今回は、横浜の探訪・観光と、横浜の開港や発展の歴史について、より深く探求していこうと思います!!
まずは根岸線・桜木町へ
横浜でまず気軽に観光気分を味わいたいならば、横浜駅よりも一つ隣の根岸線(ねぎしせん)・桜木町駅(さくらぎちょうえき)で降りるのがオススメです。横浜駅は周囲がどうしても高層ビル・オフィス街などがメインになってくるため、気軽な横浜観光をするのに適しているかといえば、正直微妙です(ただし横浜駅周辺は、デパートは多いです)。なので、横浜駅で根岸線に乗り換え、一つ隣の桜木町駅がオススメだというわけです。
桜木町駅で降りれば、横浜ランドマークタワーのすぐ前となり、またみなとみらい21や横浜赤レンガ倉庫へのアクセスもそこそも便利になります。
また、横浜の繁華街(遊ぶ場所が多いところ)といえば、桜木町駅からさらに一つ隣の、関内駅(かんないえき)がベターとなります。
桜木町駅(さくらぎちょうえき)は、初代の横浜駅でした。1872年に新橋~横浜間で初の鉄道が開通した、というのは日本史の授業で習っていると思いますが、その「横浜」というのが、現代の根岸線・桜木町駅なのです。
現代の横浜駅は、実をいうと三代目になります。
二代目の横浜駅は、当初の横浜駅(現・桜木町駅)の位置では不便となったために、現代の横浜駅の近くへと移転してきたのでした。
ではなぜ桜木町駅の位置から二台目横浜駅の位置に「横浜駅」が移転してきたのかというと、国府津(こうづ)・小田原(おだわら)方面へと線路が延長されてきたときに、いちいち桜木町駅の方面へと南下していたら手間で時間がかかっていたからですね。
二台目横浜駅がほぼ現在の位置に移転してきたことにより、桜木町駅の位置まで列車を移動させる必要が無くなり、東京~横浜~国府津の線路が真っ直ぐになり、便利になったのですね。しかし二代目横浜駅は、1923年の関東大震災のときに崩壊してしまいました。そして現代の三代目・横浜駅に至るわけです。
現代でも、横浜駅のマンションの近くに二代目駅舎の遺構が残されており、一般人でも見学することができます。
明治時代の初期は、東京都の西側にある八王子(はちおうじ)や群馬県あたりから産出された生糸や織物を海外に大量に売り(輸出して)大きな利益を上げることにより、日本を「西洋に追い付け、追い越せ」といっていうような勢いを増してきた時代でした。
このように、国を挙げて日本の産業を強化していこうという動きを、殖産興業(しょくさんこうぎょう)といいます。
横浜の開港と、殖産興業などの歴史については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
「横浜」の由来 昔は「横に広がる浜」だった!?
横浜という地名の由来は実に単純明快であり、
「横に続く、だだっ広い浜だった」
ということです。このことから、まだ大都市として発展する前の昔の横浜の姿が、どんな景色だったのかの想像が容易につきます。
「横に続く浜」ということで、「横浜」です。
そのまんまかつ、とてもわかりやすいネーミングですね。
横浜は、江戸時代までは東海道・神奈川宿という宿場町(=昔の旅人たちが、歩いて長距離移動するために泊まる場所)があったり、また後述する吉田新田(よしだしんでん)があったあたりは、江戸時代にも確かに栄えていました。しかし、横浜が現代のような大都市へと本格的に発展するのは1858年の開港以来であり、それまでは基本的に何にもない、広大な浜が横に広がるだけだったということです。今の大都市・横浜の姿から想像するとちょっと信じられないですよね。
そして1858年の日米修好通商条約において「開港5港」の一つになったことから、外国からの文化や技術が急激に入ってくるようになり、それに伴って急速に横浜の街が発展していったのです。
そして現代の街を明るく照らすための「ガス灯」や、現代の我々には欠かせない食文化となっている「パン」などの文化も、外国から横浜へ入り、横浜から発展してゆきました。
今や横浜はたくさんの高層ビルが並ぶ大都会なので、「横に広がる浜」だったことは、想像がつきませんね。
しかし、東京・江戸も元々は「入り江」でした。徳川家康が入ってくるまでの江戸は「日比谷入江(いびやいりえ)」という大きな入り江が存在しており、「入江の戸口」→「江戸」という名前になったのです。これも現代の大都会・東京からしたら、にわかに信じがたいことではあります。
地名の由来を知るのは面白い 昔どんな土地だったのかがわかる
ちなみに昔の地名の決め方・由来は、昔の人には申し訳ありませんが、かなり「そのまんまのネーミング」だったりするのです。
