長万部駅を出て、倶知安方面へ
長万部駅(おしゃまんべえき、北海道山越郡長万部町)からは、海側のルート(室蘭本線)は通らず、そのまま函館本線で山側のルートを通り、倶知安(くっちゃん)方面を目指します。
なぜ山側のルートを選択したのかというと、やはり尻別川(しりべつがわ)沿いの雪景色が見たかったのと、小樽へ寄り道がしたかったからです。
江戸時代に蝦夷地の警固を担った、南部藩の陣屋跡
長万部駅を、出ると、飯生神社(いいなりじんじゃ)の横を過ぎてゆきます。
飯生神社(いいなりじんじゃ)の近くには、かつて江戸時代に南部藩(なんぶはん)の陣屋(じんや)だった、「ヲシャマンベ陣屋」がありました。江戸時代には、長万部のことを「ヲシャマンベ」と表記していたのですね。そして長万部町のこの地域のことを陣屋町といいます。
南部藩(なんぶはん)とは、現在の岩手県盛岡市(もりおかし)にあたる藩であり、盛岡藩(もりおかはん)の別名になります。盛岡藩は南部氏(なんぶし)という一族が代々支配していたので、「南部藩」というわけです。
陣屋(じんや)とは、お城の小さいバージョンです。江戸時代は軍事的理由によりお城を建てるにはかなり厳しい制限が設けられており、それに代わる武士の拠点として、お城よりも簡易な「陣屋」が築かれたのでした。
なぜ南部藩の陣屋があったのかというと、江戸時代後半になると蝦夷地はロシアの脅威にさらされるようになったからです。
ロシアは冬は-20度は普通の極寒のため、港が凍ってしまい、軍艦が出せません。なので凍らない港を求めて、南の暖かい地域へ進出する「南下政策」を行ってっていました。また当時は鎖国中だった日本に対して「貿易しようよ」と、何度も入国しようとしてきました。
こうしたロシアの行動に脅威を感じた江戸幕府は、盛岡の南部藩に命じて、長万部や室蘭(モロラン陣屋)といった道南の各地域に陣屋を築かせ、蝦夷地の警固にあたらせたのでした。
鉄道唱歌 北海道編 第11番においても、
「南部陣屋の跡過ぎて はや後志(しりべし)の黒松内(くろまつない)」
と歌われていますね。
この記事を書いたのは2年前でしたが、当時は「南部陣屋」とは何のことか全然わからず、この時は解説をギブアップしました。
しかし今はレベルアップしたので、あの時よりも成長したと思っています!
より深く美しい、真っ白な山岳地帯へ
ここからは、函館本線の山の区間を進んでゆきます。
この区間は2030年の北海道新幹線・札幌延伸のときに廃止になるとこで決まっている区間であり、それは惜しくて残念ではありますが、それだけに今のこの時点では貴重な景色である、ともいえます。
ここからの山の冬景色は圧巻です。
北欧のような広大な大地に、真っ白な景色が延々と続きます。
本州にはまるで無いような、スラッとした松(もみの木。クリスマスツリーに使われる木)の木々が立ち並びます。
北海道の景色(車窓)は、ずっと眺め続けていて飽きることは決してありません。
景色に夢中になっている間に、あっという間に目的地へ着くことも結構あります。
二股駅に到着!その由来とは?
長万部駅からしばらく走り、やがて二股駅(ふたまたえき、北海道山越郡長万部町)に着きます。
駅名の由来と思われる二股川(ふたまた)は、「川が二つに分かれている」という意味でつけられました。
昔は川の形から、土地名が考え出されることはよくありました。
秋田県の大曲(おおまがり)という地名も、川が大きく曲がることから付けられた名前になります。大曲駅(おおまがりえき)は、秋田新幹線も止まる、大仙市(だいせんし)の駅です。
同じくこの地域を流れる知来川(ちらいがわ)という川と、先述の二股川が、二つに重なる地点が(二俣駅の近くに)あります。ここから「二股」という地名になったものと思われます。
二股川は、やがて下流部において長万部川(おしゃまんべがわ)と名前を変えます。
長万部もアイヌ語で「そこにある川(オ・サマン・ペッ)」という言葉に由来します。その川とは言うまでもなく長万部川のことであり、長万部の地名の由来になった川になります。
ちなみにモテる男性は二股どころか十股くらい行くと思いますが、それは太宰治の小説「グッド・バイ」の主人公が愛人の女性10人をかかえていたり、バチェラーデートのようにハイスペ男に女性10人以上が群がるなど、モテる男はそれなりに大変です。モテなくて苦しむ弱者男性は多いと思いますが、1人の女性にモテるということは他の10人の女性からもモテる(いい男だと思われる)ことを意味します。日本では一夫多妻制は認められていないので、1人の妻に絞る必要があります。すると他の9人以上の女性は振らないといけないため、振られた女性側から恨まれたり、酷い言葉をかけられることもあります。モテる男には、それなりの苦労があるのです!
