まずは原文から!
鳥の羽音におどろきし
平家(へいけ)の話は昔にて
今は汽車ゆく富士川(ふじかわ)を
下(くだ)るは身延(みのぶ)の歸(かえ)り舟(ぶね)
さらに読みやすく!
鳥の羽音におどろき(驚き)し
平家(へいけ)の話は昔にて
今は汽車ゆく富士川(ふじかわ)を
下(くだ)るは身延(みのぶ)の帰り舟(ぶね)
さあ、歌ってみよう!
♪とーりのはおとに おどろきしー
♪へいけのはなしは むかしにてー
♪いーまはきしゃゆく ふじかわをー
♪くだるはみのぶの かえりぶねー
(東海道線)
沼津駅→富士駅→富士川駅→興津駅→清水駅→静岡駅→安倍川駅→焼津駅→藤枝駅→島田駅→掛川駅→袋井駅→磐田駅(旧・中泉駅)→天竜川駅→浜松駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ抜粋
沼津を出ると、富士・静岡方面へ
沼津駅(ぬまづえき、静岡県沼津市)を出ると、片浜駅(かたはまえき)・原駅(はらえき)・東田子の浦駅(ひがしたごのうらえき)・吉原駅(よしわらえき)・・・と、富士山の麓(ふもと)を進んでいきます。
原駅までは沼津市で、その先は富士市(ふじし)になります。
窓の右側には富士山 しかし夏は厳しい
沼津駅~富士川駅(ふじかわえき)間は、富士山がとても綺麗な区間となります。
しかしながら、夏の期間は大半の場合、まず富士山は眺められないものと思ってよいでしょう。
その理由は、夏の「上昇気流」により富士山が雲で覆われてしまうからです。
夏の期間、富士山には太平洋側から、暖かく水分を多く含んだ(湿った)風が吹きます。
空気は、温度が高ければ水分を多く含むことができるからです。
しかし、海辺から吹いた風は山にぶつかると行き場所がなくなるため、山の斜面に沿って上に上がっていきます(上昇気流)。
つまり、駿河湾から吹いた風は、富士山の斜面に従って昇っていくのです。
しかし、富士山の頂上は夏でも10度を下回るほどの寒さです。そのため、昇ってきた水を多く含む暖かい空気は、富士山上空で冷やされます。
冷やされた空気は、これ以上水分を含めなくなり、雲や雨となって姿を現します。
これが、夏に富士山が雲で覆われてしまう原理です。
朝であれば涼しいため、冠雪していない夏の富士山を眺められるかもしれません。
しかし、夏は昼になるにつれて気温はみるみる上がっていくため、富士山もどんどん雲に覆われていきます。
やはり、綺麗は富士山を眺めたければ夏は諦め、春・秋・冬がおすすめです。
春・冬であれば青春18きっぷのシーズンなので、チャンスとなります。
東海道の宿場町・原宿(沼津市)
富士山を右にして、西へ西へと進んでいくと、かつての東海道五十三次の宿場町の1つであった原宿(はらしゅく)のあった、原駅(はらえき)に到着します。
原駅までが沼津市で、ここから先は富士市になります。
岳南鉄道との分岐点・吉原駅
やがて、岳南鉄道(がくなんてつどう)との分岐駅である吉原駅(よしわらえき、静岡県富士市鈴川本町)に着きます。
岳南鉄道は、歴史的には沿線の製紙工場で生産された紙製品などを運ぶための貨物路線としてできた路線です。沿線は、いわゆる紙を作る製紙工場が多く、静岡県富士市は紙の製造が盛んな地域です。
しかし、1960年代以降のモータリゼーションにより、高速トラックなどでの輸送が主流の時代になってきたため、貨物路線としては衰退を余儀なくされました。そのため、現在でも苦しい経営を強いられているようです。
岳南鉄道では、1日720円でのフリー乗車券が販売されています。沿線は東海道吉原宿の最寄駅である吉原本町駅(よしわらほんちょうえき、静岡県富士市吉原)や、終点の岳南江尾駅(がくなんえのおえき、静岡県富士市江尾)など、ユニークな駅がたくさんあり観光として行く価値が十分ありますので、是非乗ってみましょう。
ちなみに、「比奈駅(ひなえき、静岡県富士市比奈)」って可愛い名前じゃないですかね?