例えば、「大きい川」であれば「大川(おおかわ)」、アイヌ語ならば「幌別(ほろべつ。ポロ:大・ペッ:川)」だったりします。
「大きい山」ならば「大山(おおやま)」「大山(だいせん)」などですかね。もちろん、昔の山は神様が宿ると信じられていたので「大いなる山」という意味も込められています。
「大きい沼」ならば「大沼(おおぬま)」です。
アイヌ語ならば「ポロ(大きい)・ト(沼)」で「ポロト」ですね。
そして地名の由来から、昔そこがどんな土地だったのかがよくわかる(想像できる)わけです。
こうして考えると、地名の由来を考えるのは(アイヌ語・北海道含め)とても面白いのです。
横浜の父・高島嘉右衛門
明治時代以降の横浜の発展は、明治時代に大活躍した高島嘉右衛門(たかしま かえもん)という人物の存在がとても大きいです。
高島嘉右衛門(たかしま かえもん)は明治時代に大活躍した人物であり、「横浜の父」とも呼ばれます。
高島嘉右衛門は、横浜駅周辺にある「高島(たかしま)」という地名の由来にもなっています。
ご存知の通り、明治時代はじめの1872年に新橋~横浜間において日本初の鉄道(東海道線)が通ったわけですが、これはやはり高島嘉右衛門が政府を説得して、新橋~横浜まで線路を引っ張ってきたことが大きいです。
高島嘉右衛門は、明治時代になって鉄道の重要性を政府に「鉄道を作れば、こんなにいいことありすよ!」説明・説得して、めでたく1872年に鉄道の開設となりました。
【高島嘉右衛門が主張・説得した、鉄道を作るメリット】
(1)鉄道の存在は、いざ戦争になったときの軍事物資(兵隊・食糧・武器・弾薬なと)の運送目的に使えます
鉄道による軍事輸送は、まだ自動車が普及する前の第二次世界大戦の頃までずっと現役であり続けました。戦争で勝つためには、大量の兵士・兵器・武器・弾薬・食糧を惜しみ無くつぎ込むことが不可欠でした(少しでもケチったら、敗戦して国が滅びます)。なので、そんな大量輸送にも、鉄道の存在は欠かせないものでした。
(2)鉄道建設の事業をすることは、士農工商が廃止され、職を失った武士の受け皿にもなります
明治時代になると士農工商は廃止となり、職を失った武士たちが多くいました。新しい転職先がなかなかみつからず、慣れない商売をやってもうまくいかず、安定収入が得られなくなり困窮する武士たちが多くいました。そんな中、もし鉄道建設の事業が開始されれば沢山の人手が必要になってくるため、困窮した武士たちの「働き口の受け皿」となる効果が期待できました。今でいう公共事業でしょうか。
このような鉄道建設のメリットを高島嘉右衛門は政府に提言したことにより、見事に1872年、新橋~横浜間ではじめての鉄道が開通したのです。
そして高島嘉右衛門の業績のひとつに、日本に「ガス」をもたらしたことです。
ガスの会社を作り、日本にガスを用いた文明を開花させたわけです。
そして現在のJR関内駅(かんないえき)あたりにある馬車道に、1872年10月31日、日本初の「ガス灯」がともりました。そして10月31日は「ガスの記念日」とも呼ばれます。
これによって、たとえ夜の道でも楽しく遊ぶことができるようになり、日本の街の風景も、当時の世界の最先端・ヨーロッパっぽくなっていったわけです。
なお馬車道(ばしゃみち)とは、明治時代に多くの外国人たちが馬車で通ったことにちなむ道です。鎖国が終わって開港すると、横浜にはたくさんの外国人が住むようになったため、その名残が現代でも地名として残っているわけですね。
横浜のはじまり、吉田新田
横浜には、かつて江戸時代までは大きな「入り江」がありました。
つまり現在の関内駅(かんないえき)や横浜市営地下鉄ブルーライン・伊勢佐木長者町駅(いせざきちょうじゃまちえき)などがあるあたりは、実は昔はみんな「海」だったのです。
それを江戸時代の初め・1650年代に埋め立てをして、陸地・新田となったのでした。
なぜわざわざ埋め立てまでして陸地にしたのかというと、稲作のための「新田」の開発のためです(新田開発)。
そうして出来た新しい田んぼ地が、後述する吉田新田(よしだしんでん)になります。
なぜ新しい田んぼを次々に耕す必要があったのか。
それは生産高を上げて、石高(こくだか)をどんどん上げていくためですね。
石高(こくだか)とは、厳密にはかなり説明が難しいのですが、ここでは「その土地からとれる米の量」のことだと思ってください。石高が多いほど、その大名や領地はたくさんの人々にお米を食べさせられることを意味します。言い換えれば、「石高が高い=生産力が高い」です。
