国見町」となった後も、「藤田駅」の名前がそのまま残ったというわけですね!
奥州藤原氏の荘園→藤原氏の大きな田んぼ→藤田
ちなみに勘のいい人であれば、「藤田」という地名の由来を考えたときに、
という図式(連想ゲーム)を思い浮かべるのではないでしょうか。
結論から言うと、その推察・連想ゲームは歴史のロマンとして「大正解」に近いといえます。
もちろん厳密な学術説においては、そもそも複数の由来が語られたりもしており、上記の図式は必ずしも定かなものではありません。
しかしながら、
というイメージは、この土地の歴史背景に対して、ある意味ではピッタリ重なったりもするわけです。
「奥州藤原氏」の巨大な重要防衛拠点だった土地
まず、「藤田」→「藤原氏の田んぼ」という考え方についてですが、これは
- 平安時代の終わりごろ、福島県のやや北部にあたるこのあたり一帯(信夫郡・伊達郡)は、
- かつて岩手県・平泉あたりを支配して栄華を誇っていた奥州藤原氏にとっては極めて重要な、
- 直轄地のような場所・土地だった
というところからきています。
直轄地:国が直接支配して、そこで採れた収穫や利益を、まるごと管理するための土地のことです。
つまり「藩」や「県」などの支配ではない土地ということですね。
奥州藤原氏および平泉の栄華などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

今も国見町に残る、防衛バリヤーの跡「阿津賀志山土塁」
このように藤田・国見町は、かつて奥州藤原氏の巨大な重要防衛拠点の土地であったというわけです。
すなわち、
- 彼ら奥州藤原氏にとって、ここ・藤田の地は、
- いずれ南(関東地方あたり)から攻めてくるであろう、(例えば源氏などの)敵を防ぐための「守るべき防衛ライン」でもあった
- その「防衛ライン」は、今でも阿津賀志山土塁という土を盛り上げた人工のバリヤーとして、国見町に残っている
というわけです。
源氏(源頼朝など)の攻撃に備えていた、奥州藤原氏
逆にいえば、ここを突破されると、さらに北部にある自分達の領土(宮城県・岩手県あたりまでもが)が侵されてしまう、というリスクもあったわけです。
しかし最終的には、岩手県の平泉と奥州藤原氏は、残念ながら後に鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝によって滅ぼされることになります。
すなわち、かつてここで黄金文化を築いた奥州藤原氏という一族が、この地の豊かな実りを守ろうとしてきたというわけですね。
「藤」の字に込められた一族の誇り
実は、「藤田」という地名そのものが「藤原氏」から直接取られたという公的な記録は、今のところはっきりとは見つかっていません。
しかしながら、この地域には「藤」の字に関する伝説が多く残っていたりします。
- 古い記録では、この地を「藤田の荘」と呼ぶことがあります。
- つまり、藤原氏(奥州藤原氏)らが一生懸命に耕し、守ってきた、とても大きな田んぼが広がっていたということです。
- そのため、藤原氏の「藤」と、豊かな「田」の文字がそれぞれ組み合わさって、「藤田」という地名が定着した
という説が浮上してくるわけです。
これは、東北を支配した奥州藤原氏への敬意や、一族の影響力がどれほど絶大だったかについてを、今に物語っていると言えるでしょう。
すなわち、
という、当時の人々の願いが込められているようで、素敵だと思いませんか?
藤原氏については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

