長崎県の雄大な大村湾に沿った路線である大村線の観光・歴史(地理や長崎街道の歴史など)を、わかりやすく解説してゆきます!
今回は、大村湾・大村線の話題

大村湾(大村線の車窓より)(長崎県)
今回も、前回に引き続き、長崎県の大村湾・大村線の地理・歴史について学んでゆきましょう!
長崎県の美しい内海である大村湾については、以下の前回の記事でも解説していますので、ご覧ください。


大村湾(大村線の車窓より)(長崎県)
大村湾に沿った「大村線」
鉄道における大村線は、長崎県における
- 早岐駅(長崎県佐世保市)
- 諫早駅(長崎県諫早市)
をそれぞれ結ぶ、JR九州の鉄道路線です。

大村線の起点・早岐駅(長崎県長崎市)
早岐駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

佐世保・長崎をそれぞれ結ぶ主要ルート・大村線
大村線は、主に(前回も解説した)大村湾の東側の岸を走っており、佐世保方面と長崎方面をそれぞれ結ぶ主なルートの一つとなっています。
また、大村線においては観光列車として「ふたつ星4047」という列車が運行されているなど、大村湾や有明海などの景色の素晴らしさが人気の路線となっています。
ふたつ星4047:有明海や大村湾の景色を楽しむことができる豪華な観光列車です。
大村線の歴史
明治政府にとって、九州の南北をそれぞれ繋ぎ、さらには軍港・佐世保や貿易港・長崎へと鉄道を通すことは、まさに一刻を争うような国家プロジェクトでした。
というのも、まだ自動車も戦闘機も一般的で無かった当時は、兵士・武器・食糧などはすべて鉄道(蒸気機関車)で運んでいたのです。
そのため、
ということを意味していたのでした。
かつて大村線は、初期(明治時代)の「長崎本線」だった!?
現在の大村線として走っている区間は、かつてその昔は長崎本線の一部だったのでした。
これは、明治時代の1898年に長崎方面への鉄道が建設されたときに、当初には大村湾沿いを通るルートが採用されたためです。
というのも、明治時代当時の技術では、有明海沿いの軟弱地盤に対して線路を引くのは、もはや「いつ沈むか分からない底なし沼」に対して列車を走らせるようなものでした。
すなわち、工事がいつ終わるか見えないような有明海沿いのルートよりも、もはや早岐付近の山を削れば確実に道が作れるという大村線ルートの建設の方が現実的だったというわけです。
後に、有明海沿いの「長崎本線」が新たに開通 大村湾沿いのルートは「大村線」に改称
しかし、昭和はじめの1934年になって、新たに有明海沿いの肥前鹿島駅を経由するという、より直線的なルートが開通しました(すなわち、現在の長崎本線・海沿いエリア)。
というのも、昭和のこの頃に入ると、ドロドロの柔らかい土や地面を固めたり、さらには深い杭を打ったりしてガッチリ支えるという土木技術が、飛躍的に進化しました。
すなわち、かつてはまるで「底なし沼」のようなドロドロの軟弱地盤だった有明海沿いも、時代とともにコンクリートと鉄の力で克服できるようになったというわけです。
これにより、そちらが新しい長崎本線となり、大村湾沿いの区間は大村線として分離されたという経緯があります。
肥前鹿島駅:有明海の西側の街である佐賀県鹿島市にある駅で、特急が停まるような、地域の拠点となる駅です。
かつての肥前山口駅(現:江北駅)のやや南に位置します。
すなわち、現在の大村線は、長崎への初期の主要ルートだったというわけですね!(今もそうですが)

