義仲の最高のパートナー・巴御前について、謎が多いその晩年の暮らしや様々な伝説などを、わかりやすく解説してゆきます!
今回も、巴御前についての話題
前回・前々回に続いて、今回も巴御前という、源平合戦を駆け抜けてきた伝説の女武者について学んでいきましょう!
ちなみに「巴御前シリーズ」は、今回が最後になります(前3回)。
巴御前がどんな女武者だったのか?など基本的な知識については、前々回の記事で解説していますので、ご覧ください。

巴御前の主な戦歴などについては、前回の記事で解説していますので、ご覧ください。

巴御前の余生、様々な伝説や伝承、様々なエピソードなど
粟津で義仲と別れた後の巴御前
今回は、巴御前の謎が多いその晩年の暮らしや様々な伝説などについて、さらに深くみてゆきましょう!
粟津(あわづ)で義仲と別れたあと、どうなった?
前回のラストにおいて、巴御前が木曽義仲と粟津の戦いで別れた後の最期についても、実は諸説あって定かではありません。

巴御前と義仲が最期に別れた、琵琶湖・粟津付近(滋賀県大津市)
まず、最も有名な説によれば、
- 戦場を去った直後に、彼女はそれまで着用していた鎧を脱ぎ捨て、
- 武士としてではなく普通の女子の姿へと戻り、
- そこから信濃(長野)方面へと落ち延びた
といいます。
さらに、その後の彼女の「第二の人生」は、
- 先述の通り、信濃(長野県)や越中(富山県)などのゆかりの地へと戻った後、
- 出家してから尼僧となり、
- 戦死した義仲や兄・今井兼平の菩提を弔いながら、長寿(なんと91歳!)を全うした
というものが、彼女の晩年の伝説・伝承になります。
出家:世俗を捨てて仏道に入り、僧侶になることです。
菩提を弔う:死者の冥福を祈ることです。
すなわち、亡き義仲や兄・今井兼平の菩提を弔うために、毎日のように祈りの日々を捧げたと言われています。
「住んでいる土地の地名=苗字」の例
- 栃木県足利市と足利氏(室町幕府の将軍家)
- 栃木県小山市と小山氏など
尼(あま)とは?坊主の女性のこと?
ちなみに尼とは、出家して仏門に入った女性の僧侶のことです。
仏門とは、仏教の教えに入ること、つまり「出家して、僧侶や尼になること」をいいます。
すなわち「仏門に入る」とは、俗世間における「欲」や「争い」などを捨てて、仏教の修行に専念する決意をすることです。
つまり、騒がしい世の中から人のいない山奥に混もって、修行や考え事などに専念することですかね。
男性僧侶と同じく仏教の戒律を守り、しっかりした日々を送った尼僧
また、彼女たちも男性の僧侶と同じく、仏道を修めるために髪を剃り、またその上で戒律を守って生活するということになります。
ちなみに戒律とは、仏教徒が守るべき「生活のルール」のことです。
例えば、悪いことをしない・嘘をつかない・殺生をしないといった、自分を律するための決まりごとをいいます。
巴御前の余生 どんな伝説があったのか 結婚はできた?
和田義盛という御家人の妻となった説
また、出家後の巴御前については、和田義盛という、有力な武将の妻になったという「別の伝説」も存在します。
和田義盛は、かつて源頼朝の部下として仕えた有力な御家人であり、しかも義仲とは敵対関係にあった人物になります(上司の頼朝が義仲の敵だったため、部下の和田さんも必然的にそうなりますよね)。
しかし後述する通り、和田さんがあまりに美しい巴御前を好きになったため、頼朝の許可を得てから彼女と結婚することになったようです。
美しい巴御前に惚れて結婚、子をもうけたとも
そのエピソードによれば、巴御前は戦場を去った後に故郷の長野・木曽へと戻ろうとしたところを鎌倉軍に見つかって捕らえられてしまい、そのまま神奈川県の鎌倉へと連れていかれたといいます。
しかし、鎌倉でも毅然・堂々とした態度を取る彼女を待ち受けていたのは源頼朝による厳しい尋問ではなく、そのあまりの美しさと武勇を持っている彼女に対して、鎌倉の和田義盛が惚れ込んでしまったということでした。
ぜひとも彼女を私の妻にして、強い子どもを産ませたい。」
こうして、和田義盛は源頼朝に対してとても熱心に説得・嘆願し、最終的には頼朝の許しを得て、巴御前は和田義盛の妻となりました。