荘園およびそのルーツとなった一身田などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

藤原氏が去った後も、名前は生き続けた
しかし先述の通り、奥州藤原氏は残念ながら最期には源頼朝によって滅ぼされてしまいます。
しかし、彼らがかつて平安時代、必死になって耕し守ってきた「田んぼ」と「藤田」という名前は、今に至るまでそのまま残りました。
その後、江戸時代には藤田宿として、明治時代には藤田駅として、歴史的にその名前が受け継がれていったわけです。
たとえ、一族が滅んでも「藤田」という地名は今に至るまで残る…これこそが、まさに土地に刻まれた「生きた歴史」というわけですね!
奥州街道・藤田宿(藤田駅・国見町関連)
明治天皇と藤田宿の大きな関連性
かつて明治天皇も休息した由緒ある宿場町
また、藤田駅の周辺は、かつて江戸時代から奥州街道の「藤田宿」という宿場町として栄えてきた場所になります。
まず奥州街道とは、今でいう「東北新幹線」「東北本線」「国道4号」のルーツとなる、江戸時代のメインルートとなる道です。
この道は、江戸(東京)から青森まで約20日もかけて、徒歩または馬によって、旅や参勤交代などのために通るための道でした。
今と比べたら砂利だらけで通りにくい険しい道でしたが、当時としては最も綺麗に整備された、画期的な道でした。
また、藤田宿は明治時代に明治天皇が東北巡幸の際に休憩された場所でもあります。
奥州街道を旅する人たちにとってとたも重要だった藤田宿
この藤田宿は、江戸時代から「交通の要所」として、先述の通り休憩所(+食事・宿泊の場所)として、さらには福島盆地から北へ抜けるための、まさに「玄関口」だったわけです。
すなわち、高速道路でいえば、まさにサービスエリアやインターチェンジまで兼ねたような、旅や移動には不可欠な重要な場所・拠点だったわけですね!
このように、藤田宿にかかった当時の旅人たちが、さらに北を目指すために、これから始まる険しい峠越えを前に、「わらじ」を引き締め、締め直していたという勇ましい姿が目に浮かびますね!
明治天皇の「東北巡幸」とは?
また、「巡幸」とは、天皇がじきじきに各地を直接まわって、国民の暮らしを確認されるための旅のことです。
明治時代になり、まだ新しい政府ができて間もなかった当時、明治天皇が東北の人々に直接「これからは新しい時代だよ!」と伝えるためのまさに大イベントでした。
あの明治天皇が地元に直接来られるということで、地元の人は総出の大歓迎ムードになったことでしょう。
当時まだ東北地方に鉄道は開通しておらず、主に馬車などで移動された
明治時代はまだ鉄道黎明期だったため、既に鉄道が開通している区間においては鉄道(しかも最も豪華な車両)に乗られました。
しかし、まだ鉄道が通っていない区間においては「馬車」や「駕籠」などで移動されました。
しかし、明治天皇が東北地方に来られた明治14年(1881年)にはまだ現在の東北本線は開通していませんでしたので、このときは馬車(きつい峠のときは人力車)などで移動されたといいます。
天皇陛下が直接地元へ来られるということで、地元は「大歓迎ムード」に
この天皇陛下じきじきに現地を訪れる「東北巡幸」は、当時の人々にとって、天皇陛下を直接拝めるという、一生に一度の奇跡のような出来事だったはずですよね!
- 明治14年(1881年)の巡幸は、特に大規模なものでした。
- 天皇は、各地の産業や教育の様子を視察されました。
- この旅のおかげで、東北の道路整備が、一気に進んだとも言われています。
明治天皇は藤田宿において、どんなことをされたのか?
また、明治天皇がこの藤田宿に立ち寄られた際には、いわゆる旅の途中の「お昼休み(小休止)」をとられました。
休憩中には、ただ休むだけでなく、その土地の有力者と会ったり、現地の様子を熱心に聞いたりされたそうです。
このように、たとえ短い時間・期間であっても「天皇が休まれた聖地」となるわけですから、当時の村人たちの緊張感と喜びは計り知れないものだったでしょうね!
あの土方歳三も藤田宿を駆け抜けた?
幕末の新選組の「鬼の副長」として恐れられた土方歳三も、かつて新政府軍から逃れて北へ北へと逃げるときに、彼は藤田宿を間違いなく通過しています!
戊辰戦争真っ最中のときの慶応4年(1868年)、彼らは(江戸幕府を守るため)新政府軍に対して歯向かったために敵に回してしまい、追ってくる新政府軍から逃れるために、土方歳三率いる新選組は、北へ北へ逃れていくという最中でした。
北へ敗走する土方歳三と新選組 この奥州街道と藤田宿あたりも通過した
そして、彼らは北関東を命からがら抜け出して北上してゆき、仙台へと向かう撤退戦の途中で、この奥州街道を北上してゆきました。
土方歳三はそのとき、明治新政府軍にずっと負け続きという敗戦の苦しみの中にありました。
そして、ここを通り阿津賀志山の険しい地形を見て、新政府軍を翻弄した天才的戦術家として、何を思ったのでしょうか。
土方歳三・新選組の北上経過まとめ
- 土方歳三は宇都宮(栃木県)や会津(福島県やや南部の内陸部)において戦った(敗戦)後、逃げるように仙台を目指して北上していった。
- 藤田宿は、会津と仙台の間にあり、この両地点をそれぞれ結ぶ主要ルート(奥州街道)上にある。
- 仙台に入った後、折浜(石巻市)で榎本武揚の艦隊と合流した。
したがって、彼もまた、藤田駅の周辺に広がるあの景色を見ていたということになります。
このように、奥州街道は幕末には軍隊や志士たちが頻繁に行き来した「動乱の道」でもありました。
土方歳三の撤退戦については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

