江戸時代の人々はどんな食事をしていたのでしょうか、何気に気になりますよね。
そんな江戸時代の食事事情を、わかりやすく解説していきます!
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江戸時代における、様々な食事事情や食事の歴史
江戸時代の食文化は驚くほど豊か!
江戸時代は、現代の日本料理の基礎が完成したエキサイティングな時代ですね!
すなわち、約260年間も平和な世の中が続いたことで、庶民の間でも「食べる楽しみ」が大きく広がりました。
一日三食の習慣が定着した、江戸時代
実は、日本人が一日三食を食べるようになったのは江戸時代からでした。
それまでは一日二食が一般的でしたが、
- それまでは暗い部屋で夜を過ごしていたところに、
- 灯火用の油(つまり燃料)である菜種油が普及してゆき、
- またこれによって夜の活動時間が増えたことで、
- 夕食を食べるという習慣が根付いていった
というわけです。
- 朝食:炊きたてのご飯・味噌汁・漬物が基本でした。
- 昼食・夕食:朝の残りのご飯を「冷や飯」で食べたり、お茶漬けにしたりすることが多かったようです。
- おかずの定番:納豆・豆腐・煮物、そして江戸っ子が大好きな初鰹などの魚介類が並びました。
菜種油の普及で、夜の活動時間が延長→「夕食」の定着
まず、安価な油が普及する前、すなわち江戸時代以前の当時は、暗くなったらもはや寝るしかありませんでした。
しかし、江戸時代になって燃料となる菜種油が普及してゆき、行灯で部屋を照らすことによって夜も明るくなったことで、人々は遅い時間まで起きているようになりました。
夜の活動増加→空腹時間の増加
こうして時代とともに夜が明るくなり、起きている時間が長くなれば、当然お腹も空きます。
したがって、これまでの「朝・昼」の2食では体力が持たなくなり、寝る前に「夕食」を摂る必要が出てきたのです。
江戸の町での激しい労働→お腹も減る
さらに、人口増加により建設ラッシュだった江戸の街においては、朝から晩まで働くという人が大勢いたのでした。
彼らにとって、1日2食ではエネルギー不足だったのですね!
余談:「1日3食」の起源は平安時代から?→広く定着したのは江戸時代
歴史の教科書では「1日3食というスタイルが定着したのは平安時代」と書かれていたケースもあると思います。
しかし、平安時代に「1日3食」というスタイルが定着したのは、一部(特権階級など)のみであった可能性が高いです。
もちろん鎌倉時代以降にも「1日3食」のスタイルは存在していましたが、本当の意味で世の中全体に「定着(習慣化)」したのは、やはり江戸時代という見方が一般的です。
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江戸時代の意外な「白米至上主義」の落とし穴
また、江戸の町においては
- 「精米された白いご飯(白米)を食べること」
が、一種のステータスとなっていたのでした。
しかし後述するように、これには「脚気」という思わぬ副作用があったのでした。
江戸っ子のステータスとしての「白米」
江戸っ子にとって「真っ白な米を腹いっぱい食べる」ことは、何物にも代えがたい最大のステータスであり、誇りでもありました。
当時の極端なまでの「白米信仰」とその功罪についてまとめました。
地方では「アワ」や「ヒエ」が当たり前だった
当時の地方の農村においては、年貢としてお米を納めた後には、自分たちはアワやヒエなどの(正直到底おいしいとは言えないような)雑穀に、少しのお米を混ぜたものを食べていたのでした。
ましてや、白米なんてお祭りなどにしか食べられないような贅沢品でした。
それに対して、江戸の街では庶民でも白米を贅沢に食べることができたのです。
銀シャリ(まるで銀のように輝く白米)へのこだわり
江戸っ子は、真っ白かつキレイに精米されたお米を「銀シャリ」と呼び、これを食べることがまさに「都会人」の証として自慢していたのでした。
したがって、地方から出てきた人たちにとって、江戸で白米を食べられるということは、この上ないほどの大きな喜びだったというわけです。
江戸煩い(えどわずらい)として恐れられた「脚気(かっけ)」
白米ばかり食べて起きた、江戸ならではの病気「脚気」
しかし、白米ばかりを食べ続けて副菜が不足したことで、ビタミンB1が欠乏してしまい、結果として「脚気」という病気になる人が続出してしまいました。
すなわち、地方から江戸に(参勤交代などで)来た武士たちが次々と体調を崩していったというわけです。