現在の長崎本線・佐世保線の境界であった江北駅
これにより、現在の江北駅を境に、
- 長崎方面へは長崎本線
- 佐世保方面へは佐世保線
のような、一応の路線の役割分担のようなものができるようになりました。
長崎本線が、新しく「有明海沿いのルート」になった理由
また、昭和はじめの1934年に長崎本線が新しく有明海沿いのルートが出来ることとなった理由は、明治時代の大村線ルートのときとは異なる、様々な時代背景や理由などがありました。
- 新しく出来た有明海沿いのルートが、元々あった大村湾沿いのルートよりも距離が短かった(すなわち、ショートカットできた・直線的なルートだった)こと
- 昭和のはじめ頃になると、軍事輸送の関係で、より長崎へ早く着くための直線的ルートが必要になったこと
- 従来の長崎本線では、早岐付近にはキツイ勾配があり(それまでは補助機関車などをくっつけて引っ張ったり押したりしていた)、そこがボトルネックとなっていたこと
- 肥前鹿島などの人々にとっては、かつて鉄道の発展から取り残された歴史もあり、地元の人々の願いである鉄道誘致などの目的もあったこと
- 先述の通り、昭和の頃には海沿いの軟弱地盤の地面・地域にも、最新の技術で線路が作れるようになっていたこと
最長片道切符で「ラストの距離を稼ぐため」に作られた
ということが大きな理由でした。
明治時代は、長崎までの最短ルートではなかった
まず、明治時代にはじめに敷設された初期の大村線のルートは、当時は長崎までの最短ルートではありませんでした。
しかし、時代とともに鉄道の高速化と輸送効率の向上が求められるようになっていったのでした。
あと、当時は戦前であり、巨大な軍艦・造船の拠点でもあった長崎へとなるべく早く着くことが求められたのでした。
ほかにも、肥前鹿島などの海沿いの街には明治時代に鉄道が通らなかったこともあり、地元への鉄道誘致は人々の願いでもあったのでした。
時代とともに、海沿いの「新線」への需要が増加していった
こうした様々な時代背景も重なった結果、新たに1934年に海沿いの肥前鹿島などを経由する、より直線的で短い新線が建設されました。
したがって、新しく出来た有明海沿いのルートが現在の長崎本線となり、明治時代から存在した従来の大村湾沿いの区間は新たに大村線として残ったというわけです。
最長片道切符のラスト(あるいは始点)において欠かせない、海沿いの長崎本線
また、最長片道切符においては、この海沿いのルートは最後に「ぐるっと回って距離を長くする」のには不可欠なルートとなっています。
もしこの海沿いの長崎本線が存在しなければ、最長片道切符はもっと短いものになっていたことでしょう。
また、近年は西九州新幹線も開業したことにより、さらに複雑で長いルートを組むことが可能になったのでした。
現在の大村線の役割は「快速シーサイドライナーをベースにした地域輸送」
ちなみに大村線の役割は、「快速シーサイドライナーをベースにした地域輸送」であり、地域の利便性に大きな役割を果たしています。
シーサイドライナー:佐世保と長崎を大村湾沿いに結ぶ、快速列車の愛称です。
大村線は、やはり、
- 長崎市
- 諫早市
- 大村市
- ハウステンボス
- 佐世保市
という、長崎県における主要都市を直線で結ぶルートとなっています。
かつて1934年に「長崎本線」が有明海沿いのルートに代わってからは、特急「かもめ」などの主要な列車は長崎本線経由で運行されていました。
一方で、佐世保方面と長崎を結ぶ列車は大村線を経由します。
特急「かもめ」:現在は西九州新幹線の名称ですが、かつては博多と長崎をそれぞれ結ぶ特急列車の名前でした。
すなわち、長年愛されてきた、長崎を代表する伝統ある名前というわけですね。
肥前浜駅までの運行、その先は「非電化区間」に
しかし2022年の西九州新幹線開業により、博多~長崎をそれぞれ結ぶ「特急かもめ」の役割は終了しました。
そして、今の特急列車(「かささぎ号」など)は肥前鹿島駅または、その一つ先の肥前浜駅(佐賀県鹿島市)までとなっています。
そして、肥前浜駅から諫早駅(長崎県諫早市)までの区間は電気設備が撤去され、非電化区間となりました。
いかんせん海に近いエリアであり、潮風などから電気設備を守るために多大なコストがかかるためですね。
しかしながら、電線などが撤去された結果、それまでの視界を遮るものが無くなり「海の景色がよくなった!」という意見も存在するわけです。
長崎街道との関係(大村線)
大村線と長崎街道は、歴史的に関係ある?
ちなみに、大村線と長崎街道は、歴史的に関係あるのでしょうか。
直接的な関係は薄いですが、間接的な関連は見られます!
そもそも「長崎街道」とは?
長崎街道は、まだ西九州新幹線も自動車も存在しなかった江戸時代に、徒歩や馬などによって小倉と長崎を結んだ、参勤交代にも使われたほどの当時のメイン重要道路です。
今の価値観では車もまともに通れないようなデコボコな道でしたが、当時としては画期的でキレイな道だったのでした。
これに対して、鉄道の大村線は、明治時代以降に建設された路線です。
街道:当時の江戸幕府が整備したメインルートであり、人やモノ、さらには参勤交代の行列が行き交うような、当時の長崎街道はまさに現在でいう「西九州新幹線」のような役割でした。
しかし、大村線が通過する
- 諫早
- 大村
といった主要な街は、長崎街道の宿場町としても栄えていました。
旅人たちは何日間もかけて徒歩または馬などで進んでいくため、途中で泊まるための町が宿場町であったというわけです。
宿場町:主な街道ルートにおいて、旅人が泊まったり、食事や休憩、長旅に疲れた馬を交換などを行っていた町です。
すなわち、両者は時代は違えど、佐世保・長崎方面への交通の要衝を結ぶという点で、地域的な交通インフラの変遷という歴史的な繋がりがあると言えるでしょう。
彼杵・松原と参勤交代:大名たちがかつて進んだ道
また、大村線の沿線上にある彼杵や松原といった町は、長崎街道の極めて重要な宿場町でした。

