冬の【東京→北海道】鉄道旅7 函館駅エリアから、ベイエリアへ移動

今回は、函館駅(前のホテル)を出発して、ベイエリア方面へと向かってゆきます!最高に楽しい函館観光にしていきます!!

函館ベイエリアにて(北海道函館市)

函館は、つい先の2024年4月に公開された映画「名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)」の舞台となり、函館の街並みがとても精巧かつ忠実に描かれていることから、大変話題になりました。

もし男性の方がこの記事を読まれていたら、彼女と函館デートする際の「うんちく話」のネタにしちゃってくださいね!!もちろん嫌われます!(笑/冗談)

けどそんな「うんちく話」を心から楽しんでくれる彼女であるならば、それは学ぶ姿勢を大切にしている女性なので、あなたにとってはきっと良いお嫁さんになることでしょう。

函館を観光! 朝ホテルを出発

朝ホテルで目が覚めたら、今日は1日、函館観光となります。
主に函館観光のメジャーである、港に近いベイエリア地域、そして金森(かねもり)赤レンガ倉庫八幡坂(はちまんざか)といった有名な観光地を回ります。
ちなみに五稜郭(ごりょうかく)には、これまでも何度も行っているため、今回は旅程の都合で行きませんでした。

函館駅(北海道函館市)
函館駅にて(北海道函館市)
函館駅にて(北海道函館市)
金森赤レンガ倉庫前より(北海道函館市)

高田屋嘉兵衛によって、江戸時代に拓かれていった函館

函館は、江戸時代に高田屋嘉兵衛(たかだやきへい)という人物によって、その文明が開かれました。

高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ)とは、江戸時代後期(1800年代)に活躍さた商人です。商人とはいっても、とても大金持ちの「豪商」ということになります。
高田屋(たかだや)とは、苗字(みょうじ)ではなく「屋号(やごう)」になります。
江戸時代は商人の身分は低かったため、苗字(みょうじ)を持つことは(武士しか)許されていませんでした。
しかし、商人同士で名前が被ったりすると商売において不便なため、江戸時代の商人は「~屋」といった屋号(やごう)を名乗っていました
「高田屋」もそうですし、大阪の淀屋橋(よどやばし)の由来になった淀屋(よどや)という豪商も有名ですね。

また余談にはなりますが、三越(みつこし)の原型となる越後屋(えちごや)という豪商も有名ですが、こちらは越後屋といいつも新潟県とは関係ありません。三越の元祖となる、江戸時代初期の三井高利(みつい たかとし、三重県松阪市出身の商人)の先祖がたまたま「越後守」という、新潟県とは無関係の役職に就いていた武士だったことから、越後屋という屋号になっているに過ぎません。また、三井高利が商人なのにも関わらす「三井」という苗字があるのは、先祖が武士だったことが関係しています。元々は近江(おうみ:現在の滋賀県)の武士でしたが、江戸時代はじめに三重県・松阪の地に移住したときに、武士の身分を捨てて商人に転身したのです。

・・・早速、余談・雑談失礼しました。

海運業によって大きな財を得た、高田屋嘉兵衛

では高田屋嘉兵衛は何の商売で大儲けしていたのかというと、それは「魚釣り(漁業)」「海運業」です。
もっと具体的にいうと、まだ未発展だった北海道(蝦夷地)の海のルートを確立し、魚が大量に釣りやすい海において当時としては究極の漁業手法を確立することで、大きな利益を上げたけです。
もちろんアイヌ民族もそれまで魚釣りで生活してきたわけですが、当時もっと北海道の漁業を発展させていきたかった高田屋嘉兵衛によって、さらに大規模に漁業は発展したともいえるでしょう。

