神奈川県小田原市にある東海道本線・早川駅と、地名の由来となった早川について、地理・歴史をわかりやすく解説してゆきます!
神奈川県小田原市・早川駅
小田原の奥座敷、早川駅の魅力

早川駅(神奈川県小田原市)
早川駅は、神奈川県小田原市にある、東海道本線の駅です。
小田原~熱海の間にある海(相模湾)との間にある駅です。
神奈川県小田原市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

静岡県熱海市については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「あと1駅で小田原駅」という位置付けの、早川駅
この早川駅は、小田原駅からみて一つだけ南側(熱海側)に位置している駅となります。
また逆にいえば、熱海方面から東京へ向かう人にとっては、早川駅まで来れば、小田原駅はあと1駅。
すなわち、そんなポジションの駅となります。
マニアックだからこそ語りたい、早川駅の魅力
また、小田原駅という(新幹線も止まるほどの)大きな駅がすぐ隣にあるため、なかなかこの駅について話題に挙がることはないと思いますが、あえてマニアックな方向でこの駅について深掘りしていきたいと思います!
この早川駅は一見すると静かな駅ですが、実は語りたくなるような面白い背景がたくさん詰まっているわけですよ!
早川駅の地理:海と山に挟まれたユニークな土地
早川駅の最大の特徴は、なんといっても
- 前は広大な海(相模湾)
- 後ろは箱根の山々がそびえる
- 横には早川という、地名・駅名の由来となった川が流れる
その独特な地ですね。
前には、相模湾の海
まずホームの手前には、広大な相模湾が広がっています。
相模湾とは、神奈川県の南側に広がっている、太平洋に接しているとても大きな湾のことです。
少し沖合いに進むとすぐに深い海となる構造の海のため、このおかげで「深海魚」などたくさんの種類の魚が獲れるという、小田原を漁業の名産地にたらしめた豊かな海というわけです。
後ろには、箱根の山々
さらに、早川駅の背後には、険しい箱根の山々が迫っています。
したがって、広大な海風を感じながら(全国的に)有名な山々の自然も感じられるという、贅沢な場所であるというわけです。
箱根については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

関東屈指の漁港「小田原漁港」の最寄り駅
また、早川駅は駅から徒歩ですぐの場所に、活気あふれる小田原漁港があります。
小田原漁港は、あとで詳しく解説しますが、
- 相模湾という深い海があるおかげで、深海魚などがたくさん採れる
- それらの魚は小田原の英雄ともいうべき、後北条氏にも愛された
- 採れすぎた魚を腐らせないよう保存するために、「かまぼこ」が産まれる原点となった
という、小田原を「漁業の名所」にさせた重要な港でもあるわけです。
詳しくは次回に解説します!
かつてこの地域を通っていた「豆相人車鉄道(熱海鉄道)」
「豆相人車鉄道」の時代(明治時代)
かつて明治時代、この小田原~熱海の区間は、なんと人間が列車を押して走るという、「豆相人車鉄道」が走っていたルートでした。
このように「人が列車を押す」だなんて、今では想像もつかないほど大変な光景ですよね!
そもそも「豆相(ずそう)」とは?
「伊豆」と「相模」を結ぶという意味
ちなみに「豆相」とは、伊豆と相模(神奈川県西部)を結ぶ鉄道である、という意味です。
明治時代、熱海・伊豆といった地域は東海道本線の発展から取り残された
後述するように、明治時代の東海道本線は、かつては御殿場線経由だったため、伊豆・熱海方面は鉄道の発展から取り残されることとなってしまいました。
しかし、それだと伊豆・熱海の温泉街や観光地などは、お客さんが来づらくなってしまい、儲からなくなって困るわけです。
そこで、当時は「豆相人車鉄道」という構想が持ち上がったというわけです。
伊豆箱根鉄道・駿豆線の原型となった豆相鉄道の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