国見町と阿津賀志山(藤田駅関連)
源頼朝と奥州藤原氏にとって不可欠だった「阿津賀志山」
地理的な特徴としては、北側にそびえる阿津賀志山が欠かせません。
この山は、かつて源頼朝と奥州藤原氏が戦った「阿津賀志山の戦い」の舞台というわけです。
阿津賀志山の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

国見のイメージは、まさに「見渡す」こと!
「国見」のイメージは、まさに「(世界を)見渡す」ということにあります。
阿津賀志山の山頂から、広大な福島盆地(信夫の里)を見渡す様子から来ています。
源頼朝がかつてこの地を制圧したときには、まさにその絶景を眺めて(「国見」をして)、
と感じたのかもしれません。
神武天皇も、かつては奈良県御所市の地で「国見」をした
また、初代天皇である神武天皇も、かつては奈良県御所市の地にある、とある山の上から、いわゆる「国見」をしたエピソードがあります。
「国見」という言葉は、偉い人・権力者が「世の中を広く見渡す」の意味もある
この神武天皇のエピソードのように、「国見」という言葉には、その時代の統治者がその土地を広くあまねく確認するという、とても力強いイメージのニュアンスのある言葉というわけです。
阿津賀志山も同じように、奥州(東北地方)への入り口となるまさにこの場所を見下ろすための絶好のポイント・地点でした。
そのため、この地点は戦略的・軍事的にみても、また景色としても「国を見る」のにふさわしい場所でした。
福島県の国見町の場合は、神武天皇ではなく源頼朝にまつわる伝説が有力というわけですよ!
歴史のヒーローがこの地の景色を愛でたと思うと、なんとも誇らしい気持ちになりますね。
「阿津賀志山」「国見町」 町名の由来・まとめ
したがって、町名の由来には次のような説があります。
- 源頼朝がかつて奥州・平泉(岩手県)を攻めたときに、
- 阿津賀志山の頂上から福島盆地を眺めて、「ここはとても良い国だ!」と感嘆したのでした。
- そしてその場所が「国見山」と呼ばれたことで、後の町名「国見町」の由来になりました。
すなわち、この「国見町」という名前には、
- 軍事的な偵察(=国を見る)
- 景色の美しさ
という、両方を褒めたたえるという意味が込められているわけです。
藤田駅と鉄道の歴史
鉄道ファンが喜ぶ「貝田越え」の拠点
鉄道の歴史で見ると、藤田駅から隣の貝田駅(福島県伊達郡国見町大字貝田)にかけての区間は、「貝田越え」と呼ばれる急勾配が続くような難所でした。
すなわち、昔の蒸気機関車たちは、ここを一生懸命に坂を登っていたわけですね。
現在では、最新の電車がこのキツい坂道をスムーズに通り過ぎてゆきます。
しかしそれでも、地形の険しさは今も変わらないわけです。
ここはかつてより、福島盆地から険しい宮城県境の峠へ向かうという難所区間でした。
また、昔は補助機関車を連結して坂を登ることもありました。
蒸気機関車が火を噴く!「貝田越え」の補助機関車
鉄道ファンの間ではよく知られる「貝田越え」においては、昔は補助機関車(補機)の連結が日常茶飯事でした。
すなわち、重い貨物列車を、前から補助機関車を使って引っ張ってゆき、この急な坂を登っていったわけです。
補助機関車:急な坂道において、パワーが足りないときに、後ろや前に連結して押したり引っ張ったりする「助っ人車両」のことです。
そこには「頑張れ、あと少しだ!」とつい応援したくなるような、ドラマチックな光景があったに違いありませんね!
桃の産地・国見町(藤田駅)
藤田駅がある国見町は、全国有数の桃の産地です。
収穫時期になると、この地域はまるでピーチの甘い香りに包まれるようになり、まさに天国のような場所になります。
美味しい果物(フルーツ)がある場所には、自然と笑顔があふれますよね!
- 国見町には、桃やリンゴの果樹園が広がっている。
- 特産品を扱う道の駅「国見 あつかしの郷」も非常に人気。
- 季節ごとに旬のフルーツを味わうことができる。
おわりに・まとめ
いかがでしたか?
藤田駅の名前の由来から、力強い鉄道の歴史、そして宿場町の賑わいまで、知れば知るほど魅力が増していきますね!
すなわち、当時の活気を感じながら町を歩くと、きっと新しい発見があるはずです。
藤田駅は、ただの通過点ではなく、歴史と自然、そして美味しい魅力がギュッと詰まった素敵な場所というわけです。
ぜひ、今度訪れる際はゆっくりと探訪してみてくださいね。

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