岡山観光をするのに知っておくと楽しい歴史(岡山藩、池田氏の住民思いの政治の数々など)について、わかりやすく解説してゆきます!
歴史を学ぶ旅、岡山へ
今回も前回に続き、岡山の観光・歴史などについての話題となります!
岡山のこのシリーズは全3回であり、今回はラストの【後編】になります。まだ見られていない方は、前回・前々回の記事もご覧ください。



筆者、岡山駅より(岡山県岡山市)

岡山駅(岡山県岡山市)
江戸時代 岡山藩の歴史
前々回も解説した通り、江戸時代の岡山の地は、岡山藩によって治められてきました。
「関ヶ原の戦い」以前 宇喜多秀家による支配
まず、江戸時代に入る直前までに岡山の地を治めていた宇喜多秀家公は、当時は豊臣秀吉に信頼され、かわいがられた「五大老」と呼ばれる偉大なる5人の大名たちの一人でした。
しかし、1600年の「関ヶ原の戦い」において、徳川家康の敵である西軍(石田三成側)の主力として戦って敗れてしまったのでした。
そのため、宇喜多秀家は江戸時代に入ってから罰として岡山の地を追われて東京のはるか南・八丈島へ飛ばされてしまうことになります。
五大老とは?秀吉の息子・秀頼をサポートする5人の大名たち
ここで宇喜多秀家もそのメンバーの1人だった五大老とは、
- 豊臣秀吉の死後、まだ未熟だった息子・後継者である豊臣秀頼が立派に育つまで、
- 当時の5人のスゴい大名たちで幼い秀頼をサポートするために形成された組織
になります。
五大老のメンバーたち(とても強大な5人の大名)
具体的にどんな5人なのかというと、
- 徳川家康
- 前田利家
- 毛利輝元
- 上杉景勝
- 宇喜多秀家
の5名のことをいいます。
しかし秀吉の死後、前田利家の死去などを重なったことにより、そのパワーバランスが崩壊してしまいました。
やがて、徳川家康の台頭と「関ヶ原の戦い」などを経て、豊臣政権は事実上消滅しました。
宇喜多秀家がなぜ八丈島で暮らすことになったのか
宇喜多秀家は「関ヶ原の戦い」で敗れた後、徳川家からの罰を逃れるためにしばらく薩摩(今の鹿児島県)の地に身を隠していましたが、ついに見つかってしまいました。
「関ヶ原」で徳川家康に敵対して敗れたたため、本来ならば死罪になるところでしたが、妻の実家である前田家などの必死の助命嘆願(命を助けてほしいという願い)により、「島流し」という処分に減刑されたというわけです。
したがって、彼は東京都のはるか南に位置する絶海の孤島・八丈島(東京都)において、その余生を過ごすことになりました。
元の地や故郷へって来られることは、結局無かったといいます。
宇喜多秀家の八丈島でのエピソード
秀家公はなんと83歳という、当時としては驚異的な長寿を全うしました。
前田家からの仕送り、「おにぎり」のエピソード
八丈島での暮らしにおいて、妻の豪姫の実家である加賀前田家から、定期的に八丈島にいる宇喜多秀家のもとへ衣類や食べ物が届けられていました。
またある時、嵐によって八丈島に漂着した船の乗組員が、秀家公に白米のおにぎりを差し出しました。
彼はそれを食べて、
と涙を流して喜んだという、切ないお話が残っています。
すなわち、かつて57万石の大名だった彼も、島ではそうした暮らしを送りながら、静かに故郷を想っていたのですね。
宇喜多秀家の後に岡山に入ってきた、小早川氏
ここで、八丈島に流された宇喜多秀家に代わって岡山を支配することになったのは、小早川氏という一族でした。
小早川氏は、江戸時代以前、元々は相模国(現在の神奈川県西部あたり)に本拠地を構えていた土肥氏という一族を祖先としています。
小早川氏と相模国の関連性
宇喜多秀家に代わる新たな岡山のトップ・小早川氏のルーツは、今の神奈川県である相模国にあります。
相模国:現在の神奈川県の大部分、すなわち(武蔵国に含まれる)横浜などを除いた西部の大部分のことをいう、昔の古い国名です。
このように、故郷(の神奈川県)を離れて、はるか西へと向かった彼らの決断には、並々ならぬ覚悟を感じますね!
- 鎌倉時代、相模国(神奈川県西部)の武士として幕府を支えた。
- 土肥氏は、源頼朝の挙兵を助けた功労者である。
- 有名な武将である土肥実平の子である小早川景平が、初めて「小早川」を名乗った。
土肥実平:平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した、相模国の有力な武将のことです。
以上の土肥氏の活躍および土肥実平およびゆかりの地・湯河原については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

