世界遺産・知床のある知床斜里駅へ
原生花園(げんせいかえんえき)・浜小清水駅(はまこしみずえき)・止別駅(やむべつえき)を過ぎて東へ進むと窓の奥側には徐々に知床半島(しれとこはんとう)が姿を現します。
やがて知床斜里駅(しれとこしゃりえき、北海道斜里郡斜里町)に到着します。
知床斜里駅(しれとこしゃりえき)は、元々は斜里駅(しゃりえき)という駅名でした。斜里町(しゃりちょう)の駅なので、シンプルに「斜里駅」という駅名だったわけですね。
しかし知床(しれとこ)のネームバリューをどんどん打ち出していきたいという地元の人々の願いを込めて、1998年に「知床斜里駅」に駅名変更となったのでした。
そして2005年には、知床は世界遺産に登録されています。
世界遺産・知床
知床(しれとこ)は世界遺産に登録されたともあり、今やとても人気な観光名所になっています。
そのため、近隣の大空町(おおぞらちょう)にある女満別空港(めまんべつうこう)は、知床への玄関口のような位置付けの空港となっており、利用者がとても多くなっています。
知床といえば、なんといっても流氷(りゅうひょう)が有名ですね。
流氷とは、氷(凍った海の水)が流れてくることです。
このあたりは(まるで北極海のように)海水の温度が低いため、海の水が凍ってしまい、その塊が知床・オホーツク海の海に流れ着くわけですね。
知床は、この「流氷の南限」とされます。
南限とは、「南の限界地点」ということです。
つまり知床よりも南の地域では、流氷は(普通は)見られないという意味です。
そもそも流氷を見るには日本は暖かい(暑い/緯度が低い)国になるので、それだけ日本で流氷が見られるのは珍しいというわけですね。
真っ白に凍った海の上を、クルーズ船が行くというわけです。本州ではまず体験できないことですからね。
カムイワッカ湯の滝
また、知床では知床八景(しれとこはっけい)とよばれる景色が有名です。
その「知床八景」の中の1つに、「カムイワッカの湯の滝」というものがあります。
「カムイ」とは、アイヌ語で「神様の」とう意味になります。
北海道では「特急カムイ」「神居古潭(カムイコタン)」、そして漫画「ゴールデンカムイ」などで使用例がありますよね。
「ワッカ」とは、「水」という意味です。
他にも覚えておくと便利なアイヌ語を、いかに列挙します。
ヌプリ→山
ベッ(別・部)→川
ナイ(内)→川
ホロ、ポロ(幌)→大きな
トー、ト→沼、湖
サム(寒)→~の傍(そば)に
チャシ→縄張り
ネップ(熱郛、子府)→流木のあるところ
知床五湖(しれとこごこ)
そして世界遺産・知床を構成する要素の1つに、知床五湖(しれとこごこ)があります。
その5つの湖は、それぞれ一湖・二湖・三湖・四湖・五湖というふうに名前がついています。関係
その美しさについては、私が説明するまでもないでしょう。
YouTubeで「知床五湖」で検索すれば、多くの旅行系YouTuberさんらが動画を上げておられますので、是非観てみましょう。
江戸時代に斜里で起きた悲劇・津軽藩士殉難事件
知床(しれとこ)は、その昔、津軽藩士がたくさん寒さに凍えて死んでしまったという、悲劇の場所でもあります。
これを「津軽藩士殉難事件(つがるはんしじゅんなんじけん)」といいます。
江戸時代の武士たちは、今でいう「自衛官」のような国防の役割も担っていたわけです。なので外国からの脅威に備えて、武士たちは幕府に命じられて海岸線などの警固にあたっていたのでした。
江戸時代、北海道(蝦夷地)ではロシアからたびたび通商(商売をやること)を求められていました。
ロシアからすればロシア産の商品を売ることで利益になりますし、また日本も日本製の商品がロシアに売れて、お互いWinーWinになっていいよね、だから「もちろん貿易してくれるよね」ということで、度々日本にやってきています。
例えば根室にやってきたラクスマンや、長崎にやったきたレザノフらがそうです。
しかし、当時の日本は鎖国中であり、これらを断固拒否してしまいます。そして幕府はもう二度とロシアがやって来ないように、北海道の警備を固めようとします。
そのため、知床・斜里あたりのオホーツク海の海岸の警備を命じられたのが、現在の青森県弘前市(ひろさきし)を拠点にしていた津軽藩(つがるはん)でした。
津軽藩の武士たちは青森県を出発し、海を渡り、何ヵ月もかけて北海道へと徒歩(または馬)で移動します。当時はもちろん新幹線・飛行機・特急列車・高速道路などはありませんでしたから、それだけ大変な移動だったのです。
知床(しれとこ)の地に着いたのは、約3か月後の8月のことでした。
しかし、知床のこの地域は、夏でもひんやりと涼しい(下手したら寒い)ような地域です。
