広島県三原市の観光・歴史(やっさ祭り・名物のタコ・小早川隆景がいかにして三原城を築いたのかなど)を、わかりやすく解説してゆきます!
今回も、広島県三原市の話題へ

山陽本線・尾道~三原間の景色(広島県)
前回に引き続き、今回も広島県三原市の観光をするのに知っておくと便利な歴史的知識などについて解説してゆきます!
三原の町と山陽道とのつながりの歴史については、以下の前回の記事でも解説していますので、ご覧ください。

三原名物「やっさ祭り」
まず、三原といば「やっさ祭り」が特に名物として知られます。
三原の名物・やっさ祭りは、
- 戦国時代の1567年に、
- 三原の英雄ともいうべき戦国武将の小早川隆景が、
- 三原城を築いたことを祝い、
- そのときに城下の人たちが、「やっさ、やっさ」と叫びながら踊った
ということがその始まりと伝えられています。
「やっさ祭り」のルーツ
この三原を代表する「やっさ祭り」ですが、そのはじまりは先述の通り、小早川隆景による三原城の完成に関係があります。
戦国時代、初めて三原城が出来たときの「喜びのダンス」
戦国時代の1567年頃に、それまでは山の上というやや不便な場所にあった三原城が、今の立派な場所に見事に完成しました。
そして、
- その三原城が、三原の英雄・小早川隆景の手によって完成したときのお祝いに、
- 城の完成を喜んだ城下の周辺の人たちが、三味線や太鼓などを派手に鳴らして、
- 「やっさ、やっさ」というフレーズを連発しながら派手に踊り狂った
いうことが始まりと言われています。
「やっさ」の意味や由来については、諸説あります。
- たまたま語感のいいこのフレーズが、当時の喜びに満ち溢れる人々によって連発されたこと。
- 例えば「ヤーレンソーラン」「エンヤードット」みたいな、みんなで船を動かすときに発するような掛け声に近い。
- その他。
「やっさ、やっさ」の掛け声
すなわち、このときの老若男女による「やっさ、やっさ」と声を掛け合いながら踊ったことが、今の賑やかなお祭りへと繋がっているというわけです。
このように、三原市は歴史的な城跡と豊かな海の恵みがギュッと詰まった、知れば知るほど様々な発見がある街です。
この「やっさ祭り」は毎年8月に行われ、
- 地元の踊り手たちが「やっさやっさ」と声をかけながら、
- 三味線・笛・太鼓の響きに合わせて踊りを披露してゆき、
- 三原駅前を中心とした街中を練り歩いていく
というわけです。
三原名物「タコ」
さて、三原名物といえば、やはりタコですよね。
つまり各地でも「三原=タコ」というイメージは非常に強く、その「タコ」の美味しさはプリプリして格別です!
ではなぜ三原がこれほどまでにタコに愛されているのか、その秘密を探ってみましょう。
瀬戸内海で丈夫に育ち、筋肉質に発達したおいしいタコ
まず、三原の海に住むタコたちは、(この近辺の海に特有の)激しい潮流に流されないように、足で岩をしっかり掴んで踏ん張っています。
そのため、足が太く身が引き締まった美味しいタコが育つというわけです。
三原の海が「タコの楽園」である理由
また、三原の沖合いに該当する瀬戸内海は、タコにとってはこれ以上ないほど(住むのに)素晴らしい環境です。
これが、三原においしいタコがたくさん住んでいる理由の一つになります。
すなわち、「潮の流れ」と「すみか」、そして「エサ」の3拍子が揃っているのです!
激しい潮流、筋肉質なタコ
まず、三原付近の海は島がとても多くなっており、また島と島に囲まれた狭い海域が多くなっています。
そのため、ベンチュリ効果によって海水の流れがとても速くなっています。
すなわち、三原の海に住んでいるタコの皆さんはこうした「速い流れ」に耐えるように足で踏ん張るため、タコの足は必然的に太く短くなり、そして筋肉質に発達します。
そうした結果、三原のタコは身が引き締まったプリプリの食感になるのですね!
潮流:月の引力がもたらす「潮の満ち引き」によって起こる、海水がまとまって決まった方向へ流れることをいいます。
岩場の安全な「隠れ家」や、豊富なエサがたくさんある三原の海
また、三原の海底には、暗くて複雑な岩場などが入り混じっています。
そのため、まさにタコが安全に隠れるのに最適な場所がたくさん存在しています。
また、三原の海には、カニやエビなどといったタコの大好物がたくさん生息しています。
これだけの好条件が三原の海に揃っていると、グルメなタコたちが集まってくるのも納得ですね!
