玉野峡谷・古虎渓の観光・歴史、さらには愛岐トンネル群や土岐川(庄内川)から栄えた交通・鉄道の歴史などをわかりやすく解説してゆきます!
玉野信号所、定光寺駅、そして庄内川
自然と鉄道が織りなす「愛知の秘境」の魅力

玉野峡谷・古虎渓の景色(愛知県・岐阜県)
名古屋から中央本線(中央西線)で、約30分。そこに突然として現れる、
- 高蔵寺駅(愛知県春日井市)
- 多治見駅(岐阜県多治見市)
の間にある、美しい峡谷区間。
ここはちょうど愛知県と岐阜県の県境にあたり、
- 玉野信号所の跡
- 定光寺駅(愛知県春日井市)
- 古虎渓駅(岐阜県多治見市)
- そして庄内川(土岐川)
といった、様々な歴史的重要ポイントが存在しています。
このエリアは、名古屋からわずか30分ほどとは思えないほど、ダイナミックな歴史と自然が詰まっていて、本当にワクワクしますね!
多治見駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

高蔵寺駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

庄内川(土岐川)が作った「玉野渓谷」の美しさ

玉野峡谷・古虎渓の景色(愛知県・岐阜県)
まずは、この場所の主役である庄内川(土岐川)についてです。
愛知県では「庄内川」、岐阜県では「土岐川」
古虎渓と定光寺の間には、愛知県と岐阜県という、明確な県境があります。この付近を流れる川は、
- 愛知県側では庄内川
- 岐阜県側では土岐川
と名前を変えます。
つまり、県によって川の名前が変わるわけであり、このように県ごとに名前が異なる川は全国各地に他にいくつも存在します。
美しい景観を誇る、玉野峡谷(古虎渓)
このあたりは玉野渓谷(岐阜県側では古虎渓)と呼ばれ、険しい岩場を川が流れるといった、まさしく景勝地になっています。
景勝地:景色が特に優れている場所や、眺めの良い土地のことをいいます。
玉野峡谷・古虎渓の交通(水運・鉄道など)の歴史
明治時代における、玉野峡谷(古虎渓)をつらぬく鉄道敷設工事
庄内川が教えてくれた「最短ルート」
まず、明治時代に中央本線がはじめて開通したときには、まさにこの険しい峡谷のルートを通るしかなかったのでした。
というのも、名古屋から多治見に至るまでには、どうしても険しい山岳地帯を越えなければならない地形にあるからです。
そのために、
- 「どれだけマシなルートを選択できか」
- 「当時の技術で、どれだけ負担なく線路を工事できるか」
というのがとにかく重要視されたのです。
明治時代は、この険しい峡谷に線路を作るしかなかった
そこで、なんとか選ばれたルートが、この庄内川の流れ(と峡谷が作るわずかな平地)に沿ったルートが選ばれた(というか、それしかなかった)というわけです。
というのも、当時の蒸気機関車は坂道にとても弱かったため、なるべく平坦な場所を探しながら線路を敷いていくという必要があったわけです。
川沿いの曲がりくねった線路、細切れに沢山作られたトンネルの数々
したがって、このように
- 川が曲がれば、線路も曲がることを余儀なくされる
- 山が目の前に迫ってくれば、その「山の先っぽ」だけを削って、トンネルを掘る
といった具体で、当時はこのように、まるで地形をなぞるように走るしかなかったというわけです。
リニア中央新幹線が出来れば、名古屋~多治見の区間は「まっすぐな長大トンネル」で貫くことになるんでしょうね。
しかしながら、当時としては「河原沿い」にあちこち曲がった線路を引いてゆき、しかも細切れに何個も何個も短いトンネルをたくさん掘るしかなかったのです(それが後述する「愛岐トンネル群」となるわけです)。
当時、川は「天然の設計図」だった
また、当然ですが水は高いところから低いところへ、最も効率の良いルートを通って流れてゆきます。
このように、庄内川が長い年月をかけて削り取ってくれた(人間が開削するまでもなかった)、深い谷である玉野渓谷に存在していたわずかな平地は、明治時代の当時からすれば鉄道を通すための「唯一の正解」だったというわけです。
崖っぷちでの、過酷な工事と線路敷設
しかし、その「わずかな平地」さえも、明治時代の当時においては、鉄道を通すにはあまりにも狭すぎました。
そこで仕方なく、わざわば川沿いの崖を削ったり、小さなトンネルを連続させたりして(これがいわゆる愛岐トンネル群となる)、まるで針に糸を通すかのような感覚で、崖っぷちに無理やり線路を敷いていくような形になったというわけです。
定光寺駅が崖に張り付いているように建てられているのは、その時の人々による「苦労の跡」そのものというわけですよ!
