義仲の最高のパートナー・巴御前について、どんな強く素敵な女性だったのか・その激動の生涯を、わかりやすく解説してゆきます!
はじめに

巴御前の育った場所・木曽・宮ノ越(長野県木曽郡木曽町)
今回は巴御前という、平安時代の終わりの源平合戦を駆け抜けてきた伝説の女武者について学んでいきましょう!
源平合戦:平安時代の終わりごろに、源氏と平氏が争い、一度は平氏が勝っていたものの最後には源氏が勝った戦いのことです。
源平合戦については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

すなわち、強さ・美しさの両方を兼ね備えていたという彼女の生涯を知ることで、巴御前ゆかりの地を訪れる観光や探訪が、きっと何倍も面白くなりますよ!
巴御前とは?
巴御前は、平安時代にの終わりごろに起こった源平合戦の時期に活躍した、伝説的な女武者のことです。
すなわち、平氏の軍を相手に素手で倒しまくったほどの、ものすごく強かった女武者ということですね。
ちなみにこの「伝説的」というのは、記録にははっきり残っていない部分も多く、謎に包まれている部分が多いからです。
「旭将軍」こと源義仲(木曽義仲)の最強パートナー・巴御前
彼女は、
- 当時の源氏の強い武将であった木曽義仲(源義仲)の側近として、
- または最高の戦友・パートナー(愛人?)として、
義仲とともに数々の戦場を、共に駆け抜けていったのでした。
義仲の生涯については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

