愛知県犬山市の国宝・犬山城の観光・歴史について、何がスゴいのか?国宝になるハードルの高さなど、わかりやすく解説してゆきます!

国宝・犬山城(愛知県犬山市)
今回は愛知県犬山市・犬山城の話題
数少ない国宝・犬山城
今日は、愛知県犬山市にある、国宝・犬山城の話題となります!

国宝・犬山城(愛知県犬山市)
愛知県犬山市にある犬山城は、日本においてわずか12箇所しか残っていないという、とても貴重な(厳しい試練やハードルを潜り抜てきけた)、いわゆる「現存天守」の一つです。
すなわち、これまでの歴史(明治時代や戦後)において取り壊されたり焼失・腐食・倒壊などをしたりせずに、奇跡的に約400年前のそのままの姿で残っているという、非常にレアケースで貴重すぎるお城であるというわけです。
犬山城は、後述するような歴史的価値から、国宝に指定されています。

筆者、犬山城より(愛知県犬山市)
犬山城の存在する、愛知県犬山市とは
愛知県犬山市は、愛知県の北端に位置しており、岐阜県との境にある街になります。
木曽川のすぐそばの便利な街 古い町並みが残る「尾張の小京都」
木曽川のすぐそばにあるという便利な立地にあることから、古くから多くの舟や馬などが行き交う「交通の要所」として栄えてきました。
また、戦時中には奇跡的に空襲に遭わなかったことから、今でも江戸時代の古い町並みがそのまま残っています。
そのため、「尾張の小京都」とも呼ばれるほどの、まさに京都のように歴史情緒あふれる街であるというわけですよ。
つまり犬山市は、言い換えれば歴史マニアにはたまらない街というわけですね!
「犬山」の由来は…?少なくとも「犬みたいな山」だからではない

木曽川にかかる橋からの犬山城。遠くからだと、まるで「犬みたいな山」に見えなくもない?(愛知県犬山市)
ちなみに「犬山」の由来は、犬山城が建っている山の形が、まるで木曽川の水を飲むために伏せているトイプードルのようだから…というのは嘘で、実際には諸説あるようです(^^;
ちなみに、例えば臥牛山という名前の山だと、リアルに
- 「牛が伏せている山のように見えるから」
だという由来のネーミングなので、「犬山」の場合もそうだ(昔の人が「ワンちゃんが寝そべっているような形の山だ」と思ったからだ)と思ったのですが、諸説ありどうも違うようですね(^^;
国宝・犬山城 そもそも「国宝の城」とは何なのか
そもそも国宝天守とは
まず、そもそも「国宝天守」とは一体何でしょうか。
日本の数あるお城の中で、江戸時代以前に建てられた天守がそのまま残っているというとても珍しいものを、「現存天守」と呼びます。
また、その中でも特に歴史的・文化的な価値が高いとして国から指定されたものが、「国宝天守」も呼ばれます。
「国宝天守」は現在、日本には5つしか存在しません。
松本城については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

姫路城については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

彦根城については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

松江城については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「国宝」になれるための非常に厳しすぎる条件の数々
お城が国宝に選ばれるには、主に以下の3つの条件が重要視されます。
- 現存していること(重要)→再建・復元ではダメ
- 建築様式の希少性
- 歴史的な重要度
国宝認定の条件:現存していること(復元・再建のお城では不可!)
