東北・日本海側の旅1 奥羽本線・青森→弘前 青森県の歴史を探る

奥羽本線・青森~弘前の鉄道旅と、青森の歴史などについて、初心者の方にも、わかりやすく解説してゆきます!

  1. 東北地方・日本海側の旅へ!
    1. まずは青森駅(青森市)からスタート
      1. 主に五能線・羽越線を経由
  2. 青森駅から、川部・弘前へ
    1. スイッチバックの形をした青森駅
    2. かつての青函連絡船の拠点であった、青森駅と港
    3. むつのくに「青森県」
      1. 「りくご」とは言わない
    4. 江戸時代まで、青森の中心地は弘前の地だった
    5. 明治時代からは青森~函館の間の交通需要が増大した
    6. 「青森」の由来 昔本当に「青い森」があった!?
      1. いわゆる「青い森」が、船の目印になった
    7. 明治時代からは弘前→青森の方へ、町の発展が移される
      1. 函館がある渡島(おしま) かつては「わたりしま」と呼んでいた
  3. 青森の歴史! かなり激動の時代だった
    1. 縄文~平安期までの青森
      1. 弥生時代には、稲作も行われていた
      2. ムラ同士での「争い」がおきてしまう
    2. 平安時代までは、朝廷に逆らい続ける「蝦夷」たちの国だった
      1. 蝦夷の時代の終わり 鎌倉幕府による統治の時代へ
    3. 安藤氏から始まる、中世の青森
    4. 室町時代には、海運業で栄えた青森 アイヌ民族との交流も
      1. アイヌ民族との交流も盛んに
      2. アイヌ民族にとって不利な条件だった交易(トレード)
      3. 「船を使った商売」の成功 安藤氏の全盛期へ
      4. しかし「内輪揉め」に苦しむようになった安藤氏(津軽大乱)
    5. 室町時代の青森県 津軽と南部の登場
      1. 南北朝時代とは?
      2. 後醍醐天皇は吉野へ 「南朝」のはじまり
      3. 安藤氏、南部氏に敗北 青森を追われる
    6. 戦国時代、南部氏の勢いと天下
      1. 下北・糠部(ぬかのぶ)とは?
      2. 南部氏の天下 栄華を極めるも、やがて津軽氏に敗れて盛岡へ
      3. 栄華を極めた、戦国時代・南部氏の青森
    7. 戦国時代の終わり、津軽氏の裏切り・南部氏の衰退
      1. 南部氏を追い払い、次々に勢力拡大・やりたい放題の津軽氏
    8. 津軽氏の勢力拡大、弘前城をつくる
      1. 弘前藩の基礎を次々に造り上げていった、津軽為信
      2. 羽州街道とは?
      3. 岩木川とは?
    9. 江戸時代、関ヶ原の戦い以降
      1. 津軽・南部両者の国境は曖昧 これが原因で争いがしばしば勃発
    10. 津軽藩・盛岡藩との境界線で起きた、両者の争い
      1. 津軽藩・盛岡藩争いが決定的となった「檜山騒動」
      2. 「本当にヒノキがないのなら、ここの山をよこせ!」津軽藩の怒り噴出
      3. さらなる問題勃発「相馬大作事件」
    11. 江戸時代の青森と、アイヌの交易
      1. かつては「千島アイヌ」「樺太アイヌ」と呼ばれる人たちも存在した
      2. 江戸時代後期、蝦夷地(北海道)へ向かう人々の増加
    12. 幕末・戊辰戦争のときの青森
      1. 奥羽列藩同盟とは?
      2. 戊辰戦争とその後
  4. 津軽藩の拠点・弘前
    1. かつての弘前藩の拠点・弘前市
      1. かつて十三湊を通じて、蝦夷地・松前藩とも交易が行われた
    2. 格闘ゲームの神・ウメハラさんの出身地・弘前市
      1. 負けることを知らなかった、奇跡のプレイヤー
      2. 一方、私生活・アルバイト等ではかなりの苦戦も
      3. 様々な実績が評価され、晴れて「プロゲーマー」へ
      4. 決して楽ではなかった、プロゲーマーの生活
      5. お父さんの教え ウメハラさん成功の秘訣
      6. あなたも、「全力で打ち込める」ものを何か一つ見つけよう
  5. 川部駅からは、五能線へ

東北地方・日本海側の旅へ!

