義仲の最高のパートナー・巴御前について、その激動の生涯(倶利伽羅峠・宇治川・粟津の戦いなど)を、わかりやすく解説してゆきます!
今回も、巴御前についての話題
前回に続いて、今回も巴御前という、源平合戦を駆け抜けてきた伝説の女武者について学んでいきましょう!
巴御前がどんな女武者だったのか?など基本的な知識については、前回の記事で解説していますので、ご覧ください。

巴御前の歴史・生涯

巴御前と義仲が育った場所、木曽・宮ノ越(長野県木曽郡木曽町)
さて今回は、彼女の戦い歩み・略歴を、主に
- はじめの木曽(長野県)での「旗揚げ」から、
- 最後の粟津(滋賀県)での「最期の別れ」まで、
時系列で整理してみました。
【1180年】長野・木曽での「旗揚げ」
以仁王の令旨による、打倒平氏に向けた挙兵
前回も解説した通り、このときに以仁王からの
という令旨を受けて、現在の長野県の南西部・山深い地域にあたる木曽谷において、巴御前のパートナー・戦友・主君である木曽義仲が、
と挙兵しました。
令旨:皇太子や親王など、天皇の家族が出す公式な命令書のことです。
この正式な名令書がないと、単なるヤバい反乱軍とみなされて倒されてしまいます。
そして巴御前はまさにこの時から、愛する戦友である義仲のそばで、大きな一つの軍を率いる武士のリーダーとして、常に義仲についてゆくことになります。

巴御前と義仲が育った場所、木曽・宮ノ越(長野県木曽郡木曽町)
「旗揚げ」は木曽の南宮神社
その令旨を受けた1180年に、義仲はまず木曽町・宮ノ越の南宮神社において「絶対に平氏に勝つ」と必勝を祈願して、ここに平氏打倒の兵を挙げました。
現在もこの神社には、義仲ゆかりの史跡が多く残っています。
まず木曽から北陸へと移動した理由
その後、挙兵した義仲は地元の信濃(長野)・木曽地域から、まずは北陸(新潟・富山・石川)へと向かうこととなりました。
そしてその理由は、
- 仲の悪かった従兄弟の源頼朝との衝突を避けつつ、
- 既に頼朝の手中にあった東海道を迂回しつつも、
- (東海道以外の)最短ルートで京都を目指すため
でした。
北陸を迂回する方が、都合が良かった
まず東海道(太平洋側)は、このときすでに源頼朝が軍の勢力を広げており、妨れる可能性もあり、ここは通ることができませんでした。
しかし、北陸道(日本海側)はまだ平氏の支配が比較的弱く、しかもここには義仲を支持する・味方をしてくれる武士団たちも多かったため、北陸道を拠点に京都へ攻め上がる戦略をとったのです。
すなわち、東海道新幹線や東海道本線が頼朝に乗っ取られていた(許可が無いと乗れない)ため、やむを得ず北陸新幹線や北陸本線などで京都を目指すことにしたというようなイメージですね。
燧ヶ城(福井県)での戦いと、巴御前
さらに一年後、1181年に福井県のやや南部において行われた燧ヶ城の戦いにおいても、巴御前は義仲について同行していたものと考えられています。
燧ヶ城の戦いおよびその近隣の駅である今庄駅などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。


燧ヶ城にほど近い、ハピラインふくい線・今庄駅(福井県南条郡南越前町今庄)
この福井県南部において行われた「燧ヶ城の戦い」は、平氏の大軍を足止めするために築かれた「燧ヶ城という城においての攻防戦でした。
しかし、この戦いでは内通者の裏切りにより、義仲の軍は敗北してしまい、さらには(彼らの味方が多い)富山方面へと大きく後退することになります。
そして巴御前もこの苦しい撤退戦を、このとき義仲とともに戦い抜いたのでした。
【1183年】倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い
義仲・巴御前の躍進のきっかけとなった戦い
平氏に不満を持ち、かつ義仲らに味方をする人々が多かった北陸地方
やがて、彼らの味方が多く存在する富山県・石川県の県境において行われた倶利伽羅峠の戦いからは、一気に義仲・巴御前らの反撃のターンとなっていきます。
というのも、当時の北陸地方にはかつてより平氏の圧政に苦しみ不満を抱いていた人々が多かったため、義仲・巴御前の軍は彼らにとってはまさにヒーロー・救世主のような存在だったのでした。
そして、地元の人々より手厚いサポートを受けられるようになったため、一気に元気を取り戻すこととなったのです。
「倶利伽羅峠の戦い」とは?
この倶利伽羅峠の戦いは、1183年(寿永2年)に行われた、義仲の軍が平氏の大軍を破ったという源平合戦における重要な戦いです。
倶利伽羅峠については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