1960年代に、よりまっすぐな「新線」が作られた(玉野峡谷・古虎渓)
もちろんこのような狭い線路だと、「特急しなの」などの特急列車を通すにはスピードにも影響が出てしまいます。
そのために1960年代、線路を新しく、まっすぐかつ長大トンネルに作り直して、現代に至るわけです。
そして後述しますが、古くから存在していた明治時代の線路はそのまま放置されてしまい、なんと約40年間も忘れ去られてしまっていたのでした。
明治時代、従来の「水運」と、新たに登場した「鉄道」のライバル物語
江戸時代までの「船」との競合
かつて江戸時代くらいには、土岐川・庄内川においては美濃(岐阜県)の名物である陶器や、さらには薪などをたくさん運ぶという、舟が活躍していました。
昔は貨物列車も高速トラックも存在しなかったため、舟で大量の荷物を運ぶのが最も効率が良かったのです。
しかし、明治時代になってから鉄道ができると、それまで舟で荷物運びをしていた人たちにとっては、自分たちの仕事が奪われることになってしまいます。
そのため、それまで舟を仕事・職業にしていた船頭さんたちを中心に、鉄道敷設に対する強い反対運動が起きたと言われています。
ちなみに、こうした鉄道に対する水運の「反対運動」は、決してここ(土岐川・庄内川)だけに限った話ではなく、わりと当時は全国各地で「あるある」な話でした。
鉄道(中央本線)が出来るまでは、川と舟がメインルートだった
江戸時代から明治初期にかけて、庄内川(土岐川)はまさに「焼き物物流のメインハイウェイ」でした。
名古屋への輸送
かつて多治見などといった岐阜県東部の地域(=焼き物王国)において作られた美濃焼は、「切船」とよばれる、舟の底が浅い特殊な舟にたくさん積まれてゆきました。
そして川の流れに乗って、定光寺や玉野の険しい峡谷の激流を命がけで下ってゆき、「商品」たる焼き物たちは、やがて名古屋の城下町へと運ばれていったというわけです。
そしてそこからさらに、海を渡ってはるか東の江戸(東京)まで届けられました。
こうして「焼き物」が各地で売れることによって、陶器を作る職人さんたち、あるいは舟で運ぶ人たちの貴重な利益・収入源になっていったわけです。
信州(長野方面)への道は?