まずは青森駅(青森市)からスタート

今回からは、青森→新潟まで、東北地方の日本海側に沿って進むというシリーズをはじめてゆきたいと思います。

主に五能線・羽越線を経由

途中、とても日本海の景色がきれいな五能線ごのうせんを経由します。

羽越本線・日本海の景色

羽越本線・日本海の景色

五能線の次は、羽越本線うえつほんせんを利用して、新潟方面へと向かいます。

ゴールは一応、新潟県新潟市の新潟駅にしたいと思います。
なお新潟県は東北地方ではなく中部地方であることを、混乱なきようあらかじめおことわりしておきます。

青森駅から、川部・弘前へ

スタート地点は、青森駅あおもりえき(青森県青森市)とします。

青森駅(青森県青森市)

青森駅(青森県青森市)

ここから、奥羽本線おううほんせんに沿って西へ進み、
川辺駅かわべえきからは、
五能線ごのうせんに沿って進みます。

しかしその前に、

  • 弘前駅ひろさきえき(青森県弘前市)

寄り道をします。

スイッチバックの形をした青森駅

青森駅は、いわゆる「スイッチバック形式」の駅になっています。
つまり、一旦先頭から突っ込んでからバックするという「」の字の型をした駅になります。

これは、昔は青函連絡船せいかんれんらくせんによって、列車ごと船に載せて北海道へ向かっていたので、海の方向へ伸びているのですね。

青森の海。右側が北海道・函館。(青森県青森市)

青森の海。右側が北海道・函館。(青森県青森市)

かつての青函連絡船の拠点であった、青森駅と港

青函連絡船「八甲田丸」(青森県青森市)

青函連絡船「八甲田丸」(青森県青森市)

青函連絡船せいかんれんらくせんとは、1988年まで船に列車ごと載せて北海道まで運んでいた船です。
せい青森かん函館のことです。

青函連絡船についての詳細は、以下の記事でも分かりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第41番 津軽海峡と青函連絡船・青函トンネル 函館はすぐ近くに
鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

むつのくに「青森県」

青森の海。海の向こう側は北海道。(青森県青森市)

青森の海。海の向こう側は北海道。(青森県青森市)

青森県は、奈良時代に定められた律令制りつりょうせいにおいては「陸奥国むつのくに」という呼び方でした。
現代でも下北半島の「むつ市」にその名前がありますね。

  • 陸前国りくぜんのくに宮城県
  • 陸中国りくちゅうのくに岩手県
  • 陸奥国むつのくに青森県

「りくご」とは言わない

ちなみに陸後(りくご)とはいいません陸奥むつ)といいます。

太宰治の小説「津軽」によれば、

「みちのく」→「むつのくに」→陸奥国

となったようです。

「むつ」は、「みち」の昔の地元の発音だそうです。

なお、これら3つの「陸」を合わせて、「三陸さんりく」というわけです。

ただし、岩手県陸前高田市りくぜんたかたしのように、岩手県にも「陸前」の領域があるなど、例外はありますので注意しましょう。

江戸時代まで、青森の中心地は弘前の地だった

また、江戸時代までは、青森県の中心地は弘前藩ひろさきはん、つまり現在の弘前市ひろさきしでした。

そして明治時代には、県庁所在地が「青森市」となり、青森市が新しい青森の中心地となりました
つまり、明治時代になって弘前から青森市へと、中心都市が変わったというわけです。