平氏家の栄華→衰退と、源氏・義仲・巴御前の登場
巴御前の主君(リーダー)であり、夫(あるいは幼なじみ・愛妾・愛人)でもあった木曽義仲が挙兵した背景・理由と、当時の状況を整理してみましょう。
平氏の全盛期(おごり高ぶっていた頃)
当時はまさに平氏の全盛期(一方の源氏はまだ負けていた時期)であり、
というような言葉で象徴されるような、平清盛が太政大臣となった1167年頃からがピークです。
ちなみに太政大臣とは、天皇から正式に「この国のトップとして政治をしてもよい」とのお墨付きを得た、今の内閣総理大臣のようにエラいポジションです。
この天皇の「お墨付き」が無いのに政治をすると、単なる「ヤバい反逆者」にしかならないわけですね。
巴御前が戦い始めた時期 1180年「以仁王の令旨」
しかし、1180年の以仁王の令旨をきっかけに、各地で平氏に不満を持つ源氏たちが、一気に挙兵して平氏と戦い始めました。
ちなみに令旨とは、一言でいうと、「天皇の家族(皇太子や親王など)が出す、公式な命令書」のことをいいます。
すなわち、ここでは
全国の源氏どもよ、今こそ立ち上がって平氏を討て!」
というような激しいメッセージです。
なぜ戦うために「令旨」が必要になるのか(自分勝手な戦いはダメなのか)
ではなぜ、この「公式な命令書(令旨)」重要なのか。
それは当時、勝手に兵を挙げることというのは単なる「反乱」となってしまいます。
しかしながら、皇族からの「命令書」があれば、それは「正義の戦い」であるという大義名分になり、戦うことに対して正当な理由が出来るというわけです。
すなわち、源氏は以仁王という皇族のエラい方からこの命令書(令旨)を受け取ったからこそ、木曽義仲や源頼朝といった源氏のツワモノたちは、堂々と平氏を倒すために動く(戦う)ことができたというわけです。
以仁王(もちひとおう)とは?
ちなみに以仁王とは、後に義仲が京都で対立(して義仲の方が負ける)ことになる、後白河法皇の息子(親王)です。
以仁王は、本来なら天皇になってもおかしくない身分でしたが、平氏の力が強すぎたために、それまでは冷遇されていました。
その「冷遇」に対する不満もあり、1180年に全国の源氏に対して「平氏を倒せ!」という命令書(令旨)を出して、源平合戦のキッカケを作ったということになります。
巴御前が戦った当時 平氏の衰退と「都落ち→西への敗走」
また、巴御前が戦場を駆け抜けていた時には、平氏はすでに衰退して都(京都)を追われており、さらには西国(中国地方など)へと逃げ延びるという、いわゆる「平家都落ち」の最中でした。
このように、この頃には平氏には既に「おごり高ぶっていたツケ」が回ってきており、さらには一族が下関・壇ノ浦にまで追い詰められていくという過渡期のなかに、巴御前は現れたと言えます。
平氏が衰退した理由は?清盛の死
ちなみに平氏が衰退した理由は、やはりなんといっても平清盛の死去(1181年)が最大の転換点でした。
このように、それまでのカリスマ的なリーダーだった清盛がいなくなったことで、平氏一族の結束が弱まってしまい、かえって源氏の勢いがつき、それを止められなくなってゆきました。
また、重なる飢饉や、清盛による強引な政治に対しての反感なども、平氏の衰退を早める原因となりました。
平家物語の「祇園精舎の鐘の声」でも謳われる、平氏の衰退
ちなみに後述する、平家物語における「祇園精舎の鐘の声」というフレーズも、この平氏の衰退を物語ったものです。
また、これは単なる平氏の衰退だけでなく、
「一人当千」物凄い力持ちだった巴御前
彼女は主に『平家物語』などの当時の軍記物語に登場します。
そもそも「平家物語」とは?
平家物語とは、鎌倉時代に成立した、主に平氏と源氏の争い(つまり、源平合戦)について描いた軍記物語です。
この平家物語は琵琶法師によって後世へと語り継がれてゆき、「祇園精舎の鐘の声」で始まるフレーズがよく知られています。
また、平家物語は「史実(事実)」をベースにした「文学作品」であり「面白さを優先」している部分もあるため、創作や誇張はたくさん含まれています!
巴御前の圧倒的な強さに関する描写も、彼女の凄さを強調するためのドラマチックな演出だったのかもしれません。
すなわち、「正確さ」よりも「面白さ」を重視している面もあるため、後世の書き手によって「物語として面白くなるよう」に脚色・誇張されている部分があるのは仕方ありません。
しかし、それが当時の人々の「理想の武士像」を映し出しているとも言えますね。
軍記物語(ぐんきものがたり)とは?
また、軍記物語とは、「実際に起きた戦争」をテーマにした歴史ストーリーのことです。
『平家物語』がまさにその代表格となります。
ただの歴史記録ではなく、武士たちの勇ましさや悲劇をドラマチックに描いたりしているという形になります。
そのため、歴史の出来事を淡々と並べた「記録書」というよりは、むしろ人々に楽しんでもらうため・エンターテイメント重視の「読み物」としての側面が強いのが特徴です。
「平家物語」で描かれる巴御前の強さ
この「平家物語」には、巴御前がとても強い力によって、強く弓を引くことができる使い手である、いわゆる「一人当千」の強さを誇っていたと描かれているわけです。
一人当千:「たった一人で、なんと千人分の働きをするほど強い」というような意味になります。
常に「先陣を切って敵に攻めていった」巴御前
巴御前は、戦場では常に先陣を切って敵を次々に打ち倒していくほどの腕前だったとされています。
ちなみに「先陣を切る」とは、戦場において一番最初に敵陣に突撃することを指します。
当時は武士にとって、誰よりも先に敵と刃を交えることは「一番槍」とも呼ばれ、最高の誉れとされていました。
巴御前が「常に先陣を切っていた」というのは、彼女が軍団のトップを走り敵に突っ込んでいくという圧倒的な武力の持ち主だったことを物語っています。
すなわち、彼女は華やかな見た目や姿からは想像もつかないほど、戦いの場では勇名を轟かせたほどの女性なのです!
巴御前の生年、没年、出身地は?
まず、巴御前の生年や没年については、残念ながら正確にはわかっていません。
これだけだと確かにかなり伝説的ですが、しかしながら、
- 平安時代末期から、
- 鎌倉時代初期あたりまで
にかけて生きた人物であると、おおよそ推測されているわけです。