小早川秀秋が徳川家康に評価された理由
小早川秀秋が徳川家康から高く評価されたのは、戦いの勝敗を決める決断をしたからです。
すなわち、「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍(家康側)へ寝返ったことが、最大の理由ですね!
東軍:関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康をリーダーとした勢力のことです。
- 秀秋の裏切りによって、西軍は一気に崩壊した。
- 家康にとって、勝利を決定づけた「最大の功労者」となった。
- その結果、岡山という豊かな土地を任されることになった。
就任わずか2年で病死 系統が途絶える
しかし小早川秀秋は、わずか2年後の1602年に(飲酒・飲み過ぎなどが原因で)亡くなってしまいました。
しかも彼にはお子さんがいなかったため、小早川氏の家(系統)は、残念ながら途絶えてしまったというわけです。
お家断絶となった理由
勢いのあった小早川家ですが、残念ながらわずか2年ほどで途絶えてしまいました。
したがって、岡山での彼らの歴史は、とても短く終わってしまったのです。
- 藩主である小早川秀秋が、21歳の若さで急死した。
- 秀秋には、あとを継ぐ子供がいなかった。
- 当時の幕府のルールで、跡継ぎがいない家は、取り潰された。
お家断絶:武士の家系が途絶えてしまい、それまで保有していた領地や身分などをすべて没収されてしまうことをいいます。
これには
という噂も流れたそうですよ。
小早川氏の後は、先ほどお話しした池田家の宗家によって、幕末までそのままずっと岡山藩を治められていったのでした。
宗家:ある一族・一門の「本家」などを指す言葉です。
すなわち、直系の血筋を代表し、権威や統率力を持つ家系または、その中心人物のことをいいます。
幕末まで岡山を治めた、池田氏
岡山藩の池田氏が、幕末までこれだけ安定して(大きな反乱や謀反などもなく)存続できたのには、いくつかの「しっかりした」理由があります。
池田氏・岡山藩安定の理由:徳川家と親密な関係
まず池田家には、江戸幕府の将軍の一族である徳川家との強い結びつきがありました。
すなわち、池田家はあくまで外様大名という江戸時代においては決して優遇されない家格でありながら、中身は「徳川の親戚(親藩)」に近い、特別な扱いを受けていたというわけです。
当時の日本において血縁関係というものは、単なる血の繋がった者同士のグループではなく、江戸幕府にとっては極めて強力な「政治的な縛り」として機能していました。
お互いに身内だからこそ、裏切るリスクも、裏切られる恐怖もコントロールできる…。
徳川家と親戚だと、反乱が起きにくい・幕府から信頼されやすい理由
まず、このように「血縁関係」によって徳川家と池田家のようにそれぞれ血が濃く混ざり合っていると、心理的にも物理的にも、「裏切り」「幕府への反乱」という行為が非常に難しくなります。
徳川家の身内が、大名をうまく監視さできるようになること
まず、大名・お殿様の奥さんが徳川家の姫(つまり将軍の娘など)である場合、その姫・娘は幕府からすればあくまで「身内」です。しかし一方、岡山藩からすれば「徳川家から送り込まれた監視役」でもあるわけです。
例えば会社でも、結婚したら奥さんが夫をある意味で「監視」してくれるわけなので、転職したり(嫁に止められる)、社外(例えば競合他社など)への情報共有などがやりにくくなります(現代ではそもそもこれは不正競争防止法違反ですが)。
したがって、会社からすれば有能な社員が結婚してくれていることは理想的であり、既婚者の男性は社内で出世しやすくなるのです。
こうした結婚の歴史(例えば政略結婚など)について他にも色々知りたい方は、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