高田屋嘉兵衛は、主に日本海を経由するルートで、自分の船にたくさんの商品を載せて航海し、たどり着いた港町で商品を売っていく、ことを繰り返しました。途中、酒田(さかた。現在の山形県酒田市)の港に寄って大量の米を買い、それを当時は稲が寒さで育たなかった北海道(現在の北海道では、品種改良のため稲が育つ)へ船で運び、米をたくさん売ることで利益を上げました。逆に北海道でしか採れないニシンシャケなどの魚、そして毛皮(ストーブや暖房が無かった当時、防寒着として重宝した)などを本州へ船で運び、港に寄って販売することで、利益を上げていたのです。

北海道周辺や樺太(サハリン)、千島列島(根室や北方領土のさらに北東にある、細長く続く島々)あたりでは、北海道のような寒い地域にしか住んでいない魚(ニシンシャケなど)がたくさん住んでいます

なぜ寒い地域にそういった魚が住んでいるのかというと、恐らくですが(魚の)天敵が冷たい海水を嫌い、魚が住みやすいからでしょう。他にも、飛び魚が水面から飛び上がるのも、あれは敵から逃れるためです。深海魚が深い海に住むのも敵から逃れるためなので、暗くて水圧の大きい深海に住めるような丈夫な体になっているのです。

話を元に戻しますが、そんな絶好の漁場で、高田屋嘉兵衛は大きく利益を挙げてきました。
資金力があればより沢山の(腕のある)漁師を雇えますし、より大きくて頑丈で高性能な漁船を製造・購入することもできます。
そうして高田屋嘉兵衛は大きく財をなし、その財力をもって、江戸時代はまだ未開の要素が大きく小さな漁港にすぎなかった函館(当時は「箱館」)を発展させたのです。

もっとも、高田屋嘉兵衛が函館を拠点にしたのは、当時の蝦夷地は松前藩(まつまえはん)の独占・利権状態であり、まともにやっては新規参入ができなかったため、当時まだ何も無く未開で手付かずだった函館に目を付け、開発していったわけです。

高田屋嘉兵衛と、ゴロウーニン事件

そんな高田屋嘉兵衛ですが、江戸時代後期に根室市(ねむろし)で起こった「ゴローニン事件」で、一時期ロシアに捕えられ、カムチャッカ半島(=千島列島のさらに北東の半島のこと)へ連行されてしまっています。
というのも、当時のロシアはなんとか日本と商売をしたくて、当時鎖国中で外国人禁止だった日本に、何度もやってこようとしています。
ロシアからすれば「日本でしか採れない産物」や「日本でしか造れない商品」が欲しいわけです。
その代わり「ロシアでしか採れない産物」や「ロシアにしかない技術」を日本に献上することで、物々交換のような交易をしたかったわけです(お互いにWin-Win)。

しかし、鎖国中の日本はそんなロシアの要望を受け入れるわけもなく、単なる侵略目的だとしか思わないわけです。
なので根室にやってきたロシア人・ゴローニンを逮捕してしまったため、ロシアの怒りを買ってしまい、その報復として高田屋嘉兵衛が捕えられてしまったのです(後に彼の懸命な努力により、事件は平和的に解決して釈放されます)。

ゴローニン事件がきっかけでロシア側に伝わった、日本の素晴らしさ

このとき、松前藩に強制的に住むことになったゴローニンは、その約2年間の生活を経て、あまりにも端正・清潔で整った日本の町並みや、とにかく礼儀ただしい日本人の姿を見てびっくりしたといいます。
何故かというと、ロシアの教育では日本は下賤(げせん)で野蛮な国だ、という偏った教育(洗脳)を受けてきたからです。
ゴローニンは(そんな教育のイメージとは違う)日本の素晴らしさにギャップをうけて感動し、本国ロシアに帰ってからこの時の日本での暮らしを「日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)」という本に書いて出版し、ロシアで大ヒットとなったほか、世界各国でも翻訳され「日本の実態や、日本人の性格を知ることができる貴重な資料」のような感じで知られるようになりました。

巴(ともえ)の形をした、函館港

函館港(ともえ)の形に似ているため、巴港(ともえこう)とも言われます。
(ともえ)の形とは、海岸線がゆるやかにカーブした形になります。
函館市歌「はこだて賛歌」でも、
巴印(ともえじるし)が輝いて 明日が楽しい若い町(=函館)
と歌われていますね。

