神奈川県小田原市を流れる早川の(水運などの)地理・歴史や、小田原の漁業・提灯の歴史などをわかりやすく解説してゆきます!
神奈川県小田原市・早川駅
小田原の奥座敷、早川駅の魅力

早川駅(神奈川県小田原市)
早川駅は、神奈川県小田原市にある、東海道本線の駅です。
小田原~熱海の間にある海(相模湾)との間にある駅です。
地名の由来となった「早川」
生命の源、そして境界線としての「早川」

早川(東海道本線)(神奈川県小田原市)
まずは、地名の由来にもなっている早川という川について解説します。
箱根の山から流れる急流 「流れが速い」から「早川」
早川は、箱根の山の上にある芦ノ湖を水源として、急な箱根の山を削りながら、小田原の海(相模湾)と流れていく川です。
流れが非常に「速い」ことから、「早川」と名付けられたと言われているわけですよ。
「天下の険」と呼ばれた急峻な箱根の山をすごいスピードで下ってくるわけなので、「早川」って名前が付いてもおかしくなさそうですよね。
芦ノ湖:箱根の山の上にある、大きな湖のことです。
富士山がきれいに見える観光スポットとしても有名ですね。
芦ノ湖をはじめとする観光地・箱根については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

城下町を守る要(かなめ)
早川はかつて戦国時代に、当時の小田原のトップであった後北条氏が拠点にしていた小田原城における南側の防御力を高めるための天然の外堀(自然のバリアー)としての役割もありました。
したがって、早川は決してただの川ではなく、歴史を守ってきた重要なラインというわけです。
北条早雲とは?
ちなみに、後北条氏の北条早雲とは、戦国時代に小田原を拠点にして、(1590年に豊臣秀吉に滅ぼされるまで)100年もの栄華を誇った一族である、後北条氏の初代のリーダーです。
彼は戦国時代を象徴する小田原の偉大なリーダーであり、領民(住民)のために税金を安くするなど、とても優しい政治を行ったことでも有名なんですよ!
後北条氏と、「天然の外堀」早川
ではなぜ、後北条氏がこれほどまでに早川を重要視したのか。
それは、当時の関東が「最強の武将たち」に狙われていたからというわけです!
武田信玄や上杉謙信の脅威から「川」で守るため
また、関東地方に位置する(北条氏の支配する)小田原は、常に新潟(越後)・長野(信濃)・山梨(甲斐)・静岡(駿河)などといったほかの地域からの脅威がありました。特に、
- 「甲斐の虎」こと武田信玄
- 「越後の龍」こと上杉謙信
といった強力なライバルたちが、何度も小田原という誰もが欲しがるような土地を狙って進軍してきました。
それは、ここ(小田原)を制圧することができれば、関東支配がより有利にやりやすくなるからですね。
武田信玄・上杉謙信および、その両者が戦った「川中島の戦い」については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

西からの防御壁となった早川
そんな武田信玄などの強い武将たちが西の箱根方面などから攻めてくるときに、小田原のちょうど西側を流れる早川は、敵の進軍を阻むという「最強のバリア」もなっていました。
早川を利用した総構(そうがまえ)の構築
後北条氏は、城だけでなく街全体を巨大な堀と土塁によって囲むという「総構」という防御の仕組みを完成させました。
総構とは、お城だけでなくサムライの屋敷や町人の家まで、まるごと堀で囲ってしまうという、超巨大な防衛ラインのことです。
小田原城の総構は全長約9kmもあり、当時の日本で最大級だったわけですよ!
そして、その「総構」の南西側の守りを担っていたのが、この早川という川だったわけです。
すなわち、自然の地形を最大限に利用した「鉄壁の要塞」を作ろうとしたわけですね。
小田原に「豊かな水」の恵みをもたらしてきた早川
この早川の水は、古くから農業や生活用水として、多くの人々によって使われてきました。
昔はダムも水道もなかったため、川の水に頼るしかなかったのです。
また、早川の上流には温泉地があり、山からの栄養を海へ運ぶ役割も果たしているわけですね!