国鉄へと継承された「豆相」の夢
しかしそんな各地の豆相鉄道の構想は、難工事や1923年の関東大震災、さらには国鉄(熱海線)との競合などにより、むなしくも頓挫してしまうこととなりました。
そして、その夢は1934年に丹那トンネルを開通させた国鉄へと引き継がれることになったのでした。
今考えたら驚愕の豆相人車鉄道の数々のエピソード
今考えたら「ヤバすぎた」人車鉄道の驚くべき特徴の数々
ちなみに人車鉄道とは、主に以下のような特徴がありました。
- レールは敷いてある:ただし当時の技術ではまっすぐな線路は出来ず、仕方なく海岸線のそばをカーブだらけで進んでいく(今の東海道本線の線路とは完全に別物)
- その険しいレールの上を、お客さんが5~6人くらい乗れるような、小さな「箱のような」車両が走る
- 自力では動けないため、その簡素な車両を、人が後ろから押して進んでいく。
- 後ろから列車を押す人は、「押し子」「車夫」などと呼ばれた。これらは危険な作業であり腕力・脚力も相当求められることから、給料はかなり高かった。
- 下り坂はもはやジェットコースター。いい意味ではスリル、悪い意味では危険極まりない。
相模と伊豆を結ぶ壮大な構想だった?
この「人車鉄道」は、当時はまさに(東海道本線の発展から取り残された)熱海という温泉地・保養地へ向かうための数少ない移動手段として、非常に重宝されていました。
しかも、小田原から熱海までの約25kmという距離は、当時の感覚ではかなり大変な大旅行でした。
それを、従来は駕籠(まるで「おみこし」のように人がかついで運ぶ乗り物)によって約6時間もかかっていた道のりを、新たに出来た人車鉄道では約4時間で結びました。
したがって、当時はこれでも画期的なスピードアップだったわけですよ!
乗客が列車を押すのは日常茶飯事?
この「人車鉄道」のように、乗客が列車から降りて、列車を「後ろから押す」というのは、むしろ当時はわりと日常茶飯事で、小田原~熱海に限らず全国各地で「本当」「あるある」の話だったということです!
特に、現在の早川周辺から熱海にかけてはキツい坂道・急勾配が多く、スタッフである車夫(=腕に自信のある若者ばかり)だけでは列車が到底坂を登りきれないことがありました。
徒歩よりもずっと速かった人車鉄道
まさに序列・ヒエラルキー!以下はきつい坂道に差しかかったときの乗客の対応一覧です。
- 1等客:座ったままでOK(優雅ですね!)→金持ちの特権。
- 2等客:少しでも列車が軽くなるよう、降りて歩くことを余儀なくされる→それでも完全な「徒歩」よりは早く熱海(小田原)に着く:下り坂ではまるでジェットコースターのような速さ(時速50kmに達したとも)になるため。
- 3等客:当然のように列車から降りて、車夫(スタッフ)と一緒に、後ろから列車を押す。→それでも下り坂はジェットコースター状態なので、徒歩よりははるかに早く着く
「金を払ってるのに自ら列車を押す」今では考えられない日常がそこにあった
このように、お金を払って乗っているのに「汗をかいて自分たちで押す」というとは、もはや今では考えられないほど「のどか」というか、ハードな鉄道だったわけですね。
しかしそれでも、下り坂はジェットコースター状態だったため(時速40~50kmにも及んだとも)、今の価値観からすれば危険ながらも、当時としては全然速い交通手段としてしっかり機能していたのでした。
その後の豆相人車鉄道の歴史(早川駅関連)
「熱海鉄道」への改称と蒸気機関車
こうした(1895年/明治28年)から走り続けてきた人車鉄道も、時代とともに終わりを次げることとなり、蒸気機関車に置き換えられることになりました。
そして、蒸気機関車へと移行したことに伴い、12年後の1907年(明治40年)には社名が「豆相人車鉄道」から「熱海鉄道」へと社名が変わりました。
その後、人力を卒業して小型の蒸気機関車(軽便鉄道)という、これまた(予算を極力削減された)不便な列車が走るようになります。
「不評」だった初期の蒸気機関車
新たに登場したこの蒸気機関車は、当時はとても不評でした。
- (予算の関係で)小さいがゆえに出力が弱すぎて、坂道でやはり止まってしまう
- 持ち味(?)だった「ジェットコースター」も無くなり、余計に遅くなった→(本末転倒の結果に)
- 蒸気機関車が吐く煙により景色が覆い尽くされてしまい、お目当てだったキレイな海の景色がまともに見えなかった
- しばしば遅延し、ダイヤというよりも「お客さんがみんな集まったらさあ出発!」というような雰囲気だった人車鉄道の方が、まだ融通がきく面があった
- 「これなら、まだ人車鉄道のときの方が良かった」という声が続出(本末転倒)
カーブだらけの海岸ルート
当時のルートは、まさに「海岸線のギリギリ」を縫うように走っていました。
当時は山をまっすぐに掘り進めるようなトンネル技術が未熟だったため、海岸沿いのわずかな平地を選んで進むしかなかったわけです。
崖っぷちのカーブが続くため、乗客はかなりスリルを感じていたようですよ!
関東大震災 熱海鉄道の終焉、国鉄熱海線の全通
そして、1923年の関東大震災では、線路が崩落するなど壊滅的な被害を受けました。
この関東大震災は、地域のそれまでの交通網を完全に変えてしまうほどの、大きな転換点となりました。
実はこの時、既に国鉄による「熱海線」の建設が別に進んでいたため、震災で壊滅的なダメージを受けた熱海鉄道はそのまま復旧されることはなく廃止となり、その歴史に幕を閉じたのでした。
そして震災の翌年以降は、国鉄が新たに小田原から熱海までの、現在の東海道本線の原型となる区間を、順次開通させていったのでした。
丹那トンネルの奇跡
1934年になって丹那トンネルが、16年にもおよぶ長い難工事を経て、ついに開通しました。
丹那トンネルとは、熱海と函南をそれぞれ結ぶ、全長約7.8kmにもおよぶ長いトンネルです。
当時の技術では工事が非常に困難であり、完成までに16年もの歳月がかかったという「執念のトンネル」であるというわけです。
東海道本線は「御殿場経由」から「熱海経由」へ(1934年)
これにより、それまでは御殿場経由(今の御殿場線)がメインルートの「東海道本線」でしたが、この丹那トンネル開通により、現在の熱海を経由するルートが「東海道本線」へと改められたのでした。
この事についてさらに詳しくは、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

今回はここまで 続きは次回(早川駅、早川関連)
おわりに:いかがだったでしょうか。
今回は長くなりましたので、続きは次回に解説してゆきます!
次回は、地名の由来となった川である早川について解説してゆきます!
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