500の牛に火をつけて戦った「火牛の計(かぎゅうのけい)」
この戦いでは、
- なんと夜間に、500もの牛の角に松明をつけて(火をつけて)、
- 敵陣へと突っ込ませる
という、「火牛の計」とよばれる常識破りな戦法を用いたことで知られます。
巴御前もここで大活躍し、平氏を敗走させました。
この勝利により、義仲軍の勢いは決定的なものとなります。
義仲が北陸で巻き返せた理由
燧ヶ城ひうちがじょうでの敗北し、さらに石川県(加賀)・富山県(越中)方面へと逃れてきた義仲・巴御前の軍でしたが、なぜ倶利伽羅峠で大逆転できたのでしょうか。
北陸における平氏軍の地盤・支配力の弱さ
この当時は、北陸(越中・加賀)地方においては、
- 平氏による直接的な支配力が弱かったこと
- 逆に、地元の武士たちは平氏による厳しい取り立てに対して、強い不満を持ってたこと
などといった、義仲らにとっては好都合な条件がまさしく揃っていました。
そのため、義仲が北陸へ入ってくると、彼らのことを「源氏のヒーロー」として支持してくれる地元の武士たちが、次々と義仲の味方についていったというわけです。
地形を活かした巧みな戦略によって勝利
平氏は大軍でしたが、北陸の険しい山道での戦いには不慣れでした。
そこで義仲は、
- 彼に味方する地元武士による案内・レクチャーによって、地形を熟知することとなり、
- それを生かした夜襲や奇襲(火牛の計など)を仕掛けることによって、
- 数では勝っていた平氏軍を、パニックに陥れることに成功した
というわけです。
平清盛という絶対的カリスマを失っていた平氏軍
一方の平氏軍側は、このころは既にリーダーの平清盛(1181年に死去)という絶対的カリスマを失っており、軍の士気が下がっていました。
一方、これに対して義仲軍は、故郷と地元の人々の期待を背負った精鋭部隊であり、士気はとても高く、その勢いはまさに破竹のものでした。
倶利伽羅での巴御前の役割 敵を背後から突く戦いぶり
また、この「火牛の計」という常識破りな戦いにおいて、500頭もの牛が平氏軍に対して突撃している間、巴御前は「搦手」といって「敵の背後や側面を突く」という、別働隊における重要な役割を担っていました。
搦手:主に、城や陣地などの裏門のことをいいます。
また、これが転じて、敵の背後から攻めていく部隊のことをいいます。
このように、義仲の作戦は、正面から牛を放って敵をパニックに陥れたのでした。
またそれと同時に、それまで周囲の山々に隠れて伏せていた義仲軍が、逃げ惑う平氏軍に対して次々に襲いかかっていったのでした。
巴御前も、平氏軍を次々に倒していった
そして巴御前も、その混乱の中において敵陣へと斬り込んでゆき、パニックと混乱に陥っていった平氏軍を谷底へ追い落とすという大きな役割・戦いぶりを果たしたのでした。
また、この頃から彼女の強さの象徴である「一人当千」の噂が広まってゆき、敵からは恐れられ、味方からは頼りにされるような存在となっていました。
石川県・津幡町における「誇り」義仲と巴御前
この「倶利伽羅峠の戦い」の舞台となった石川県・津幡町においては、二人はまさに郷土のヒーロー・ヒロインとなっています。
倶利伽羅峠の戦いは、源平合戦の大きな転換点となった、歴史的勝利です。
その舞台となった津幡町においては、義仲の知略・頭脳プレーと巴御前の武勇・強い戦いぶりは、今でも地元の人々にとっての誇りとなっています。
巴御前と石川県・手取川の関係

かつて義仲と巴御前の軍が「手を取り合って」渡った手取川(石川県)
また、石川県の手取川付近にも、かつて巴御前が戦った伝説が色濃く残っています。
すなわち、先述の倶利伽羅峠の戦いで見事に勝利した義仲軍が、西の福井・京都方面へと逃げてゆく平氏をさらに追い詰めたのが、この川の付近となります。
手取川の由来と「手を取り合って」
ちなみに手取川の由来である「手を取り合って渡ったから手取川」という説は、義仲のこのときのエピソードが有力な由来の一つとされています!
つまり1183年に大雨で増水した手取川を渡るときに、義仲軍の兵士たちがお互いに「手を取り合って」激流を渡りきったことから、「手取川」と呼ばれるようになったという伝説があるわけです。
あと、もう一つの説もあり、 巴御前が敵を「手で取って(捕まえて)投げ飛ばしたから」という、彼女の怪力にちなんだなんとも豪快な伝説まで存在するといいます。
手取川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

