今回は、神奈川県・湯河原(ゆがわら)に行った時のことについて語っていこうと思います!
湯河原(ゆがわら)は、神奈川県の南西にある、静岡県・熱海(あたみ)にも近い町であり、歴史的に多くの有名人(作家や政治家など)に愛されてきた温泉街でもあります。
湯河原駅に到着
まずは、東海道線・湯河原駅(ゆがわらえき、神奈川県足柄下郡湯河原町)に降り立ちます。
まず、湯河原駅前でもっとも最初に出てくるのが、手湯(てゆ)です。
冬の寒い日には、まずはここで手を暖めて、体全体に暖かい血を送ってあげましょう。
こうして体の代謝(たいしゃ)が上がり、寒い冬であれば動脈を通じて「熱い血液」が全身に届き、いわゆる「あったか効果」が期待できます。
湯河原のヒーロー・土井兼平
湯河原駅の前でひときわ際立つのが、土肥実平(どい さねひら)の像です。
土肥実平(どひ/どい さねひら)は、平安時代末期から、鎌倉時代初期にかけての武将です。いわゆる源平合戦のときに湯河原で活躍した武士のリーダー的存在であり、あの源頼朝(よりとも)の味方についてともに平氏と戦い、鎌倉幕府の成立に貢献しました。
土肥は「どい」とも読みます。「どひ」でも構いません。
ちなみに静岡県伊豆市(いずし)の伊豆半島・西側のエリアにも「土肥」という地域がありますが、こちらは「とい」と読みます。
土肥金山(といきんざん)で有名ですね。
鎌倉時代になる少し手前の平安時代末期、つまり源平合戦のときでした。このサイトでも以前解説した通り、当初は伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま:静岡県伊豆の国市)に流罪となっていた源頼朝が、約20年間の伊豆での生活を経た後、1180年に起きた以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)によって、全国の源氏が兵を挙げることになりました。
源頼朝の伊豆・蛭ヶ小島でのエピソードついては、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
源頼朝が「平氏を討て」といってこの地域で挙兵した石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)に、土肥実平は真っ先に頼朝の味方につきました。
そして土肥実平は、源頼朝の忠実な部下として戦うこととなりました。
その他の武士チーム達はみんな分裂したり、没落して散っていったりするなか、土井実平だけは違い、真っ先に頼朝に味方をしたわけです。
そうしたことから、頼朝からは厚く信頼され、鎌倉時代に入ってからも(少なくとも鎌倉初期に起きた「和田合戦」で負けるまでは)優遇されていくこととなりました。
湯河原を拠点としていた土肥実平 あの小早川秀秋の祖先!?
土井実平は、現在の湯河原駅より少し北の城願寺(じょうがんじ)の辺りが居館(きょかん)、つまり住んでいた(拠点としていた)場所であったとされています。
城願寺(じょうがんじ)は、土肥実平によって建てられたとされるお寺であり、また土肥一族のお墓があるお寺でもあります。また、館(やかた)とは、簡単な防御施設を備えた住居のことです。
土肥実平は相模土肥氏(さがみどいし)の祖先であり、またここから派生した小早川氏(こばやかわし)の祖先とされています。
土肥氏はあくまで「土肥氏」ではあるのですが、他に富山県を拠点にしていた越中土肥氏(えっちゅうどいし)などの同名の一族もあったため、他の地域の土肥氏と区別するために「相模土肥氏」と呼んでいるわけですね。ちなみに相模国(さがみのくに)とは、神奈川県西部の地域をいいます。一方、神奈川県東部の横浜市・川崎市は武蔵国(むさしのくに)の領域になります。また越中(えっちゅう)とは、現在の北陸・富山県のことです。