そもそも脚気(かっけ)とは?ビタミンB1不足により起こる病気
脚気とは、ビタミンB1が不足してしまうことで足のしびれやむくみ、ひどい場合には心不全を引き起こしてしまうという、なんとも怖い病気です。
しかも、当時は原因が不明だったため、例えば参勤交代などで江戸に行ったときになぜか発症してしまっていたのでした。
そのことから、当時は「江戸煩い」として恐れられていました。
江戸の人気メニュー・蕎麦(そば)と「脚気」の意外な関係
また、江戸の食事の代名詞ともいえる蕎麦が江戸で大人気となり爆発的に流行した理由には、実は先述の脚気の症状を改善してくれるという、健康面でのメリットがありました。
先述の通り、白米ばかりを食べる江戸っ子は、ビタミンB1不足による「脚気」に悩まされていたのでした。
脚気防止のための知恵「そばを食べれば治る」
しかし蕎麦には、脚気防止には不可欠なビタミンB1が豊富に含まれています。
また、当時は医学が今ほど発展していなかったため、脚気の原因がまさかビタミンB 1不足だったとは誰も思いをしなかったわけですが、それでも江戸の人々は経験的に、
ということには気づいていたのでした。
そのため江戸っ子たちは、脚気の症状を治すため(あるいは防ぐため)に、こぞって蕎麦を食べるようになったのでした。
したがって、蕎麦は単なるファストフードではなく、一種の「サプリメント」のような役割も果たしていたのでした。
江戸時代の「四天王」グルメ
また、現代においても私たちが大好きなメニューの数々は江戸の町において主に屋台料理として大流行してゆきました。
つまり、当時からとにかく大忙しだった「江戸っ子」たちは、まるで今でいうファストフード感覚で、これらの料理を楽しんでいたというわけです。
- 握り寿司:今のサイズよりも2倍から3倍も大きく、まるでおにぎりのようなボリュームでした。つまり、忙しい職人や商人の皆さんがしっかりお腹を満たせるように、大きく作られていたというわけです。
- 天ぷら:串に刺して揚げたてのものを、おやつ感覚で立ち食いしていました。
- 蕎麦:江戸っ子の「コレ!」という食事の代名詞ですね。せっかちな江戸っ子は、つゆに少しだけつけて「ズズッ」と威勢よく啜るというのが粋なこととされていました。
- 鰻の蒲焼:タレの香ばしい匂いが食欲をそそるという、まさにスタミナ料理として大人気でした。
江戸時代 味をつけてよりおいしくする「調味料」の進化
- 醤油:特に関東(主に千葉県の銚子など)では、濃口醤油という塩分も色も濃い醤油が開発されました。
この調味料がやがて、蕎麦や天ぷら・握り寿司の味を決定づけていくことになります。 - 味醂:食べ物に対してさらに甘みとコクを加えるという、まさに魔法の調味料として重宝されました。
当時の屋台が並ぶ、「ワイワイ」と活気ある江戸の風景を想像すると、なんともお腹が空いてきてしまいますね!
このように、現代の私たちの食卓が、数百年前の江戸の文化に支えられていると思うと、感謝の気持ちが湧いてくるような思いです。
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宿場町で味わう「旅の醍醐味」
また、宿場町での食事は、旅人にとって最大の楽しみでしたね!
すなわち、1日に約40㎞(10里)ほどの長い距離を歩くという当時の旅人たちの疲れを癒やすためにも、各地の宿場においてはそれぞれの工夫を凝らした料理が提供されていたのでした。
旅籠(はたご)での豪華な夕食ラインナップ
まず江戸時代の中期以降は、(庶民でも泊まれる格安の宿である)旅籠と呼ばれる宿泊施設においては、旅人の楽しみである一泊二食付きが一般的になりました。
旅籠:江戸時代の旅館のことで、食事を提供し、宿泊させる施設を指します。
現代でいう約3,000円~5,000円程度で泊まれる宿でした。
したがって、この旅籠における夕食は、まさに旅人たちの疲れを吹き飛ばすような、豪華なラインナップになることが多かったのでした。
- 一汁三菜が基本:ご飯、味噌汁、香の物に加えて、煮物や焼き魚などが並んでいました。
- 地元の特産品:また、宿場においてはその土地で獲れた新鮮な山菜や川魚、さらには海の幸などが振る舞われていました。
- お酒の楽しみ:さらには追加料金を払えば、その土地の有名な酒である地酒を楽しむこともでき、旅人同士の交流にも花が咲きました。
街道沿いの「茶屋」でのお食事のおもてなし
宿場町の間や入り口には、茶屋がたくさんありました。
いわば、茶屋とは現代で言うところのサービスエリアやカフェのような存在ですね!