「身内」で周りが固まるほど、反乱や裏切りは起きにくくなる現象
話がズレましたが、このようにもし池田家が幕府に対して謀反を企てたりすれば、まずは自分の妻や子供たちが、真っ先に危機にさらされることになります。
というような、当時はこのような強い相互監視が働いていたというわけです。
江戸時代における外様大名への、驚きの「監視体制」
このように江戸幕府は「あの手この手」を使って、当時の外様大名たちの勢力を削ぐための工夫をし、反乱を防いでいたというわけですね!
他にも、西国の外様大名に対するエグいほどの監視体制については、については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

つまり池田家には、かねてより徳川家と深い親戚関係にあったため、
- 幕府からみれば裏切りや反乱・謀反の心配が無かったたこと
- 幕府からの信頼が厚かったこと
もあり、藩を安定して治めることができる要因の一つとなりました。
藩が幕府から「信頼」されることのメリット
当時の江戸幕府からの「厚い信頼」は、大きなメリットを岡山藩に対してもたらしていました。
「お家取り潰し」のリスクが激減すること
まず例えば江戸時代は、大名による少しのミスでも「お家断絶」「人事異動(左遷)」になるような、とても大名に対して厳しい時代でした。
例えば広島の福島氏も、江戸時代の始めに「ただ傷んだ城の雨漏りの修理をしただけ」なのに、幕府から「それは修理という名の軍事強化だろ!」などと疑われてしまい、はるか遠くの長野県(信州)へ飛ばされたりしていました。
この広島における福島氏の信濃への改易については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

しかし、池田家の場合は徳川家の親戚であるという最強のバックボーンがあったため、多少のトラブルがあったとしても、幕府から守られやすかったのです。
「クビになる心配がない」ことで、長期的なプロジェクトも可能になったこと
岡山藩と池田家には、このような「クビにならない安心感」があったからこそ、100年先の未来を見据えた、長期的な国づくりができました。
逆に、すぐにクビになるようなトップだと、10年単位もかかるような大事業や大改革などはやりにくいものですからね。
大規模なインフラ投資ができた
このように岡山藩は「信頼」があるため、幕府からは例えば
などと疑われるような心配が少なかったのでした。
逆にいえば、西日本の外様大名たちは、常にこういう感じで疑われながら、参勤交代などで多額の費用を使わされ、勢力を削がれてきたのでした。
岡山南部の干拓も、積極的に行っていった
このように、池田家は安心して新田開発や児島湾の干拓、さらには閑谷学校の設立といった、大規模で予算のかかる事業に全力投球すること出来たのでした。
干拓:海や湖を堤防で囲い、中の水を抜いて新しい陸地(田んぼなど)を作ること。
これが結果として、領地を豊かにし、幕末まで続く「盤石な基礎」となったわけです!
池田氏・岡山藩安定の理由:豊かな経済力
次に、岡山藩には豊かな経済力がありました。
岡山藩は、以下のように全国でも豊かな経済力があったため、藩の運営が安定していたというわけです。
また、岡山藩は農業と工芸の両面において、最強の武器を持っていました。
「備中鍬(びっちゅうぐわ)」による大規模生産
当時の最新テクノロジーは、実は「備中鍬」による効率アップにありました!
備中鍬:刃が3本〜4本に分かれた鉄製の鍬のことで、当時としてはとても深く効率的に耕すのに適した、画期的な道具でした。
この岡山で開発された「備中鍬」は、刃が数本にも分かれているため、たとえ従来は掘りにくかった・耕しにくかった粘り気の強い岡山の土も、従来と比較してサクサクと掘り起こしていくことが可能になったのでした。
備中鍬の全国への輸出
この備中鍬は非常に性能が良く、全国の農村へと売られていきました。
すなわち、農作業の効率が劇的に上がったことで、「より広い土地」を「少ない人数」で耕せるようになっていったというわけです。
広大な平野と児島湾の干拓「干拓(かんたく)」
岡山藩は、もともとあった平野に満足せず、自分たちで土地を広げました!
池田家は、長期間の工事をかけて岡山の南側の海を埋め立ててゆき、新しい陸地・田んぼを次々と増やしてゆき(新田開発)、お米の生産量を上げてゆきました。
備前焼と特産品の利益、綿や塩の生産による利益
もちろん、備前焼も岡山藩における大きな現金収入源でした。
茶の湯の流行とともに、備前焼は「渋くてかっこいい高級品」として全国の武士や豪商に売れました。
他にも、
- 岡山の南側にあたる児島周辺の地域において作られた「綿」:干拓で元々塩分の濃い海底だった地において塩分に弱い「米」は育たなかった→その代わりに、塩分に強い「綿」が盛んになった
- 瀬戸内海など一部の地域でししか生産できなかった、貴重な「塩」が盛んになった
というわけで、岡山が得意とする「綿・塩」は日本中にたくさん売れていった当時の岡山のヒット商品でした。
岡山南部(児島地域など)の干拓の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

