函館ベイエリアから、八幡坂を登って函館山エリアへ
今回は函館ベイエリアから八幡坂(はちまんざか)を登って、函館山エリアを観光するという行程・流れになります。
前回の復習:何もなかった未開の地・蝦夷地から、北の観光資源の街へ
函館は前回も紹介した通り、かつて江戸時代に高田屋喜兵衛(たかだやかへい)という人物によって開発されてきた土地になります。
高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)は、江戸時代の(大金持ちの)商人になります。
江戸時代は、北海道は「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれ、蝦夷地は当時の日本人からすれば、まだ北にある「未開の地」「何があるかもよくわかっていない土地」というような位置付けでした。
つまり江戸時代までの蝦夷地は、極端な言い方をすれば
「野生の草がボーボー生えているような、だだっ広い原野」という、正直言うとあまり良くないイメージでした。
そこに、元々住んでいたアイヌ民族が狩猟(クマやアザラシなどを捕まえて採る)を行ったり、(川での)魚釣りを行って暮らすという、まるで狩猟時代や縄文時代とあまり変わらないような生活が行われていたに過ぎませんでした。
江戸時代は、その形すらわからなかった北海道
そして江戸時代は、「北海道に何があるのか」「北海道がどんな形なのか(島なのか大陸なのか)」すらわかっていなく、地図すらまともに出来ておらず、存在もしていませんでした。
一応テキトーな地図ぐらいはありましたが、現在の北海道の形とは程遠い、グチャグチャで酷い形のものでした。
現代人の我々は、北海道の形がクレヨンしんちゃんの野原みさえの髪型みたいな形(←ネットではよく言われている意見)であることが、当然のようにわかっています。しかし江戸時代の人々がなんとなくのイメージで作成した地図は、本当にグチャグチャな形の蝦夷地のイメージでした。
つまり北海道は、江戸時代の人々からすれば「津軽海峡の向こうになんとなく存在する、ただ延々と広がる土地なのかなぁ」くらいの位置づけ・イメージだったわけです。
江戸時代に北海道(蝦夷地)を探検・測量をした、間宮林蔵・伊能忠敬
そんな江戸時代に、(幕府から命じられて)北海道を探検したり、地図を作成するために測量を行ったりした人がいました。
それは間宮林蔵(まみやりんぞう)や、伊能忠敬(いのう ただたか)などといった人物です。
伊能忠敬は、北海道はまず函館山から測量を開始しました。測量とは、地図作成のために地形の調査をしたりすることですね。
函館山には、その伊能忠敬による測量開始の記念碑が残っています。
なぜ江戸幕府が蝦夷地の地図を作成したりする必要があったのか。
それは、ロシアの脅威に備えるためです。
江戸時代にはロシアが「凍らない港」を求めて、南の暖かい地域に進出してきたり、また鎖国中の日本に対して通商(お互いに貿易をして利益を上げること)を求めて根室や長崎に来たりしていたので、ロシアに最も近い土地である蝦夷地の防衛を固める必要がありました。
なので蝦夷地がどんな場所かわからん、という状態では済まされなかったわけです。なので蝦夷地の探検や、地図の作成が重要だったのですね。
江戸時代は、松前藩の領土だった函館
函館は松前藩(まつまえはん)の拠点だったこともあり、松前藩を通じて、蝦夷地と本州とで貿易(交易)をしていたのでした。
松前藩とは、現在の函館市の南西、ほぼ北海道の南端に近い部分にある町である松前町(まつまえちょう)を拠点にしていた、江戸時代の藩です。
江戸時代は「都道府県」や「国」ではなく、「藩(はん)」というくくりで地方行政をやっており、約300もの藩が存在しました。そして明治時代に廃藩置県が行われ、複数の藩が1つの県に統合されたりして、現在は47の都道府県となっているわけです。
つまりこの松前藩を通じて、江戸幕府は北海道(蝦夷地)やアイヌ民族の管理・統制を行っていたのです。
もちろん松前藩は、アイヌ民族に対して(トータルでは)不遇な扱いをしており、それに不満を感じたアイヌ民族から何度も反乱を起こされています。
その反乱の代表的なものが1669年の「シャクシャインの乱」などです。