- とろろ汁:東海道の鞠子宿(現在の静岡県静岡市のやや西側に位置)の名物として知られます。サラサラという具合にかき込めるため、急いでいる旅人にも大人気でした。
- 安倍川もち:静岡周辺で愛された、きな粉をまぶしたお餅です。
- 草加せんべい:日光街道の宿場(現在の埼玉県草加市)で生まれた、パリッとした食感の保存食です。
- 峠の力餅:旅人たちがこれから険しい峠を越える前に、エネルギーを補給するために食べられました。
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江戸の食を支えた物流
江戸の食生活は、まさに全国各地からの豊かな食材と、人々の知恵によって支えられていましたね!
品川の「海苔」と江戸前の深い関係
江戸(東京)の南側の入口にあたる品川は、現在の高層ビルの姿からは想像つかないぐらい、かつては海の綺麗な場所でした。
そのため、かつての品川は日本有数の海苔の産地でした。
すなわち、かつての品川は現代の大森から品川にかけての沿岸部において、良質な海苔がたくさん採れたのでした。
全国から集まる食材のネットワーク
また、江戸は100万人を超える大都市(大都会)でしたから、食べ物の自給自足は不可能でした。
そこで、「天下の台所」と呼ばれた大坂や全国各地の港から、大量の食材が次々に江戸へと運ばれてきたのでした。
仙台からの米
約62万石という国内第3位の収穫量を誇った穀倉地帯である仙台藩は、「江戸の食糧基地」としての役割を果たしていました。
つまり、伊達家が主導して大量生産した仙台のお米は、東の海つまり太平洋(東廻り航路)を通って、船に載せられて江戸に大量に運ばれてきて、江戸の市民のお腹を満たしました。
すなわち、「江戸の喰い積(くいづみ)」の3分の1~半分は、なんと仙台米だったと言われるほど、仙台のお米は江戸にとって欠かせない存在でした。
清水港からの物流
また、駿河(静岡)の清水港(現在の静岡県静岡市清水区)は、お茶や海産物といった名物を江戸へと運ぶための、重要な中継地点だったのでした。
すなわちここを経由して、富士山のふもとの名産品なども海を通じて運ばれてゆき、やがて江戸の市場へと並んでゆきました。
駿河の魚も江戸っ子の食卓へ 鯛(たい)の献上
駿河湾の豊かな魚介類も、江戸で非常に重宝されました!
特に駿河(静岡)の鯛(主に興津鯛)は体にも健康にもよかったため、徳川家康が好んで食べていたことで知られます。
そのため、駿府(静岡)から江戸城まで、早馬に載せられて運ばれることもありました。
「健康オタク」で知られ73歳という長寿をまっとうした徳川家康は、健康に非常に気を使っていたことで知られます。
そのため、脂が乗りつつも上品な味わいの興津鯛は、彼の食生活に欠かせない逸品だったのでしょうね!
江戸の将軍の食卓
将軍の食事と厳重なセキュリティ
また、江戸幕府のトップである徳川将軍の食事は、もはや「味を楽しむ」というよりも、もはや「儀式」に近いほどにまで徹底したセキュリティがほどこされるほど厳格だったのでした。
つまり、将軍の毒殺を防ぐための対策は、その上ないほどまでに徹底されていたというわけです。
将軍が食べる前の厳格チェック・お毒見(おどくみ)
また、将軍が食べるご飯は、食材の調達から調理に至るまで、信頼できる役人が常に厳しくチェックしていました。
将軍が口にする前に、御毒見役が実際に食べて、異変がないかを常に厳しく確認していたのでした。
さらには、調理の段階でも複数の料理人が味見をして料理に危険がないかなど、将軍の口に入るまでには実に何重もの事前の関門があったのでした。
長時間によるチェック→もはや冷めきった食事へ
このように、将軍が食べる前にはこうした専門職の人々によってあまりに毒見や確認に時間をかけるため、将軍が食べる頃には料理はすっかり冷めてしまっていました。
すなわち、将軍の皆さんは江戸時代における最高権力者でありながら決して出来立てほやほやの熱々な料理を食べられないというのは、なんとも少し寂しい気がしますね!
江戸の独身男性にとっての「食のパラダイス」
江戸の町は、まさに「独身男性の天国」と言っても過言ではないほど、外食文化が進化していました。
地方から出稼ぎに来た職人や奉公人たちは、家で料理をする必要がほとんどなかったのでした。
男女比2:1 江戸は「男の町」だった
当時の江戸の人口比率は、男性が女性の2倍近くいたと言われています。
理由はさまざまですが、人口爆発状態にあった江戸は常に人手不足であり、地方から多くの「豪快な男たち」が出稼ぎに来ていたからでした。
すなわち、当時の江戸には自炊をしない(あるいはできない)独身男性が大量にいたため、それに応える形で外食産業が爆発的に発展してゆきました。
まさに、「需要あるところに、供給あり」って感じですね!
