道北・宗谷本線の旅1 旭川→比布 旭川駅を出発!道北の旅へ

今回からは、北海道・道北の旅について解説していこうと思います。宗谷本線(そうやほんせん)がメインの旅になります。
道北とは、厳密な定義はありませんが(塩狩峠より北とも)、今回では旭川から北のエリアを道北というもののとします。

旭川駅を出発! 宗谷本線で稚内へと向かおう

旭川駅・南口(北海道旭川市)

スタートは旭川駅(あさひかわえき、北海道旭川市)からです。
旭川を出ると宗谷本線(そうやほんせん)に沿って、北海道の北の果て・稚内(わっかない)方面へ向かってゆきます。

旭川駅を出発!

なお、今回のシリーズでは夏と冬の写真がごちゃまぜになっている可能性があり、ご容赦願います。

明治時代につくられた、樺太(サハリン)を目指していた宗谷本線

宗谷本線(そうやほんせん)は、明治時代には天塩線(てしおせん)と呼ばれていた区間になります。

天塩(てしお)とは、北海道北部を表す「天塩国(てしおのくに)」に由来します。明治時代になって蝦夷地(えぞち)が「北海道」となった時に、北海道を便宜的にいくつか細かい「」に分けた際、北海道北部のことを「天塩国(てしおのくに)」と呼んだのでした。他にも明治時代には「石狩国(いしかりのくに)」「胆振国(いぶりのくに)」「北見国(きたみのくに)」「十勝国(とかちのくに)」などがエリア分けとして作られ、それらの国名は現在の北海道でも使われています。

1904年の日露戦争において日本はロシアと戦ったわけですが、これに勝利した日本は南樺太の一部をロシアから割譲してもらい、日本の領土とすることができました。
そして、現在のロシア領・ユジノサハリンスクを日本風の地名の豊原(とよはら)に改めて、樺太南部の北海道・稚内に最も近い港町・コルサホフを大泊(おおどまり)と改めたのです。

こうした樺太(サハリン)の主要都市と東京を結ぶため、明治時代の日本は、

東京~青森~津軽海峡~函館~旭川~稚内~宗谷海峡~大泊(サハリン)~豊原(サハリン)

という、(連絡船を挟んだ)一大鉄道ルートを建設したのでした

樺太(サハリン)にはたくさんのエネルギー源や食糧が眠っていたため、
これから世界相手にどんどん競争していき、追い付き追い越し、日本を発展させてゆくぞ!
という明治時代のイケイケムードだった日本にとっては、こうした鉄道路線の建設はとても重要だったのでした

宗谷本線の旅 旭川から稚内まで、普通列車で6時間!

旭川から宗谷本線で稚内へ行くには、普通列車だと約6時間かかるほか、札幌駅から特急「宗谷」「サロベツ」なども出ています。

宗谷本線がカバーする道北のエリアは、近年は特に人口減少が深刻となっています
中でも人口約620人の音威子府村(おといねっぷむら)は、北海道で一番人口の少ない村になります。
つまり、音威子府村の人すべてにYouTubeのチャンネルを登録してもらっても、収益化は出来ないという理屈になってしまいます(=YouTubeの収益化には、最低でも1,000人の登録者数が必要というハードルの高さ。昔はもっと緩かったのですが、芸能人はじめ近年あまりにもYouTubeに参入してくる人や企業が増えたため、現在は厳しくなっているのです。YouTuberは収益化のためには、本気で頑張らないといけません)。

苦境にあえぐ、宗谷本線 ユニークな秘境駅が盛りだくさん!