小早川氏(こばやかわし)は、かの有名な1600年に起こった関ヶ原の戦いで、「裏切り(寝返り)」によって徳川家康の敵から味方についたことで有名な小早川秀秋(こばやかわ ひであき)らに代表される一族ですね。小早川秀秋は、この「寝返り」行為により、(徳川家にとって有利な)敵の情報を提供したことから、家康に評価されたのでした。土肥実平は、その小早川氏の祖先にあたるということです。
土肥実平が率いた、湯河原が拠点の武士チーム「中村党」
土肥実平は、相模国(さがみのくに:神奈川県西部)の有力豪族(=強くてお金を持っている人たちの集まり)である「中村氏」の一族にあたります。そして「中村党」という、湯河原を拠点とする強い武士のチームを率いていました。
当時、同じ相模(さがみ)・伊豆(いず)あたりの地域には、いわゆる「源氏の味方」であった武士のチームである鎌倉党(かまくらとう)や工藤党(くどうとう)らの一団がありました。しかし色々あって、内部分裂してしまったという事情がありました。
それは恐らくですが「内輪揉め」とか「内部での権力争い」とか、あるいは「チームのやり方をめぐって揉める」とか、そういった類(たぐい)のものでしょう。
しかし土肥実平率いる中村党だけは分裂せず、彼を中心に結束を固めてゆき、源頼朝について「石橋山の戦い」で一致団結して戦ったのでした。
このことで土肥実平はその後、源頼朝の信任を受け、鎌倉幕府の成立にあたって優遇されていくこととなったのでした。
中村党(なかむらとう)という名前の由来は、土肥実平のお父さんが中村という苗字だったことに由来します。土肥実平は、恐らく現在の湯河原の土地に本拠地をかまえてから「土肥」を名乗り始めたものと思われます。
「石橋山の戦い」での敗北、そして頼朝の房総半島への船出
そして先述の通り、以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)があった1180年になり、源頼朝が「平氏を討て」といって挙兵すると、先述の中村党(なかむらとう)を率いて「石橋山の戦い」に頼朝とともに参加しています。
しかし、残念ながら結果は敗北となりました。
そして後述の通り、土肥実平は源頼朝が房総半島へと船出する準備を整え、頼朝は房総半島へ上陸するのでした。
源頼朝が房総半島に上陸したときのエピソードは、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
房総半島一周の旅8 源頼朝ゆかりの地、安房勝山へ はるばる海を渡ってきた土地
房総半島における千葉氏(ちばし)も、土肥実平と同じく源頼朝の味方につきました。
千葉氏は、源頼朝が房総半島に渡ったとき、真っ先に頼朝の味方につきました。もちろん千葉県の名前の由来になった一族でもあります。
そのために千葉氏は、鎌倉時代になってからは優遇されることになったのです。
敗北、頼朝の房総半島船出、そしてその後
「石橋山の戦い」で敗北した源頼朝は、残りわずか7~8ばかりの馬を率いて逃亡しました。そのときに隠れた場所が、湯河原・真鶴(まなづる)にある「ししどの窟(いわや)」です。その中のメンバーの一人に土肥実平も加わっていたとされます。彼はあくまで最後まで、主君・頼朝に対して忠実だったというわけですね。
そして土肥実平は、頼朝が箱根山(はこねやま)での自害を覚悟した際に、自害の作法や故実(こじつ:昔からの習わしのこと)を伝授したとされました。当時は、武士はもし逃げ場を失って負けそうになったら、どこの誰かもわからないような無名な兵士に殺されるよりも、潔(いさぎよ)く自害した方が美しいと考えられていましたから、当時は「自害の正しいやり方」がきちんと定義されていたものと思われます。
ちなみに、なぜ頼朝は自害したくなるほどの状態になったのか。以前解説したように、それまで伊豆半島・蛭ヶ小島(ひるがこじま:静岡県伊豆の国市)に配流・流罪の身となって約20年も過ごしてきて、準備万端だったはずの頼朝も、さすがに「石橋山の戦い」における初っ端(しょっぱな)からの敗北は、さすがに精神的にもきつかったのかもしれません。