早川の水運と鉄道のライバル物語
早川の水運と、明治以降の鉄道(箱根登山鉄道など)には、面白い競合の歴史があります。
早川の「水運」の役割 舟での荷物運びの歴史
江戸時代には、当たり前ですがトラックも貨物列車もありませんでした。
そのため、早川はモノや荷物・商品なとを運ぶための、主要な物流ルートとして機能していました。
つまり早川は、箱根の木材や農産物など、いわゆる
を、下流へ運んで売って収入を得るための重要なルートだったのでした。
早川がつないだ「山」と「街」のそれぞれのギブ・アンド・テイク
また、早川は箱根の山と平地を結ぶ、物流のメインストリートでした。
山から街へ:早川が運んだ箱根の寄木細工と木材
箱根は豊富な森林資源の宝庫でした。
したがって、寄木細工などの工芸品はもちろん、江戸の街を彩る建築用木材も、早川の水運を利用して運ばれていました。
特に大きな木材は、川の流れに乗せて「筏」を組んで流していたわけですよ!
街から山へ:早川が山へと運んだ、食糧と生活物資
これは逆にいえば、
- 山の地域においてはなかなか手に入らない貴重なモノたちを、
- 箱根の山の上にまでもって行けば、
- それは珍しいわけなので、買ってもらえた
というわけです。
逆に、山で珍しくないものを持って行っても、基本的には売れないわけですね。
山では貴重な「塩」も、早川沿いの道で運ばれた
そのため、こうした麓の名産品は、早川沿いの道や水運を、坂を遡って運ばれました。
- 新鮮な「海の幸」:小田原の海で獲れた「おいしい魚」が、箱根の山の上にある温泉宿や住民のために運ばれ、売れました。
- お米や塩:山間部では作りにくい主食や、食べ物を腐らせずに保存に欠かせない「塩」も重要な運び荷でした。特に「塩」は当時は機械生産できず海辺でしか採れない貴重なものだったので、重宝されていました。
- 酒や味噌:平地で作られた加工食品も、山の上へと運ばれていったわけです。
つまり、早川は山と海の「美味しいもの交換ルート」だったわけですね!
時代と共に変わる輸送の姿 「登り」はキツい
明治時代に鉄道(現在の箱根登山鉄道)ができるまでは、この険しい道を行き来するのは本当に大変な作業でした。
- 水運の苦労:下る時は、「流れ」に乗れば楽勝だったようですが(それでもある程度の危険は伴う)、上る時は舟を引っ張って行く必要もあり大変でした。
- 人馬の活躍:川沿いの道(たとえば旧・東海道など)を、馬や人の力などを使って、必死に荷物を運び上げていました。
それだけ昔の「運送」は大変だったわけですが、その後鉄道が開通したことで、この「山と街の交換業務」は劇的にスピードアップしたわけですよ。
鉄道の登場、既存の「舟」との競合 舟(水運)の衰退
明治時代に、現在の箱根登山鉄道の原型となる小田原電気鉄道が開通すると、交通や輸送の主役は、それまでの舟に代わって一気に鉄道へと移っていくようになります。
明治時代に新たに登場した鉄道は「早さ」と「大量輸送」で水運を圧倒していたため、水運は次第に衰退していったというわけです。
豊かな相模湾が育んだ「漁業の町」小田原
また、小田原は古くから関東地方でも特に漁業拠点として栄えてきました!
少し行くと「急に深くなる」海 深海魚の宝庫!