話がズレてすみません(←もはやいつものこと)。

宗谷本線を列車で移動すると、(旭川・名寄周辺の都市部を除いては)乗客はほぼ鉄道マニア外国人観光客などで占めており、逆に地元の人々はほぼ乗っていない印象すら受けます。

その理由は、北海道に関わらず日本のほとんどの地方は、鉄道ではなく車がメイン移動手段だからです。

明治時代は、まだ自動車が一般的ではありませんでした。そのため、当時は鉄道が人々のメインの移動手段であり、全国各地に凄まじい数の鉄道路線が存在していました(今は多くが廃止・廃線)。

しかし高度経済成長期になると、一気に自動車が普及してきます。
そうなると、鉄道は次第にお客さんが減るようになってゆき、赤字路線が増えていって廃止に追い込まれてゆくのです。
北海道も、その例外ではありません
むしろ北海道の衰退ぶりの方が「やばい」という印象すらあります。
北海道では若者がみな進学・就職で札幌(または東京)へ引っ越してしまう、「札幌一極集中」が進んでいるからという要因も大きいでしょう。

なので、宗谷本線は地域住民の移動手段としての役割をほぼ果たしているとは言い難い状況にあることから、常に廃止のピンチに陥っている駅があります。
しかし宗谷本線には、先述の通り「秘境駅」と呼ばれる鉄道マニアにはたまらないユニークでマニアックな駅がたくさんあります。
なので観光資源として活用するための秘境駅を維持するため、地元の維持費用負担(地元の人が駅を清掃することも)で、なんとか廃駅を先延ばしにし、持ちこたえている駅もたくさんあるのです。

幌延町(ほろのべちょう)には、なんと物置で出来た駅舎糠南駅(ぬかなんえき)や、周りがゴーストタウン(←幌延町公認)の雄信内駅(おのっぷないえき)、そして日本最北の木造駅舎・無人駅の稚内市の抜海駅(ばっかいえき)などにはじまる、いくつものユニークな秘境駅の宝庫となっており、マニアにはたまらない路線でもあります

なので宗谷本線は、地元の住民の移動手段というよりは、鉄道マニアの秘境駅探訪や、観光客に乗ってもらうたの観光路線としての役割・正確が強いともいえます。
しかし明治時代は、先述の通り、戦争に負けないために樺太(サハリン)の膨大な資源・食糧を運ぶための重要路線だったという歴史もあるのです

「旭川」の由来 その由来は忠別川にあり?

旭川(あさひかわ)の由来は、旭川駅のすぐ裏側を流れる忠別川(ちゅうべつがわ)にあると考えるのが主流です。
東の朝日が昇る方から流れる川」ということで「朝日川→旭川」となったという説など、色々な説があります。

旭川や忠別川については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 北海道編 北の巻第13番 旭川に到着!忠別川の景色

旭川駅を出発!やがて比布駅へ

旭川駅を出ると、市街地を左(北)へ大きくカーブし、すぐに旭川四条駅(あさひかわしじょうえき)に着きます。
旭川市や札幌市などの北海道の各都市は、明治時代になって急速に発展していった(国の施策で、なかば無理やり開拓・発展させていった)街であり、京都を参考に街が作られています。
なので、街が格子状(十字や四角が組合わさった形)になっており、まるで京都のように「~条」というエリア分けになっています。

旭川四条(あさひかわしじょう)も、京都の「四条烏丸(しじょうからすま)」「四条河原町(しじょつかわらまち)」などのような位置付けだといえるでしょう。

旭川市は(札幌市に次ぐ)北海道第二の都市であり、「ザ・市街地」といえるような大きな市街地は、ここから先の宗谷本線の道中では、もはや存在しません。途中、名寄市(なよろし)を最後に、稚内市までは「市」も存在しなくなります。
大きな市街地とは、ここでしばらくお別れであり、ここから先は道北の広大な原野をひたすら列車で進んでいくことになります。

石北本線との分岐駅・新旭川駅

旭川四条駅の次の新旭川駅(しんあさひかわえき)からは、石北本線(せきほくほんせん)と分岐してゆきます。

石北本線(せきほくほんせん)は、はるか東の北見(きたみ)・網走(あばしり)に至る路線です。

石狩国(いしかりのくに)
北見国(きたみのくに)

(くに)とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けですが、北海道に限っては明治時代における暫定的なエリア分けになります。
北海道が日本の一部になったのは明治時代からであり、江戸時代までは蝦夷地(えぞち)といってまだ日本ではなかったので、「国」というエリア分けはまだありませんでした

