盛岡駅を出て、一ノ関へ
冬の北海道旅シリーズも、今回で最終回です。今回で盛岡駅から仙台駅を経て、東北新幹線で東京へ戻るという行程になります。
盛岡駅(もりおかえき、岩手県盛岡市)を出発すると、花巻駅・北上駅・水沢駅・平泉駅・一ノ関駅と過ぎてゆきます。
盛岡駅を出ると、東北本線の車窓すぐに雫石川(しずくいしがわ)の景色が印象的です。
そして、花巻駅(はなまきえき、岩手県花巻市)、北上駅(きたかみえき、岩手県北上市)、水沢駅(みざさわえき、岩手県欧州市)と過ぎてゆきます。
アテルイと坂上田村麻呂の戦いの拠点・胆沢城
盛岡駅から幾分か南下してくると、北海道よりも気温がだんだんと暖かくなってくるような感じにも思えます。
また、雪の量も北海道に比べたら徐々に減ってくるため、外の地面に積もる雪の分厚さも、徐々に薄くなってきているように思います。
岩手県奥州市(おうしゅうし)の領域に、入ってくると、胆沢城(いさわじょう)の跡地の横を通ります。
奥州市には、胆沢城(いさわじょう)という、平安時代のお城がありました。
ただ、お城といっても、柵(さく)をめぐらせた屋敷のようなものでした。
なので現代の我々が想像するような(立派な天守閣のあるような)お城とは、ちょっと違うんですね。
平安時代の西暦802年、朝廷から東北地方に派遣された坂上田村麻呂(さかのうえのたむろまろ)という武士がいました。
胆沢城は、その坂上田村麻呂が、蝦夷(えみし)のリーダー・アテルイ(阿弖流為)と戦うための拠点としていた場所になります。
蝦夷(えみし)とは、東北地方にいた朝廷に従わない者のことを、朝廷側からの呼称になります。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代に朝廷から「東北のならず者(蝦夷)を打て」と命令され東北地方へ派遣された武将です。
当時は、東北地方にいた朝廷に従わない者たちを「蝦夷(えみし)」と呼んでいたのでした。
アテルイ(阿弖流為)とは、その時の蝦夷(えみし)のリーダーです。
坂上田村麻呂は、いわば蝦夷を征伐するために朝廷から派遣された、いわば陸奥守(むつのかみ)と呼ばれる武士のリーダーです。
胆沢城・坂上田村麻呂・アテルイの戦いについては、以下の記事でさら詳しく解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第30番 仙台を出発し、多賀城・塩釜、そして松島へ
衣川と平泉
岩手県奥州市(おうしゅうし)・水沢駅(みざさわえき)を過ぎると、やがて衣川(ころもがわ)という川を渡り、平泉駅(ひらいずみえき)に到着します。
衣川(ころもがわ)という川の近くには、衣川館(ころもがわやかた)という、平安時代の館(やかた)がありました。
館(やかた)とは、お城ほどは大きくない、簡易な防御施設を備えた、昔のエライ人が暮らす場所になります。
衣川館(ころもがわやかた)は、あの源義経(よしつね)が、最後に悲劇の自害となった場所です。
源義経(よしつね)は、あの源頼朝(よりとも)の弟であり、源平合戦では壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏を敗北に追い込むなど、かなり活躍しました。その後兄・頼朝と対立し、衣川館に追い込まれた後、悲劇の自害に追い込まれたのでした。
そんな悲劇の自害をした源義経ですが、実は自害せずに生きていたのでは、という設定のストーリーや都市伝説がたくさん生み出されました。
これを判官贔屓(はんがんびいき)といいます。
それは「義経は実は死なずに生きていたことにして欲しい」という願望によって生まれたストーリーです。
義経は平泉・衣川を脱出して青森・北海道に生き延び、チャレンカというアイヌ民族の女性と恋におちた後、なんと大陸・モンゴルへ渡ってチンギス・ハンとして降臨したという都市伝説まであるのです。
詳しくは以下の記事の、神威岬(かむいみさき)のエピソードをご覧ください。わかりやすく解説しています。
冬の【東京→北海道】鉄道旅13 倶知安→小樽 アイヌと義経の歴史のあと