秋には早くも雪が降り始めて徐々に寒くなり、少しずつ体調不良者が続出してゆき、11月にはまるで真冬の極寒のようになってしまい、津軽藩の武士たちは徐々に倒れて死亡してゆきました。
というのも、作った小屋が「本州仕様」であり、オホーツク海の寒い北風が小屋の隙間から入ってきてしまいます。
その隙間から入ってくる風をまともに受けてしまい、あまりにも小屋の中が寒すぎて、火を焚(た)いたとしても煙が室内に充満してゴホゴホいってしまい、まともに暖(だん)をとることもできませんでした。
しかも大量に備蓄していた米と味噌(みそ)の食糧は炭水化物だらけのため、深刻なビタミン不足に陥ってしまい、脚気(かっけ)という病気に苦しむことになりました。
脚気(かっけ)とは、ビタミン不足により末梢神経(まっしょうしんけい)が侵され、手足がしびれるなどの症状がおきてしまう病気のことです。
ちなみにこの地域は、「寒い地域で生活するプロ」であるアイヌ民族ですら住みたくないような(越冬を敬遠するような)地域だったため、津軽藩の武士たちはアイヌ民族からこの「極寒の地域で住むためのテクニック」を教えてもらうことすらできなかったのです。
ここまで凍死・病弱・衰弱者が出てくると、もはやロシアからの海の警護どころではなくなり、倒れた武士たちの看病に追われるという有り様でした。
しかも冬のオホーツク海は凍って(真っ白になって)しまうため、これにより
「凍った海の上を人が歩くことができる」
ようになってしまいます。
この海が凍るということは
「ロシアと陸続きになる」
↓
「ロシア兵が凍った海の上を歩いて来られる」
↓
「ロシア兵が海の上から攻めて来られるようになる」
ことを意味することとなります。
このことに、津軽藩士たちは恐怖するようになります。ただでさえ武士たちは極寒で衰弱し、倒れ続けている状況です。
そこをロシアと陸続き(のために、いつロシア兵が攻めてくるかわからない)という状況に、兵士たちは鬱状態になり、精神的に不安定になってしまいます。
長期の必死の滞在を終え、青森(津軽)へ帰還
このように多くの殉難者を出しただけのオホーツク海近辺警備も、翌年にはなんとか使命を終え、なんとか(春まで)生き残った武士たちは命からがらこの地域を出発しました。春まで出発できなかったのは、海が凍ってしまって(流氷のために)帰りの船が出せなかったためですね。
そして稚内の西に浮かぶ利尻島(りしりとう)からは日本海沿いに船(海路)で青森まで帰ろうとしたのですが、小樽の西にある積丹半島(しゃこたんはんとう)のあたりで嵐で船がやられしまい、仕方なく海路は諦めて陸路で帰ることにします。そして小樽→千歳→室蘭→長万部→函館を経て、なんとか青森・弘前に戻ったそうでした。
しかもこの大量の武士が殉職した事件は、津軽藩の「恥ずべき歴史」であるとして、長年にわたって秘匿・秘密にされていました。
しかし1954年になって、当時の津軽藩士の一人がそのときの悲劇の様子を記した日記・記録が発見されたことで、ここでようやく初めて世間に「津軽藩士殉難事件」の存在が明るみになりました。
そして、亡くなった武士たちの悲劇の歴史を忘れないようにするために、1973年には津軽藩士に対する慰霊碑が建てられたのでした。
そして斜里町(しゃりちょう)と青森県弘前市は、1983年に「友好都市」の関係を結んでいます。
斜里町では、夏になると弘前市の名物である「弘前ねぷた」が、町を練(ね)り歩きます。
「ねぷた祭り」「ねぶた祭り」は、青森県の伝統的行事です。
江戸時代にアイヌ民族が蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」
知床(しれとこ)のシンボル・羅臼山(らうすざん)のある羅臼町(らうすちょう)は、目梨郡(めなしぐん)に属します。
目梨(メナシ)は、江戸時代後期の1789年に起きたアイヌ民族の蜂起・反乱である「クナシリ・メナシの戦い」の舞台にもなりました。
クナシリとは、現在の北方領土・国後島(くなしりとう)のことです。
江戸時代の北海道は蝦夷地(えぞち)とよばれ、松前藩(まつまえはん)によって支配されていました。
松前藩(まつまえはん)とは、北海道の左下(函館よりも南西で青森県に近い)にある、現在の松前町(まつまえょう)を拠点としていた藩になります。
藩(はん)とは江戸時代におけるエリア分けであり、現在でいう「都道府県」のようなものです。いや、都道府県よりももう少し細かい範囲のため、むしろ「市」に近いかもしれません。
江戸時代の北海道(蝦夷地)は、最初こそ松前藩に任せっきりだったのですが、アイヌを冷遇するような交易ばかりで反乱やトラブルだらけになっていました。
