今回も函館観光編です。
今回は、八幡坂を登り、函館山エリアへ
前回でベイエリアでの観光・散策も終わり、今度は八幡坂(はちまんざか)を登って、函館山の中腹エリア(教会など異国情緒溢れる場所)へと向かってゆきます。
異国情緒あふれる、函館山周辺の街並み
函館は明治時代に入って、たくさんの西洋の人々が入ってきたので、異国情緒(いこくじょうちょ)あふれる景色がたくさん広がっています。
異国情緒(いこくじょうちょ)とは、まるで日本にありながら外国の景色がある、という表現です。
1853年にアメリカのマシュー・ペリー提督が、当時鎖国してい日本に対して開国を求め、黒船に乗って神奈川県・三浦半島の浦賀(うらが)・久里浜(くりはま)にやってきたのは、ご存知だと思います。
そのとき、開国を迫られた日本は、約1年間考えに考えぬいた結果、黒船来航の翌年・1854年に日米和親条約を結び、静岡県下田市(しもだし)と函館(当時は「箱館」)の2港を開くことにしました。
当時の幕府の政治を担当していた老中・阿部正弘(あべ まさひろ)は、たくさんの反対・批判にあいました。
ましてや外国と貿易なんかしたら、日本は乗っ取られてしまうかもしれない、という国内の恐怖があったからです(日本人の外国人への偏見ヤバイ・・・)。
しかし黒船は、当時としてはヤバイくらい巨大な軍艦であり、開国に反対しようものならアメリカに膨大な軍事力を背景に本気で日本を乗っ取られる危険性も考えられため、老中・阿部正弘は仕方なく、下田・箱館の2港を開くことを決定したのでした。もちろん、ペリー率いるアメリカは単に軍事力を背景に脅すように開国を強要したわけでなく、アメリカの最新鋭の技術で出来た贈り物(プレゼント)などで接待し、「開国したら日本にもこんなメリットもあるよ」と日本にも説明した上で、交渉力によって開国に導いた、という側面もあるのです。なので、アメリカに開国を強要されたというのは誤解だ、という考え方もあります。
ともあれ、こうして約200年以上にも及んだ日本の鎖国は、ここに終止符を打つことになるのです。
開国によってスタートした、日米友好の歴史
この「開国」をもって、日本とアメリカの本格的な交流がスタートします。
現在の静岡県下田市にも、日米友好スタートの証である「開国記念碑」が建てられていますす。
また、函館山の元町公園のそばにあるペリー広場にも、ペリー提督の像(ペリー提督記念碑)が建てられています。このペリー広場の近辺には、前々回解説した、「函館」の地名の由来となったウスケシ館(宇須岸館)の跡地もあります。
さらに言えば、黒船が来航した現場である神奈川県の浦賀(久里浜)にも、ペリー公園があります。
2011年の東日本大震災のとき、アメリカは「Operation Tomodachi(トモダチ作戦)」
という日本救出作戦(活動)を行いました。
アメリカは日本人のことを本気で「トモダチ(友達)」だと思ってくれてるんだなぁ、と私(筆者)はいたく感動したことを覚えています。
日本人同士だと数年間付き合っても「知り合い」止まりであり、「友達」の関係に発展しないことはざらにありますが、アメリカ人は出会った瞬間から「友達」であり、すごくフレンドリーな雰囲気があります。アメリカ人の「トモダチ」に対する熱い魂が伺えます。
ちなみに私(筆者)は、友達は皆無です!!笑
話がズレましたが、その日本とアメリカの「トモダチ」の関係が、「ここ函館と下田から始まった」のだと思うと、日本人としては嬉しい気持ちになったりしないものでしょうか。
開港によって、たくさんの外国人が住むようになった函館
そうして開港した箱館(函館)には、たくさんの外国人が移り住むようになりました。
外国人はキリスト教を信仰される方が多いですから、そのため函館にはキリスト教の教会がとても多いのです。
しかし約200年以上も鎖国をしていた(島国の)日本人にとって、外国人というものは異端な存在でした(現代では、ちょっと差別的)。現在でも、日本人にとっては外国人はどちらかというと少数派の存在であり、珍しい存在ですよね。一方、欧米諸国では色々な人種の人々が暮らしているため(人種のサラダボウル)、日本と違って外国人は珍しい存在ではありません。