まずは、国宝認定のための条件として現存していることが重要であり、復元・再建のお城では認定されないということです。
例えば、
- 江戸時代はじめの一国一城令
- 明治時代はじめの「廃城令」
- 第二次世界大戦の空襲
- その他、様々な天災・火災・老朽化
などといったお城にとっての様々な試練を免れくぐり抜け、当時の木材などがそのまま残っているということが大前提です。
すなわち、コンクリートなどで再建されたお城(名古屋城や大阪城など)は、たとえどれだけ凄くて立派であっても、国宝にはなれないというわけですね。
日本にある多くの城は、そもそもまずここをクリア出来ないというわけです。
国宝認定の条件:建築様式の「希少性」を保っていること
また、国宝に認定されるためには、例えば、
- その時代における最新技術
- その時代ならではの独特なデザイン(お城にある装飾や、窓の形など)
などの要素が、とても良好な状態で今に至るまで保存されている必要があります。
しかし普通は雨・風などにさらされて老朽化するため、この時点で多くの城にとっては無理ゲーなわけです。
国宝認定の条件:歴史的な重要度があること
また、お城を建てた(築城した)人物がスゴい人かどうかや(例えば織田信長などネームバリューが高い人や)、その後の歴史に与えた影響なども、評価の対象になります。
逆に、国宝に「なれない」お城の特徴
日本には立派なお城がたくさんありますが、実は国宝になれるお城は、極めて限られています。
逆に、たとえどんなに有名でも国宝に「なれない」のには、主に以下のような理由があるというわけです。
国宝として認められない理由1:「再建」されたものである(コンクリート造など)
これが一番の理由です。例えば、
- 戦災や火災などで、一度失われてしまった
- 後に外観を似せて、コンクリートや「新しい木材」を用いて建て直された
というお城は、歴史的な「現物」としての価値が認められることはできず、国宝にはなれないというわけですね。
すなわち、たとえ有名な名古屋城や大阪城であっても、現在ではあくまで「復元された建物」であるため、国宝ではないわけです。
ちなみに再建天守とは、過去に一度失われたお城を、現代になってから新たに建て直したものをいいます。
確かに「外見」こそ立派ですが、中にはエレベーターや資料館があることも多く、どちらかというと観光施設としての役割が強いのが特徴です。
国宝として認められない理由2:図面や資料が不足している
たとえ木造で再建しても、当時の図面や史料に基づいて「1ミリも違わずに」復元できたということが証明できないと、文化財としての価値が低くなってしまいます。
ちなみに木造復元とは、現代の技術によって当時の工法や木材を使って、忠実に再現することをいいます。
もちろんそれでも確かに非常に価値は高いのですが、犬山城のように「江戸時代から残っている本物」である国宝のお城には、残念ながら一歩届かないというのが現状なのです。
国宝として認められない理由3:城の構造などが改変されすぎている
また、後の時代になされた修理などによって、お城が当時の工法や構造から大きく変えられてしまった場合においても、国宝への指定が難しくなることがあります。
犬山城のような国宝がスゴ過ぎる理由
では、日本のお城がなぜこれほどまでに「現存」が難しいのか、あるいは「国宝指定」が無理ゲーレベルで難しすぎるのか、その過酷さと復元の壁についてお話しします。
かつて戦国時代、日本には星の数ほどお城があった?
まず戦国時代には、全国に約3万から4万以上もの「城」があったと言われています。
ただし、その多くは現代人がイメージする「立派な天守閣のあるお城」とは程遠いものであり、例えば
- 山の斜面を削って、堀や土手などを作っただけの簡素な「山城」
- 武士の住まいを防御柵などで囲った「館」
のようなものが圧倒的に多数派でした。
戦国時代はこのように、戦い・いくさがあるたびに各地で砦や簡易なお城・基地などが築かれていったため、当時はまさに「星の数ほど」のお城が存在していたのです。
現在でも、日本各地の至るところに(たとえば「山の上」や「川のそば」などに)「城跡」が残されています。
なぜそれらのお城は消えてしまったのか?
お城の歴史は、まさに「破壊と受難」の歴史です。主に以下の4つの大きな波が、お城を消し去っていきました。
一国一城令(1615年)で、多くの城が取り壊された
戦国時代が終わった江戸時代のはじめ、一国一城令により、江戸幕府が