江戸時代には「平和(天下泰平)の世の中」となり(戦国時代とは異なり)戦争が無くなったため、戦争によって他国の領土から土地や恩賞を勝ち得ることができません(もっとも、世の中が平和なのはいいことだと思いますが)。
他から勝ち得ることができないので、「自国の領土を耕す」ことしかなくなったのです。
なので江戸時代には、自分の領地を耕してたくさんのお米を採るための「新田開発」がとても重要になりました。また、戦争が無くなり平和になれば、人々の平均寿命も延びて人口増加となります。すると、よりたくさんのお米が必要になってきます。それに伴い、新田開発(農業)の技術が大幅に向上しました。
例えば岡山県出身の(江戸時代の)学者が考案した「備中鍬(びっちゅうぐわ)」などの新しい農耕器具も開発され、戦国時代までとは比べ物にならないくらい、より少ない労力でたくさんのお米を開発するのとができるようになったわけです。
このように、横浜の入り江を埋め立てしてできた新田を、吉田新田(よしだしんでん)というわけです。
しかし当時は、桜木町駅の西側にある野毛(のげ)という地域に作られたので、最初は野毛新田(のげしんでん)と呼ばれました。
後に新田開発を行った吉田勘兵衛(よしだ かんべえ)の功績を称えられて、「吉田新田」に改称されたのです。
横浜の材木商・吉田勘兵衛(かんべえ)は、入り江を干上がらせて陸地を作り、そこへ新田を作るために、まずは堤防を築こうとしました。
堤防で海の水をせき止め、干上がらせて陸地を作り、そこに田んぼ・農地を作ろうという一大プロジェクトです。
なので、吉田勘兵衛はまずは幕府から「許可」を得て、1656年から埋め立て工事を開始しました。
なぜわざわざ幕府の許可が必要だったのかというと、幕府から「堤防に見せかけた、幕府への反乱拠点を作っているのでは」などと疑心暗鬼になられるのを防ぐためですね。
江戸幕府はとにかく、各地の藩から軍事的反乱を起こされるのを嫌がっていました。なので、城の無断新築・増築は絶対NGですし、城の改修ですら無断で行うことは禁止でした。
しかし江戸時代にはそれらを破ったために、改易(かいえき:石高を大きく減らされた上で、遠くの地に左遷されること)をされた大名らが多くいたのです。
もし「幕府への反乱拠点を作っている」と疑われると、徹底的に監視・マークされ、石高を減らされたり、大名変更を命じられたり、改易されたりするリスクがあったのでした。
話を戻しますが、まずは「入り江」の海水を干上(ひあ)がらせるために、幕府の許可を得て「堤防」を築こうとしたのです。
その堤防は、だいたい根岸線・関内駅(かんないえき)あたりにあったとされます。
しかし6月の梅雨の時期に海が荒れてしまい、堤防は波に流されてしまい、全てが水の泡にってしまいました。
吉田勘兵衛は「これではマズイ」ということで、専門の技師(土木の技術に詳しい人物)を招き、幕府の許可をもう一度得て、2年後に再び工事を開始しました。
なぜ許可がいるのかというと、先述の通り「軍事目的でないことを証明するため」ですね。
そして苦心の上に出来た堤防により、水を干上がらせ、陸地ができました。これでようやく、米の大量生産を行うための新田開発ができます。そして1667年に、野毛新田(のげしんげん)と名付けました。
桜木町駅の西側の地域が「野毛(のげ)」という地名なので、地名をとって「野毛新田」というわけです。
そしてこの功績は「神様によるものだ」と信じられたため、神様に感謝するという意味で日枝神社(ひえじんじゃ)が招かれました。このように遠隔地から神社を招くことを、勧請(かんじょう)といいます。
日枝神社(ひえじんじゃ)は、滋賀県の比叡山(ひえいざん)にゆかりある神社です。比叡山の神様なので、「ひえじんじゃ」と呼ぶわけですね。
日枝神社の神様を、親しみをこめて「山王(さんのう)さん」とも呼ばれます。
そして四代将軍・家綱(いえつな)により、吉田勘兵衛の功績を称えられ、1669年に野毛新田(のげしんでん)は吉田新田(よしだしんでん)と改称されました。
観光して、帰ろう
歴史の話ばっかりで、つまらん・・・となってしまいそうなので、せめて最後に観光の話もしようと思います(^^; 横浜みなとみらい21には「万葉の湯」という温泉があり、なんでも湯河原や熱海の温泉からそのままお湯を運んできたものだそうですよ。
家族連れの方々もたくさんいます。
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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