小田原の目の前に広がる相模湾は、岸から少し離れるとすぐに深くなる「急深」という特徴的な地形です。
急深とは、海岸から急激に深くなっていくという海の地形のことです。
これにより、わざわざ船で遠くまで行かなくても近くで深海魚や回遊魚が獲れるという、まさに効率的な漁場になっているというわけですね。
ほかにも様々な魚が集まってくる、小田原の海
したがって、
- 深海の「冷たい水」:太陽が届きにくい
- 表面の「温かい水」:太陽が届きやすい
がそれぞれ混ざり合っていくことで、魚のエサとなるプランクトンが豊富となり、多種多様な魚がここに多く集まってくるというわけです。
北条氏も愛した海の幸と、「かまぼこ」の発展
戦国時代からすでに漁業は組織化されており、小田原のトップだった後北条氏によっても(小田原の魚は)大変おいしく食べられました。
また、後北条氏は漁民たちに対して税金を安くしたり独占的に(他人に邪魔されないように)魚を釣れる権利を保証するなど、漁民に対して手厚いサポートを行っていました。
また、江戸時代には「小田原の魚は新鮮で旨い」と評判になったことから、徳川将軍家への献上物にもなっていました。
さらには、獲れすぎた魚を保存するために(腐らせないために)加工技術が発達してゆきました。
それが、今の有名な小田原かまぼこへと繋がったわけですよ!
酒匂川と早川:平野を作り上げた二大巨頭
小田原平野(足柄平野)は、酒匂川と早川という、2つの大きな川が作り上げた平野です。
酒匂川の「土砂を下流に運び出す力」
まず、酒匂川(静岡県では鮎沢川)は、北西の静岡県側から富士山や丹沢山地からのたくさんの膨大な土砂を運んできて、平野の大部分を堆積させました。
早川の「境界を作る力」
早川は、その激しい流れが箱根の山を削ってゆき、それと同時に大量の砂(土砂)を下流部に運び、それらが溜まることで平野を作ってゆきました。
すなわち、この2つの川による「扇状地」が合わさって、今の広々とした小田原の平地ができあがったわけです。
扇状地とは、川が運んできた土砂が積み重なってできた、まるで扇のような形になった地形のことです。
旅人の知恵から生まれた「小田原ちょうちん」
次に、小田原のシンボルとも言える小田原ちょうちんについてです。
これ、実は当時の「ハイテク便利グッズ」だったわけですよ!
折りたたんで持ち運べる、暗闇の旅における「ライト」として使われた提灯
この提灯は、江戸時代の旅人が懐に入れて持ち運べるように、蛇腹構造といってコンパクトに畳めるというのが、最大の特徴です。
蛇腹とは、まるでアコーディオンのように「伸び縮み」できる構造のことです。
まるで「ヘビの腹」の模様に似ていることから、こう呼ばれるようになったわけです。
すなわち、小田原ちょうちんが流行ったのは、旅人ちが暗い夜道を安全に歩くための「最高の旅道具」だったからというわけですね。
他にもある!数々の提灯(ちょうちん)の役割
提灯は単なる「灯りを照らすライト」以上の役割に対応できる、とても多機能なツールでした!
- 携帯用ライト:折りたたんで持ち歩き、夜道でパッと広げて使う。現代のスマホのライトのような手軽さですね!
- 看板・目印:お店の名前やロゴ・家紋など入れて、自分の家や店の存在をアピールするための「看板」でした。
- 魔除け・祈り:例えばお盆や葬儀など、神様や仏様をお招きするための「聖なる明かり」としての役割もありました。
すなわち、決して単に機能性だけでなく、使う人のことを想って作られた職人さんのたち「優しさ」が、今も小田原の街の景色として残っているのは本当に素晴らしいことだと思います!
おわりに・まとめ
早川駅・早川の地理・歴史を学んでみていかがだったでしょうか。
これらを学ぶ事で、より観光・旅行・探訪が面白くなります。
戦国時代には北条早雲が「天然の外堀」として守り、明治時代には車夫たちが汗を流して坂道を駆け抜けました。
すなわち、この土地は常に「人と自然の知恵比べ」の舞台だったわけですね!
漁港の美味しい魚を食べる時も、小田原ちょうちんの明かりを見る時も、その裏側にある物語を思い出すと、旅の深みがグッと増すはずですよ。
このように、歴史を知ることで、目の前の景色がもっと愛おしく感じられるようになりますね!
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