幕府が函館を監視するために作った、箱館奉行所
なので明治時代の開国・開港後、箱館の町を急にたくさんの外国人がうろつくようになったため、怖くなった幕府は「箱館奉行所」を箱館山のふもとに作り、幕府にとって信頼のおける武士を派遣し、箱館の町の監視を行うようになりました。
この箱館奉行所は、江戸幕府の所有物になります。
そのため、その10年後に行われた戊辰戦争(箱館戦争)では、旧幕府軍の一つである新撰組(しんせんぐみ)の拠点となりました。
箱館奉行所は、箱館山からのちに五稜郭(ごりょうかく)に移転し、そこが新撰組の拠点となったのでした。
結果、新撰組の実質的リーダーだった土方歳三(ひじかた としぞう)も函館で最期を迎え、新撰組は降伏、戊辰戦争は終結。そのようにして、日本は明治時代という新しい時代を迎えることになったのでした。
函館以外の、4港の街並み 長崎は
函館のような異国情緒あふれる街並みは、長崎にも同じことがいえます。
長崎も、函館・新潟・横浜・神戸と同じ「開港五港(ごこう)」の一つです。1858年の日米修好通商条約によって、上記5つの港が開かれたわけですね。
長崎は居留地(きょりゅうち。幕府が治安維持のため、外国人を一ヶ所にまとめて住まわせた場所)を出島(でじま)という人工島に置きました。
江戸時代、幕府はキリスト教を禁止し、「隠れキリシタン」という幕府に隠れてキリスト教を信仰した人が増えました。
なので、見た目は「仏像」であっても実際には「聖母マリア」だったり、墓石によく見たら「十字架」が刻まれていたりと、人々はこのようにして隠れてキリスト教を信仰していたのでした。
キリスト教はたとえ「学校の成績が悪い」「異性にモテない」「金持ちになれない」といったコンプレックスを抱えている人であっても、神様が身代わりとなって許して(赦して)くださるという祝福の教えですから、ましてや江戸時代のような重い年貢に苦しんでいた世の中では、キリスト教のこうした優しい教えで救われる人(農民など)が多かったのはわからなくもないです。
江戸時代を通じてキリスト教を排除してきた江戸幕府でしたが、明治時代になって欧米諸国と再び関わるようになってからは、さすがに「キリスト教は禁止です」とは言えません。
そのため、明治時代になってようやく人々はキリスト教を信仰できるようになりました。
そして長崎でそれまでの隠れキリシタンが、ようやく「私はキリシタンです」と告白できるようになり、その記念として建てられたのが、長崎の大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)になります。
横浜・神戸・新潟は?
神奈川県・横浜でも、現在の「山の手」の地域にイギリス領事館の跡地などが置かれています。
領事館(りょうじかん)とは、いわば「外国の出先機関」です。
つまり領事館は、日本に暮らす外国人にとっての「役場」のようなものです。
外国人にとって日本は「外国」であり英語などの母国語が通じませんから、日本にもきちんと母国語が通じる、自国の人間が管轄する「役所」があった方がよかったわけですね。
神戸にも北野異人館(きたのいじんかん)などに代表される、異国情緒あふれる外国人がたくさん暮らしていた場所(外国人居留地)であった名残があります。
新潟には居留地は設けられなかったので、他の4都市ほどは異国情緒の景観に溢れるわけではありませんが、新潟港のエリアに「新潟市歴史博物館みなとぴあ」に代表されるような、当時を思わせるような西洋風建築の立派な建物があります。
次回は、函館観光編ラスト!函館山夜景へ
次回で函館観光編はラストにします。函館山夜景の話題になる予定です。
それでは、今回も最後までお読みいただきありがとうございました!
おまけ:筆者の自撮り写真
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