一方で、反対側の信州(長野県)方面へは川を逆に(上に)遡っていくのが難しいため、主に「馬の背中」に乗せて運ぶという「陸路」が使われました。
つまり、中山道という当時としては最も進んだ(けど険しい)山道を通って運ばれていったわけです。
中山道については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

しかし、その帰り道には信州(長野)の特産品を積んで戻ってくることもあったようでした。
鉄道による、役割の世代交代
明治時代の1900年に中央本線が開通すると、従来の舟を使った水運は一気に鉄道へと取って代わられました。
それまでの主役だった舟もさすがに時代の流れには抗えずに、鉄道によって代替されてしまうことになったわけです。
玉野峡谷・古虎渓の地理に関する話題
玉野峡谷・古虎渓 地理的な特徴
庄内川は、岐阜県から愛知県へ抜けるときに、この山間部を削りながら流れ、深い谷を作ってゆきました。
したがって、現代でもこの一帯・周辺だけがまるで「秘境」のような雰囲気を保っている「名勝」となっています。
名勝:芸術的または観賞の価値が高いとして、国が指定した記念物のことです。
高度経済成長期・バブル期に、多くの団体旅行客で盛り上がった「奥座敷」
また、高度経済成長期やバブル期には、多くの社員旅行客が訪れて、川のせせらぎを横に、宴会などを開いて「どんちゃん騒ぎ」して盛り上がるような、まるで人々の休暇のために集まる「奥座敷」のような場所でした。
ちなみに「奥座敷」とは、都会から少し離れた、心の休まるような観光地や温泉街などのことをいい、静岡県の熱海温泉や、栃木県の鬼怒川温泉などが有名です。
崖っぷちに立つ「定光寺駅」の不思議
定光寺駅は、鉄道ファンでなくても驚くような場所にあります。
ホームが崖の上にある
定光寺駅は、駅のホームがまるで庄内川を見下ろすかのような、「切り立った崖」にへばりつくような形で作られています。
「秘境駅」としての顔
また、定光寺駅は、名古屋近郊という素晴らしい立地にありながら、険しくも美しい峡谷の中にあるため、駅の周りには民家がほとんどありません。
それは元々、定光寺駅は
- 近くに存在する、名刹・定光寺への参拝客
- 高度経済成長期やバブル期に、(近隣の旅館やホテルなどに)たくさん訪れていた観光客
のために作られた駅である、という歴史があるからです。
「古虎渓」「玉野峡谷」どっち?
ちなみに、「古虎渓」の方が、地名や観光スポットの名前としては圧倒的に一般的です!
古虎渓とは?
まず「古虎渓」という呼び方は、岐阜県多治見市側の地名であり、「古虎渓駅」という駅名にもなっています。
玉野渓谷とは?
一方、玉野渓谷という呼び方は、主に愛知県春日井市側における、定光寺の周辺の庄内川あたりを指す呼び名です。
したがって、「玉野峡谷」という名前は、確かに地元の方からの呼び名や地図上の地名としては使われるようです。
しかし、やはり観光地としてのブランド力といえ観点でいえば、全国的な知名度としては駅名にもなっている「定光寺」や「古虎渓」の方が通じやすく、ずっと強いですね!
かつての玉野信号所や「旧線」に関する話題・歴史
玉野信号所と「廃線跡」のロマン
そして、歴史好きにとってたまらないのが、玉野信号所周辺の話題です。
単線時代の名残り、隠れた遺構・愛岐トンネル群
定光寺駅は、かつて中央本線が単線(線路が一本)だった頃、反対側・対向からやってくる列車の行き違い・すれ違いをするための玉野信号所として使われていました。
しかし、のちに複線化(線路が二本になった)されたことで、行き違い・待ち合わせをする必要がなくなったために、その役目を終え、人々の乗り降りをさせることができる「駅」へと昇格しました。
愛岐トンネル群に使われたレンガたち
また、この定光寺駅のこの付近には、1966年まで使われていた「旧線」における、たくさんの短い(明治時代のレンガでできた)トンネルたちが今でも残っています。
これらは後に詳しく解説しますが、愛岐トンネル群とよばれます。
赤レンガで作られた明治時代の美しいトンネルたちは、まるでタイムスリップしたかのような美しさを誇っており、鉄道ファンからもとても人気があります。
焼き物の聖地→トンネルのレンガ造りに役立ったという話
また、このエリア(東濃・瀬戸)といった地域は、とても質のよい粘土が採れるという、まさに「焼き物の聖地」です。
したがって、例えば埼玉県の深谷といったレンガの名産地などからわざわざ遠くから運んでこなくても、
- 地元で、レンガの材料たる粘土を、自前で調達して、
- しかも元々持っていた陶器を作る技術によって、
- 最高品質のレンガを、近くで作ることができた
というわけですね!