一時は(潔く)自害を決意した頼朝でしたが、その間にも土肥実平は「房総半島に渡る準備」をしていましたから、もしかしたら土肥実平が源頼朝に対して「自害を思い止まらせ、房総半島に渡らせる決意をさせた」のかもしれませんね。
もうしそうだとしたら、土肥実平は鎌倉幕府の成立にとても大きな貢献したことになり(つまり、もし源頼朝がここで本当に自害していたら、鎌倉幕府の成立も当然無かったことになります)、それだけの功労者なのだからJR湯河原駅前に銅像が建てられるのもわかります。
先述の通り「石橋山の戦い」に敗れ、これからどうしようかと考えていた源頼朝でしたが、その頼朝の配下にあった武将である加藤景員(かとう かげかず)や宇佐美祐茂(うさみ しげもち)といった武士たちは、
「どうか、頼朝さまと是非行動を一緒にさせてくださいませ」
と申し出てきました。
これに対し、土肥実平は
「今は敵に見つからないように、目立たないように、バラバラに逃げることが大事だ」
と説得したとされています。
それは大勢で行動すると「かえって目立ってしまう」ため、ここは一旦バラバラになって行動することを優先させたのでしょう。
仲間全員が倒れてしまっては意味がないですからね。
こうして、バラバラに行動し、頼朝は房総半島へと渡りました。
そして源頼朝は、房総半島の(平氏に不満を持つ)武士たちを次々に味方につけてゆき、源氏は勢いを増してゆき、敗走・敗北を繰り返す平氏をどんどん西へと追い詰め、1185年に、山口県下関市での壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)において平氏を滅ぼし、1192年に征蝦大将軍(せいいだいしょうぐん)に任命されて、鎌倉時代のスタートとなります。
その途中で、土肥実平は兵庫県の「一ノ谷の戦い」において、頼朝の弟である源義経とともに参戦しています。
バスで奥湯河原へ
かなり前置きが長くなってすみません。
湯河原のメインの観光地は、奥湯河原(おくゆがわら)になります。
奥湯河原には、高級な別荘地や温泉地などが存在します。歴史的に多くの政治家や作家などに愛されてきた地域であり、まさに湯河原といえばここになります。
湯河原駅からバスで約10分、奥湯河原へと向かいます。
多くの文人や著名人に愛された湯河原
湯河原温泉は、国木田独歩(くにきだ どっぽ)など多くの文豪(小説家)に愛されてきた歴史かあります。
例えば太宰治(だざい おさむ)や石川啄木(いしかわ たくぼく)などの小説家を見ればわかるように、小説家や音楽家・画家の中には精神を病んでいた人が多く、例えば「散財」「常軌を逸した女遊び」「借金・浪費癖」「薬物中毒」など、今でいうところの「社会不適合者」に該当する人が多かったといえます。
恐らく、発達障害などの精神障害にも近い要素を持っていたともいえるでしょう。
やはり精神的に病んだりしがちな文豪たちは、こうした温泉地はとても癒され、リラックスして執筆に集中できる場所だったものと思われます。なので社会不適合者(失礼)な文人たちの執筆の場所に選ばれてきました。
しかしこうした「社会不適合者」たちは、たとえ人と関わったり世間とうまく同調したりすることは苦手であっても、一人で集中してできる作業については天才的な才能を持っている可能性があります。
例えば「小説を書く」「作曲をする」「絵を描く」「YouTuberとしての作業に集中する」「黙々とプログラミングに集中する」というような仕事は、まさに天職になるわけですね。
いわゆる「社会に馴染めない変わった人」だからこそ、普通の人が思い付かないような「変なこと」を色々思い付いたりするので、それが小説のネタにもなるわけです。
社会不適合者の方々にとっては、例えばYouTuberやフリーランスなど、なるべく一人で黙々と集中でき、人と関わらずにできる仕事の方が向いているといえます。
太宰治も湯河原温泉に来たことがあるかは知りませんが(来たことあるかもしれませんが)、隣の熱海温泉(あたみおんせわ)や、群馬県・水上町(みなかみちょう)の「みなかみ温泉」、山梨県甲府市の湯村温泉(ゆむらおんせん)などに逗留(とうりゅう)していたことがあります。