他の地域でタコが少ない理由
逆に、他の地域ではあまり三原ほどタコが定着しない理由は、環境がシンプルに「タコ好み」ではないからです。
例えば、遠浅で波が穏やかすぎるような場所や、海底が泥ばかりの場所では、
- タコがうまく掴まっておく場所が無いため、流されてしまう
- シンプルに、安全に隠れる場所がない(天敵に狙われやすい)
などのようになったりします。
このように、三原(の海)は、まさに奇跡的なバランスで「タコの聖地」になっているのです!
タコと同じくらい三原の海が好きな仲間たち
三原の豊かな海には、タコ以外にも美味しい魚介類がたくさんいますよ!
- シャコ:三原の特産品としても有名で、非常に濃厚な味わいです。甘みが強く、お寿司のネタとしても人気です。
- ギザミ(キュウセン):瀬戸内海を代表する魚で、南蛮漬けなどにすると最高ですね!
- タイ(真鯛):同じく、三原の「速い潮の流れの海」で育ったタイは、タコ同様に身が締まっていて絶品です。
このように、三原のタコは歴史(小早川隆景)と同じくらい、この街のアイデンティティになっています。
小早川隆景と三原城
三原の英雄・小早川隆景
三原城は、1567年ごろに小早川隆景という人が作り始めたとされています。
そもそも「小早川家」とは そのルーツは、神奈川県・湯河原にあり!
小早川家とは、かつて相模国(神奈川県西部)の湯河原あたりを拠点にしていた、土肥実平らを祖先とする一族です。
土肥氏は、
- かつて源頼朝が、神奈川県・湯河原付近での戦いにおいて平氏軍に負けそうになったところを助け、
- このことでの功績を認められ、
- 新たに広島のこの地を任されて、神奈川県からはるか西の広島県へやってきた
という経緯があります。
そのため、神奈川県の温泉街・湯河原町と広島県三原市は、姉妹都市の関係にあります。
湯河原町については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

小早川の由来 「小さくて流れの早い川」の辺りに住んでいた
そうしてはるか東の神奈川県・湯河原からやってきた土肥氏が、やがて「小早川」を名乗り始めたというわけです。
ちなみに、その小早川の由来とは、本流である大きな「沼田川」に対して、その脇を流れている
- 「小さくて(小)流れの早い(早)川」
があるエリアのことを「小早川」と呼んでおり、その地名から名乗り始めたというわけです。
「沼田(ぬた)」と「竹原」に分かれていた小早川家
小早川隆景は1550年に、それまで分裂していた竹原や沼田のそれぞれの小早川家をまとめ上げました。
- 沼田:三原市街地のやや北西、沼田川のある地域。
- 竹原:三原市街地のやや南西、現在の広島県竹原市、うさぎの楽園である大久野島のあるあたり。
もともと小早川家は、
- 本家の「沼田小早川家」
- 分家の「竹原小早川家」
の二つにそれぞれ分かれて、時には激しく対立することもあったのでした。
うさぎの楽園・大久野島については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

竹原小早川家とは:隆景が婿入りした家系
まず分家である竹原小早川家は、もともとは毛利家出身・つまり毛利元就の息子である隆景が養子入りしてきてきた家系です。
このときの竹原小早川家は跡継ぎの男の子がおらず、
- たまたま(小早川家と深いつながりを持っておきたかった)毛利元就が、
- 息子の隆景を送り込んで、婿入りさせたことで、
- 親戚(を越えた深いパートナーシップ)となった
というわけです。
沼田小早川家とは:かつて神奈川・湯河原からやってきた本家
また、本家である沼田小早川家は、かつてはるか東の神奈川県・湯河原からやってきた、元々の小早川家の「本家」になります。
つまり、沼田川のほとりに住み着いて定着し、その土肥氏が(土着した)ことで、小早川家を名乗ったのが始まりでした。
2つの小早川家をまとめあげた隆景
こうして、隆景がこの沼田小早川家を継いだことで、それまで分裂していた(下手したら仲も良くなかった)2つの小早川家は統一されたのでした。
すなわち、
- それまではバラバラだった小早川家の勢力が、
- 隆景という強いリーダー・カリスマが現れ、
- 彼がまとめていったことで、さらに強力な組織へと生まれ変わった
というわけです。
そして翌年の1551年には、かつての沼田小早川家の本拠地であった高山城に入城しました。
1552年 新高山城(にいたかやまじょう)
また、さらに一年後の1552年には沼田川の向かい側に、新しい新高山城を作り、ここを本拠地にしてゆきました。
つまり小早川隆景は、沼田川を挟んで高山城の真向かいにある山に、新しく新高山城という、より防御力の高くて広いお城を築きました。
新高山城:広島県三原市の険しい山にあった山城のことです。
それまでの高山城よりもさらに険しくて防御力が高く、しかも広大な敷地を持っていた戦国時代の要塞のことです。
ここを本拠地として、隆景は瀬戸内海の支配権を広げていくことになります。
なぜ「高山城」を捨てて「新高山城」を築いたのか?