義仲と巴御前ゆかりの地、中央本線・宮ノ越駅(長野県木曽郡木曽町)
また、彼女は出身地についても諸説あります。
ただし、有力な説としては木曽義仲とともに育った信濃国(つまり今の長野県)の木曽地域あたり、すなわち現在の長野県木曽郡木曽町・宮ノ越の出身とされています。
義仲との関係: 幼馴染
義仲は、生まれの地である埼玉県での時代(幼い頃)に父を殺されてしまったことで、この木曽の有力者である中原兼遠に預けられて、巴御前とともに木曽で育ちました。
したがって、巴御前と義仲は、木曽の豊かな自然の中でともに育った「幼馴染」のような関係だったと言われています。
しかし、彼女がいつどこで武芸を身につけたのかなど、詳しいことは謎に包まれており、歴史のロマンを感じさせます。
義仲が父を殺されたのは、埼玉時代?
義仲が幼少期だった1155年、現在の埼玉県比企郡嵐山町のあたりにあった大蔵館が襲撃されてしまいました。
そして、義仲の父である源義賢が、源頼朝の兄である源義平によって討たれてしまったのでした。
当時2歳だった義仲は、やむを得ず家臣(部下)によって抱えられて、はるか信濃(長野県)の木曽へと逃げ延びてきたというわけです。
大蔵館(おおくらがたて)とは
ちなみに大蔵館とは、現在の埼玉県比企郡嵐山町にあった、義仲の父である源義賢の居館(お城のような住まい)です。
ここで義仲は生まれましたが、わずか2歳の時に、一族どうしの争いに巻き込まれてしまいうことになります。
そして先述の通り、父は頼朝の兄である義平に襲撃されてしまうという、父を失った悲劇の場所でもあります。
幼い義仲が強くなるように込められた「産湯」
現在でも跡地が残っており、義仲の産湯に使ったとされる清水の伝承などがあります。
昔の人々にとって、産湯には単に体を洗うだけでなく、
- 「その土地の神様の力を、体に取り込む」
という儀式的な意味がありました。
すなわち、その土地の水を産湯に使うことで、「その子は土地の神様に守られる」と昔は考えられていました。
また、義仲のように武家の子であれば、「将来、強くたくましい武士になるように」という願いが、その一口・一浴びに対して込められていたというわけです。
中原氏の生まれ育ちなのに「巴」の理由
巴御前のお父さんは中原兼遠という、木曽地域の有力者でした。
すなわち、彼女は中原兼遠の娘であったわけですが、だからといって例えば「中原巴」などのように、当時は女性を氏名で呼ぶという習慣はありませんでした。
なので巴御前の本名は、現代に伝わっていないということです。
すなわち、物語の中において、彼女の象徴的な「美しさ」と「強さ」を表す、あくまで「二つ名」として「巴御前」という名前が定着したのです。
「巴御前」は本名ではない?
そしてもうおわかりの通り、「巴御前」というのは本名ではありません。
先述の通り、当時の女性の本名(諱:いみな)が記録に残り現代にまで伝わるということは、極めて稀なことでした。
諱:漢字の通り「忌み名」とも書き、生前の本名のことです。
「巴」という名前の由来には、諸説あります。
- 紋章説: 彼女が「巴紋」のついた衣服や武具を愛用していたから。
- 容姿説: まるで「渦を巻く巴」のように、ふっくらとした美しい顔立ちだったから。
- 「御前」とは?:当時は身分の高い女性、あるいは武勇に優れた女性などに対する尊称(敬称)として使われていました。
平安時代頃には、女性は一般的には氏名で呼ばれることはありませんでした(例えば紫式部や清少納言、静御前や小野小町なども同じ)。
木曽・宮ノ越(みやのこし)とは?
信濃国(今の長野県)の木曽谷にある地域です。
すなわち、木曽義仲が幼少期を過ごした、いわば義仲の本拠地になります。
木曽・宮ノ越において生まれたエピソードについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

つまり、彼女については歴史的な記録があまり多くなく、詳しいことに関しては謎に包まれている部分が多いというわけです。

巴御前と義仲が育った場所・宮ノ越(長野県木曽郡木曽町)
巴御前の「主な功績」は?
彼女の最大の功績は、なんといっても主君(リーダー)である
- 木曽義仲(正式名称は源義仲)
による平氏の討伐に対して、そのメンバーの一人の武将として参加し、そして華々しい武功を上げたことにあります。
特に(次回以降に詳しく解説しますかが)、
- 倶利伽羅峠の戦い
- 源頼朝の軍勢との、宇治川の戦い
などの様々な「平氏軍との戦い」において活躍しました。
倶利伽羅峠の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