そして、彼との間に子供をもうけ、その生まれた子が和田義秀(朝比奈義秀)だとも言われているわけです。
1213年 和田氏が滅ぶ 北陸へ逃れ余生を過ごした説
しかし、その和田氏は1213年に起きた「和田合戦」において、北条氏に負けて滅んでしまいました。
その年の5月、和田義盛が鎌倉において強い力を誇っていた北条義時を打倒するために挙兵しましたが、最終的には敗北してしまい、一族は滅亡しました。
この和田合戦は、それまでの鎌倉幕府の権力構造にも大きな影響を与えることとなり、北条氏による「執権政治」の強大な権力が確立されることとなりました。
巴御前は、こうして1213年に和田氏が滅びた後、再び出家して各地をさまようようにならり、最終的にはかつて義仲時代にお世話になった北陸・越中(富山)において、静かに余生を過ごしたとされています。
どちらかというと「尼」となり、義仲を弔った説の方が有力
しかし、こうした一連の、
というシナリオは、あくまでも伝説や創作である可能性が高く、あくまでも
というシナリオによる説の方が、むしろ哀れながらも美しい物語として、一般的には知られているということになります。
なぜ北陸や富山に逃げようとしたのか
ちなみに、義仲と別れたあとの巴御前が、なぜ北陸地方・とりわけ富山(越中)に逃げようとしたのか。
それは北陸地方、とりわけ石川県や富山県にあたる地域には、かつてより義仲と巴御前を古くから支え続けてきた・信頼関係を築いてきたという「深い絆」がそこにありました。
北陸には、義仲の身内や味方が多かったこと
前回も解説してきた義仲の挙兵をかなり初期の段階から支えたてきたのは、当時の越中(富山)や、加賀(石川)の武士たちでした。
すなわち、北陸の武士である彼らにとって義仲や巴御前らの存在は、まさしく
- 「平氏による圧政から救ってくれた、我らがヒーロー」
というような扱いであったというけです。
巴御前のルーツも、北陸と繋がっていたこと
また、巴御前の父であった中原兼遠は、元々は信濃国(長野県)の人間ではありましたが、地元だけでなく北陸地方の武士団ともつながっていました。
そしてそこには、お互いに強いネットワークや繋がり・信頼関係が存在していました。
和田氏滅亡後の富山
また、先述のように巴御前が和田義盛の死後に富山県(高岡市の南に位置する、南砺市の福光)に向かったという伝説があるのは、そこには
- 彼女のことを温かく迎え入れてくれる、かつての知り合いたち
- 義仲時代から一緒に協力してくれた、忠実な部下たちの末裔の人々
といった人々が存在していたからだと考えられています。
北陸地方における伝承
また、北陸地方とりわけ石川県や富山県あたりには、今もなお、その歴史を受け継いでおられる方々がいらっしゃいます!
かつて義仲らのお世話をした人たちの末裔
まず、前回も解説した「倶利伽羅峠の戦い」のときに、
- 義仲らの軍に対して食料を提供したり、
- あるいは道案内をしたり、
- 地元の地形を生かした戦術に関するレクチャーをした
という地元の人々の末裔の方々が、今でも石川県・津幡町やその周辺などに住んでおられると言われています。
北陸地方における、義仲・巴御前の「文化」としての継承
また、津幡町では今でも義仲と巴御前が地元のヒーロー・ヒロインとなっています。すなわち、
という地元の人々の誇りが、町の人々のアイデンティティとして根付いている証拠ですね。
アイデンティティ:自分が自分であることの証明や、自分がどこに属しているかという強い自覚のことです。
ここでは、「地元の誇り」「地元の存在感」といった意味になります。
筆者の個人的な感想
800年以上経った今でも、特定の地域で彼らが英雄視されているのは、決して彼らが単に権力者だから凄かったというだけではなく、当時地元の人たちと深い信頼関係を築き、心を通わせたリーダーだったからなのでしょうね。
このように、末裔の方々が現在でもその地において暮らしておられると思うと、歴史がずっと続いていることを実感して、なんともワクワクしますね!
巴御前の最期は?
どこで亡くなったのかの記録は?
