福岡県の博多について、那珂川の交通の歴史や黒田官兵衛の栄光など、観光の時に知っておくと楽しい知識を、わかりやすく解説してゆきます!
今回は、福岡市・那珂川と黒田氏の話題

那珂川(福岡県福岡市)
今回は、那珂川が育んだ博多の商業的な歴史と、黒田官兵衛から始まる福岡の武士の歴史を、じっくりと学んでいきましょう!
地理と歴史が密接に絡み合った福岡のルーツを知ると、街の見え方が変わって、きっと面白くなりますよ!
那珂川とは?どこにある?

那珂川(福岡県福岡市)
那珂川は、福岡市の中心部を流れる、市民の方々にとっては非常に身近な川です。
那珂川は、日本でもトップクラスにお米が採れてきた筑紫平野を北上してゆき、最終的には北の博多湾へと注ぎます。
福岡市の基本的な知識については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

大都会・福岡市について

那珂川(福岡県福岡市)
福岡市は、九州地方の政治・経済・文化の中心地です。
人口は約165万人であり、若者の転入も多く、そのためとても活気に満ちあふれています!
さらには、アジアへの玄関口として、交通アクセスも非常に便利です。
例えば、福岡空港が都心から近いのは、本当に魅力的ですよね。

福岡空港(福岡県福岡市)
博多の町・福岡の町の歴史における違い
歴史的に、博多と福岡の町は、異なる役割を果たしてきました。
- 博多の町:中世以来の商人の町として栄え、大陸との貿易で賑わいました。
すなわち、経済の中心地だったというわけです。 - 福岡の町:江戸時代に黒田長政が築いた福岡城の城下町として発展しました。
したがって、武士が住む政治の中心地でした。
この二つの異なる歴史こそが、現在の福岡市の多様な魅力を形作っているわけです。
福岡・博多が誇る軍師・黒田官兵衛
博多の英雄・黒田官兵衛とは
黒田官兵衛は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した、非常に優秀な軍師(※後述)です。
また、彼は豊臣秀吉からの信頼がとても厚かった家臣(部下)としても知られています。
頭がとてもよかった、戦のコンサルタント「軍師」
黒田官兵衛はとても頭がよく、その知略と冷静な判断力によって、戦国時代の数々の戦いを勝利に導いてきた、いわゆる「軍師」とされます。
また、彼の息子である黒田長政が、かつて江戸時代の(最初の福岡のトップである)福岡藩における初代藩主となりました。
すなわち、そこから現在の大都会・福岡の発展の基礎を築いていったというわけです。
黒田官兵衛と、姫路の関係
そんな博多の英雄・黒田官兵衛にとって、現在の兵庫県にあたる姫路の地は、彼の生涯の原点とも言えるほど、とても重要な場所でした。
若かりし頃の黒田官兵衛 姫路での働きぶり
姫路での黒田官兵衛は、
- まだ若かりし頃の青年期に、
- 当時この姫路城の城主・トップであった小寺氏の下に仕えて働き、
- そこで後の「軍師」としての大活躍につながっていく、軍学や知略を磨いていった
というわけです。
姫路での生活中に、「軍師」としての知恵などを身につけていった
つまり、黒田官兵衛の「軍師」としてまで知られるような知恵や戦略など要素は、この姫路での生活における時期に培われたと言っても過言ではないわけです。
リーダーの豊臣秀吉に対して、姫路城を献上
また、後に彼はリーダー(主君)の豊臣秀吉に対してそれまでお世話になった姫路城を献上したのでした。
やはりここは天下人の秀吉に逆らうよりも、賢く秀吉の下に仕えておいた方が、一族の繁栄に繋がると判断したのでしょう。
そして、やがて秀吉の下に仕え、忠実な部下として天下統一のための礎を築いていくことになります。
黒田家のルーツの一つ・姫路
このように、福岡の基礎を作った黒田官兵衛のルーツは、姫路にあるわけですね。
姫路については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