という命令を出しました。
この一国一城令とは、徳川家康が地方の大名の軍事力を削ぐために出したという、厳しいルールのことです。
これにより、お城の数は一気に「(ごく一部の)選ばれし拠点」だけに絞られてゆき、それまでは全国の数万数千単位であったようなお城が、一気に170程度まで激減しました。
明治の廃城令(1873年)で、さらに多くの城が取り壊された
また、廃城令とは、明治政府が1873年(明治6年)に出した、
- 「もうお城はいらないので、軍事施設として使うもの以外のお城は、もう壊したり売ったりしても良い」
という命令のことです。
この時代には、もはや
- 「武士の象徴である城は、もう不要」
- というか、お城はもう時代遅れで、西洋の文化・技術ありきの近代化の時代には相応しくない
とされ、多くのお城が取り壊され、建材として売りに出されました。
戦災(空襲)や天災(火災・地震・落雷)などによる焼失
また、それまで生き残っていた名古屋城や和歌山城、広島城などの国宝級のお城も、第二次世界大戦の空襲で焼失してしまいました。
また、木造建築であるお城にとって、火(火災)は最大の敵です。
かつて江戸城の天守も、江戸時代の「明暦の大火」で焼失して以来、再建されませんでした。
復元できない「データの壁」
このように、多くの城が焼失していくなかで、
と思いたいところですが、実際にはなかなかそうはならないという、とても高いハードルがあるのです。
城を復元できない理由:当時のデータが不足している
まず、例えば仙台城(伊達政宗の城)のように、
- そもそも本当に天守があったかどうかに関する、確実な証拠があまり残っていない
- 詳細な設計図(建物の寸法や構造などを詳しく記録した図面)や、資料・データなどが、今に残っていない
というような理由で再建・復元すらできないというお城は、残念ながら全国各地に非常に多いというわけです。
城を復元できない理由:あまりにも厳しすぎる、復元のための条件
そして文化庁が定める「復元」の基準は非常に厳しく、「なんとなくこんな感じだっただろう」などという想像で建てることは許されません。
すなわち、お城の見た目・外観だけでなく、さらには内部の構造に至るまで、たくさんの科学的な根拠(図面、古写真、発掘調査結果)が揃わないと、国によって公的に「復元」とは認められないのです。
厳しすぎますね…(犬山城はそれをクリアしている)
城を復元できない理由:材料と職人の不足
現在、国宝級のお城を木造で建て直そうとすると、巨大なヒノキの確保や、当時の技術を持った宮大工さんの手配、そして膨大な予算(数百億円単位)が必要になります。
したがって、今の姿を保っている犬山城は、これら全てのハードルを「奇跡」のようにすり抜けてきたという、まさに奇跡の生存者(サバイバー)と言えるというわけです。
価値が高いという言葉では足りなさすぎる、犬山城・国宝5天守
犬山城をはじめとする国宝5天守は、「価値が高い」という言葉だけでは到底言い表せないくらいの、まさに奇跡的な存在ともいえます。
これがどれほど異例なことか、改めて整理してみましょう。
絶望的な生存率を勝ち抜いた「5つの奇跡」
このように、戦国時代には約数万もあったお城から、最終的に国宝天守として残るまでの道のりは、まさに「針の穴を通すような確率」でした。
つまりお城が「国宝指定」されることは、野球選手でいうとまるでイチロー選手のように野球殿堂入りするくらいの非常に少ない確率なのです!
「平和の時代」の破壊を免れる必要性(一国一城令)
まず、先述の江戸時代はじめの一国一城令のときは、幕府の命令で全国の城が「ただのゴミ」のように、どうでもいい扱いで無惨・無価値に壊されたような時代でした。
しかし、現代に国宝指定されるようなお城なば、たとえそんな時代にあっても、破壊されずに生き残る必要がありました。
「時代の変革」による解体を免れる必要性(廃城令)
明治維新後、お城は「前時代の遺物」として嫌われました。
つまり当時のお城はもはや「時代遅れ」「もう武士の時代をイメージさせるものはオワコン」などとして、時代は「お城はいらない存在」みたいな雰囲気になっていたというわけです。
そのため、それまでのお城の材料は薪として他へ売られたり、または放置されたりして老朽化し崩れたりするのが普通でした。
犬山城もそのときにはボロボロになりながらも、「成瀬氏」という個人・民間の情熱・投資・維持によって、なんとか守られてきました。
