道東の旅13 根室・納沙布岬を探訪 北方領土に近い、日本最東端の市

日本最東端の市・根室に到着

前回で、列車は根室駅(ねむろえき、北海道根室市)に到着しました。

根室駅(北海道根室市)

北海道根室市(ねむろし)は、日本で最も東にある都市になります。
気候はとにかく冷涼で、夏でも暑くないばかりか、むしろ寒かったりもします。私(筆者)が初めて根室市に行ったときは、夏にも関わらず気温はなんと14度でした。
8月の真夏であってもわずか14度であり(ただし当時の天気は雨)、東京では35度もあることとは対照的に少し寒かった記憶があります。

日本最西端の与那国島(よなくにじま。すぐ西隣は台湾)とは、なんと約40分もの時差があります。

時差については、以下の兵庫県明石市の記事でも解説しているため、ご覧ください。

鉄道唱歌 山陽・九州編 第6番 明石の海の景色と、柿本人麻呂の歌 そして東経135度の「時間の街」

根室駅からは、バスで納沙布岬へ

根室駅からは、バスで日本最東端の地・納沙布岬(のさっぷみさき)まで移動します。
バスで約20~30分ほど東へ走ると、納沙布岬に到着です。

納沙布岬灯台(北海道根室市)

納沙布岬(のさっぷみさき)は、日本人が通常立ち入ることができる日本最東端の地です。

この海の先は、まさしく北方領土があるという土地になります。

納沙布岬より。海の向こうは「北方領土」(北海道根室市)
納沙布岬より。ここが、現代の我々日本人が行くことができる、日本最東端の地だ(北海道根室市)

この納沙布岬こそが、現代の我々日本人が行くことができる・踏み込むことができる、日本最東端の地ということになります。

ちなみに道北・稚内市にある「ノシャップ岬」とは名前が似ていますが、全く別物になります。ただし語源は同じです。

ノッ(海に突き出た陸地)
サム~のそばに

で、「岬のそばに(あるコタン(村など))」という意味になります。

ノッサム→ノッシャム→ノシャップのように、恐らく長年をかけて変化したのでしょう。

紛らわしいので、最初は「漢字=根室市」、「カタカナ=稚内市」と覚えておくとよいでしょう。

アイヌ語で「ノッ(岬)」は、他にも根室市の「ノッカマップ岬」などで出てきます。

また「サム(寒)(~のそばに)」は、函館本線・札幌市の発寒(はっさむ)や、宗谷本線の和寒(わっさむ)などで使用例があります。

北方領土と、北方領土問題

北方領土(ほっぽうりょうど)は、歯舞諸島(はぼまいしょとう)・色丹島(しこたんとう)・国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)の4つの島からなる領土です。

なかでも択捉島(えとろふとう)は、日本が領有権を主張する範囲では日本最東端の島であり、なんと鳥取県と同じくらいの大きさがあります。
かなり大きな島であり、択捉島の最北端のカムイワッカ岬は稚内の宗谷岬(そうやみさき)よりも北に位置します。
なので、日本が領有権を主張する範囲における日本最北端・最東端の地は択捉島の「カムイワッカ岬」となります。

北方領土には、古くからアイヌの人々が生活していました。なので、上記の北方領土の名前(クナシリシコタンなど)はみなアイヌ語に由来しています。
そして、江戸時代の始めには、江戸幕府が「正保国絵図(しょうほうくにえず)」という地図の作成を各藩に命じて、地図をつくらせてちす。

この「正保国絵図(しょうほうくにえず)」は、なにせ江戸時代初期に作られた地図であるため、今と比べたら全然正確ではなく、グチャグチャでテキトーな形の北海道(蝦夷地)が描かれています。まぁ、それは仕方ないですよね・・・。
ただしそこには(蝦夷地の東側には)、北方領土とおぼしき島々も手描きによって記載されています。
北海道の形が現在のように「クレヨンしんちゃんの野原みさえの髪型みたいな形(=ネット上でよくみられる意見)」であると判明したのは、江戸時代後半に伊能忠敬(いのう ただたか)が蝦夷地の測量を行い、正確な地図を作成してからです。

そしてこの「正保国絵図」に描かれた北方領土の存在こそが、日本が「北方領土は我が国固有の領土である」と主張する根拠の一つとなるのです。それは、江戸時代初期から日本が北方領土の存在を認知しており、支配・統治していたことの何よりの証明になるからですね。