宇治川の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

義仲・粟津の最後まで、徹底的について戦った
また、巴御前は『平家物語』においては、
- 義仲の最期の戦いである粟津の戦いにおいて、
- 義仲に強い言葉で「去るように」諭されて、戦場を去る直前に、
- 敵の武将を、組み伏せて倒した
という、まさに壮絶な最期の奉公を果たした場面が有名です。
つまり、男性と肩を並べて戦ったという、非常に稀有な女性として、後世に名を残したのです!
義仲が巴御前に対して「逃げろ!」と強い言葉で命じると、彼女は義仲への最後の奉公として敵の豪傑を組み伏せ、完膚なきまでに倒してから戦場を去ったという、なんとも凄まじいエピソードが残っています。
いつも義仲について戦った?
巴御前は、木曽義仲の側近として、ほとんど常にいつも彼のそばにいて戦いました。
彼女は義仲の護衛として、また一人の武将として、平氏との戦いに参加しているというわけです。
例えば、義仲が平氏を都から追い出した有名な倶利伽羅峠の戦いなど、重要な合戦においては必ずと言っていいほどその名が見られます。
すなわち、巴御前は、義仲の戦いから没落に至るまで、常に運命を共にしたという戦友のような存在だったということになります。
巴御前は強かった?
巴御前は、非常に強かったです。
『平家物語』では、一人当千の働きをした猛将として描かれているわけです。
すなわち、強弓を引く大力(つまり、力持ちのこと)な女武者でした。
すなわち、彼女は一般的な男性武者よりも、はるかに強かったと言えます!
強弓(つよゆみ)とは?
これは、普通の弓よりも「はるかに強い力でなければ引けない」という弓のことです。
つまり並外れた腕力を持つ者でなければ使いこなせませんが、その代わり圧倒的な威力を誇りました。
また、その射程距離は圧倒的で、通常の弓よりもはるかに遠くの敵を狙い撃つことができました。
すなわち、戦場で彼女が矢を放てば、敵は近づく前に馬から射落とされたことでしょう。
巴御前が「強弓の使い手だった」という記録からも、彼女の強さがわかりますね!
木曽義仲とは?
巴御前の最大のパートナーであり主君(リーダー)である木曽義仲は、源氏のとても強かった武将です。
彼は、あの鎌倉幕府を開いた源頼朝の従兄弟にあたります。
義仲は、平氏を都(つまり、京都)から追いやるという大きな成功を立て、しかも一時は京都において征夷大将軍にすら任じられるほどでした。
東の方からまるで朝日のように登場したため、旭将軍なる異名があります。
しかしながら、後に頼朝と対立してしまい、滅ぼされてしまうことになってしまうです。
義仲との関係は?恋人?
巴御前と木曽義仲の関係は、
- 先述のように、幼なじみ
- 戦友としてのパートナー
- 主従関係であり、
- かつ、男女の関係もあった
とされています。
彼女は、義仲の側室(正式な妻ではないが愛する女性)であるか、あるいは妾だったと伝えられることが多くなっています。
妾(めかけ)とは?恋人とどう違う?
ちなみ、妾とは、
- 正式な妻ではないが、
- 夫と継続的な性的関係を持つ女性
のことをいいます。
すなわち、
- 恋人が「対等な関係」「相思相愛」の意味合いが強いのに対して、
- 妾は、妻や家族という枠組みの中において認められた、特別な関係であることが多かった
ということになります。
どのみち、現代ではあまり一般的には用いられない表現ですね。
巴御前は、美人だった?
また、巴御前は美人であったと伝えられています。
『平家物語』の中にも、
という風に描写されています。
すなわち、その美しさにも関わらず、戦場では強弓を操り、一人当千の働きをしたという稀有な女性でした。
したがって、彼女はただ強いだけでなく、優美な容姿も兼ね備えていたというわけです。
才色兼備だった巴御前 美しいのに強すぎた
ただし、彼女の武勇があまりにも際立っていたため、
- 色白で容姿端麗であることには変わらないが、一人当千の強さをも持っている
というようなギャップこそが、後世の人々の想像力をかき立て、さらには伝説化されたとも考えられます。
したがって、強さと美しさの両方を持ち合わせた、まさに理想的な女武者として語り継がれているというわけです!
したがって、美貌と武勇という、相反する魅力を持っていたことが、彼女をさらに伝説的な存在にしたと言えるでしょう。
すなわち、巴御前が木曽義仲と共に駆け抜けた数年間は、まさに彗星のような輝きと、あまりにも切ない幕切れに満ちているというわけです。
今回はここまで 続きは次回
おわりに:今回は長くなりましたので、続きは次回に解説します!
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