何百年もの間、「自然の猛威」に耐えてきた城であること
また、昔に主流だった木造建築のお城にとって、落雷による火災や、巨大地震による倒壊は、常に日常的な脅威として存在し続けました。
すなわち、犬山城のように、
- 何百年もの間、一度も全焼せずに、そこにずっと立ち続けている
ということ自体がもはや奇跡であり、さらには気象学・地質学的にも幸運だったと言えます。
「現代の戦争(空襲)」から逃れ生き抜いた城であること
また、例えば名古屋城や広島城などのように、国宝に指定されていながら、空襲によって焼失したというお城はたくさんあります。
しかしそんな中でも国宝級の城には、例えば米軍の爆撃ルートからわずかに外れたという●、あるいは火の手が回らなかった「運」も味方しています。
「科学的な証明」を突破する必要性
また、現代では厳しい調査(年輪年代測定など)によって「本当に当時のままである」ということを証明されなければなりません。
そのため犬山城においては、特徴的な急な階段を登り、また手垢で光る柱に触れるとき、私たちは「400年以上前の空気感そのものに触れている」ということになります。
- 当時の木材:それは戦国武士が切り出し、運んだ材料の木々であるということ。
- 当時の技術:現在のように重機も高度な計算機もなかったような時代に、職人がカンナを使って削った跡であるということ。
- 当時の視線:織田信長や豊臣秀吉が、実際に窓から眺めたのと同じ角度の景色であること。
これらの要素が「再現」ではなく、あくまで本物の「現物」としてそこにある。
これは文化財としての価値を超えて、もはや奇跡といっていいレベルなのです。
歴史の連続性があること
また、歴史の連続性とは、途切れることなく、ずっとそこに存在し続けていることをいいます。
すなわち、一度壊して作り直したものは、たとえどんなに精巧な作りであっても、この「連続性」が失われてしまいます。
一方、犬山城をはじめとする国宝天守には、400年分の時間が「地続き」で流れているのです。
また、「文化財の真正性」とは、「偽物ではない、まぎれもない本物であること」を表す言葉をいいます。
すなわち、国宝天守は日本という国が「これは絶対に本物です」と保証した、究極の真正性を持っているわけです。
珍しい「個人所有」の歴史(成瀬氏と犬山城)
明治時代の廃城令以降、老朽化や地震などでボロボロに
また、犬山城は明治維新のときの廃城令によって、一度は愛知県の所有物となりました。
しかし、当時の愛知県には、まるでお城を維持するための予算も余裕もありませんでした。
この予算不足から手入れが難しくなり、雨漏りや地震などでボロボロになってしまい、さらには柱が腐り始めていました。
濃尾地震の困難を乗り越え、成瀬氏が自費でお城を修繕
さらには1891年(明治24年)に愛知県・岐阜県を襲った大地震である濃尾地震により、天守の櫓部分が半壊してしまったのでした。
濃尾地震:明治時代の1891年に起きた、日本の陸域で発生した地震としては史上最大級(マグニチュード8.0)と言われる巨大地震です。
この濃尾地震によって多くの歴史的建物が失われましたが、犬山城はこの試練すらも乗り越えました。
そんなお城を愛知県は、
- 成瀬氏が、自費によってキレイに修復する
ということを条件に、元々このお城を持っていた旧城主の成瀬氏に対して、犬山城は返還されました。
その後、犬山城は(2004年に財団法人が設立されるまで)日本で唯一「個人が所有するお城」として知られていました。
犬山城も、元々は廃城令で「廃城」対象だった
先述の廃城令により、明治時代のはじめには日本中の多くのお城が取り壊されたり、または民間に払い下げられたりして、多くのお城は姿を消してしまいました。
しかし、仙台城や金沢城などのように、軍事的に価値のある城などは、壊されずにわざと残されました。
その一方で、廃城(壊された城)とされた城もありました(当初は犬山城もこちらに含まれた)。
すなわち、軍事的な利用価値が低いと判断されてしまったお城は「廃城」となり、その敷地を払い下げられたり、あるいはは建物を解体して売却することが決まったりしたのでした。
犬山城が「天守だけ」残った奇跡
ちなみに犬山城もこのとき「廃城」になることが決定し、それまで犬山城の周りにあった多くの建物(櫓や門、周囲の壁など)が取り壊されました。
しかし後述するように、なぜか天守だけは奇跡的に残りました。
なぜ犬山城は「天守」だけが奇跡的に残されたのか?