なぜ、北方領土問題が起きたのか

北方領土は、現在では「ロシアによる実効支配」となっています。
「実効支配」とは、法的には日本の領土として定義されていても(現行では根室総合振興局の管轄という扱いになっています)、実際の統治・支配はロシアが行っている、ということになります。
つまり日本の施政権が及んでおらず、ロシアによって占領されている状態なので、日本政府は常に「北方領土の返還」をロシアに求めているのです。
現在は日本人が北方領土に立ち寄ることは出来ない状態となっており、多くのロシア人が暮らしています。

もちろん日本側の立場としては
北方領土は一度も他国の領土になったことがない、ロシアにより不法占拠されている我が国固有の領土
という主張となっています。

対して、ロシア側の主張としては、
第二次世界大戦で勝ち得た、正当な我が国の領土
という立場を取っているわけです。

1945年8月15日、天皇陛下による「玉音放送(ぎょくおんほうそう)」をもって、日本が戦争に敗北したことがラジオ放送によって国民に知らされます。
この時、多くの日本国民が泣き崩れることとなりました。

しかし、戦争が正式に終了したとみなされるのは、1945年9月2日に行われた、ミズーリ号における降伏文書調印をもってからになります。
つまり、アメリカの戦艦・ミズーリの艦内で、日本の代表が
私たちは戦争の負けを認めるので、これによって戦争が終結することを認めます。」
という降伏文書にサインしたわけです。
これにより、世界では正式に第二次世界大戦が終了したという扱いになります。

しかし、問題はここからです。

日本が8月15日の「ポツダム宣言受諾」「玉音放送」をもって、
もう戦争はやらないので、うちに攻めてくるのは勘弁してください!
と降参したのにもかかわらず、ロシアはその3日後の8月18日から9月1日の間に、択捉島・国後島を占領していきます。
しかし、世界の基準(国際法)では、先述の9月2日の「降伏文書調印」をもって「戦争終了」だと定義されています。
逆にいえば、8月16日~9月1日の期間は、世界の認識ではまだ「戦争中」という扱いであるということです。

日本人の多くは「8月15日=終戦の日」という認識なわけですが、世界の認識では「9月2日=終戦の日」なのです。
ここに、日本と世界との間で「認識のズレ」が生じてしまっています。

つまり、

日本戦争がもう終わっていたのに、不法占拠するのは酷い!

ロシアいや、まだ戦争は終わってなかったのだから正当だ!

という認識のズレが起こってしまいます。
端的にいえば、これこそが未だに解決されない「北方領土問題」というわけです。
なので例えアメリカであっても、ロシアに対して
完全なる国際法上違反なのだから、北方領土を今すぐ日本に返せ!
とまでは強く言えないわけですね。

つまり、世界の認識では「戦争中」の期間に占領した領土なのだから、ロシア側は
戦争で勝ち得た、正当な我が国の領土だ
と主張しているわけですね。

しかし日本としては、8月15日の段階でもう戦争は止めている(武装放棄している)状態なので、ある意味何の抵抗・防衛も無しに奪われてしまった領土、だということになります。
ボクシングで例えるならば、もう降参してフラフラになっている相手ボクサーをボコボコに殴るようなものです。つまりここは「法がどうこう」というよりも「倫理観」の話・問題になってきます。

しかも歯舞諸島・色丹島のいわゆる「二島」に関しては、降伏文書調印後の9月3日以降に占領されています。
こちらに関しては、戦争が完全に終結した上での占領となるため、国際法上でも完全にルール違反ということになります。そのため「不法占拠だ」と言われてもおかしくないわけですね。
そしてこの事が、後にいわゆる「二島返還論」の根拠になっていくのです。この二島に関しては確かに違反だから、ロシアとしても「返してあげてもいいかな~」と外交の時に「返還を匂わせる」ようことがあったりするわけですね。

「二島返還」か、「四島返還」か 長年にわたって揺れる議論

ただ、この「二島」は北方領土全体のわずか7%と小さいため、「二島返ってきた」=「半分返ってきた」とは素直にはならないのです。
国後島はとても大きく、また択捉島も鳥取県と同じくらいの面積があり、とても大きいのです。