後述するように、富士市のこの地域は製紙業で盛んな地域になります。皆さんがお家で使っているトイレットペーパーも、この地域の工場で生産されたものである可能性もあります。
吉原の中心地域はどちらかというと、やや北上して内陸部にある岳南鉄道吉原本町駅(よしわらほんまちえき)であるという印象を受けます。
実際、東海道の宿場町の一つである吉原宿は、本陣跡(ほんじんあと)が吉原本町駅の近辺にあります。なお、本陣(ほんじん)とは大名などの身分の高い人が泊まる高級な宿(やど)のことです。
また、現在の東海道線吉原駅は、開業当初は「鈴川駅(すずかわえき)」という駅名でした。
確かに、駅周辺は「鈴川」と書かれた看板が多い気がします。
「鈴川」というと、YouTuberの鈴川絢子さんを連想するのは自分だけですかね?(^^;)
元々の宿場町の吉原宿は、この鈴川駅(現・吉原駅)の周辺にあったのですが、海際に近く津波などを恐れたため、北へ移動したそうです。その移動した先が、現在の吉原本町付近ということになります。
そして、かつての東海道は、鈴川駅のあたりから急に北へ進行方向を変え、吉原宿に着いたあと、また西へ進行方向を変えます。つまり、まるで「Z」のような文字のルートになるのです。
このとき、北の吉原宿へ向かっていくときに、旅人にとっては富士山の位置が向かって左側にきます。
これを「左富士(ひだりふじ)」といいます。
「紙」の名所・富士市
静岡県富士市(ふじし)は紙の製造が盛んな地域であり、富士駅(ふじえき、静岡県富士市)は山梨県方面へ向かう身延線(みのぶせん)との分岐駅でもあります。
そして富士駅の周辺で際立つのは、「王子マテリア」という製紙会社です。そしてこれはもともとは富士製紙の会社の建物群でした。
富士製紙は富士市を発祥とする、1933年までに存在していた会社です。
なぜ富士市が製紙工場の拠点に選ばれたかと言うと、この近辺は富士山からの大量の湧き水が出るからです。
紙を作るには大量の木材の他に大量の水も必要なので、富士山近辺は適していたわけです。
王子製紙が北海道の苫小牧(とまこまい)に進出したのも、近辺には支笏湖(しこつこ)という豊富な水源があったからです。
元々、富士製紙と王子製紙はライバル関係でした。
そのため、王子製紙が北海道苫小牧市(とまこまいし)に進出すると、それに対抗するような形で富士製紙も北海道釧路市(くしろし)に進出しています。
根室本線(ねむろほんせん)釧路駅の一つ隣に新富士駅(しんふじえき、北海道釧路市)というまるで新幹線の駅名のような駅があるのは、富士製紙が釧路市に進出したことの名残です。
しかし、勢い余って事業拡大を続けたため、お金がピンチとなってしまいます。そのため、王子製紙に抜かれてしまいました。
さらに、1929年に起きた昭和恐慌により王子製紙までもがピンチとなったため、富士製紙と協力するために合体することになりました。
これにより、1933年に富士製紙は王子製紙に吸収合併されるという形で消滅しました。
現在では、王子製紙のグループ企業となっています。
言い忘れていましたが、王子製紙は元々は東京都北区の王子(おうじ)で渋沢栄一(しぶさわえいいち)という、近代日本の資本主義の元祖ともいうべきエラい人によって造られた会社です。
明治時代の日本はありえないレベルで経済成長していき、そのために大量のお札や、新聞や雑誌を造るための大量の紙が必要になったからです。
これは本ブログで鉄道唱歌奥州・磐城編第2番のところでも解説した通りです。
また、北陸編第3番でも王子の製紙場については歌われていますね。
近年は「ペーパーレス化」などの推進により、紙の利用や購入は制限される傾向にあります。その結果、製紙業にも大打撃を与えることになります。
しかし、トイレットペーパーなど紙製品はなくてはならないものですし、業態や業務形態などによっては完全なペーパーレス化が難しい会社もあるでしょうから、まだまだ製糸業の需要はあるといっていいでしょう。
一方、東海道新幹線の新富士駅(しんふじえき、静岡県富士市)は富士駅からバスで10分ほど南にある駅で、こだま号が1時間に2本停まるという、各駅停車メインの駅としては本数が多い部類の駅となります。
身延線との分岐点・富士駅
身延線(みのぶせん)は、富士駅から北へ分岐し、途中に浅間神社(せんげんじんしゃ)のある富士宮市(ふじのみやし)、日蓮宗の総本山である久遠寺(くおんじ)のある身延町(みのぶちょう)を富士川に沿いながら通り、やがて山梨県甲府市の甲府駅(こうふえき)に至る路線です。