焼き物のノウハウの、レンガ造りへの転用
まず、鉄道トンネルに必要なレンガを焼くためには、高温を一定に保つための大きな窯と、さらには火をうまく操るという熟練の技術が必要になります。
しかしこのエリアには、古くから瀬戸焼や美濃焼を焼いてきた、プロの職人さんたちがたくさんいました。
したがって、鉄道トンネル用の膨大な数のレンガを生産するときにも、彼らの「レンガを焼いて作る技術」がフルに活用されたのです。
すなわち、当時既に日本の「焼き物」の技術で鍛えられており、元々のスキルや体力があった彼らは、いざ明治時代になって西洋式のレンガ造りに直面したとしても、驚ろくほどの吸収力で、すんなり受け入れられたのだそうです。
レンガも一種の「焼き物」
このように、彼らには元々陶磁器を作るというとても高い技術力があったからこそ、ここに何十年経っても崩れないような、非常に強固なレンガを地元で安定して供給することができました。
すなわち、愛岐トンネル群のレンガが今も美しいのは、当時の職人たちの意地と技術の結晶なのですね!
普段は立入禁止 年二回のみの「限定公開」
普段は立ち入り禁止ですが、春や秋の特別公開の日には、多くの人がその歴史的な姿を見に訪れます。
遺構:昔の建物や工作物などが、壊れずに残っている跡のことです。
つまり、年中いつでも見られるというわけでは決してなく、あくまで春・秋の年二回のみの公開というわけですね!
信号所から始まった「駅への昇格」への歴史
面白いことに、定光寺駅と古虎渓駅は、その「生まれ」もそっくりです。
どちらも最初は「信号所」
もともと、この険しい渓谷区間は線路が一本(単線)しかありませんでした。
単線:線路が一本しかなく、上り列車と下り列車が同じ線路を共有する方式のことです。
そのため、電車同士がすれ違うためのスペースとして、玉野信号所(定光寺駅の前身)と、池田信号所(古虎渓駅の前身)が作られました。
やがて「駅」へと昇格
やがて周辺の観光需要や地元の要望により、両方とも「駅」へと昇格しました。
いわば、この観光地に近い場所においてお客様を乗り降りさせるために生まれた「双子の駅」のような存在であるというわけです。
かつて約40年間忘れ去られてしまっていた遺構・愛岐トンネル群
「愛知県」と「岐阜県」の境界線を結んでいたトンネルたち
愛岐トンネル群の「愛岐」という名前は、愛知県と岐阜県をそれぞれ結ぶトンネル群であることから付けられました。
愛岐トンネル群は、一言で言うと
- 「40年以上も森の中に忘れ去られていた、明治時代のタイムカプセル」
のような、なんとも不思議な場所です。
先述の通り、定光寺駅の付近に、現在も存在している過去の遺構になります。
愛岐トンネル群 眠れる森の赤レンガ遺産
このトンネル群は、明治33年(1900年)に旧国鉄・中央西線として開通しました。
しかし、昭和41年(1966年)に新しい線路に切り替わったことで廃止され、その後は深い藪の中に埋もれてしまい、人々の記憶からは完全に消えてしまったのでした。
なぜトンネル「群」と呼ぶのか? 「~号」とつけられたトンネルの数々
「群」と呼ばれるのは、定光寺から多治見までのわずかな距離に、短いトンネルが数珠つなぎに連続しているからです。
明治時代に作られたときに、名古屋から長野方面へ向かって順番に「1号、2号…」と番号が振られました。
現在、愛知県側の保存団体が管理しているのが3号から6号までの4つであるため、これらをまとめて「愛岐トンネル群」と呼んでいるというわけですね。
なぜ40年間も忘れ去られたのか?