また、巴御前がいつ、どこで亡くなったかについてを示す確実な歴史的記録は、残念ながら見つかっていません。
彼女はなんと91歳という、当時としては驚異的な長寿を全うしたという伝説が各地に残っています。
亡くなったと伝わる場所(伝承地)
また、彼女が亡くなったとされる伝承地についても、複数の場所存在します。
例えば、
- 義仲・巴御前の故郷である、長野県の木曽地方
- 義仲の菩提寺が存在する、滋賀県大津市
など、全国各地に伝説が伝わっています。
巴御前の墓として有名な寺
また、巴御前の供養塔や墓は、彼女の生存伝説とともに、各地に存在しています。
中でも特に有名なのものは、以下の場所のものになります。
義仲寺(ぎちゅうじ):滋賀県大津市
巴御前の伝承が残っているお寺としては、滋賀県大津市に存在する義仲の菩提寺である、義仲寺がまず挙げられます。
菩提寺:先祖代々の墓があり、死後の冥福を祈ってもらう寺のことです。
この義仲寺に存在する義仲の墓のそばには、巴御前のことを弔う「巴塚」があります。
これは、かつて義仲の死後、彼女がここで義仲の墓を守りながら余生を過ごした(庵を結んだ)という伝承に基づいています。
庵を結ぶ:ここでは、人里離れた場所に小さく簡素な小屋などを建てて、そこで静かに余生を過ごすなどの意味になります。
このように、巴御前の人生は、謎が多いからこそ、想像力がかき立てられるというわけですね!
徳音寺(とくおんじ):長野県木曽町
長野県・木曽町の宮ノ越に存在するお寺である徳音寺は、義仲の菩提寺です。
このお寺においては、義仲の一族や今井兼平らと共に、彼女の墓も並んで建てられています。
富山県南砺市・福光
富山県南砺市の福光という地域においては、かつて巴御前が晩年を過ごしたという説があります。
鉄道でいうと、城端線における、高岡駅(高岡市)の南・福光駅のある地域ですね。
また、ここでは彼女のものと伝わるお墓(巴塚)が大切に残されています。
巴御前がいなければ、義仲はもっと早く討たれていた?
もし巴御前がいなければ、義仲はもっと早く討たれていたという可能性は非常に高いと考えられます。
義仲にとってかけがえのない「精神的支柱」だったこと
まず彼女は、義仲にとって圧倒的な精神的支柱・心の支えでした。
すなわち、幼馴染であり最強の戦士である巴御前は、義仲にとっては孤独な戦いの中での「唯一の心の拠り所」でした。
殿(しんがり)として、背後から攻める敵を撃退する役割を果たしたこと
また、義仲軍が負けて敗走するときにも、巴御前は常に最後尾で敵を食い止めるという役割である「殿」を務めていたとされます。
殿:軍が退却するときに、最後尾で敵の追撃を防ぐという、最も危険な役割のことです。
このように、彼女の圧倒的な強さがなければ、義経軍が猛攻にさらされた宇治川の時点で、義仲は背後から討たれていたかもしれませんね。
現代なら、巴御前は「最強のモテ女子」?
そして、「共働き」や「個人の能力」が重視される現代社会において、巴御前のような女性は圧倒的に支持される気がしますね!
圧倒的な強さと「デキる女」感
例えば、彼女のように仕事(戦い)で誰よりも成果を出し、さらにはトラブル(敵)をスマートに解決する姿は、男女問わず憧れの的になりそうです。
これだけの高い能力があると、令和の世の中の男性たちは、決して見放さないでしょうね!
義仲・主君をどこまでも守り抜く、一途なパートナーシップ
また、たとえ義仲といった主君(パートナー)が窮地に陥ったとしても決して見捨てずに、最後まで全力で支え抜く・守り抜くという彼女の誠実さは、現代の理想的な信頼関係そのものです。
例えばうつ病や怪我などで働けなくなった夫や彼氏がいても、彼が再び再就職したり起業で成功したりするまで、ずっと支え続けられるカッコいい女性というわけですね!
「美しさ」「強さ」のギャップ萌え
また、前々回も解説した通り、巴御前は、
- 普段は「色白で髪が長く、美しい女性」でありながら、
- いざとなれば「一人当千」という強さを見せる
という、まさにスーパー女子でした。
この「美しいけどすごく能力が高い」というギャップに惹かれる人は多いのではないでしょうか。
そんな巴御前が現代にいたら、バリバリのキャリア女子として、あるいは頼れるリーダーとして大活躍している姿が目に浮かびますね!
筆者の個人的な感想
義仲も、彼女の強さを認めていたからこそ、自分の隣に置くことを許したのでしょう。
このように、義仲と巴御前の二人は「守り守られる」関係というより、「背中を預け合う、最高の相棒」だったのだと感じます。
おわりに・まとめ
巴御前という魅力的な女性について学んでみて、いかがだったでしょうか。
すなわち、巴御前の勇猛なエピソードや、義仲との切ない関係について知ると、関連する土地を訪れる旅行や探訪が、また違った視点で見られるようになりますね!
こうして知識によって、旅もさらに何倍も面白くなることでしょう。
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