和寒駅を出て、剣淵・士別・名寄方面へ
和寒駅(わっさむえき、北海道上川郡和寒町)を出ると、剣淵(けんぶち)・士別(しべつ)・名寄(なよろ)方面へ向かってゆきます。
絵本の町・剣淵町に到着
やがて、剣淵駅(けんぶちえき、北海道上川郡剣淵町)に到着します。
剣淵町(けんぶちちょう)は、いわゆる「絵本」を中心に観光PR・町おこしをしている町になります。
それは後述する士別市(しべつし)出身の、小池暢子(こいけ のぶこ)さんという方が1980年代に、「絵本の重要性」を剣淵町で講演したことがはじまりとなっています。
「絵本の心を大事にしなければ、日本はやがて世界から嫌われる国になってしまいます。
そうなってはなりません。」
小池さんは剣淵町でそのように訴えたことから、それがきっかけで剣淵町は「絵本の国」となったのでした。
この意味について私なりに考えたのですが、日本人はもっと絵本のようなアドベンチャー的に冒険・挑戦・失敗していくことが必要なのだ、というメッセージなのかな、と勝手に思いました。
現代の日本社会は、失敗を恐れるあまり、なかなか一歩踏み出せないでいます。挑戦・失敗なくして成功はありえないので、どんどん海外から置いていかれてしまうリスクもあります。
こうしたことからも、絵本やアドベンチャーの世界から学ぶべきことなのかもしれません。
そして最も恐れるべきは、「失敗することよりも挑戦しないこと」です。
小池暢子さんは、剣淵町でこういったことを主張したかったのかもしれません。
ひつじのまち・士別に到着
剣淵駅を出ると、やがて士別駅(しべつえき、北海道士別市)に到着します。
北海道士別市(しべつし)は、ひつじの牧場が盛んな地域になります。
ひつじは食肉になったり、布の材料になったりするため、現代人の我々の生活には欠かせない動物です。
また、ひつじは愛くるしい・可愛らしい顔をしているので、人々に癒しを与える役割を果たす存在でもあります。
ひつじは暑さに弱いため、北海道のような涼しい場所でしかなかなか育たないのです。
それは、馬や牛などの動物も同じです。彼らは暑い夏の地域を非常に嫌うわけですね。
彼らがエサとして食べる「牧草」も、また北海道のような涼しい場所でなければ育たないのです。
逆に、明治時代の北海道では、稲がまったく育たずに大苦戦しました。
稲は寒さに弱いため、本州と同じようなやり方で稲を育てても全然育たなかったため、開拓で北海道に移住してきた人々を大いに苦しめました。
そのために彼らは稲作を諦め、先述の通り北海道の涼しさを生かした牧草・牧場メインにシフト(方針転換)したところ、ようやく北海道の食糧事情は安定するようになり、むしろ北海道は現代のような「食の宝庫」へと発展したのです。
ちなみに士別と、北海道のはるか東・根室の北にある標津(しべつ)は、語源が同じです。アイヌ語で「シベツ」とは、「大いなる川」という意味です。
名寄駅に到着 旭川と稚内の中間点の街
士別駅を出ると風連駅(ふうれんえき)・名寄高校駅(なよろこうこうえき)を過ぎて、やがて名寄駅(なよろえき、北海道名寄市)に到着します。
北海道名寄市(なよろし)は、旭川市と稚内市の、ちょうど中間点にある「市」です。
名寄市を最後に、稚内市までは「市」といえる「市」は無くなります。
つまり、今後の宗谷本線の沿線上の自治体は、ほぼ「町」か「村」のいずれかになるわけです。
名寄市は「もち米」の産地として有名です。
名寄市内には、もち米の水田(すいでん)がたくさんあります。
元々「お米」は、先述の通り寒い場所ではなかなか育ちませんでした。
北海道では稲作は出来ないため、昔のアイヌ民族は「お米」を本州からの交易に頼っていたのでした。
しかし品種改良が進むにつれ、現代では寒い北海道でも「お米」が(ある程度は)生産できるようになったのです。
お米の生産ができる北限(最も北の地域)は、名寄市の北西にある遠別町(えんべつちょう)とされています。
かつて名寄から遠軽方面へ結んでいた、名寄本線
名寄駅から東へは、かつて名寄本線(なよろほんせん)という路線がありました。
名寄本線(なよろほんせん)は、名寄駅を東へと進み、オホーツク海側の湧別町(ゆうべつちょう)を経て、やがて遠軽駅(えんがるえき、北海道紋別郡遠軽町)に至る路線です。
遠軽駅(えんがるえき)は、スイッチバックの方式になっています。