それは、和人(日本人/松前藩)がアイヌ側に差し出す「米」などよりも、アイヌ側が提供しなければならない「魚」や「毛皮」などの量の方が多かったため、アイヌ民族側は損をすることとなり、不満を持ったわけです。
それにより、アイヌは江戸時代以前から何度何度も和人(日本人/松前藩)に対して、武装蜂起を起こしてきました。
例えば1457年の「コシャマインの戦い」、1669年の「シャクシャインの戦い」が代表的で有名ですね。
このまま松前藩に北海道(蝦夷地)を任せておくと争いばかりになるため、江戸幕府は北海道(蝦夷地)を幕府の直轄領(ちょっかつりょう。藩による支配ではなく、幕府が直接支配すること)とすることにしました。
そして蝦夷地の商売は、(商売に関しては素人である)武士である松前藩ではなく、本州から派遣された商人に請け負わせました。
まぁ、ある意味北海道の商売関連を「丸投げ」したわけです。そしてこれが後述するように、アイヌ民族にとっての悲運・悲劇の始まり、そして大規模反乱になる「クナシリ・メナシの戦い」へつながっていくのです。
これによって松前藩の武士にとっては
「商人から一定の金額(収穫物)(運上金/うんじょうきん)さえ納めてくれれば、商人はいくら儲けてもいいよ」
という仕組みができました。
武士にとっては(苦手な)商売を商人に任せることができ、なおかつ「運上金」という安定収入も得られるため、この仕組みはオイシイですよね。
このような商人とアイヌの交易(商売)の拠点のことを「場所」といいます。
例えば現在の厚岸町(あっけしちょう。釧路市と根室市の間にある町です)にあった場所は「厚岸場所(あっけしばしょ)」といいます。
このように、江戸時代には北海道のあちこちに「場所」が設けられていました。
この「場所」において商人への請負による商売(トレード、物々交換)が行われていたため、これを「場所請負制(ばしょうけおいせい)」といいます。
しかしこの仕組みが、アイヌ民族を地獄のように苦しめることになります。
商人は少しでも利益を上げるため、アイヌ民族をまるで奴隷のように扱っていくようになったからです。
アイヌ民族に支払う給料が安ければ安いほど(むしろ「タダ働き」させるほど)、商人は儲かることになります。
特に酷かったのが国後島(くなしりとう)で、国後島のアイヌはまるで奴隷のようにこき使われ、次々に過労死して倒れてゆきました。
「こんなことが許されてたまるか!」といってアイヌ民族たちが武装蜂起したのが、18世紀におきた「クナシリ・メナシの戦い」です。
このクナシリ・メナシの戦いは、江戸幕府から次々に援軍が送られゆき、アイヌ軍は太刀打ちできずに、わずか数ヶ月で鎮圧されてしまいました。
このアイヌ民族の大敗をうけ、もはやアイヌにとって江戸幕府は全く太刀打ちできない存在となっていたため、このあたりからアイヌ民族は徐々に幕府(日本人)の言いなりとなってゆきました。
そしてアイヌ民族は日本語の使用を強制(アイヌ語の使用禁止)をされたり、(アイヌは「魚釣り」や「狩猟」が得意だったのにも関わらず)慣れない農業に駆り出されたり、アイヌ文化をはく奪されたりと、アイヌの文化・存在・尊厳は徹底的に否定されていくようになっていきました。
この当時の日本人の行いが、現在においてもアイヌの民族問題・人権問題に関わってきているのです。
斜里岳を左に走る
知床斜里駅を出ると、線路はここで進路を南へ大きく変えます。
そして本格的に、摩周(ましゅう)・釧路(くしろ)方面へと向かってゆくのてす。
斜里岳(しゃりだけ)の姿が現れます。
中斜里駅(なかしゃりえき)を過ぎて、やがて清里町駅(きよさとちょうえき、北海道斜里郡清里町)に着きます。
清里町(きよさとちょう)は、北海道には珍しくアイヌ語由来でない地名です。それは小清水町(こしみずちょう)と、斜里町(しゃりちょう)の間にある町なので、「清里町」というわけです。
北海道で他にアイヌ語に由来しない地名は、明治時代に(北海道に夢とロマンを求めて)移住(入植)してきた人々や出身地・地元の名前だったり、合併して新しく(日本風の名前に)決まったりしたものなどがあります。
川湯温泉駅へ
札弦駅(さっつるえき)・緑駅(みどりえき)を過ぎます。
札弦駅(さっつるえき)は、咲来駅(さっくるえき)と由来が同じです。
アイヌ語で(夏の道)という意味になります。
咲来駅は、宗谷本線・音威子府村の駅です。
やがて川湯温泉(かわゆおんせんえき)に着きます。
今回はここまでです!お疲れさまでした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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