はこだて賛歌」は、函館市電(路面電車)で移動している最中も、車内メロディーとして流れます。

明治時代は、ここ(函館港)に多くの船が行き交っていたのですね。
それは北海道の玄関口として、あるいは日米和親条約がきっかけで静岡県・下田(しもだ)と函館(当時は箱館)の2港が開港したときは、函館は日本の玄関口としての役割があったというわけです

函館・海と港の景色(北海道函館市)

時代によって全然異なる性格を持っていた、函館という町

函館は、時代によって以下のような歴史をあゆんできています。

江戸時代:松前藩(まつまえはん)による統治時代。本州と蝦夷地(えぞち)の交易による利益で栄えた時代。
明治時代:開港5港の一つとして、外国との貿易による利益での繁栄。
大正昭和時代:本州からの北海道への玄関口として、北海道最大の都市として繁栄。しかし1940年に札幌に人口を抜かれてしまう。
1960年代:漁業で栄えるが、安い外国からの輸入品におされて(+北洋漁業の規制などにより)徐々に衰退。
現代:漁業が衰退したため、観光都市へのシフトをはかる。そして国内外から約500万人が訪れる観光都市に。

現在の北海道の玄関口といえば、なんといっても新千歳空港です。
しかし江戸時代には飛行機などは無かったので、函館(箱館)が北海道(蝦夷地)への入り口という位置付けでした
江戸から「奥州街道(おうしゅうかいどう)」で約20日もかけて(徒歩または馬で)青森まで行き、青森からは津軽海峡を舟で渡って蝦夷地・箱館に入っていたのですね。
当時の人々は、本当に大変な移動をしていたのでした。

明治時代の函館は北海道への入口でしたから、当時の函館は必然的に人口が北海道最大となりました。しかし、北海道全体を発展的させていくのに、道南・函館に発展が偏っているのは当時の日本としては都合がよくありませんでした。なので、道南・函館ではなく道庁所在地の札幌をメインに発展させていくように方針をシフトしたのです。

そして時代が進むにつれて、1940年には人口が札幌に追い付かれ、抜かれてしまうことになります。
広大で肥沃(ひよく)な石狩平野の中心にある札幌は、北海道の開拓(耕したり、鉄道や道路を作ったりして、生産力を上げること)に適していたため、先述の通り札幌をメインに発展させていった結果、1940年には函館は札幌に人口を抜かれてしまったのでした。

函館は1960年代までには引き続き漁業で栄えますが、安い外国製の魚に負けてしまったことと、また外国の領海まで入って漁業をやる「北洋漁業」も規制されてしまい、好き勝手に魚釣りが出来なくなった結果、漁業は衰退していくこととなりました(ただしこれは函館のみに限らず、釧路などの各地の漁港も同じ)。

このように、もはや漁業では食えなくなってしまったために街の発展の方針を転換することとし、今度は観光事業にたくさん税金・予算を当てることで、観光都市としての整備(街をより綺麗で美しくするなど)を行い、観光客にたくさん来てもらい、街にお金を落としてもらうことで街を発展させていく、というモデル・方針に切り替えた(それによって大成功した)というわけです。

ただし「安い外国製品に負ける」というのも、「観光事業にシフトする」という方針も、函館だけに限った話ではなく、日本全国各地の都市でも同じようにいえることです。
ただ、同じ北海道の夕張市(ゆうばりし)は観光事業へのシフトを図ったものの借金をやり過ぎて返しきれなくなって失敗してしまい、財政破綻してしまったという歴史があります。

夕張市については以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 北海道編 北の巻第16番 夕張炭鉱の繁栄と、その衰退

たくさんの「館」があった、道南の「箱館」

函館という地名は、北海道の南のこの地域に全部で12の館(やかた)があったことに由来します。
函館を含む北海道の南のことを「道南(どうなん)」というのですが、この道南に全部で12の館があったことから、道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれます。
(やかた)」とは、城ほどは大規模でない、立派な造りの(簡易な防御力を持つ)建物のことですね。
これらのは、和人(日本人)が北海道(蝦夷地)を管理・監視し、アイヌ民族をまとめたりするために建てたものです。