明治時代からは青森~函館の間の交通需要が増大した

これは、明治時代になって東京~北海道の移動需要が急増したために、その中継地点として、青森市の位置によりよい港(青森港)を築く必要があったためですね。

ちなみに、明治時代に東京~北海道の移動需要が急増した理由は、まだ日本の一部になったばかりだった北海道を、急ピッチで「強い土地」にする必要があったのでした。

そのため、土地を耕したり石炭を掘り出したりする「開拓」の必要があったからです。
詳しくは以下の記事(白河や郡山のあたり)でも解説していますので、ご覧ください

冬の【東京→北海道】鉄道旅3 新白河を出て、郡山方面へ
白河・郡山(東北本線)の鉄道旅・観光・地理・歴史などについて、初心者の方にもわかりやすく解説してゆきます!新白河駅を出て、郡山方面へ列車は前回で、白川の関せき・新白河駅しんしらかわえき(福島県西白河郡西郷村)に到着しました。ここで、郡山こお...

「青森」の由来 昔本当に「青い森」があった!?

青森の海(青森県青森市)

青森」の由来は、かつて青森市あたりに本当に存在したとされる「青い森」に由来します。

いわゆる「青い森」が、船の目印になった

明治時代になって、北海道との移動需要急激に増加しました。
それは先述の通り、北海道をとにかく強い土地にして、またエネルギーの源となる石炭を大量に掘り出すなどの「開拓」のためです。

そのため、津軽海峡・陸奥湾むつわんを行き交うたくさんの船たちにとって、青森港に到着するための目印が必要でした。

そこで、まさにその目印になったのが、当時青森市にまさしく存在したらしい「青い森」だったそうです。
これこそが「青森」の県名の由来になりました。
そして現代では、その「青い森」は存在しないようです

明治時代からは弘前→青森の方へ、町の発展が移される

江戸時代までは、弘前藩ひろさきはんの方が青森県(津軽地方)の中で一番栄えた街でした。
弘前ひろさきは現在の青森県に該当する弘前藩津軽藩とも)の拠点だったため、まあ当たり前かもしれません。

しかし明治時代に「青森県」が発足し、県庁が青森市に指定されてからは、青森市が県の中心として発展していくこととなりました。

函館がある渡島(おしま) かつては「わたりしま」と呼んでいた

なお、函館がある地域を渡島おしまというのですが、かつては「わたりしま」といっていました。
これは津軽海峡を渡って着いた先にある島だと思われていたため、

わたりしま」→「渡島おしま

になり、現代の渡島総合振興局おしまそうごうしんこうきょくの由来になっています。

青森の歴史! かなり激動の時代だった

青森・海の景色(青森県青森市)

青森・海の景色(青森県青森市)

青森県の歴史は教科書でもあまり習う機会がないため(太宰治も小説「津軽」の中で、そう述べられています)、なかなか知る・学ぶ機会がないのですが、よくよく調べてみたらかなり激動の歴史を歩んでいることがわかります。

縄文~平安期までの青森

まず、三内丸山遺跡さんだいまるやまいせき亀ケ岡遺跡かめがおかいせきなどからは、昔の人々が使っていた縄文時代の土器や集落などが発見されています。

このことから、大昔から青森の地域には、既に人が住んでいた・暮らしていたことがわかります。

弥生時代には、稲作も行われていた

しかも弥生時代には、稲作も行われていたことが、県内にあるさまざまな遺跡からわかっているようです。

米は基本的には寒い地域では育たず、北海道では稲作は長年にわたって行われていませんでした(現代では品種改良により、北海道でも全国2位規模で稲作が盛んです)。
しかし青森では、かろうじて稲作がされていたもようです。
だから何?」と思うかもしれませんが、これはとても重要なことです。

ムラ同士での「争い」がおきてしまう

稲作が始まると、たくさんの人で共同して田んぼで仕事をするため、「ムラ」という集落・共同体ができます。
すると「貧富の差」ができてしまいます。

そうなると

  • うまくお米が作れた人(ムラ)
  • お米が全然育てられなかった人(ムラ)