逗留(とうりゅう)とは、ある一定の期間温泉街にとどまって、心を落ち着かせながら、小説を書き続けることです。
そして湯河原は、舛添要一(ますぞえ よういち)元東京都知事も別荘を構えていたことで知られます。
「二・二六事件」も起こった湯河原
1936年に起こった二・二六事件も、ここ湯河原で起こりました。
事件そのものは東京(しかも国会議事堂などがある永田町/ながたちょう)で起こりましたが、その影響はなんとここ湯河原にも飛び火しています。
二・二六事件について簡単に説明します。
この事件は、皇道派(こうどうは)と統制派(とうせいは)の戦いでした。
皇道派とは、
「天皇こそが、この国の主権者でなくてはならん!だって大日本国憲法にそう書いてあるじゃないか!」と主張する人たちです。
対して、統制派(とうせいは)とは
「いや、世界をみても皇帝は君臨するのみで、実際の統治は国民がやっているじゃないか!」
という主張をする人たちです。どちらかというと、こちら側の主張の方が当時のトレンドであり、前者はむしろ古い考え方でした。そして昭和天皇ですら、世界のトレンドである後者の考え方を推していたのです。
そんな皇道派が「天皇主権を取り戻せ!」といって千代田区・永田町に侵入し、国会議事堂などの政府機関を占領し、天皇の奸(かん:相応しくない、の意味)とみなされた当時の内閣総理大臣である高橋是清(たかはし これきよ)を殺害したというのが、二・二六事件です。
いわゆる、国家転覆を狙う「クーデター」というものです。
当時、時代は既に「昭和」になっており、「天皇主権」をうたっていた明治時代の憲法である「大日本帝国憲法」は、もはや時代にそぐわないものになっていたのかもしれません。1930年代の時点で、大日本帝国憲法ができてから既に40年以上が経過していました。その間にも世界は目まぐるしく変化しており、世界の価値観もどんどんアップデートされていました。
当時の世界は「(皇帝は)君臨すれども統治せず」といって、皇帝は存在こそするけれども「実際の政治」は国民が行うという、ある意味「国民主権」のような雰囲気に、既になっていたからですね。
もし日本が(世界関係なく)日本だけで生きていればいいのですが、昭和のはじめには既に
「世界ともうまく強調してやらないといけない時代」
になっていました。
そんな中で日本が世界に取り残されて「天皇主権」とやっていては、日本だけ世界からバカにされ、まともな国としてはみなされずに、貿易や外交などにおいて「下級国家」という扱いを受けて不利になる可能性だってあったわけです。
このように日本だけ「格下の国」という扱いをされると、国際的な立場が下がってしまい、日本の意見が通りにくくもなってしまいます。
話がだいぶそれましたが、そんな「天皇主権は古い!」という当時のトレンドと(統制派)、「いや、憲法にそう書かれているのだから、あくまで天皇主権でいくべきだ!」という皇道派の意見がぶつかる形で、皇道派による国家転覆のクーデターである二・二六事件が起きたということです。
そしてその影響が、ここ湯河原にも飛び火したということです。いわゆる「天皇主権」という伝統的な考えを持つ軍人・大尉が、政府のお偉いさんである大臣を湯河原において襲撃したというわけですね。その襲撃事件は「光風荘(読み方は、恐らく「こうふうそう」だと思われます)」という旅館で起こりました。
まとめ:湯河原の魅力
湯河原はとても温泉街などの町並みがキレイで、東京にもほど近いです。なので近年は移住先としても人気があるようです。しかも温暖な伊豆半島にも近いため、みかんなどの食べ物もおいしいです。何よりも隣の熱海まで1駅のため、観光にも便利な町といえるでしょう。
今回はここまでです!
お疲れ様でした。
おまけ:エトセトラ写真など
こちらはスペースの都合上、本編に載せられなかったエトセトラ写真を置いておきます!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
コメント