大村線・彼杵駅(長崎県東彼杵郡東彼杵町)

大村線・松原駅(長崎県大村市松原本町)
大村線のこの地域の沿線については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

かつて多くの大名が通行した、長崎街道
この長崎街道は、かつては
- 福岡藩の黒田氏
- 佐賀藩の鍋島氏
- そして薩摩藩(鹿児島県)の島津氏
などといった、九州の名だたる有力な外様大名たちが、参勤交代ではるか東の江戸(東京)へ向かうために、この道を通りました。
外様大名たちに課された、長崎警備の任務
江戸時代、外国にもっとも近く常に警備が必要だった長崎における警備担当者は、福岡藩と佐賀藩がそれぞれ交代で担当していました。
したがって、当時の長崎街道においては藩主や多くの武士たちが軍事移動として、この道を頻繁に行き来したというわけです。
九州の外様大名たちと唐津藩
長崎警備に向かう福岡藩(黒田氏)が通っていたルートには、外様大名である彼らに対して力をつけさせまい・力を削いでやろうという、当時の江戸幕府による巧妙な統治システムが見え隠れします。
唐津藩の役割「外様大名の監視」
まず、以前も解説した、佐賀県唐津市を拠点としていた唐津藩は、時期によっては江戸幕府から信頼された譜代が治めることが多かったのでした。
そのため、唐津藩はかつて長崎街道を行き交う外様大名が反乱を起こさないかどうかの監視役だったという、まさに幕府の忠実な番人のような立場にありました。
譜代大名:「関ヶ原の戦い」以前から、まだ家康が若くて勝てなかった時代からもずっと彼を支え続けてきた、家康が心から信頼でき感謝している大名たちのことです。
したがって、黒田氏のような九州におけるとても強力な外様大名が、武装して唐津藩の中・領内を通るようなときには、みんなが常にピリピリした空気が流れていたのでした。
唐津藩およびその驚きの外様大名監視体制などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

外様大名の「軍備」への厳しい目
また、この「長崎警備」のためにそれぞれの外様大名たちが長崎に向かうときには、
- 過剰な装備は、「反乱の準備」と疑われる
- 逆に装備が不足していると、「長崎を守る気があるのか」と責められる
という、とても厳しい監視の中にありました。
すなわち、通行する側もチェックする側も、常に「相手の顔色を伺いながら」の行軍だったことがいえるわけです。
まるで、現代の厳しい入国審査のようですね。
長崎警備の真実:幕府の高度な戦略
また、先述のように黒田氏(福岡藩)や鍋島氏(佐賀藩)といった九州の強大な外様大名たちが長崎警備を命じられたのには、江戸幕府の「なんとしても彼らの勢力を削いでやろう」という、とても深い思惑がありました。
強大な「外様大名」が勢揃いだった九州
まず彼らは江戸時代においては確かに「外様大名」ではありましたが、九州でも特に力や強大な兵力・財力・影響力などを持ち合わせた、屈指の実力者でした。
外様大名:「関ヶ原の戦い」以降に徳川家に仕えた大名のことです。
しかしそれまでは「家康の敵」だった大名たちも多かったため、幕府からは常に一定の警戒をされ、「あの手この手」で勢力を削ぐ仕掛けをされていました。
このように、なんとしても九州の外様大名たちの勢力を抑え、しかも幕府に間違っても反乱など起こさせないために、幕府は長崎という重要な「日本の窓口」を守るために、あえて強力な軍事力を持つ彼らを利用したのです。
勢力を削ぐための「嫌がらせ」?
長崎警備には、莫大な費用がかかりました。ここは当時の鎖国中だった日本にとって「唯一の貿易港」でした。
つまり日本で唯一の海外との接点となるため、万一「ヤバい武器」などがここ(長崎)から入ってきてはマズイわけです。そんな場所を守るというのはとても負担の大きい大変なことです。
すなわち、外様大名たちにこうした重責・重い負担を強いることで、幕府に反抗する余裕をなくさせるという狙いも、確かにあったと言われています。
すなわち、長崎警備という「名誉ある仕事」という看板・大義名分を掲げた、実質的な経済圧迫だったという側面は否定できませんね。
今回はここまで 続きは次回
おわりに:大村線や長崎街道の歴史などを学んでみて、いかがだったでしょうか。
今回は長くなったため、続きは次回に解説します!!
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