明治時代になってから、「石狩国」「北見国」という名前がつくようになりました。

永山駅に到着 明治時代の開拓のヒーロー・永山武四郎の生きた町

石北本線と分かれてさらに北上すると、永山駅(ながやまえき、北海道旭川市)・北永山駅(きたながやまえき、北海道旭川市)に着きます。このあたりから旭川の市街地からは離れてゆき、だんだんと北海道らしい原野の景色が広がってゆくようになります。

旭川駅~永山間駅においては、高校生などの学生さんらか多く、通学需要がとても多い区間なのだという印象をも受けます。永山駅では、多くの高校生・生徒さんらが降りて(乗って)ゆきます。

永山(ながやま)は、アイヌ語由来っぽくない地名ですね。
それもそのはず、明治時代に旭川をはじめとする上川(かみかわ)地方を開拓するために総指揮を取った、永山武四郎(ながやま たけしろう)という人物に由来しているからです。地名の命名者は明治天皇であり、かなり名誉なことですね。

江戸後期~明治時代は、北海道は常にロシアの南下政策の恐怖にありました。
南下政策とは、ロシアが凍らない港を求めて、暖かい南の地域へ進出していたことをいいます。
ロシアは真冬は-20度は余裕で下回るほどの極寒の地域であり、港が凍ってしまって、軍艦が出せなかったのです。これだと、もし真冬にロシアが他国から戦争を仕掛けられたとき、軍艦が出せず、ロシアが他国に滅ぼされてしまうこととなってしまいます。
そのため当時のロシアは「不凍港(ふとうこう)」を求めて南方に進出していたのですが、そのターゲットがまさに日本の北海道になろうとしていたのでした。

明治時代に北海道を急ピッチで開拓・発展させていった理由の一つも、このロシアの南下政策に対抗するためだったのです。

その北海道の中でも特にロシアに近い、旭川(上川盆地)の地域を発展させていくための拠点の一つが、ここ永山にあり、その指揮官が永山武四郎だったのでした。

北海道でアイヌ語由来っぽくない地名があったとき、それはだいたい明治時代の開拓者の名前(例:伊達市など)や、その開拓者の出身地(例:北広島市など)に由来していることが多いです。もちろん、アイヌ語を日本語に直訳したパターン(例:大沼、森町、砂川市など)など、様々な地名のパターンがあります。
これらは覚えておくとよいでしょう。

永山武四郎は、死ぬ間際に遺言として、
私の亡き骸は、必ず北海道に葬ってくれたまえ。
必ず北海道を、ロシアから守って見せよう。

と言い残して、彼が亡きあとは札幌市の墓地に埋葬されました。
かなりの北海道を守る使命感が伝わってきますね。

比布駅へ到着

やがて比布駅(ぴっぷえき、北海道上川郡比布町)に着きます。

比布駅(北海道上川郡比布町)

比布駅(ぴっぷえき)には、かつて1泊300円の「ブンブンハウス」という宿泊施設があったのですが、現在は廃止されています。

北海道ならではの「ライダーハウス」

北海道では「ライダーハウス」と呼ばれる宿泊施設が多く存在します。
ライダーハウスとは、バイクで北海道を縦横無尽に駆け回る人達のために用意された、格安の宿泊施設です。
値段は無料から2,000円程度と、ネカフェよりも安くなっています。
しかし、他のライダーとの共同生活のため、他の客との「挨拶」や「簡易なコミュニケーション」が求められますし、またみんなで快適に生活するための、様々なルールが存在します。
私のような陰キャには、合わない施設となるでしょう(^^;
逆に、「林間学校」や「修学旅行」「合宿」などが好きで、人と楽しくワイワイするのが好きな人にとっては楽しい施設といえるでしょう。

次回は、塩狩・和寒へ

次回は、塩狩(しおかり)・和寒(わっさむ)方面へ向かってゆきます!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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