道東の旅11 道東の中心都市・釧路市 鳥取と歩んだ製紙業・漁業の街

道東の中心都市・釧路市

釧路駅(北海道釧路市)
釧路駅(北海道釧路市)

前回で、列車は釧路駅(くしろえき、北海道釧路市)に到着しました。

北海道釧路市(くしろし)は、道東における中心的な街ともいえます。
釧路市は、釧路総合振興局(くしろそうごうしんこうきょく)の振興局所在地です。
振興局(しんこうきょく)とは、北海道を細かい14のエリアに分けて、それぞれのエリアを管轄する機関のことです。
例えば網走市(あばしりし)はオホーツク総合振興局の管内となります。

振興局についての詳細は、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください

道東の旅6 網走に到着!「網走監獄」とともに歩んだ街の歴史

釧路のスタートは、なんと鳥取県!明治の釧路を作った、鳥取の武士

釧路は現在の鳥取県と、とても縁の深い地域だったりします。鳥取県は山陰地方にある県であり、鳥取砂丘や「名探偵コナン」などで有名です。

鳥取市については、以下の記事でわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

山陰鉄道唱歌 第15番 鳥取に到着! 鳥取砂丘や鳥取城、摩尼寺の名所など

釧路駅のやや北西の地域には、なんと「鳥取(とっとり)」という地名があるのです。
そして釧路市の歴史は、鳥取藩出身の武士達によって拓かれたのでした。

北海道には、例えば「北広島市」のように広島県出身者だったり、また「伊達市」の伊達氏(だてし:東北地方を拠点にしていた一族)など、明治時代に移住してきた開拓民の「移住元の地名」「開拓者の名前」を冠した地名が数多くあるのです。

明治時代の北海道開拓のときに、鳥取出身の武士が、北海道に「夢とロマン」を求めて船に乗って、釧路にやってきました。
ただ実際は、南下して進出してくる(南下政策をとる)ロシアに備えて、北海道を強くする(防御する)事が目的だったりします。

ロシアによる南下政策北海道開拓については、以下の記事でも分かりやすく解説していますので、ご覧ください

道東の旅2 石北本線・上川→白滝 駅間距離約40分の国境を越える

四民平等と、奪われる武士の特権 苦しんだ鳥取の武士たち

明治時代になると「四民平等」となり、それまで武士が当たり前に持っていた「刀を保持する」「家禄(かろく)をもらえる」などの特権が廃止され、武士のプライドを傷つけられることとなりました。

武士は公務員のように給料、つまり秩禄(ちつろく)をもらえるという特権があったのですが、これは廃止されてしまいます。これを秩禄処分(ちつろくしょぶん)といいます。武士にとっては安定月給が止められてしまうようなものなので、これはイタいですよね。

さらには「武士の特権」ともいえる刀を持つことも禁止されてしまい、「斬り捨て御免」という行為も出来なくなりました(廃刀例)。
また「苗字(みょうじ)を名乗る」ということも江戸時代では「武士の特権」の一つでしたが、明治時代になると「誰もが苗字を名乗ることができる」ようになり、このことも武士にとっては優越感を削がれるという、まさに屈辱の種の一つでした。

このようにして元・武士達は特権を奪われていったため、プライドがズタズタに奪われ、ひいては生活もままならない状態となってゆきました。

こうなると、たとえ元・武士であっても真面目に働く必要がでてきます。
しかし、元・武士がたとえ慣れない商売に手を出したところで、全然売れませんでした。
元々商売に対する知識や経験も無かった上、さらに気位(きぐらい)ばかり高くてお客様に対しても上から目線の、文字通りの「殿様商売」だったため、お客様には嫌がられてしまい売れるわけもありません。これは「武士の商法」として揶揄されるようになります。
現代でも、例えば今でもそれまで威張っていたばかりの人が、急に慣れない商売に手を出して失敗することを「武士の商売」と揶揄されたりするわけです。

このようにして商売に失敗してしまい、困窮していく武士たちが増えていきました。
商売がうまくいかず、新しい職も見つからず、悉(ことごと)く「転職活動」に失敗する武士たちが後を絶ちませんでした。

そして武士(自分達)がこれまで抑圧してきた平民・町人たちからは「ざまぁ」と馬鹿にされるようになりました。まさに「立場逆転」というやつです。
現代でも、例えば大金持ちインフルエンサーが急に転落してしまうと、ネットでは「ざまぁ」というコメントで溢れますよね。「人の失敗は蜜(みつ)の味」といって、今も昔も、人々は金持ちや有名人の転落劇・不幸話が大好きなのです。
しかしこれでは、元・武士たちは惨めすぎますよね。プライドもズタズタです。