手取川は「石川県」の由来?
また、手取川は「石川県」の由来となった川として知られますが、これについては少し面白い関係があります。
- 直接の由来ではない:「石川県」という名前の直接の由来は、かつて県庁が置かれていた「石川郡」という地名にあります。
- 石川郡の由来は手取川:そして、その石川郡の由来となったのが、実は手取川なのです。
では、なぜ「石川」なのか。
手取川は非常に流れが急で、大雨のたびに上流から大きな石をゴロゴロと流してきたため、古くは「石の川」と呼ばれていました。
それが「石川」となり、郡の名になり、最終的に県名になったのです。
したがって、「手取川(石の川)が石川県の名前のルーツ」というのは間違いありません。
手取川での戦いにおける、巴御前の強行突破
また、ここで増水した手取川を前にして足止めを食らった義仲軍は、巴御前が真っ先に馬で川へと飛び込み、しかも対岸へ渡ってさらに敵を蹴散らしたという、「手取川強行軍」の伝説があるそうです。
「手取川の戦い」は、織田信長・上杉謙信の戦いでも有名
ちなみに手取川の戦いといえば、のちに織田信長の軍が上杉謙信に大敗した場所としても有名です。
このように、手取川は時代を超えて、ここは武士たちにとっての正念場となる場所だったのですね。
【1183年】念願の入京(京都入り)
失態続きとなった、京都での暮らし
やがて巴御前は義仲とともに、念願の京都入りを果たし、平氏を京都から追い出すことになります。
入京:軍勢などが、都(当時は京都)に入ることです。
しかし、都の治安を悪化させたり、後白河法皇との対立や失態などにより、義仲はどんどん京都で嫌われてゆき、次第に孤立してしまいます。
京都での暮らし 慣れない都での振る舞い
念願の入京を果たした巴御前でしたが、京都での生活は決して華やかなものではありませんでした。
まずは、戦いの日々の連続であり、たとえ京都においても逃げた平氏との戦いや、あるいは反抗的な寺社勢力との小競り合いが続きました。
また、木曽の山育ちである彼女や義仲にとって、貴族文化が支配する京都は、やはりどうしても居心地が悪かったはずです。
ちなみに物語においては、彼女は都でも常に武装を解かず、義仲のずっとそばにいて、義仲を護衛することに徹していたとされています。
あくまで義仲を守り抜こうとする彼女の一途な心が、とても美しいですね!
義仲・巴御前が、頼朝から討たれることになった理由
同じ源氏でありながら、源頼朝が義仲を討つ決断をした背景には、単なる仲違いではない「政治的なドロドロ」と「育ちの違い」がありました。
都(京都)での評判は最悪、京都での略奪横行
義仲は信濃(長野)の山育ちであり、確かに武勇には優れていました。
しかし、都会のルールや礼儀に対しては残念ながら疎いところがありました。
また、当時の京都では大飢饉で食べ物がなく、義仲の兵たちが京都で略奪を行ってしまい、治安を悪化させてしまいました。
義仲、後白河法皇との対立
さらには、京都のトップである後白河法皇に対して失礼な態度を取ってしまい、極めつけはなんと武力でお寺に幽閉する(閉じ込める)など、政治的な暴挙・大失態を犯してしまいます。
これにより、後白河法皇は
として、源頼朝に依頼(宣旨)を出したのでした。
【1184年】宇治川の戦い
宇治川の戦い(うじがわのたたかい)とは?
そして京都で嫌われ追放された義仲でしたが、そんな義仲に対して「今こそチャンスだ!」と言わんばかりに、源頼朝が義仲を討つための兵を京都へと送り、攻撃を仕掛けました。
そして1184年(元暦元年)に、
- 義仲軍
- 源頼朝が送った、源範頼・義経軍
がそれぞれ京都の宇治川において戦うことになります。
ここで義仲は、鎌倉の源頼朝が送り込んだ先述の軍と激突することになります。
宇治川の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