歴史が繋がっていて、とても面白いですね!
黒田官兵衛の代名詞「軍師」とは?
また、黒田官兵衛の代名詞ともなっている軍師とは、
- 主に戦国時代などにおいて、
- 戦場(戦法・地形・天候など)や戦略の全体を知りつくし、
- その膨大な知識や経験によって、
- 指揮官の代わりに作戦などを考え献策するという、
- まるで知恵袋のような役割を持った人物
のことをいいます。
戦い立案のプロ・軍師
つまり、頭がとてもよくないと決してなることができない、まさに戦のプロデューサーであるとも言えます。
このように、当時は
と言われるほど、重要な存在でした。
つまり、たとえどんなに腕っぷしだけが強くても、天候が荒れたり、険しい地形に阻まれたりしては、相手の思うつぼですからね。
このように彼らの頭脳は、まさに戦国時代における最強の武器だったんでしょうね!
黒田官兵衛といえば軍師、軍師といえば黒田官兵衛
ちなみに、
といっても過言ではないくらい、黒田官兵衛は「軍師」として素晴らしい働きぶりをしてきたのでした。
例えば、あの織田信長が本能寺の変で倒れたときにも、信長が討たれたショックで動揺する豊臣秀吉に対して、
「これからはあなた(秀吉さま)の時代ですぞ」
と説いたエピソードは、よく知られています。
これを聞いた瞬間、秀吉は「ハッ」と我に返り、冷静さを取り戻すとともに、「黒田官兵衛、恐るべし…」とかなり驚くばかりだったといいます。
そして、
とまで言われるほど、重要な合戦でその知略(頭を使った戦略)を、秀吉を天下に導くためにいかんなく発揮しました。
こうしたことが、黒田官兵衛は「軍師」の代名詞といえるわけですね!
各地にもある「福岡」という地名
岡山県瀬戸内市の「福岡」と福岡の街は関係ある?

赤穂線・長船駅(岡山県瀬戸内市長船町福岡)
また、福岡という地名は縁起のいい地名(「福のある丘」みたいな感じ)なので、各地にも同じ地名があります。例えば、
- 岡山県瀬戸内市にある「福岡」という地名
- 富山県(高岡市)の「福岡駅」
などなど、全国にある同じ「福岡」の地名は、現在の福岡市や博多の街と何らかの関係があるのでは?と思いますよね。
縁起のいい地名「福岡」
一般的に、こうした日本の地名によくある「福岡」は、
- 「フク」(豊かな、栄える)
- 「オカ」(土地、丘)
という、それぞれ縁起の良い意味を組み合わせたものが多く、全国各地で自然発生的に使われてきたものが多いといえます。
富山県にもある「福岡」という地名・駅名

あいの風とやま鉄道線・福岡駅(富山県高岡市)
また、富山県高岡市にある「福岡駅」は、かつての福岡町にあった駅名ですね。
また、福岡県に「福岡駅」は存在しないという興味深いトリビアもあります。
富山県の福岡駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

つまり、このようにたとえ地名が同じでも、
- たまたま語呂が良い
- あるいは「福」という字が縁起がいい
などの理由のために、地名が重複しているケースが多いわけです。
全国に同じ地名があるなんて、なんだか面白い発見ですよね!
那珂川の歴史(福岡・博多)
福岡・博多の歴史に不可欠な那珂川