以上、余談でした!
かつて寿都鉄道との分岐駅だった、黒松内駅
二股駅からさらに進むと、黒松内駅(くろまつないえき、北海道寿都郡黒松内町)に着きます。
黒松内駅からは、かつて寿都鉄道(すっつてつどう)という鉄道路線が出ていました。
それは、日本海側の寿都(すっつ)という町でたくさん採れたニシンという魚をたくさん運ぶために造られた路線です。
昔はまだ長距離トラックや航空輸送が発展してなかったので、貨物鉄道で運んだ方が効率よかったのですね。
1920年代に開業した寿都鉄道は、当初は上記の貨物列車としての利益だけではなく、乗客を載せることによる旅客収入もすごく多かったといいます。当時はまだ自動車が一般的ではなく、また現代のよう札幌一極集中もなくて北海道各地に人口が分散していました。そのため、人々のお仕事・お出かけなどで鉄道は普通すぎる・一般的すぎる移動手段として使われていました。
しかし1960年代の高度経済成長期になって自動車が普及してくると(モータリゼーション)、人々は便利な自動車に乗るようになるため、旅客収入は減り始め、列車は徐々に苦境に陥ってくるようになります。
しかも酷い話が、真冬の線路に降り積もった雪を取り除く除雪作業がまともに出来ず、冬の期間がずっと運休という状態になってしまってしまい、乗客の不満が爆発するという事態になっていました。この地域は冬にとんでもない量の雪が降る豪雪地帯ですから、現代のJR北海道でも年間の除雪作業に多大なコストがかかっているような地域です。やはり民間の鉄道会社である寿都鉄道は、ただでさえ旅客収入が減少になっている状態なのに、その上で除雪費用を支払うのはとても厳しい状況になっていたことがわかります。
そして資金不足からか、春になって雪が溶けてからもずっと運休が続くような状態が続き、線路もろくに手入れができずガタガタ・ボロボロとなり、1960年代末には「運休」とは名ばかりで事実上の「廃止」に追い込まれました。
こうして最後に運行した日がいつだったのかすらわからないまま運休が続いた結果、寿都鉄道は1972年に正式に廃止となってしまいました。
しかしこれは寿都鉄道に限らず、北海道のこれまで廃線になった他のたくさんの路線でも同じ歴史をたどってきたのではないかと考えられます。明治時代の開拓以来、20世紀前半までの北海道は本当にたくさんの鉄道路線が走り、栄えていたのです(そして今や、多くが廃止)。
黒松内や寿都鉄道については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 北海道編 南の巻第12番 尻別川の景色を進んでゆく
蘭越・比羅夫・ニセコを過ぎて、倶知安へ
蘭越町(らんこしちょう)は、蘭越米(らんこしまい)の名産地でもあります。
尻別川(しりべつがわ)に沿っていくと昆布駅(こんぶえき、北海道磯谷郡蘭越町)・比羅夫駅(ひらふえき、北海道虻田郡倶知安町)と過ぎてゆきます。
比羅夫駅(ひらふえき)は、飛鳥時代に北海道を制圧した阿倍比羅夫(あべのひらふ)に由来します。
比羅夫駅についての詳しくは、以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 北海道編 南の巻第13番 比羅夫駅とは、どんな駅か
さらに雪の函館本線を走ると、窓の右側には蝦夷富士・羊蹄山(ようていざん)が出てきます。
羊蹄山(ようていざん)はまるで富士山のように美しい山であり、かなりの精度で富士山そっくりな山です。
北海道は江戸時代までは蝦夷地(えぞち)と呼ばれていたので、北海道の富士山という意味で「蝦夷富士(えぞふじ)」とも呼ばれます。
蝦夷富士・羊蹄山(ようていざん)については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 北海道編 南の巻第14番 蝦夷富士・羊蹄山は富士山そっくり!
倶知安駅に到着!
蝦夷富士を横に走り続けると、やがて倶知安駅(くっちゃんえき、北海道虻田郡倶知安町)に到着します。
今回はここまでです。
最後まで読んでくださってありがとうございます!
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この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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