東から攻めてくる義経軍が宇治川を渡ってゆき、義仲軍の京都への道を阻みました。
したがって、この戦いは義仲の没落を決定づけた戦いの一つとなりました。
義仲軍は総崩れとなり、宇治川を突破され、わずかな手勢・軍とともに、命からがら近江(滋賀県)方面へ逃れることになりました。
宇治川の戦い:絶体絶命の危機
また、佐々木四郎らの源頼朝が派遣した軍の精鋭たちが「我先に」と宇治川を突破してきた瞬間、義仲軍は崩壊の危機に直面してしまいました。
宇治川の先陣争いに驚き、窮地に陥った義仲
このように、佐々木四郎らが宇治川の激流を乗り越えて先陣を切って攻めてきたことは、義仲軍にとってはとても大きな精神的ショックでした。
すなわち、このときの義仲からすれば「絶対に突破できない」と思っていた天然の要塞である宇治川を彼らにいとも簡単に越えられたことで、義仲からすれば防衛ラインが一気に崩れてしまったというわけです。
宇治川での惨敗、あわや討ち取られてしまう展開に
このように相手の勢いが凄まじく、義仲や巴御前の軍は、ここで決死の防戦を強いられることになります。
そして、義仲はこの時点で「もはやこれまで」と悟るほどの窮地に立たされました。
そんな中での、巴御前の奮闘
しかしこの大混乱の中でも、巴御前は義仲の盾となって戦い、わずかな手勢・兵力とともに近江(滋賀)方面へうまく逃れるための道を作り出しました。
そしてこのことが、残念ながら直後の「粟津の別れ」へと続く、悲劇のカウントダウンとなったのです。
【1184年】粟津の別れ
「粟津の戦い」とは?
粟津の戦いとは、先述の宇治川の戦いで義仲軍が敗北した後に、さらに源頼朝軍に追いつめられ、最期を迎えた戦いです。
現在の滋賀県大津市の琵琶湖付近における戦いです。
粟津の戦いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

また、この「粟津の戦い」は後述するように、巴御前が義仲から「去るように」と命じられて戦場を去るという逸話や、さらには義仲の壮絶な最期の場面としても知られます。
宇治川の敗北後、なぜ粟津へ向かったのか?(義仲・巴御前の軍)
ではなぜ宇治川での敗北後、彼らの軍は滋賀・大津の粟津へと向かったのか。
そしてその目的は、間違いなく「北陸への脱出」でした。
滋賀・大津は、北陸への最短ルートだったこと
宇治川(京都)で敗れた義仲軍にとって、京都を脱出してから自分たちの味方が多い勢力圏である北陸へ戻るためには、滋賀県の大津(粟津付近)を抜けて、さらに琵琶湖を北上していくというが最短ルートでした。
(味方の多い)北陸での再起を図る目的もあった
また義仲は、ここで一度北陸まで戻りさえすれば、そこで再び兵を集めて再び立て直せるものだと信じていました。
しかし追ってくる源義経軍の追撃が予想以上に速く、滋賀・大津の粟津の地で討たれてしまい、力尽きてしまったのでした。
巴御前、粟津での義仲への「最後の奉公」
この戦いにおいて最期を覚悟した義仲に強い言葉で「去れ」と言われた巴御前は、ただ逃げるだけではなく、最後に自分の武勇の凄さを見せつけようとしました。
そして彼女は、相手・敵方の怪力で知られる武将・御恩田師重に対して襲いかかり、なんと素手で相手を倒したといいます。
彼女はその凄まじい姿を見せつけた後、静かに鎧を脱ぎ捨て、逃げ延びていきました。
義仲はこの直後に討ち取られてしまいますが、巴御前が生き延びたことで、彼らの物語はその後も語り継がれることになりました。
巴御前、粟津(あわづ)で義仲と別れた後はどうなった?
巴御前が義仲とこの粟津の戦いで別れた後の人生についても、実は諸説あって定かではありません。

義仲と巴御前が最期に別れた、琵琶湖・粟津付近(滋賀県大津市)
最も有名な説は、戦場を去った直後に、
彼女はそれまで着用していた鎧を脱ぎ捨て、女の姿に戻って信濃(長野)方面へと落ち延びたといいます。
そして、その後の彼女の第二の人生は、信濃(長野県)や越中(富山県)などのゆかりの地へと戻ったなど、様々な説があります。
今回はここまで 続きは次回
おわりに:さて、今回も長くなりましたので、続きは次回解説します!
次回でこのシリーズは最終となる予定です。
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