那珂川(福岡県福岡市)
那珂川は、古代から博多の発展に欠かせない重要な役割を果たしてきました。
この川は、博多湾へと注ぐ河口付近に、中州と呼ばれる三角州(すなわち、川が大量に運んできた土砂が堆積してできる地形)を形成しました。
すなわちこの中州こそが、後に
- 商人の町・博多
- 城下町・福岡
という、それぞれ性格の異なる二つの街を分け隔てる境界線となったというわけです。
したがって、那珂川は博多と福岡の歴史的なアイデンティティを分かつという、大切な存在であると言えます。
那珂川が果たした「水運」や、大陸との貿易の関係
那珂川は、昔から水運(水上での輸送)の要衝として、また大陸との貿易において極めて重要な役割を果たしました。
この川は、大陸の玄関口であった博多津(すなわち、博多の港)と内陸部をそれぞれ結ぶという、まさしく天然の航路でした。
例えば、大陸から輸入・購入され福岡に入ってきた貴重な品々や、逆に福岡の内陸部から舟に載せられてきた九州の産物が、この川舟を使って運ばれていました。
博多津とは?その歴史
また、博多津は、古代から中世にかけて、かつて日本と大陸を結ぶ最大の国際貿易港として栄えてきた、現在の博多一帯の港湾部のことです。
また、この港はかつて歴史的に大陸の国々の商人や文化・モノなどが、最初に上陸してくるという重要な場所でした。
博多は、昔から大陸からの玄関口のようなものだった?
また、博多は、古代から「博多津」として、大陸との重要な玄関口の役割を果たしてきました。
当時は今のように航空機などは存在せず「船」がメインの交通手段だったため、当時の日本でもっとも海外に近い場所(玄関口)は、必然的に博多をはじめとする九州となるわけです。
博多と太宰府との関係は?
また、福岡のやや内陸部にある太宰府は、かつて奈良時代から平安時代にかけて、福岡だけでなくなんと九州全体を統治し、なおかつ外国に向けての対外的な窓口を管理するための役所であるという、とても重要な役割を担う場所でした。
したがって、かつて博多の港で大陸から受け入れた(すなわち、輸入・購入された)モノや、大陸から訪れた人々などは、まず博多の港からさらに太宰府へと報告・管理されていたという密接な関係があったというわけです。
博多と太宰府は、古代日本の外交と防衛を支える両輪だったわけですね!
那珂川の存在が、商人にとって便利だった理由
昔は便利な貨物列車やトラック輸送などは無かった
今のようにまだ自動車や軽トラのような輸送手段がなかった時代は、那珂川の舟というものは商人たちにとって、最高の物流ルートとなっていました。
というのも、重い荷物を運ぶときには、陸路の場合だともり多くの人手や馬が必要となってくるため、コストも時間もかかりました。
舟を使った「水運」こそが最も効率のよい輸送手段だった
しかし、川を利用する「水運」でなら、「舟」によって大量の荷物を効率的に、しかも安価にコスパよく運ぶことができたのでした。
このように、那珂川がかつての博多津と内陸部をそれぞれ繋ぐための大動脈・メインルートという大きな役割を果たしたことで、博多商人の商品の「販路」は拡大してゆくことができ、彼らのビジネスは大きく発展してきたのでした。
川が街の経済を支えていたなんて、現代の高速道路みたいで便利だったんでしょうね!
那珂川が運んできた砂が、三角州「中洲」を作った原理
また、
- 那珂川が、長い年月をかけて(地面を削り・侵食して)運んできた砂や土が、
- 博多の海に近い三角州である「中洲」を作った
というプロセスや原理というものは、非常にシンプルで地理学的です。
すなわち、
- 川の流れが山から海へと向かって流れ下りてゆく途中で、
- 水が地表を削ってゆき(浸食)、
- その削った土砂を下流へと大量に運んでゆきます(運搬)。
- そして、川が海に入る直前になって平地となり、水の流れが急に緩やかになります。
- そこで、それまで大量の運んでいた砂や泥が完全に海には流れ込まずに沈殿し始め(堆積)、
- これらが長い年月をかけて積もっていくことで、
- 三角形の陸地が形成されました。
つまり、中洲は那珂川が作った自然の贈り物なわけですね!
黒田氏と岡山県瀬戸内市の深い繋がり
黒田氏のルーツとされる「備前国福岡」は、現在の岡山県瀬戸内市に位置しています。
これは、福岡市の黒田家の歴史を語る上で、大変重要な事実というわけです。例えば、
- 黒田官兵衛の曽祖父(ひいおじいさん)である高政
- 彼の父である職隆
は、この備前福岡に住んでいたとされています。
また、現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡に存在する妙興寺というお寺には、黒田高政のお墓も残っています。
また、備前福岡城跡も同じく、瀬戸内市の長船町に存在します。
備前・長船については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