ただし「二島返還」であれば、ロシアとしても失うものはそこまで多くないし、日本としては穏便(おんびん)にロシアに対して返還交渉を願い出られる、というメリットがあります。

つまり「二島返還」であれば融和路線であり、あまりロシアを刺激せずに、
北方領土を返してくれませんかね?
融和的に交渉に臨むことができます。
しかし愛国心が強い方々にとっては
そんな弱腰でけしからん!四島全部返せ!
と思われてしまい、政府が猛批判されるリスクもあります。
しかし「四島返還」をやたら強く主張すると、ロシアを刺激してしまい、かえってロシアとの関係が悪化するなどの危険性もあり、とても複雑でデリケートなのです。

後述するように、北方領土で生まれて北方領土で育ったというロシア人たち(=北方領土問題に全然関係も責任もない人たち)既にたくさんおり、日本側としても、もし北方領土が返ってきたときの配慮・行動・処遇について考えることも必要です。

北方領土が、もし本当に日本に返ってきたら 必ずしもラッキーな事ばかりではない?

北方領土がもし本当に日本に返還されたら、根室市が北方領土を管轄するのか、それとも新たに「国後町」・「択捉町」などが発足して、そこに新たに税金を投入し、警察・消防・税務署・町役場などの公共機関を新たに設備していくのか、などの方針について充分に考えていく必要があります。
これらのことは、町の平和な生活を維持していくためにも必要であり、とても重要なことです。

今はある意味、ロシアがそれらの業務(公務)負担をやってくれているという状態であり、ロシアが北方領土の住民の面倒をみてくれていることでもあるわけなのですが、もし北方領土が日本に返還されたら、今度はそれらの業務・公務・責任はすべて日本に引き継がれるわけです

というか、(本人の意思とは無関係に)北方領土に生まれ、北方領土で生まれた(北方領土問題に)何の関係や責任のないロシア人やその子供たちの生活を、今後どう対処して保障していくのかについても重要になります。
彼らには日本語を学んでもらった上で引き続き住んでもらうのか、それとも生まれた故郷を(日本がその後の生活をサポートをしながら)去ってもらってロシア国内に転居してもらうのかなど、居住地や言語・文化に対する様々な問題が発生するわけです。
もし国後町・択捉町に新しく学校が出来たら、
お前はロシア人だろ!お前らの先祖は北方領土を不法占拠した悪いやつらだ!
などという「差別」や「いじめ」が起こることも十分に考えられるでしょう。

つまり何が言いたいのかというと、
「北方領土が還ってきた」=「日本はラッキー」
というだけでは簡単には済まされないのですね。

もしロシア側からある日突然、
もう日本の言い分は充分わかった。だったらもう北方領土は返してあげよう。後のことはよろしく。
と言われたところで、その諸問題については上記の通り複雑なのです。
こうした諸問題がみな解決されて、日本人とロシア人がみんな納得する状態になってからこそ、ようやくWin-Winであり平和な結果がもたらされるというわけです。

もちろん、現在の日本政府は、返還後のロシア人・住民の暮らし・人権は充分に保障していく、という声明を出しています。

私(筆者)個人の意見としては、一日も早く、北方領土の問題が解決に向かい、みんなにとって幸せな結果が生まれるようになることを、願ってやみません。

江戸時代後期のアイヌ民族の蜂起「クナシリ・メナシの戦い」

現在では北方領土の一つである国後島(くなしりとう)は、江戸時代の1789年に「クナシリ・メナシの戦い」が起きた場所でもあります。

北海道(蝦夷地)におけるアイヌ民族の戦いは、大きく分けて三つあります。

コシャマインの戦い(1457年・室町時代)
シャクシャインの戦い(1669年・江戸初期)
クナシリ・メナシの戦い(1789年・江戸後期)

ちなみに「コマシャイン」ではありません
コシャマイン」です。
読み間違えないよう気をつけましょう。

メナシは「目梨」と書き、以前紹介した知床半島(しれとこはんとう)の地域のことです。
現在も目梨郡(めなしぐん)という、羅臼町(らうすちょう)も所属する郡があります。
メナシには「東の」という意味があります。