との間で、不公平争いが生まれてしまいます。

つまり、ムラ同士で「(稲作に適した)よい土地をめぐる争い」がおきてしまうのです。

こうして本州では争いに満ちた、豪族や強大な大王おおきみらが支配する古墳時代に突入します。

すなわち、乱暴な言い方かもしれませんが、

  • 稲作の始まり」=「人類の争いの始まり

といっても過言ではないのです。

平安時代までは、朝廷に逆らい続ける「蝦夷」たちの国だった

平安時代の青森は蝦夷えみしなどが蔓延はびこる地域でした。

そのため、京都にある朝廷(※)と、ずっと対立していました。

朝廷:天皇や貴族らが、朝の時間帯に政治のお仕事をするところです。
一週間毎朝働いて、午後はお休み・歌遊びをして過ごしていたのでした。

そのため、平安時代には朝廷が、

  • 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ
  • 源頼義よりよし
  • 源義家よしいえ

といった武士を東北地方に派遣し、「前九年の役」などの争いが起きていました。

坂上田村麻呂については、以下の記事でも解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第34番 北上川に沿って進む やがて盛岡に到着
鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!北上川に沿った沿線の旅などを、楽しく解説してゆきます!↓まずは原文から!すぎゆく驛えきは七ななつ八やつ山おもしろく野は廣ひろし北上川きたかみがわを右にしてつくは何いずくぞ盛岡市も...

前九年の役後三年の役については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史
鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!平泉の観光・歴史などを、楽しく解説してゆきます!↓まずは原文から!阿部貞任あべのさだとう義家よしいえの戰たたかひありし衣川ころもがわ金色堂こんじきどうを見る人はこゝにておりよ平泉...

蝦夷の時代の終わり 鎌倉幕府による統治の時代へ

こうして平安時代はずっと朝廷東北・蝦夷は対立していたわけですが、それも平安の終わりに近づくにつれ、終焉を迎えます。
1189年に岩手県・平泉にいた奥州藤原氏源頼朝によって滅ぼされると、鎌倉時代へと入ります。

そしてようやく、朝廷に逆らい続けてきた青森の地は、朝廷幕府の管轄内に入ったのでした。
これにより、なかば日本からは孤立していた東北地方も、はれて日本の一員となるのです

安藤氏から始まる、中世の青森

鎌倉時代になると、青森県の支配は、安藤氏あんどうしという一族が、鎌倉幕府から任命されました。

安藤氏は鎌倉幕府からの信任を受けて、

  • 下北半島しもきたはんとう
  • 津軽半島
  • 蝦夷地(北海道)

の海沿いエリアあたりを支配してゆくことになりました。

そして後述するように、津軽半島の日本海側の沿岸に十三湊とさみなとという港町をつくったのでした。
この港において、船での商売によって大儲けし、安藤氏は発展していくことになるのです。

室町時代には、海運業で栄えた青森 アイヌ民族との交流も

室町時代中期にかけて、青森は津軽海峡を通じた、北海道(蝦夷地)との荷物交換・物々交換(交易)で栄えました。
つまり船で、北海道にいるアイヌ民族と、たくさんの荷物を売ったり買ったりして儲けていくわけです。

特に、十三湖じゅうさんこの近くに築かれた港である十三湊とさみなとの周りには、大きな港町が形成されてゆきました。
つまり船に荷物を積んだり下ろしたり、船人たちが休憩・宿泊・食事をするために、港町は栄えていくことになります。

アイヌ民族との交流も盛んに

また、アイヌ民族との交流も盛んになり、

  • 北海道でしか採れない、魚・毛皮など
  • 本州でしか作れない、お米・食器など

を交換してきたのでした。

当時の蝦夷地は、後に松前氏まつまえしとなる蠣崎氏かきざきしが、本州人(和人)の代表として蝦夷地とアイヌ民族を管轄していました。

アイヌ民族にとって不利な条件だった交易(トレード)