すなわち、現在の福岡市の「福岡」という地名が名付けられた、ルーツ(起源)もこの備前福岡だと言われているわけですよ!
歴史が繋がっていて、なんだか感動しますね!
黒田氏と備前福岡における歴史的な基盤
黒田氏がどのようにして備前福岡から力を得ていったのか、歴史を整理してみましょう。
黒田氏ルーツの地
まず、黒田官兵衛の祖先は、もともと滋賀県・琵琶湖のさらに北東にある滋賀県(長浜市・木ノ本)にルーツを持つとされています。
すなわち、現在の琵琶湖の北東にある、北陸本線・木ノ本駅のすぐ北西側あたりに、「木ノ本黒田」という地域が広がっており、ここに彼らの祖先が住み着いたため、「黒田」という姓を名乗りはじめたのでした。
北陸本線・木ノ本駅については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

抜け駆けが原因で、罰として近江を追われる
しかしながら、時代は戦国時代でした。
とある戦いで黒田氏の祖先は「抜け駆け」「フライングゲット」で敵陣に突撃してしまったため、ルール違反として滋賀県を追い出されることになってしまいました。
戦国時代には「ただ勝てればいい」というわけでなく、「敵への敬意や礼儀作法」にもとても厳しい時代でした。
また、平安時代おわりの源平合戦のときにあったような
- 「先陣争い」
- 「我先に敵陣に突っ込んで、手柄を挙げる」
ような(当時は名誉・手柄とされた)ことは、この戦国時代になるとマナー違反となりました。
佐々木四郞の先陣争いについては、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

近江国(滋賀県)を追われた再起の場所・備前(岡山県)
その「マナー違反」の後、地元の滋賀県長浜市・木ノ本黒田を追い出された彼らは、はるか西・備前国(現在の瀬戸内市)の福岡という場所にほぼ「落ちこぼれ」のような形で移り住みました。
しかしここが黒田氏の「再起の場所」として思い入れ深い場所となり、後に九州の大都会「福岡県」の由来へとつながっていくというわけです。
黒田家の基盤が苦労しながらも築かれた、備前(岡山)の福岡
このように、黒田氏はこの備前福岡にいた時期においてしっかりとした経済的な力を蓄え、しっかりと一族・家柄の基盤を作ってゆくことになりました。
そのおかげもあって、後に彼らは活躍の舞台を、
- 播磨(現在の兵庫県)※つまり先述の姫路
- 筑前(つまり現在の福岡市)
へと移していくことができたわけです。
故郷の岡山県・福岡の地名を、現在の「福岡県」にもってきた
このように、福岡での黒田官兵衛の活躍ぶりの裏には、こうした故郷(岡山県)における基盤作りがあったからこそなのですね。
そして江戸時代となり、「関ヶ原の戦い」の功績で筑前国(今の福岡県)をもらったときに、この地を自分たちのルーツである岡山の地名にちなんで「福岡」と改名・命名したというわけです。
つまり、今の「福岡県」という地名があるのは他ならぬ黒田官兵衛のおかげであり、またそれだけ
- 岡山の福岡での苦しんでいた時代において、いかに自分達が努力してきたか
という「誇り」こそが、この「福岡県」という地名に込められているというわけですね。
歴史って本当に奥深いものです!
おわりに・まとめ
福岡・那珂川と黒田氏の地理と歴史を学んでみて、いかがだったでしょうか。
かつて那珂川が博多の水運を支え、また黒田氏が城下町を築いたことで、今の福岡があることが分かりましたね!
つまり、二つの歴史が合わさって、この街の個性が作られたというわけです。
したがって、こうした知識を持って街を探訪すれば、きっと景色がより興味深く思えてくるはずですよ!
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