アイヌ民族に対し不遇な扱いで儲けてきた、松前藩
松前藩は、本州の和人(日本人)と、蝦夷地のアイヌ民族がお互いの商品を交換する、「交易」の拠点でした。
つまり、アイヌ民族が得意な魚釣りで採った「お魚」と、本州でしか育たない(※)「お米」を物々交換するというイメージです。
もちろん、アイヌ民族はお魚以外にも「あったかい毛皮」や、また一方の和人は「食器」なども輸出・提供していました。江戸時代にはストーブや暖房などはありませんでしたから、防寒着になる毛皮は本州人としては本当に欲しいものでした。
しかしこの交換レート(交換条件)がアイヌ民族にとって不利であり、和人の取り分(利益)の方が大きかったりしました。
例えばアイヌ民族はたくさんのお魚を(和人に)差し出さないと、お米と交換してもらえないという感じでした。
そのため、アイヌ民族の不満が爆発してしまい、先述の「シャクシャインの戦い」のような反乱ばかり起きるようになっていたのでした。
※お米は基本的に寒いところでは育たないのですが、現在ではお米の品種改良が進み、北海道のかなり北の地域でもお米の生産は可能になっています。
日本最北端の水田がある稲作の北限は、北海道北部の遠別町(えんべつちょう)とされています。
その松前藩以前(江戸時代以前)の道南地域を仕切っていたのが、元々は蠣崎氏(かきざきし)という一族でした。
そして蠣崎氏(かきざきし)は、江戸時代になって「松前氏」に改名(改姓)しています。
蠣崎氏は、江戸時代以前にもアイヌ民族と(お金や交易での不遇を理由に)散々に揉めていたりして、ちょっとしたトラブルがきっかけで大きな反乱が起きていました。室町時代の1457年にも「コシャマインの戦い」に代表されるような、アイヌ民族と蠣崎氏(和人)との戦いがおきています。
ちなみに「コマシャイン」ではなく「コシャマイン」です。勘違いしないようにしましょう。
函館がまるで、異国のような景観の理由
1853年にアメリカのマシュー・ペリー提督が、神奈川県の浦賀(久里浜)に黒船で来航し、翌年の1854年に結ばれた日米和親条約を元に、静岡県・伊豆の下田(現:静岡県下田市)と函館(箱館)の2港が開港したことは、よくご存知のことと思います。
函館が開港したことで、外国人からすれば函館は日本の玄関口のようになりました。
そのため幕末から明治時代になると函館にはたくさんの外国人の方々が住むようになってきました。
そのため、函館山の麓(ふもと)にはキリスト教の教会など、たくさんの外国の建物があり、異国情緒(いこくじょうちょ)あふれる景観になっています。
異国情緒(いこくじょうちょ)とは、まるで日本にいながらどこか外国っぽい、という意味です。
函館は、GLAYの聖地
函館は、1990年代以降に大活躍したロックバンド・GLAY(グレイ)の出身地です。GLAYは特に90年代後半に「HOWEVER」「Winter,again」などのヒット曲を量産し、ヒットチャート1位やミリオンセラーを連発しました。当時はテレビをつければGLAYを筆頭に、SPEEDやL’Arc~en~Ciel、PUFFYなどのアーティストが映る、というような時代だったのです。
GLAYは現在でも函館の「緑の島」や「函館アリーナ」でライブを行うなど、函館の英雄的存在になっています。
函館の八幡坂(はちまんざか)は、たくさんのドラマの撮影などのロケ地として使われます。
八幡坂は、元々函館に函館八幡宮という神社があったことに由来するそうです。
ビートルズ(The Beatles)でいうところの「アビー・ロード(Abbey Road)」が、GLAYでいえば八幡坂といったところでしょうか。
アビー・ロード(Abbey Road)とは、ビートルズの4人が横断歩道を整列して並んでいる、あの写真です。世界的に有名な写真なので、ビートルズにそこまで詳しくない人でも一度はどこかで見たことあるのではないでしょうか。
次回も、函館編!
今回はここまでです。次回も函館観光編です。最後までありがとうございました!
おまけ:筆者の自撮り写真
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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