しかしその物々交換の交換レートは、アイヌ民族にとっては不利な条件だったのでした。
つまり、アイヌ側が損して、本州側が一方的に儲かるという状態だったのでした。

このため、アイヌ民族からの不満・怒りを買い、1457年に起きた「コシャマインの戦い」などの反乱を起こされてばかりていました。

「船を使った商売」の成功 安藤氏の全盛期へ

話を戻しますが、津軽を支配していた安藤氏は、このようにして「船を使った商売」において儲けまくり、どんどん勢いをましてゆきました。

その結果、安藤氏は鎌倉時代には青森県において、とてもイケイケ状態だったのでした。

しかし「内輪揉め」に苦しむようになった安藤氏(津軽大乱)

ところが鎌倉時代の末期になって、安藤氏の一族では「内輪揉め」が起きてしまいました。
すなわち、喧嘩・ライバル蹴落としが優先となってしまい、肝心の政治・仕事が疎かになってしまいました。
さらには、蝦夷(→アイヌ民族のことだと考えられています)を巻き込む大きな戦争にってしまったため、これにより津軽安藤氏は勢力をどんどん後退させてゆくことになりました。

これを津軽大乱、または安藤氏の乱といいます。

この後の青森県は、後に盛岡藩もりおかはんを支配することになる南部氏なんぶしが表に出てくることになるのです。

室町時代の青森県 津軽と南部の登場

室町時代南北朝時代なんぼくちょうじだいがくると、安藤氏足利尊氏北朝ほくちょう側につくことになります。
一方、新しく出てきた南部氏なんぶしは後醍醐天皇の南朝なんちょう側についたため、ここで対立したのでした。

結果的に安藤氏は、南部氏との争いに敗れたため、安藤氏は蝦夷地(北海道)に追放されてしまい、ここからは南部氏の時代が到来することになります。

南北朝時代とは?

ちなみに南北朝時代とは、足利尊氏と後醍醐天皇の対立によって起きた、歴史上稀にみる「二つの朝廷があった時代」です。朝廷は、基本的にどの時代も一つです

現代で例えると、東京と大阪にそれぞれ対立する皇居が存在していて、しかもお互いに争うというカオスな状況です。
それが実際におこっていたのが、南北朝時代というわけです。

後醍醐天皇は吉野へ 「南朝」のはじまり

足利尊氏は自分と対立する後醍醐天皇を、奈良県の南にある「吉野」という地域に追い払ったわけですが、こちらを「南朝」といいます。
そしてどちらの朝廷も「自分たちの正統性」を主張しました。つまり「あっちは偽物だ!」と言い争っているという具合です。

この南北朝の動乱は約60年続きましたが、室町三代将軍・足利義満あしかがよしみつによって統一されることになります。

安藤氏、南部氏に敗北 青森を追われる

この「南北朝の戦い」では南部氏が安藤氏に勝利し、負けた安藤氏は北海道へと追放されてしまいました。

こうして新たに青森の支配者になった南部氏なんぶしは、それまでの安藤氏のように海上交易(アイヌ民族との交易など)にはあまり力を入れることはありませんでした。
そのため、安藤氏が鎌倉時代にかけて必死になって繁栄させてきた港町は、衰退してしまいました。

戦国時代、南部氏の勢いと天下

室町時代の15世紀半ばに、それまで青森のトップだった安藤氏を駆逐・追放した南部氏は、大きく勢力を拡大してゆきます。

南部氏は、戦国時代の16世紀半ばには、

  • 津軽つがる
  • 下北しもきた
  • 糠部ぬかのぶ

といった、ほぼ青森県の全域(むしろ、下手したら岩手県にもおよぶ地域)の広い領土を、次々に支配してゆくのです。

下北・糠部(ぬかのぶ)とは?