このように、小早川氏が、
- 鎌倉時代から(遠く神奈川県から引っ越してきて)ずっと住んできた、
- この親しみ慣れた土肥氏以来の古い「高山城」を捨てて、
- 戦国時代になってわざわざ沼田川の対岸に「新高山城」を築いた
というのには、はっきりと明確な軍事・経済上の理由がありました。
理由1:それまでの城では、もはや防御力の限界・スペック不足になっていたこと
まず、それまでの古い高山城は敷地・スペースが狭く、(戦国時代という戦いの時代を生き抜くのに必要な)大人数を収容するのには、もはや向かなくなっていました。
つまりそれまでの城では、もはや防御力の限界・スペック不足になっていたというわけですね。
理由2:沼田川と山陽道における「物流の支配(コントロール)」がやりやすかったため
そして新しく出来た新高山城は、沼田川の対岸にある、より大きな山に築かれました。
この新しい城からは、山陽道(陸路)と沼田川の水運(海への道)の両方を完璧に見下ろすことができるという、利便性がさらに増した土地だったのでした。
すなわち、新しいお城は沼田川と山陽道における「物流の支配(コントロール)」がやりやすかったためでした。
三原要害から、三原城へ
1567年、三原城(三原要害)の整備開始
1560年代にもなると、毛利氏は中国地方のやや北部を支配していた尼子氏を滅ぼし、中国地方のほぼ全域を手中に収めていまました。
こうなると、もはやそれまでのように山にこもって守る必要はなくなり、逆に「海を通じて各地を支配する」という必要が出てきたのでした。
三原の町は沼田川の河口にあり、また瀬戸内海を移動する船をすべてチェックできるという、とても便利かつ戦略的に重要な場所でした。
こうして1567年ごろから、隆景はそれまでの山の上にあったお城を、沼田川の河口にあたるより利便性の高い三原の平地を(初期の簡易なお城として)整備し始めました。
これが、後の立派な三原城への始まりです。
はじめは簡易な「砦(とりで)」「要害」から始まった三原城
この戦国時代における初期に作った簡易な砦や陣地こそが、まさに後の立派な三原城の原型であったというわけです。
当時の「お城」は、我々がイメージするような立派な天守閣があるような「お城」というよりはもう少し簡素であり、最低限の軍事施設や防衛施設などを備えているに過ぎませんでした。
むしろ軍事的な拠点としての性格が強かったため、「三原要害」と呼ばれていました。
「要害」とは?
ちなみち「要害」とは「敵を防ぐのに適した、(自然の)険しい場所」という意味があります。
例えば「小高い山」の上だったり、川に囲まれたような防御力の高い場所となります。
まだ人工の防御壁などを作る技術が発展していなかった時代は、こうした「天然のバリヤー」がとても重要視されていたというわけです。
すなわち、海そのものを「堀」として利用したこの場所(のちの三原城)は、まさしく敵にとっては非常に攻めにくい「要害」だったというわけですね!
より便利な(海に近い)現在の三原城の位置に城を移した
また、小早川隆景はこの(海に面した)三原要害を、どんどん拡張していきました。
最終的に、この三原要害(三原城)はま満潮時にはまるで海に城が浮いているように見えたことから、「浮城」という風流な名前でも親しまれるようになったというわけです。
すなわち、
- お城・本拠地を、不便な山から便利な海へと移した
という小早川隆景の決断は、当時の瀬戸内海の制海権(つまり、海をうまく支配するための力)を握る上でも、極めて合理的な作戦だったといえますね!