瀬戸内海など江戸時代の塩の生産の歴史については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

すなわち、お米だけでなく、「現金が稼げる特産品」をいくつも持っていたことが、岡山藩の強みだったのです。
池田氏・岡山藩安定の理由:豊かな経済力人材育成
そして、池田家による岡山藩の教育への熱心さが挙げられます。
例えば、池田光政が「閑谷学校」を設立するなどして力を入れていった教育によって、優秀な人材が育て上げるということができました。
すなわち、決して武士だけでなく、農民や商人の子供たちも一緒に学んでいったというわけです。
これにより、藩の行政や改革などがスムーズに進んでいっだのでした。
そしてその「池田家の藩政」が安定的にずっと続いた結果、それが幕末・明治維新まで続いたというわけです。
以上、岡山藩が安定していた理由
こうした様々な要素が組み合わさって、池田氏は岡山藩を長く安定して治めることができたというわけですね。
池田綱政と、日本三名園の一つ・後楽園
岡山藩には、他にもその歴史に名を残した人物がたくさんいます。
例えば池田綱政は、 日本三名園の一つである「後楽園」を造営したことで知られています。
後楽園:岡山県岡山市にある、日本三名園の一つです。
江戸時代に岡山藩主の池田綱政が家臣に命じて作らせた大名庭園です。
季節ごとに美しい景色が楽しめる回遊式庭園となります。
岡山後楽園については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

人々の努力によってなし得た、当時の岡山の町の発展
このように、当時の岡山の発展は、「実力」はもちろんのこと「幕府との関係性」も最強だったということもあり、池田家はまさに江戸時代の勝ち組エリートであったことがわかります。
もちろん決してその立場に甘んじることなく、
- しっかりと住民のために土地を耕していったこと
- さらには学校を作り、教育を進めていったこと
などの様々な努力こそが、池田氏が歴史的に現代でも岡山の人々から「池田さま」と慕われきたほどの、本当の理由であるといえるでしょう。
岡山藩・池田氏の努力まとめと感想
「良い土(資源)」があり、それを活かす「良い道具(技術)」があり、さらにそれを広げる「お殿様の決断(政策)」があった…。
これって現代の成功している企業と同じ仕組みですよね!
岡山藩は、まさに江戸時代の「超優良ベンチャー企業」だったのかもしれません。
この豊かな経済力があったからこそ、あの中四国最大級の庭園「後楽園」を作ることができたというわけですね。
おわりに・まとめ
岡山藩の歴史は、宇喜多氏、小早川氏、そして池田氏といった藩主の変遷とともに、大きく発展してきたことが分かりましたね。
特に江戸時代に入ってからは、池田家が岡山藩を治め、教育や文化に非常に力を入れていたことが印象的です。
確かに当時の岡山藩は、徳川家とうまく親戚関係にあったなど、さまざまなアドバンテージがあったことも事実でしょう。
しかしながら、当時の岡山の発展は、
ということができるわけです。
このように、岡山藩の歴史には、教育、文化、そして人々のつながりが深く根付いていることが分かります。
これらの知識を元に、岡山の観光や歴史巡りが、もっと楽しく充実したものになるとよいですね!
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