江戸時代の武士の給料とお米の関係について、「江戸時代の経済の流れ」「武士の生活の実態」などを踏まえてわかりやすく解説してゆきます!
今回は、江戸時代の武士の給料についての話題
江戸時代の米生産と年貢の仕組み
江戸時代において、お米は単なる食べ物ではなく、国の経済を支える「お金」そのものでした。
当時の「お米」にまつわる歴史を、経済や江戸時代の武士の給料としての視点から解説してゆきますね!
これを読めば、
- 江戸時代の武士は決して安定してるだけではなく、様々な苦労があった
ということがおわかりいただけると思います!
江戸時代の武士の給料としての「江戸時代のお米」
江戸時代の武士は「お金」ではなく、お米で給料をもらっていたのでした。
すなわち、現代価値にするとおおよそ年収600万円くらいで、公務員のようなイメージですね。
しかし、給料をお米でもらったところで、お米だけでは服も薬も買えません。
そのため、お米の大部分をわざわざ「(商人に)売ってお金に換える」という必要があったわけでした。
って思いますよね。
なぜ最初から「お金」で渡さなかったのか
ではなぜ、最初からお金(貨幣)で渡せば効率が良いのに、わざと(あえて)それをしなかったのか。
江戸幕府が「お金支給」ではなく、そこまでしてお米支給にこだわったのには、当時ならではの深い理由があっまのでした。
「お米を払える=軍事力の象徴」のような風潮があった
当時は「どれだけ兵士を養えるか」というパラメーターこそが、いわゆる「力」の証明でした。
すなわち、たくさんのお米を確保している藩(つまり石高の多い藩)などは「強い藩である」という一つのバロメーターになっていたというわけです。
そんな中、お米は保存ができる(保存がきく)「食料」そのものだったので、いざ戦争になったときにも、最も信頼できる資源だったというわけです。
逆に、保存がまったくきかない「魚」などでは、江戸時代の武士の給料としては使えなかったというわけですね。
お米支給だった理由:偽造貨幣に対応するため
また、江戸時代の当時は偽造硬貨も多く、またお金の価値が変動しやすかったのでした。
そのため、下手したら貨幣一枚の価値も
- 「いつただの紙切れになるかわからない」という状況にある
- 「(ある時には)1万円の価値にもなれば、0円の価値へも変動しかねない」
という不安定なものだったのでした。
つまり同じ貨幣でもおにぎりが1つも買えないときもあれば、100個買えたりするときも来るなど、お金の価値は常に変動していたのでした。
お金の価値は常に変動していた理由
理由は、幕府が貨幣に混ぜ混むゴールド(金)の量を、景気によって増やしたり減らしたりしたことが要因の1つに挙げられます。
たとえば、
- 金の量が多ければ、貨幣の価値が上がるため、物価は下がる
- 金の量が少なければ、貨幣の価値が下がるため、物価は上がる
というわけです。
お米は人間生活に必須なため、価値は変わらないと思われていた
しかしその一方で、お米は偽造のしようもなく、
- 「人間が生きていくために絶対必要なもの」
であるわけなので、江戸時代においては(現在でも)価値がゼロになることがありませんでした。
「お米の支給ができる=主従関係がある」と思われていた
さらには、
- 幕府が農民からお米を「年貢」として取り、
- それを部下(武士)に分ける
という行為自体が、まるで江戸時代の封建社会らしい主従関係(つまり、誰かが誰かに支配・管理されている関係)を確認するかのような、まるで儀式のような意味を持っていたのでした。
つまり、ただ給料を渡すだけとはいえ、それだけの大きな意味合いを江戸時代には持っていたというわけです。
お米と「家禄」の関係
こうしてかつて武士に与えられてきた、お米による江戸時代の武士の給料は、のちに家禄と呼ばれるようになります。
ちなみに「家禄」とは?