そんな中、九州のあちこちでは「士族反乱」といって、あちこちで士族(元・武士)たちが反乱を起こすようになりました。
例えば鹿児島の西南戦争・熊本の「神風連の乱(じんぷうれんのらん)」、そして「佐賀の乱」などです。

困窮する武士たちに最後に花を持たせようと、武士のリーダーだった西郷隆盛(さいごうたかもり)は政界を引退して地元の鹿児島に戻り、武士達の教育を始めたのでした。武士達に少しでも活躍の場を与えるためですね。
しかしそれが明治政府から「政府への反乱要員を育成しようとしてる!」と勘違いされてしまい、九州・鹿児島へと兵を送られ、西南戦争(せいなんさんそう)が起こったのです。

西南戦争については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 山陽・九州編 第50番 田原坂に到着 西南戦争激戦の地

鳥取から釧路にやったきた武士たち 苦難の連続だった開拓

こうして転職に失敗し、まともな職にもつけず、食うことすらもままなならかった鳥取の士族たちが、鳥取県の県令(現在でいう県知事)から「北海道の開拓」という重大な使命を与えられ、「夢とロマン」を求めてはるばると船で釧路の地にやってきました。
そして釧路の地に鳥取の武士たちが住みつき、「鳥取村」と名付けたのです。鳥取村は後の1943年に「鳥取町」へと昇格し、やがて1949年には釧路市の一部として編入され、現在に至ります。
これが現在でも釧路市に残る「鳥取」の歴史の始まりです。

しかし最初期の釧路は、ただだだっ広くて何もない、まるで地獄のような土地でした。しかも、冬は(本州出身の武士にとっては)恐ろしいほどの極寒の地です。
これまで味わったことのないような寒さをしのぐだけでも、本当に大変だったことと思います。
ストーブや暖房もまともになければ、現在の北海道の家屋と違って「壁が薄い小屋」みたいなものに住んでいたわけです。

さらに、元々は「武士」だったため、土地を耕して作物を育てるといった技術もろくにありません。なので「慣れない農業」と「慣れない北海道の極寒の気候」に悩まされ、武士達は相当に苦しんだといいます。

こうして必死にもがきながら釧路の開墾・開拓を続けた鳥取の武士達は、なんとか仲間同士で支えながら、徐々に釧路を「人が住める土地」に変えていったのでした。
そして必死の思いで釧路を開墾した証として、「鳥取神社」が建てられました。
もし神社があれば、例えば「お祭り」などを目標・楽しみにして頑張ることができます。お祭りでたくさんの人が集まれば、交流とコミュニケーションが生まれ、さらに村人同士の結束を固めることもできます。
神様が開拓民たちの「心の拠り所」となっていったわけですね。
釧路のはるか北・遠軽町(えんがるちょう)でも、キリスト教の教会がたくさんあり、開拓者たちの「心の拠り所」となっていたのでした。

釧路市と鳥取市は現代では「姉妹都市」の関係にあり、現代でも両者間で交流が行われています。

かつての釧路に「多くの富」をもたらした、石炭・漁業・製紙業

釧路の基幹産業といえば、石炭漁業、そして製紙業などが主流であり、これらの産業は高度経済成長期の釧路にたくさんのお金をもたらし、潤してきました。

産業」とは、その地域の人々がどうやってお金を稼いでいくか、という手段のことです。それは工業だったり、漁業・農業・製造業・金融・ITなどたくさんあります。人はお金を稼がないと生きていけないわけなので、その地域でこれらの産業が発達すれば、工場や農地などで働く人たちの雇用が生まれ、作ったサービスや商品が売れることで、多くのお金が街にやってくるというわけです。

しかしその産業のうちの一つである石炭は、1960年代に起きた「エネルギー革命」により石炭から石油に移行され、石炭は売れないものとなり、炭鉱・鉱山は次々に閉山してゆきました。
すると炭鉱・鉱山で働いていた人々や家族の職が無くなってしまい、転職のために人々が次々に釧路の町から出ていってしまうことを意味します。
これは釧路市にとっては人口減少につながり、とても痛いことです。