途中の山梨県南巨摩郡身延町にある身延山(みのぶやま)は、鎌倉仏教の1つである日蓮宗(にちれんしゅう)の総本山(そうほんざん)である久遠寺(くおんじ)があります。
総本山(そうほんざん)とは、その宗派において最も格式の高いお寺のことです。
日蓮宗は、鎌倉時代に日蓮上人(にちれんしょうにん)によって開かれた宗派です。
昔は山は神聖なる場所と考えられていたため、仏教においても信仰の場所とされていました。
身延町(みのぶちょう)は、そんな久遠寺の門前町として歴史的に発展してきた町です。
門前町とは、参拝客の皆さんに食事やお茶、宿などを提供する店の数々からなる町のことです。
源平合戦の舞台となった「富士川」 かつては水運で栄えた
富士駅を出ると、歌詞にもあるように、平家物語の「鳥の羽音を聞いた瞬間、敵が攻めてきたと勘違いして平氏軍はみな逃げていった」という伝説で有名な、富士川(ふじかわ)を渡ります。
富士川は、江戸時代の初期に活躍した角倉了以(すみのくら りょうい)という人物によって開削(かいさく)されました。開削とは、天然の川を船が通りやすくすることです。天然の川は岩がゴツゴツしていたり、岩による段差があるので、そのままでは船が通れないわけですからね。
角倉了以(すみのくら りょうい)は江戸時代の京都出身の人物であり、京都をはじめ日本全国の川を開削して船を通りやすくしたり、また人工的に運河のようなものを造り、街中でも船を通しやすくするのに尽力したのでした。京都で開削された有名な川に、「高瀬川(たかせがわ)」「保津川(ほづがわ)」などがあります。
富士川が船が通りやすい道になると、山梨県の甲府方面からの農作物や荷物などを太平洋側に運ぶことができるようになります。
「帰り舟」というのは、荷物を運び追えて身延甲府方面へ帰っていく船のことです。
しかし、これは川の流れの逆方向であり、川を登りながらでは遅くなるので、昔は人の手で船を持って帰ったり、身延線の鉄道に載せて帰っていったそうです。
「鳥の羽音に驚き」平氏たちが逃げ惑った「富士川の戦い」
そしてここでようやく本題ですが、富士川の戦いの解説に入ります。
「富士川の戦い」とは、いわゆる源平合戦の一つです。
1160年の「平治の乱」に敗れ、わずか13歳で伊豆に流罪となった源頼朝(よりとも)は、約20年間を伊豆で過ごした後、1180年の「以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)」によってついに立ち上がります。しかしここでも破れ、神奈川県の「石橋山の戦い」で敗走した後、真鶴(まなづる)から船出して海を東に進みます。
やがて千葉県の房総半島に上陸した源頼朝は、平氏に不満を持つ関東の武士を次から次へと味方につけ、ここから平氏に対する快進撃が始まります。
そしていよいよ「富士川の戦い」です。
富士川で鳥の羽音がバタバタと鳴り響き、これに驚いた平氏の人たちは源氏が大量に攻めてきたと勘違いして、次から次へと逃げていきました。
これは歌詞にある通りですね。
これ以降、平氏はどんどん劣勢に立たされ、西へ西へと逃げて行きます。
やがて平氏は1185年に山口県下関市の壇ノ浦(だんのうら)まで追い詰められ、滅ぼされるのです。
富士駅で降りて、少し休憩
富士駅にはヴィ・ド・フランス(VIE DE FRANCE)というパン屋があって、ここで簡単な飲食の休憩ができます。
沼津を出発して静岡までは距離が長いので、青春18きっぷの方で疲れた場合は無理せず富士駅で途中下車して休憩していきましょう。
また、時間があれば身延線(みのぶせん)に乗り換え、富士宮駅で降りて浅間神社(せんげんじんしゃ)の参拝に行くのも十分よい選択肢です。
列車の左側に富士山が見える、富士川駅
富士川駅(ふじかわえき、静岡県富士市)では、駅のやや左側に富士山が見えます。大阪・京都方面へ向かう場合、富士山は普通「右側」に登場するので、この「左富士(ひだりふじ)」は珍しく感じられます。なぜ左側にくるのかというと、富士川駅の手前で線路が大きく南へカーブするからです。富士川駅が南側を向いているため、相対的に富士山が左側に来るわけですね。旅行のときは、こうした点を意識してみると、少し面白くなったりします。
次は 興津(おきつ)・清水(しみず)方面へ向かいます!
注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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