奥州藤原氏栄華の地・平泉
やがて、平泉駅(ひらいずみえき、岩手県西磐井郡平泉町)に到着します。
平泉の栄華と繁栄は、それはとんでもない歴史をたどっています。
その平泉の歴史については、以下の記事でとてもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史
一ノ関駅に到着
北上川(きたかみがわ)に沿って南下すると、やがて一ノ関駅(いちのせきえき、岩手県一関市)に到着します。
一ノ関駅では、たくさんのピカチュウが出迎えてくれます。
一ノ関の偉人・大槻三賢人の像
一ノ関駅の西口には、大槻三賢人(おおつきさんけんじん)の像があります。
大槻三賢人(おおつきさんけんじん)とは、一ノ関出身の3人の偉人たちです。
江戸時代の一関市は、一関藩(いちのせきはん)といって、伊達藩(仙台藩)の支藩(しはん)となっていました。つまり仙台藩の付属的・バックアップ的な藩だったわけですね。
なので一関市は、なぜ宮城県ではなく岩手県なのか少し不思議に思うわけです。
一ノ関駅にある「大槻三賢人」のうち、真ん中の人物を大槻玄沢(おおつき げんたく)といいます。
大槻玄沢(おおつき げんたく)は、簡単にいえば、江戸時代に当時の日本では最先端のオランダの医学を学び、日本に広めた人物です。
大槻玄沢の名前は、先輩の医学者である杉田玄白(すぎた げんぱく)と前野良沢(まえの りょうたく)の2人の名前から採られたものです。
岩手県に生まれた大槻玄沢は、お父さんが一関藩のえらいお医者さんだったため、一ノ関に育ちました。
早くも13歳くらいから地元で語学・医学の才能を発揮し、成績がめちゃくちゃ優秀だったことから、その将来性を認められ、一関藩から江戸への遊学(ゆうがく)を認められました。
遊学(ゆうがく)とは、(江戸などの)遠くの地域へ、学ぶための旅行・遠征を行うことです。まあ、今でいう「留学」に近いイメージでしょうか。
もちろん遊学のためには、「旅費」や「現地での滞在費」などもすごくかかるため、一関藩にも認められなければ、お金の支援をしてもらえません。多くの人から「この人は優秀だ!」と認められ、藩に推薦され藩からの承認が出る必要があるわけです。
でなければ、江戸に勉強の旅・長期滞在に行く(遊学する)ことは、当時としてはなかなか難しかったでしょう。
それだけ大槻玄沢は成績優秀だったというわけですね。
江戸にやってした大槻玄沢は、師匠・先輩である医学者の杉田玄白と前野良沢に仕え、医学を学びました。
この二人は、後述する「解体新書」というオランダ語の医学書を翻訳した偉人です。
ではなぜ、江戸時代はオランダの医学を発展させる必要があったのか。
まだ医学未発達だった江戸時代は、現代医学に通じる発展をさせる必要がありした。
江戸時代までの医学は「おまじない」「祈祷(きとう)」「温泉」など、どちらかというと自然の力をベースにしたものでした。
それは奈良時代の聖武天皇にはじまり、「奈良の大仏」など仏様の力を頼ったり、また「湯浴み(ゆあみ)」といって温泉の力に頼ったりすることが多かったのでした。
そこに当時の世界では画期的・先進だった「西洋の医学」を日本でも学んで、広める必要があったわけですね。
江戸時代の日本で、西洋の医学といえば「オランダの医学」でした。
当時は鎖国していた日本にとって、西洋の進んだ医学は入ってき難いため、ヨーロッパの国で日本が唯一貿易をしていたオランダの医学を学ぶしかなかったのでした。
しかしオランダの医学は、もちろんオランダ語で書かれています。そのため、医学を理解するにはオランダ語をも学ぶ必要も出てきます。
オランダの最先端の医学書「解体新書」を翻訳した杉田玄白と前野良沢は、まるで暗号の解読をするレベルの難解作業であり、めちゃくちゃ苦労したそうです。
当時はオランダ語の辞書などなかったので、日本人にとって暗号や呪文にも近いようなオランダ語の文章を日本語に翻訳したのですから、先人たちの苦労が伺い知れます。
ちなみにオランダ語で「こんにちは」は、Goedendag(フーデンダッハ)です。
難しいですね!