釧路と富士製紙・北洋漁業

また、釧路は製紙業(紙を作ること)もとても盛んであり、新聞雑誌などの紙媒体が主流の時代には、製紙業は釧路の街に大きな富をもたらしました。

富士製紙(ふじせいし。後に日本製紙)は長年にわたって釧路の経済を支えてきたのですが、時代は次第にスマホペーパーレスの時代になり、人々は新聞ではなくスマホでニュースをチェックする時代になりました。そのため新聞が衰退すると、紙の需要も必然的に下がってきます。そして製紙業はどんどん衰退・縮小を余儀なくされてゆき、ついには2021年に釧路市から撤退してしまいました。
工場が撤退するということは、そこで働いていた人々や家族の職・雇用が無くなり、転職のために釧路から出ていってしまうことを意味します。
これは釧路市にとっては人口減少につながり、とても痛いことです。

余談ですが、根室本線に新富士駅(しんふじえき、北海道釧路市)という駅があるのはこの富士製紙があったためです。
新富士駅といえば、静岡県富士市のにある、東海道新幹線の駅を連想してしまいますよね。実際、富士市を拠点にしていた富士製紙が、ライバルの王子製紙苫小牧市に進出してきたのに対抗するために、釧路へ進出してきたことがはじまりです。

このような王子製紙富士製紙の歴史についての詳細は、以下の記事でも分かりやすく解説していますので、ご覧ください

鉄道唱歌 東海道編 第18番 富士山の麓をゆき、源平の戦いの富士川を渡る

釧路はさらに遠洋漁業北洋漁業)もとても素晴らしかったのですが、あまりに遠くの海に釣りにいって取りすぎ・儲けすぎたため、外国から苦情が出てしまい、200海里に制限されたことで、好き勝手に遠くまで行って魚釣りをする遠洋漁業が出来なくなってしまい、こちらも衰退してしまいました。

深刻な衰退と人口減少に悩む、釧路市

釧路市はかつては札幌市・旭川市・函館市に次ぐ北海道第4位の人口を誇っていました。
しかし先述の理由などで人口減少が相次ぎ、現在では人口16万人を切ってしまい、苫小牧市(とまこまいし)や帯広市(おびひろし)にも人口を抜かれ、駅前にはいわゆる「廃墟ビル」が立ち並ぶなど、かなり悲惨な状況になってしまっています。
もちろんこれは釧路市に限ったことではなく、例えば日本一人口の少ない歌志内市(うたしないし)や、財政破綻した夕張市(ゆうばりし)などをはじめ、北海道の各地で人口減少が深刻になっています。
また、全国の各都市でもこうした産業の衰退・超少子高齢化などによって、日本の地方都市の衰退はとても深刻になっているわけです。言い換えれば、「日本全体がヤバい」状況なわけです。

釧路市の場合は、元々(高度経済成長期~バブル期)が栄えすぎたためか、その分衰退のスピードも半端なく、釧路市はとりわけ「衰退がヤバい地域」などとしてクローズアップされる(切り抜かれる)イメージがあります。
それは先述のように製紙業・漁業・石炭業などが栄えすぎたこともあり、かつては「釧路に移住すれば儲かる」というような世の中の風潮もあったことから、高度経済成長期~バブル期には全国各地から多くの人々が釧路に移住してきました。
しかし上記産業が衰退すると、今度は人々は新たな職を求めてどんどん街から人がいなくなってしまいます。一旦街が栄えすぎると、その反動による人口激減もまた怖いということですね。

悪いことばかりじゃない!釧路の「素晴らしい魅力」 夏はとにかく涼しい

ここまで釧路の「負の部分」ばかり書いてきましたが、釧路にはもちろん素晴らしい点もたくさんあります。
まず釧路には「釧路湿原」という、本州ではまず見られない広大な湿原や、湖の景色があります。
また、同じく本州にはないほどの絶景を持つ知床(しれとこ)・摩周(ましゅう)・根室(ねむろ)方面への観光の拠点としても、とても便利な街です。

また、釧路は夏は涼しく、冬も比較的温暖(※)でそこまで雪が積もりません。(※温暖というのはあくまで「北海道の中では比較的温暖」ということであり、もちろん本州に比べれば雪は降るし寒いです。)

例えば札幌市や旭川市などの道央・道南の地域では、夏は30度は普通に越えるため、北海道とはいえかなり暑くなります。しかし釧路などの道東の地域は、夏でも20度~30度程度であり、とても涼しくなります

釧路は夏でも30℃まで行かないことも多く、夏の期間のショートステイ避暑にも優れています。
したがって、ものすごく暑がりな方は、釧路への移住も検討してみるとよいことでしょう。

残念ながら現在の釧路駅前は、先述の通り「廃墟ビル」まで並ぶほどにまで閑散としているのですが、いわゆるイオンモールなどが存在する郊外の地域にまで行けば、かなり商業施設も多く便利な地域となります。

次回は、花咲線(はなさきせん)に乗って根室(ねむろ)方面へと向かいます!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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