家禄とは、主君(将軍など)が家臣(部下の武士など)に対して、その家柄や役職に応じて代々支給してきた報酬のことをいいます。
簡単にいえば、主に江戸時代の武士の給料のことをいいます。
江戸時代は現物(お米)支給、明治時代になると廃止
また、江戸時代は「お米(現物)」で配られていましたが、明治時代になると政府の財政が厳しくなり、最終的には家禄は廃止されてしまったのでした。
つまり、これによって武士は給料が無くなり、不平不満のたまった武士(士族)たちが反乱を起こし、1877年の西南戦争につながっていったわけです。
新田開発と農業技術の進歩
また、江戸時代を通じて、お米の生産量は飛躍的に増えていったのでした。
つまり、戦国時代も終わって平和な世の中になったことで、人々が生産に集中できるようになったり、それぞれの藩(主に外様藩など)がこぞって生産量を競うようになったからですね。
新田開発・農具の改良により、お米の大量生産へ
江戸時代には、幕府や藩が主導して、海を埋め立てたり湿地を干拓したりして、田んぼ(が作れる陸地)を増やしていったのでした。
すなわち、江戸時代に農業が発展していくると、
- 効率よく耕せる「備中鍬」
- 脱穀を早くする「千歯扱」
が普及してゆき、それまでとは比較にならないほど生産性が上がっていったというわけです。
貨幣経済の浸透と「お米の限界」
しかしながら、江戸時代の中期以降、それまでのお米中心の経済には、もはや限界が見えはじめてきていました。
というのも、町人たちが商売で力を持ち、お金(金・銀・銭)の流通が増えていったからですね。
江戸時代の武士の給料を直撃した、米価の下落
しかし、このように各藩の努力ともいうべき「新田開発」によって農作業が爆発的に効率化し、お米がたくさん獲れ大量生産ができるようになると、今度は逆にお米の価値が下がってしまったのでした。
モノの価値は、多いほど少なくなります。
例えば、そこらじゅうにある石ころには値段はつきませんが、数が少ないダイヤモンドは高くなるのとおなじですね。
お米が大量生産されて市場にあふれかえってしまうと、お米の価値が低くなって(よくもわるくも)安くなってしまうというわけです。
新田開発(大量生産)と米価下落の、皮肉な関係
まず、新田開発の成功が、皮肉にも武士たちの生活を苦しめることになりました。
供給過剰と米価の下落
平和な時代が続き、技術も進歩してゆき新田が激増した結果、先述のとおり市場にお米が溢れかえってしまいました。
しかし、モノが増えれば価値が下がるのが、いつの時代も「経済の常」です。
「お米の値段が下がる」ということは、すなわち給料をお米でもらっている武士たちにとっては「実質的な給料カット」を意味しました。
同じお米の量でも、もらえる量が減ってしまうわけです。
モノ(お米)は多いほど、価値が下がるように
お米の価値が下がっていく一方で、逆に商品の値段は上がっていきました。
そうすると、幕府や藩は徐々に、お米だけに頼る経済の限界を感じるようになったというわけですね。
武士の困窮 「米の値段が下がる=給料が実質下がる」に
このように江戸時代の武士の給料はお米だったために、それを売ってお金に換える際、手元に残る金額が少なくなって苦しみました。
すなわち、当初の江戸時代の武士の年収は今でいう600万円くらいで(公務員くらい)、米価下落してからは200万円くらいに下がったイメージです。
これでは、それまでの生活を維持するのもなかなか難しいですよね。
商人の立場が逆転した理由
お米の価値が下がり、商品の値段が上がったことで、実質的なパワーバランスは完全に逆転しました!