これには、いくつかの「偶然」と「立地」が重なっています。
立ち入り困難な崖っぷち あっという間に草木に覆われた
また、明治時代からの~1960年代まで存在していた旧線は、川と崖に挟まれた場所にありました。
そのため、1960年代に新しい線路が出来て電車が走らなくなると、そもそもそこ(古い線路やトンネルがあった場所)へ行く道がそもそも無くなってしまいました。
また、このように誰も人が入らなくなった古い線路跡には、あっという間に竹や木が生い茂ってしまい、トンネルの入口を完全に隠してしまったのでした。
「負の遺産」扱いに
さらに当時は、「新しいもの」が素晴らしいとされた時代でした。
そのため、それまでの古いトンネルはた「危ない、過去の遺物」として、地元の人もあえて近づかなくなっていったというわけです。
偶然の発見から始まった再生物語
しかし、再び光を浴びたきっかけは、2005年頃のちょっとした出来事でした。
なんと地元住民の一言から、市民レベルによる発掘活動へ
この2000年代に入ってから、たまたまた近くの駅の改築において古いレンガが見つかったときに、地元の方が
と言われたそうです。
それを聞いた地元の人々が山を実際に探索したところ、なんと木々に覆われた巨大な赤レンガのトンネルを次々と発見したというわけです。
したがって、今私たちがここを知ることができるのは、地元の皆さんが一生懸命に木を切り、道を整えてくれたおかげであるというわけですね!
普段は立入禁止 見学できるのは年二回の特別公開のときのみ
普段は立入禁止ですが、あくまで春・秋の年に2回だけ、門が開かれます。
トンネルの中はひんやりとしていて、中には当時の蒸気機関車の煤によって黒くなった部分が天井に残っていたりと、まさに「歴史の息吹」を肌で感じられるような場所です。
散策には懐中電灯・歩きやすい靴が必須にはなりますが、探検気分で散策をするのにのは最高に楽しいですよ!
「失われた旧線」がつなぐ一本の廃線跡、途切れた境界
愛岐トンネル群として整備されているのは、主に愛知県側の3号〜6号トンネルということになります。
また、その先の岐阜県側(古虎渓方面)にも、7号〜14号までのトンネルが、今でも藪の中に眠っているというわけです。
残念ながら岐阜県側は未整備であり危険なため立入禁止ですが、歴史的には一つの大きな「トンネル地帯」だったのですね!
なぜ岐阜県側は公開されないの?
ではなぜ、岐阜県側は公開されないのか。
これは決して「意地悪」をしているわけではなく、「安全」と「所有権」の壁が非常に高いというさまざまな事情があるからです。
理由1:険しすぎる地形
岐阜県側のトンネル(7号〜)周辺は、愛知県側よりもさらに足場が悪く、土砂崩れの危険がある箇所も多いです。
理由2:管理主体の違い
まず愛知県側は、地元の市民団体の人々が情熱を持ってJR社から土地を借り、その上で安全対策を施して、晴れて公開に漕ぎ着けました。
一方、岐阜県側は今もJRや複数の地権者が所有しており、万が一の事故の責任を考えたときに、そう簡単に「いいですよ」とは言えない事情があるわけです。
地権者:その土地を所有している人や団体のことです。
今も藪の中に眠り続ける線路とトンネルたち
このように、明治時代の職人が一つずつ積んだレンガ、それを守り抜こうとする現代の市民。
そして、今も静かに眠り続ける岐阜県側のトンネル…。
この対比が、また一つこのエリアの物語を深くしていますね。
おわりに・まとめ
玉野渓谷・古虎渓・庄内川(土岐川)・愛岐トンネル群の地理と歴史を巡る旅、いかがだったでしょうか。
明治の職人が焼いたレンガの温もりや、かつての鉄道建設の苦労や人々の努力などに思いを馳せると、この地域の景色がより違った形に感じられますね!
歴史を学ぶことは、過去から学び、これからに繋げることでもあります。
今回学んだ知識をもたに、次の旅行はきっと、あなただけの特別な冒険になることでしょう!
コメント