ちなみに下北しもきたとは、青森県北東にある下北半島しもきたはんとうのエリアです。

糠部ぬかのぶは、青森県南東の岩手県に程近い、三戸町さんのへまちを中心とするエリアです。

糠部郡は、一戸いちのへ九戸くのへという具合に、細かいエリアで分けられているのが特徴です。
最も大きい都市は八戸市はちのへしです。ちなみに四戸よんのへは存在しせん

南部氏の天下 栄華を極めるも、やがて津軽氏に敗れて盛岡へ

このように戦国時代の青森は、安藤氏にかわって南部氏の天下(支配下)だったわけです。
しかしこれも、後に津軽氏に天下を奪われてしまいます

江戸時代になる前に、津軽氏の裏切りで南部氏の領域は次々に占領されてゆきます。
津軽氏は、元々は南部氏の一員でした。

やがて南部氏は、南の岩手県・盛岡へと追いやらてしまうわけです。
というよりは、三戸さんのへの地域よりも盛岡の方がより都会的で、より統治に適していたものと思われます。

そしてこれこそが、江戸時代の盛岡藩(南部藩)の誕生となります。

栄華を極めた、戦国時代・南部氏の青森

話を戻しますが、戦国時代の南部氏の天下の様子は、

三日月の丸くなるまで南部領

とまでたたえられたのでした。

これは、南部氏が支配する領域があまりに広いために、広い南部領の中をずっと進んでいくうちに、三日月が丸くなって満月になってしまう、という意味の例えです。

つまりそれだけ、南部氏の支配する領域が広かったということです。

戦国時代の終わり、津軽氏の裏切り・南部氏の衰退

このように、室町時代までの青森県は南部氏の天下でした。
しかし戦国時代の16世紀後半になると、それが瓦解がかいしてしまいます。
それは津軽氏によって、新たに天下を奪われてしまうからです。

南部氏の一族の一人だった大浦為信おおうらためのぶ、つまり後の津軽為信つがるためのぶが、南部氏の持っていたお城を次々に攻めてゆき、落としてしまいます
津軽氏のこの行為は、南部氏にとってはある意味では「裏切り」行為です。
これでは、南部氏にとってはたまったものではありません。

南部氏を追い払い、次々に勢力拡大・やりたい放題の津軽氏

津軽氏はさらにその勢いで、津軽地方・津軽半島北端の外ヶ浜そとがはま、そして青森県南東の糠部ぬかのぶの一部までをも次々に支配していったのです。
つまり、南部氏の持っていた土地を、ほとんどすべて奪ったという形になります。
津軽氏は南部氏の気持ちを無視して、もはやイケイケのやりたい放題です。
さすが「強い者が勝ち」で「下克上」の戦国時代といった感じですね。

戦国時代は勝った者が正義(勝てば官軍)という実力主義の世界のため、負けた側にとっては理不尽であっても、これも仕方ありません。

津軽氏の勢力拡大、弘前城をつくる

こうして武力を背景に、青森県全土に勢力を拡大していった津軽為信つがるためのぶは、その後に弘前城ひろさきじょうの築城へととりかかります。
これは江戸時代から始まる弘前藩ひろさきはんのベース作りです。

弘前城(青森県弘前市)

まずは弘前城の周辺へ城下町を建設してゆき、町に住む人々と「武士という公務員」らが暮らしていけるような、現代にも通用するような町の仕組みを整えてゆくことになります。

わかりやすくいえば、弘前城は「弘前市役所」であり、弘前城で働く武士たちは「市役所職員」です。

これは町の住民が「役所(弘前城)」に税金(年貢など)を納めて、公務員(武士)が働けるような地方自治の仕組みと同じともいえます。

弘前藩の基礎を次々に造り上げていった、津軽為信

こうして津軽為信は、弘前藩の基礎をどんどん造り上げてゆきました。

そして津軽為信は、羽州街道うしゅうかいどうという当時としては綺麗・広い・歩きやすい道路を整備してゆき、また岩木川いわきがわの整備などを次々行ってゆきます。
つまり、今でいう「インフラ整備」を次々に行っていくのでした。

羽州街道とは?

ちなみに羽州街道うしゅうかいどうとは、昔の人々が徒歩または馬で、約20日かけて江戸へ移動・旅をするための(当時としては)新しくて綺麗な道路です。
こうした街道は、参勤交代のときに大名さまたちが江戸へ旅するときにも必要だった道路です。

羽州街道は、

  1. 青森県から南下して山形県に入り、
  2. 蔵王ざおうの山から、福島県の桑折こおりで、
  3. 奥州街道おうしゅうかいどうと合流

します。

奥州街道に入ってからはひたすら南下し、

  • 栃木県(宇都宮宿など)
  • 埼玉県(浦和宿など)

と南下してゆき、江戸(東京)に至っていました。

岩木川とは?