函館(箱館)の由来となった、ウスケシ(宇須岸)館

その12の館のうち「まるで箱みたいな館」が現在の函館市・函館山にあり、いわゆるウスケシ(宇須岸)館というものです。
ウスケシとは、アイヌ語に由来します。館そのものは日本人のものですが、土地の名前そのものは元々住んでいたアイヌ民族が「ウスケシ」と呼んでいたわけですね。
そのウスケシに、無理やり漢字を当てはめたものが宇須岸(うすけし)になります。
宇須岸は現代でも函館市(函館山の麓)にある地名であり、ウスケシ館跡が史跡として残っています。

そのウスケシ館が、まるで箱のような形だったので、「箱館」となったのです。
さらに箱館は、明治時代以降に「函館」に漢字表記が改めてられています

そのため、「函館」という地名は、北海道では珍しくアイヌ語に由来しない珍しい地名になります。思いきり日本語由来ですね。
ただし、お隣の北斗市(ほくとし)も近年・2006年に合併によってできた新しい市なので、もちろんこちらもアイヌ語由来ではないです。

ウスケシ館のあった、函館山周辺の景色(北海道函館市)

「世界三大夜景」の一つ・函館の夜景

函館夜景(北海道函館市)

函館山の景色は「世界三大夜景」と言われたりもしています。
日本では、他に長崎の夜景稲佐山の夜景)も有名です。

また、北海道では藻岩山(もいわやま)、小樽の天狗山(てんぐやま)と並んで「北海道三大夜景」とも言われています。

現代の函館駅は二代目!元々はもっと港から離れた、不便な位置にあった

現在の函館駅二代目であり、明治時代の初代函館駅(1902年)が後述する通り不便だったため、1904年に現在の函館駅(二代目)の位置に移転してきたわけです。初代函館駅は二代目函館駅が出来た後に亀田駅(かめだえき)と駅名変更されましたが、存在意義が無くなり廃止となりました。

亀田という地名は、現代でも函館市や渡島(おしま)地域に残る地名です。
しかもその亀田駅は、現在の函館駅よりもやや五稜郭駅寄りに、しかも港から離れた位置にありました

現在の函館駅は、港に密着した位置にありますよね。その目の前の桟橋には、青函連絡船摩周丸(ましゅうまる)」が往時の姿のまま保存されています。
青森を出発した青函連絡船は、津軽海峡を越えて、函館港に着いてそのまま函館駅で列車に乗り換えて札幌へ向かうというのが、1988年に青函トンネルや飛行機が一般的になる前の常識でした。

初代函館駅は函館港から離れていて不便だったことから、2年後の1904年に現在の函館駅(二代目)の位置に移ってきたのです。 
そして駅名重複を避けるために、初代函館駅は亀田駅と駅名変更しました。しかし後の1911年に五稜郭駅(ごりょうかくえき)が出来ることが決まり、函館駅と五稜郭駅の間の函館駅と五稜郭駅の間の中途半端な位置になる亀田駅は存在意義を無くしてしまい、1911年に五稜郭駅が出来る直前に廃止となりました。現在では遺構がほぼ残されていませんが、「旧函館駅所在地の碑」として、記念碑が存在しています。

次回は、ベイエリア~八幡坂編

最後までお読みいただき感謝です!次回も函館観光編となります!

おまけ:筆者の自撮り写真

函館ベイエリアまで移動(北海道函館市)
函館ベイエリアまで移動(北海道函館市)
函館ベイエリアまで移動(北海道函館市)
函館ベイエリアにて(北海道函館市)
函館ベイエリアにて(北海道函館市)
函館ベイエリアにて(北海道函館市)
函館ベイエリアにて(北海道函館市)
函館ベイエリアにて(北海道函館市)

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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