独身男性も手軽に食べられる煮売屋(にうりや)の存在
煮売屋とは、今で言う「お惣菜屋さん」や「定食屋さん」です。
煮物や焼き魚を安く売っており、ご飯さえ炊けば、あるいはご飯も買ってしまえば、すぐに食事ができました。
屋台の機動力 毎日が「グルメツアー」のような楽しさ
また、忙しい現場で働く男たちにとって、立ち食いできる握り寿司や天ぷらは、最高の楽しみだったのでした。
このように、現代の私たちが「今日はラーメンにしようか、牛丼にしようか」と悩むのと同じ感覚で、江戸の男たちも外食を楽しんでいたのでした。
すなわち、
- 濃い味の蕎麦でさっぱりと。
- スタミナをつけたい時は鰻。
- 仲間と一杯やるなら居酒屋。
などといった、バラエティ豊かなメニューを楽しんでいたのでした。
四季折々の初物(はつもの)
江戸っ子たちは、初物が大好きだったのでした。
つまり「初鰹を食べれば、寿命が延びる」とまでに言われていたため、彼らはたとえ借金をしてでも初物を食べるのが粋とされていました。
したがって、独身男性たちはたとえ限られた収入の中でも、ことに「食」に関してはかなり贅沢に、しかもアクティブに楽しんでいたようです。
困るどころか「家より外」が基本!
また、当時の独身男性たちが住んでいた長屋は狭かったため、まともに煮炊き・料理をするようなスペースも限られていました。
長屋:江戸時代の集合住宅のことです。
玄関を入るとすぐに土間があり、そこで簡単な調理することくらいはできましたが、基本的には寝るためのスペースが中心でした。
したがって、わざわざ暑い思いをして自炊するよりも、外で活気ある屋台をハシゴする方が、精神的にも肉体的にも豊かだったに違いありません。
独身男性たちの「胃袋」を支えたコミュニティ
居酒屋や茶屋は、単に食べる場所であるだけでなく、情報交換の場でもありました。
例えば主な会話の話題は
- 美味しい店のこと
- 評判の看板娘
- 新しい仕事の話
など、食べるそとを通じて江戸の独身男性たちは孤独をほとんど感じることなく、江戸の町を謳歌していたというわけですね!
「独身貴族」を支えた経済圏
また、独身男性たちは家族を養う必要がない分、自分の稼ぎを「食」や「遊び」に対して注ぎ込むことができました。
半端なかった彼らの「食への投資」
「宵越しの銭は持たない」という江戸っ子の気風も、充実した食文化があったからこそ生まれたのかもしれません。
そのため、彼らは生活に困るどころか、毎日が食べ歩きイベントのようなワクワク感に満ちていたはずです!
「宵越しの銭は持たない」とは、「朝までには今日稼いだ金を使いきる」という、昔ならではの豪快な遊び方でした。
当時の仕事は危険も多く命懸けだったことから、そうしたプレッシャーをはねのけて遊ぶという意味合いもあったのでした。
このように、江戸の町がこれほどまでに「一人暮らしに優しい場所」だったとは、現代の私たちから見ても驚きですよね。
過剰な競争による質の向上
そんなエネルギッシュな「男たち」の胃袋を掴もうと、多くの屋台同士が激しくお客を競い合ったのでした。
その結果、安い・早い・さらに「うまい」という、現在の「吉野家」や「マクド」「やよい軒」などにも通じるような、世界でも稀に見るハイレベルな食文化が完成したのです。
江戸の「タイパ(タイムパフォーマンス)」重視
例えば現代人がスマホ片手にクイックに食事を済ませるように、江戸のエネルギッシュ男性たちも、時間をとても大切にしていました。
また、じっと座って注文を待つ時間さえ惜しい江戸っ子のために、調理の様子を見ながらその場で受け取れるというスタイルが定着してゆきました。
したがって、現代のテイクアウトやファストフードの精神は、すでにこの頃には完成されていたというわけです。
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おわりに・まとめ
いかがだったでしょうか。
江戸時代の食事事情は、知れば知るほど「美味しさ」と「健康」のジレンマが見えてきて、とても興味深い発見があったのではと思います。
また江戸の町がこれほどまでに「一人暮らしに優しい場所」だったとは、現代の私たちから見ても驚きですよね。
人手不足だった100万人都市の大都会・江戸においてエネルギッシュにパワーを彼らの食欲が、今の「和食」の土台を作ったと思うと、なんだか親近感が湧いてきませんか?
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