これ以上さらにオランダ語で医学を学ぶには、独学ではかなりきついでしょうから、やはりオランダ人と直接関わりながら学ぶのがいいに決まっています。
江戸時代の当時、日本でオランダ人が住んでいた場所といえば、長崎の出島(でじま)です。
長崎の出島は、江戸時代の外国人に対する規制が厳しい中で、唯一外国人の居留(きょりゅう)が認められていた「外国人居留地」になります。
出島は、現在の長崎駅の近くにある、江戸時代に(外国人を住まわせる目的で)人工的に作られた島です。
なので、本気でオランダ医学と語学を学ぶため、大槻玄沢は長崎への遊学を認められ、長崎へと旅して向かいました。
長崎は岩手県・一ノ関からはめちゃくちゃ遠いので、恐らくですが奥州街道・東海道・山陽道などの主要街道を通って、約60日・2ヶ月ほどかけて移動(旅)したものと思われます。
昔は新幹線も飛行機もなかったので、何十日もかけて移動するのが普通だったわけです。
ちなみに現代でもし新幹線・特急で一ノ関駅→長崎駅に移動したら、
一ノ関駅→東京駅(東北新幹線)
東京駅→博多駅(東海道・山陽新幹線)
博多駅→武雄温泉駅(特急リレーかもめ)
武雄温泉駅→長崎駅(西九州新幹線)
で、約9時間以上かかります。
かなりしんどい移動にはなりますね。
または、仙台空港か羽田空港まで移動し、空路で長崎空港・福岡空港まで向かうという人も多いでしょう。
それでも新幹線・特急と乗り継ぐため、約7時間はかかります。
一ノ関から長崎って、今も昔も遠いんですね。
大槻玄沢の、オランダ医学を学ぶ情熱がいかにすごかったかわかるでしょう。
大槻玄沢が直接江戸から長崎へ向かったのか、それとも一旦、一ノ関へ戻ってから江戸を経由して長崎へ向かったのか正確なことは不明ですが、どちらにせよ長崎までの旅行は当時はすごく大変だったわけです。
こうして長崎でオランダの医学を学んだ大槻玄沢は、江戸に移住して、自身も医師として働くかたわら、塾を開いて弟子たちに医学を教え始めました。
もし大槻玄沢だけが(長崎で)最新鋭の医学を学んだところで、それを世の中の人々に知らせなければ意味がありません。
なので、大槻玄沢が苦労してオランダ語で学んだ医学を、彼の塾で日本語のわかりやすい形で弟子に教えていったわけです。
大槻玄沢はいずれ亡くなるわけですから、残された弟子たちが彼から学んだ医学をさらに発展させ、そうして医学が発達していったのですね。
その弟子たちの中には、今日(こんにち)でも医学界では有名・著名な人達も含まれています。
その後、大槻玄沢が亡くなった後の江戸時代後期の医学は、緒方洪庵(おがた こうあん)による適塾(てきじゅく)が有名です。
緒方洪庵は岡山県の出身であり、15歳のときにお父さんの仕事の都合で大阪(当時は大坂)に出てきました。
大坂で医学を学び、21際のときに江戸に遊学しました。
その後、長崎へ遊学し、オランダ人の医者の元で医学を学びました。
この辺りは大槻玄沢と似ていますね。
その後、大坂へ戻ってきて、「適塾」を開きました。
適塾は、現在の大阪大学医学部の前身であり、大阪府大阪市の、淀屋橋(よどやばし)にその跡地があります。
緒方洪庵は、「天然痘」の撲滅に尽力しました。
一ノ関を出て、小牛田・仙台へ
一ノ関駅を出ると、小牛田駅(こごたえき)を過ぎ、さらに松島(まつしま)・塩釜(しおがま)・多賀城(たがじょう)といった地域を過ぎてゆきます。
こうして、大都市・仙台はますます近くなってゆきます。
この辺りまで南下してくると、北海道に比べたら少し温かくなってくる気がしました。
外の雪の量も、北海道に比べたら少なくなっていました。
塩釜(しおがま)については、以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
松島については、以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
仙台駅に到着 たまには東口を散策
やがて仙台駅(せんだいえき、宮城県仙台市)に到着します。
今朝函館駅を出発したため、この時点でもう夕刻であり、暗くなっていました。
仙台駅というと、やはり「西口」の栄えてる場所の印象が強いです。仙台駅の駅舎というと、西口のオレンジ色のお馴染みの駅舎が想像・連想されます。
しかし、東口の駅舎もモダンでおしゃれで、たくさん綺麗な場所があり、いつも西口ばかりでなくたまには東口もいいなと思いました。
仙台を出発!新幹線・はやぶさで、一気に東京へ
仙台駅を東北新幹線・はやぶさ号で出発し、東京へ一気に戻ります。
出発した時にはもう夜であり、暗くなっていました。
新幹線から眺める、仙台市の夜の景色は抜群によかったです♪
その後、無事東京に到着しました!
今回の旅は、全部でここまでです。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました!
おまけ:筆者の自撮り写真エトセトラ
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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