クナシリ・メナシの戦い」は、江戸時代後期の1789年に起こったアイヌの武装蜂起です。

当時、国後島にはラッコアザラシなどの貴重な資源(食べ物や毛皮にもなる)がよく採れたため、こうした資源は採ればとるほどたくさん高値で売れました。
なぜなら「毛皮」は、本州の人々にとっても防寒のためにとても重宝したからです。

なので松前藩(=江戸時代に、蝦夷地を管轄していた藩)の商人たちは、「毛皮」の取引で儲けるために、アイヌ民族たちをまるで奴隷のように働かせていました。これによる不満と怒りが、後述するように「クナシリ・メナシの戦い」のきっかけになるのです。

ではなぜ商人がわざわざ蝦夷地で商売をやっていたのかというと、それまでのように松前藩(武士)が直接アイヌ民族と商売をやると、アイヌ民族に不利益になるような(松前藩ばかりが儲かるという不公平な)取引ばかりをやってしまい、先述の「シャクシャインの戦い」に代表されるような争いばかり起きてしまっていたからです。
なので蝦夷地での商売は、江戸時代初期から続く松前藩ではなく、本州から来た「商人」になかば「丸投げ」するような形で、商売を任せていた(請け負わせていた)のです。
こうして商人には商売をやらせておき、しかも「運上金(うんじょうきん)」という安定収入までもが得られるという、松前藩にとってはおいしい仕組みが出来上がりました。
この「運上金」は、松前藩が商人に対して「ここでなら好き放題商売をやっていいよ」という権利を売り(権利を保証し)、その対価として得られる、という名目のお金でした。
この「商人」によるアイヌ民族との取引は「場所」とよばれる場所で行われため、「場所請負制(ばしょうけおいせい)」と呼ばれます。「場所」は、当時北海道(蝦夷地)の各地に存在していました。

しかし、この場所請負制はどのみち最悪な結果を招く制度でした。
それは商人たちが、アイヌ民族たちをまるで奴隷のように働かせたからです。
商人たちからすれば、アイヌ民族に給料を払わないで働いてもらう方が、自分たちの利益が高くなるに決まっています。
例えばアイヌ民族たちにたくさん魚を釣らせ、たくさん動物を捕まえさせ、毛皮を納めさせた方が得します。
そして松前藩に先述の「運上金」を支払いさえすれば、あとは全部自分たちの利益です。
その上、アイヌ民族たちの武力よりも、松前藩や江戸幕府がバックについている本州人(和人)の武力の方が大きいため、逆らえるわけもありません。
このように明確に「力関係」が劣っているアイヌ民族は、奴隷のような扱いをされても従うしかありません。

しかし、このように散々な「タダ働き」をさせられた結果、アイヌ民族は次々に過労死して倒れてゆきます
理不尽な強制労働を強いられたことで、これはさすがにアイヌ民族たちは怒りが爆発します。

そして、国後島のアイヌ民族たちは一致団結し「和人を倒せ」と立ち上がったのでした。
これが1789年に起こった「クナシリ・メナシの戦い」というわけです。

ちなみに「コシャマイン」「シャクシャイン」両方の戦いも、同じく和人のやり方に不服を感じたアイヌ民族による蜂起でした。
しかし、いずれもアイヌ民族の敗北・和人の勝利に終わっています。

この「クナシリ・メナシの戦い」も、近代的な装備を備え、次から次へと援軍を送り込んでくる江戸幕府の軍隊を前に、アイヌ民族は太刀打ちできずに敗北してしまいます。

このように「アイヌ民族VS和人」の抗争は大きく分けて3回あったわけですが、アイヌ民族は全て敗北しているわけです。

もうこれ以上江戸幕府には逆らうことはできない」と悟ったアイヌ民族は、アイヌ民族の「誇り」と「文化」を捨てて日本人と同調していくのか、それともアイヌ民族の誇りとともに自決してしまうのかという、2つの運命のいずれかを迫られることになったわけです。

こうした歴史的な日本人とアイヌ民族のトラブルが、現代でも尾を引いていたりするのです。

納沙布岬の観光を終え、再び根室駅・釧路駅へ

納沙布岬の観光を終えると、根室駅に再びバスで戻り、花咲線で釧路駅へ戻ります。

そして次回からは、根室本線帯広(おびひろ)・新得(しんとく)・新夕張(しんゆうばり)・千歳(ちとせ)方面へと向かいます。

今回はここまでです!

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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