スイッチバックとは、「人」の形をした線路のことであり、一旦先頭からに突っ込んで、再びバックして反対側に進む形式の線路をいいます。
遠軽駅がスイッチバックの形式となっているのは、かつて名寄本線が、北の湧別町・名寄方面へと出ていたからですね。
名寄本線は、1960年代に自動車が普及するまでは、地域住民にとっては重要な移動手段でした。
しかし時代とともに自動車が普及してゆき、また人口減少の波には勝てず、1989年には廃止となってしまったのでした。
かつて名寄から深川まで出ていた、深名線
名寄駅からは、上記の名寄本線の他に、深名線(しんめいせん)という路線まで出ていました。
深名線(しんめいせん)は、名寄駅を南西に進んでゆき、函館本線の深川駅(ふかがわえき、北海道深川市)にまで至っていた路線です。
「深川(ふかがわ)」「名寄(なよろ)」の二つの頭文字を取って、深名線(しんめいせん)というわけです。
深川駅(ふかがわえき)からは、かつて留萌(るもい)・増毛(ましけ)方面まで出ていた留萌本線(るもいほんせん)の分岐駅でもあります。
留萌本線(るもいほんせん)は、今や深川駅から石狩沼田駅(いしかりぬまたえき、北海道雨流郡沼田町)の区間を残して、ほとんどの区間が廃止されてしまいました。増毛駅のみならず、留萌駅も廃止になってしまったので、ちょっと寂しいですよね。
そしてこの深名線も、先述の名寄本線同様に沿線の人口減少とモータリゼーション(自動車普及)の波には勝てず、1995年には廃線となってしまいました。
北海道ではこのように、かつては現代と比べ物にならないほど数多くの鉄道路線が建設されていたのです。
石炭と鉄道で栄えた、明治時代以降の北海道の歴史
明治時代の北海道は、とにかく石炭や魚介類などがたくさん掘れる、資源の宝庫でした。
石炭は現代でいうところの「ガソリン」であり、当時の世の中では鉄道・船など、何を動かすにも石炭が必要でした。
石炭は当時としては本当によく燃え、エネルギー効率がとても良いものとして認識されていました。
石炭は黒い色をしていながら、まるでダイヤモンドのように儲かる(様々な業界の人や企業が買ってくれる)資源だったため、「黒いダイヤモンド」とも呼ばれていました。
そんな石炭等の資源がガッポリ掘れる北海道に移住すれば「儲かる」という意識が、当時の日本にはありました。
言ってしまえば、北海道に移住して、開拓(耕したり、掘り起こしたり、道路や鉄道を建設していく等を)すれば儲かったわけです。
そしてたくさんの人々や石炭などの資源を運ぶために、当時の北海道には今とは比べ物にならないほどの、鉄道の線路があったわけです。
そして多くの人々が北海道に移住したことと、当時はまだ自動車が一般的ではなかったために、鉄道があちこちに建設されていたのでした。
しかし1960年代に入るとエネルギー源が石炭から石油に代わり(エネルギー革命)、北海道の多くの炭鉱が閉山となってしまいました。
炭鉱で働けなくなると、人々はもはやそれ以上北海道の各都市に住み続ける理由がなくなってしまい、転出が相次いでいくことで人口減少となっていくのでした。
そして”運ぶ人”も”運ぶ資源”も無くなった鉄道は「用済み」となり、どんどん廃止へと追い込まれていったのでした。
もちろん、現在残っている北海道の路線も、最も利用者数の多い札幌都市圏をも含めて営業係数(100円を稼ぐために必要な経費)が全て100以上であり、どの路線も苦境に立たされています。北海道はすべて豪雪地帯なので、除雪作業などで多大なコストがかかるのも営業係数に響く要因となっています。
みんなで北海道に旅行へ行き、北海道を元気にしてゆきましょう。
名寄駅で少し休憩 次回は音威子府方面へ
名寄駅では約13分ほどの停車時間がありますので、「青春18きっぷ」ユーザーや、「北海道&東日本パス」ユーザーは、途中下車して休憩してゆきましょう(2024年のダイヤでは、旭川駅06時03分発、名寄駅07時40分着・07時53分発)。
次回は音威子府(おといねっぷ)方面へ向かってゆきます!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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