ではなぜ、犬山城は「天守」だけが奇跡的に残されたのか。
これには明確な記録はありませんが、
- 「あまりに立派なお城であり、壊すのがもったいない」という、地元の人々の熱いら想い
- 断崖絶壁に建っているという複雑な地形・構造であるがゆえに、「解体コストがかかりすぎる」と判断された
など、いくつもの偶然・要因が重なった「奇跡」であると言われています。
しかしこれによって、今では国宝の姿をがそこに存在しているわけなので、本当に幸運なことであるというわけです。
成瀬氏(なるせし)とは
ちなみに成瀬氏とは、江戸時代を通じて犬山城の城主(トップ)を務めてきた一族です。
成瀬氏は元々は徳川家康の重臣(つまり重要な部下)であり、成瀬正成が1617年に城主となってからは、それ以来幕末までずーっと安定して(つまり大きな転封・左遷などの大きなトラブルなどもなく)、代々にわたってこの地を治め続けてきました。
なぜ「成瀬氏」が選ばれたのか
江戸時代、犬山の地はやはり「尾張(名古屋)に近い」という、とても(経済面・交通面・軍事面全てにおいて)重要な土地だったからこそ、幕府にとっては信頼できる成瀬氏が、ここの支配を割り当てられたのでした。
それは江戸時代に、名古屋城(尾張徳川家)を守るためです。
犬山の地は、北の岐阜方面から攻めてくる敵を食い止めるための「尾張の北の門番(守るべき場所)」でした。
そのため、成瀬氏は尾張徳川家のトップを支えるための役職である「付家老」という、非常に信頼の厚い役職・地位にあったわけなので、この重要拠点である犬山城を任されたというわけです。
「修復を条件に返還」のドラマ
先述の通り地震で半壊し、県も修理費が出せずに困り果てていたところ、愛知県はかつての旧城主である成瀬家に対して、驚くべき提案をしました。すなわち、
- 「自費で(ボロボロになったお城を)元通りに修理するなら、お城をお返しましょう」
ということでした。
これを受けて、成瀬氏は莫大な私財を投じ、さらには地元の人々からの寄付も募りつつ、見事にお城を修理・復興させました。
こうして、
- 「県(愛知県)が手に負えないのならば、自費でお城を守る」
という日本のお城の歴史でも極めて珍しい形で、成瀬氏による日本で唯一の「個人所有の国宝天守」が誕生したというわけです。
成瀬氏がそこまでして守った理由
ではなぜ、成瀬氏はここまて、わざわざ大金を払ってでもお城(犬山城)を守ったのでしょうか。
それは、成瀬氏にとっての犬山城は、
- 「先祖代々、守り抜いてきた誇り」
というそのものだったからです。
また、成瀬氏だけでなく地元の住民にとっても、犬山城はあくまで街のシンボルであり、また成瀬家と住民が一体となって「自分たちの宝を失いたくない」という、本当に強い意志が働いた結果だと言えますね。
犬山城の戦略的価値
戦国時代、誰もが欲しがった「犬山」という土地
犬山という土地は、当時の戦国武将・権力者たちからすれば、「喉から手が出るほど欲しい」ほどの、まさに超一等地のプラチナチケットのような場所でした。
しかも犬山という土地は、尾張国(愛知県)と美濃国(岐阜県)のそれぞれの国境に位置するという、権力者からすれば軍事面・防御面において、何としても押さえておきたいという場所にありました。
そのため犬山の地は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった時の権力者たちが、常にこの土地をめぐって奪い合いました。
木曽川という巨大な堀
それは、犬山城の背後に流れている木曽川は、川の幅がとても広く、しかも流れも急です。
そのため、敵が犬山城を攻めてこようとしてもこの川を渡って攻めてきにくく、さらには北側(岐阜方面)からの攻撃を完全にシャットアウトできるという、まさに天然の巨大な防壁・バリヤーでした。
断崖絶壁の優位性
また、犬山城は川に面した「崖の上」に城があるため、川から・水からの奇襲もほぼ不可能というベストな立地です。
そのため、たとえ少ない兵力であっても圧倒的な数の敵軍をも防げるという、まさに「守りやすく、攻めて来られにくい」という、理想の地形をしていました。
すなわち、
- 正面(大手門)さえ守れば、
- 背後(後ろ)は、自然の要害(天然の守り)である木曽川と崖が勝手にガードしてくれる
というような、守備側にはとてもありがたい地形配置でした。
そのため、敵からすれば「後ろからこっそり攻める」という戦法や侵入方法がまるで通用しないという、まさに鉄壁・難攻不落の地形・構えだったと言えますね!
天下取りのスタートライン
織田信長にとって、尾張(名古屋)を統一した後に狙うのは美濃(岐阜)でした。
すなわち、織田信長は犬山城を自分のものにしない限り、安心して美濃へ攻め込むことはできませんでした。
特に1584年の「小牧・長久手の戦い」では、豊臣秀吉が自ら乗り込んで陣を張ったことでも有名です。
おわりに・まとめ
犬山城の地理や歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。
その歴史の裏側には、かつてボロボロの危機を救った成瀬氏の執念や、天下分け目の戦いの記憶がぎゅっと詰まっていますね!
これらの知識を学ぶことで、景色の価値が大きく変わり、観光や探訪がもっと面白くなります。
そして、当時の武士たちが実際に触れていた「本物の質感」をより感じることができることでしょう!
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