このように、小早川隆景は決して自分の領地を広げようとしただけではなく、
- あくまで人々のために、海の道までをも管理・コントロールしようとした
という知略には、本当に驚されるばかりですね。
「海に浮かぶ城」三原城がここに完成
そして1580年から1582年にかけて、それまでの三原要害は、小早川隆景によってさらに立派に整備されてゆきました。
そしてついには、「海の上に浮かぶお城」として、その姿を現したというわけです。
このようにして、小早川隆景はかつて山の上にあり不便だった新高山城から、より利便性の高い海に近い三原城へと本拠地を移したのでした。
三原城での豪華なもてなしと秀吉
このようにして三原の英雄としての基礎を築き上げた小早川隆景は、自らが築城した三原城において、そのときの天下人である豊臣秀吉を度々もてなしました。
「浮城」の絶景と、豪華な宴席で秀吉をもてなした隆景
このとき、豊臣秀吉は海に浮かぶように見える三原城をとても気に入り、1580年代の九州征伐のときなどに立ち寄りました。
そして秀吉を三原城に迎え入れた隆景は、瀬戸内海における新鮮なシャコやタコて魚介類をふんだんに使い、また都の文化を取り入れた茶会や能楽などを盛大に開き、秀吉を最大級にまでもてなしました。
秀吉の九州征伐については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

秀吉からの大絶賛 うまい三原の海の幸、そして海に近いお城
そんな三原での待遇をたくさん受けた秀吉は、このときの隆景の知略と最大級の気配りに感動し、
と絶賛したのでした。
したがって、このときの三原城は単なる要塞ではなく、天下人と心を結ぶための「最高級の迎賓館」でもあったというわけです。
小早川秀秋の時代、そして江戸時代へ
小早川隆景から小早川秀秋にバトンタッチされるのは、1595年(文禄4年)のことです。
九州征伐(1587年)で秀吉をもてなしてから8年後、隆景が亡くなる2年前の出来事でした。
1595年、隆景はそれまでの家督を秀秋に譲って、第一線を退きました。
家督:家長としての権限や、受け継ぐべき財産・地位のことです。
その後の小早川隆景は、三原での隠居生活となりました。
すなわち、新しく九州・福岡県の支配を任されることになった秀秋に小早川家のトップを任せ、自らはそれまでの愛着のある三原城において(正確には一度は赴いた九州から三原に帰ってきて)、余生を過ごすことになります。
わずか7年間の「秀秋時代」
このように、秀秋がその後の小早川家を継いでからの歴史は、非常に短くて激動のものでした。
- 1595年:秀秋、隆景に代わって小早川家の当主になる(福岡県の支配を任される)。
- 1597年:隆景が三原で死去。
- 1600年:関ヶ原の戦い。西軍から東軍へ寝返り、徳川家康を勝利に導く。その功績で備前(岡山県)へ加増移封。
- 1602年:秀秋、21歳の若さで急死。
加増移封:手柄を立てた報酬として、より広い領地を与えられ、別の場所へ引っ越しをすることです。
1602年にむなしくも断絶となった小早川家
このように、1595年に隆景から秀秋へと切り替わり、
- 相模の土肥氏からずっと続いてきて、
- やがて隆景が黄金期を築いた
という「小早川家」は、わずか7年後の1602年に、歴史の表舞台から姿を消すことになってしまいました。
このように、1595年は名門・小早川氏にとって、最も大きな転換点だったと言えますね。
江戸時代の三原
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、東軍(つまり、徳川家康側)の勝利に貢献して、大きな功績を挙げたたことを評価された福島正則は、その翌年に、広島の支配を任され、
- 安芸国(広島県西部)
- 備後国(広島県東部)
の二国を(江戸幕府から)賜りました。
つまり、福島氏はこのときほぼ広島県全域の支配を任されたというわけですね。
東の防衛の拠点・三原城に、養子の福島正之を配置へ
このとき福島正則は、三原城に養子の福島正之を城主として置いたのでした。
すなわち、福島正則にとっての三原という土地は、東側(岡山方面)からの(広島の)守りを固めるための、非常に重要な拠点だったというわけですね。
福島氏・浅野氏をはじめとする広島城の歴史などについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

今回はここまで つづきは次回
おわりに:このように、小早川隆景は1597年に亡くなるまで、三原の地を愛し、秀吉という巨大な天下人と上手に付き合いながら、小早川家と毛利家を守り抜いた知略の男だったのでした。
次回は、三原の鉄道の歴史の話題となります!
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