江戸初期は、まだ「まともな暮らし」ができていた武士たち
江戸初期(年収600万円相当)こそ、お米の価値が高く、そのときはまだ物価も安定していたのでした。
すなわち、武士は今でいうところの「公務員」として、
- 家族を養い、
- 数人の奉公人(お手伝いさん)を雇い、
- たまには外食や芝居を楽しめる
という、いわゆる「中流階級」の暮らしができていたのでした。
江戸中期以降、下手したら「年収200万以下」の生活水準に
しかしながら、江戸中期以降は、いまでいう年収200万円〜それ以下相当)にまで落ち込んでしまいました。
すなわち、お米の値段が半分以下に下がる一方で、都会の物価(家賃・油・お酒・教育費)は2倍〜3倍に跳ね上がってゆきました。
したがって、同じ量のお米をもらっていても、買えるものは激減してしまうというわけです。
これでは家族を養うのも大変になってきますよね。
武士の借金漬け 一方の商人は帰って「利子」で儲かるように
給料(お米)の価値が下がるのに、生活費(商品)は上がります。
すなわち、足りない分を商人から借金するようになり、武士は商人に頭が上がらなっていたのでした。
また、このとき多くの武士が、給料日の前にお米を担保にして商人から借金をする「前借り」状態にありました。
そのため、借りたぶんの利息を払ってしまうと手元にほとんど残らず、様々なの内職(副業)をしないと食べていけないという、まさに「働いても働いても楽にならない」というような状態に陥っていたのでした。
儲かった商人たちによる、町人文化の開花→娯楽の発展
このようにしてお金を持った商人たちが、やがて浮世絵や歌舞伎などといった派手な文化(娯楽)をリードしていくようになります。
江戸の町人たちの「お食事」事情
また、都市部に住む町人たちは、お米をあくまで「買って」食べていたのでした(支給ではない)。
つまりお米がそもそも現物支給だった武士達とは少し事情が異なるわけです。
江戸における「白米」の大流行
このようにして、江戸の町では白米を食べる文化は広まってゆきました。
しかし、当時はお米と一緒に食べる副菜が少なかったため、ビタミン不足に陥ってしまい「江戸患い(えどわずらい)」と呼ばれる脚気が流行したのもよく知られるな話です。
江戸の「脚気(かっけ)」パニック
また、お米(白米)ばかり食べてビタミン不足に陥り、こうしておこる脚気は「江戸患い(えどわずらい)」と呼ばれました。
特に参勤交代で江戸に来た大名や武士たちが、こうした脚気という病気に苦しむことになりました。
やはり、野菜などが入った「おかず」を食べないといけないということですね。
原因は白米へのこだわり
それまで地方では玄米や雑穀(アワ・ヒエ)といった当時としては正直あまり美味しくないもの食べていたような武士たちが、いざ江戸にやって来ると「都会の最高の贅沢」として、精米された(ビタミンが削ぎ落とされた)白米ばかりを食べるようになりました。
「白米=金持ち」みたいな風潮すらあった当時の世の中で、(ビタミンが削ぎ落とされた)白米ばかりを(ろくにおかずも付けずに)食べるブームが起きてしまったというわけですね。
江戸時代には「精米」の技術が上がったことで(それまでの精米前の玄米と比べ)白米を食べる機会が増え、白米は江戸時代の当時としてはとてつもなくおいしい食べ物だったというわけです。
ビタミン不足と脚気
しかし、白米へと「精製」する過程で、ビタミンB_1が豊富に含まれている「ぬか」を捨ててしまったため、先述の「江戸患い」ともいうべき重い脚気にかかってしまったのできた。
ところが、いざ江戸から自分の領地に戻ると、食生活が元に戻ったことでコロッと治ってしまうという、なんとも不思議な現象が起きていました。
蕎麦(そば)を食べると治る、という都市伝説・経験則も生まれた
また、蕎麦にはビタミンが含まれているため、江戸の人々には
として、もはや人気メニューのようになっていました。
しかし当時は「ビタミン」などの栄養学に関する知識は無かったのでした(こうした知識が判明するのは明治時代以降)。
そのため、当時の人々は野菜や果物を食べて解決することはなかなか思い付かず、「蕎麦を食べれば治る」という経験則を信じるしかなかったのでした。
今回はここまで 続きは次回
おわりに:今回は長くなったので、続きは次回に回します!
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