また、岩木川いわきがわは、現在も弘前市を流れる川です。
川の整備は、例えば「洪水を防止するための堤防作り」を行ったり、またゴツゴツした自然の川を削って、舟が通りやすいように水路を整えることてす。

津軽氏は、一部例外はありますが、多くの人の名前に「のぶ」がつきます。
これを「通字とおりじ」といいます。

例えば徳川家では名前に「家」がつく人が多いのと同じで、偉大な先祖(例えば「為」や「康」など)に影響を受けたい(尊敬したい)という意味で、この「通字」は子孫へと継承されていったのでした。

江戸時代、関ヶ原の戦い以降

1600年に起きた「関ヶ原の戦い」において、津軽氏は徳川家の味方である「東軍」につきました。
このときの活躍が徳川家から評価され、津軽氏は江戸時代を通して幕府からは優遇されていくことになるのです。
そしてこのことが、南部氏から不満を持たれる理由ともなっていきました。

津軽・南部両者の国境は曖昧 これが原因で争いがしばしば勃発

江戸時代の青森県は、

  • 北西部津軽藩(津軽氏)※正式名称は弘前藩
  • 南東部盛岡藩(南部氏)

の領地となっていました。そして、後述の通り両者の境目(国境)はあいまいであり、そのために争いがしばしば起きていました。

弘前藩・盛岡藩の二つの藩の境目(境界線)は、青森県の北東にあたる、

  • 青い森鉄道・野辺地駅のへじえきのやや西
  • 青い森鉄道・狩場沢駅かりばさわえき

のあたりに、その境界線がありました。

つまり、現在の平内町ひらないまちから野辺地町のへじまちの間に、その境界線があったことにあたります。

津軽藩・盛岡藩との境界線で起きた、両者の争い

しかし、上記の境界線はあまり明確ではなく、両者でいつも「ここはうちの領土だ!」という言い争いが起こる要因にもなっていました。
そしてこの小さな言い争いから、弘前藩と盛岡藩のあいだで、しばしば大きな紛争に発展したりもしました。

先述の通り、南部氏は津軽氏から領土を奪われる形で、青森県の多くの領土の支配を許してしまっています。
そのとき、かつて津軽地方の「たくさんの作物が採れやすい穀倉地帯」までもが奪われてしまっていたため、南部氏は津軽氏にかなり恨み・不満を抱いていたことがわかります。

そのため、ほんの小さな出来事がきっかけで、両者で争いが起こるようになっていました。

津軽藩・盛岡藩争いが決定的となった「檜山騒動」

その両者の争いの代表例の一つに、檜山騒動ひのきやまそうどうとよばれるものがあります。

檜山騒動ひのきやまそうどうは、文字通りヒノキの山の利権をめぐって津軽藩と盛岡藩が争った事件です。
江戸時代に、徳川幕府が津軽藩・盛岡藩のそれぞれに

ヒノキの木材が必要だから、幕府に献上するように

と命令してきたため、これに対して盛岡藩は、藩の人々に余計な負担をかけさせないためにも

余分なヒノキはありません。だから何も差し上げられません

と返答しました。

しかしそのために、津軽藩は余分に多くのヒノキを幕府に徴収されてしまい、甚大な経済損失が出てしまいました。

「本当にヒノキがないのなら、ここの山をよこせ!」津軽藩の怒り噴出

不満を持った津軽藩は、境界があいまいだった盛岡藩の領域のヒノキ山に侵入して、勝手にヒノキを伐採してしまいました。その理由というのが、

盛岡藩にヒノキがないのなら、このヒノキ山はぜんぶうち(津軽藩)のものだ!

という理由をつけて、ヒノキ山を盛岡藩から奪ったのでした。

このように、津軽藩・盛岡藩の国境(境界線)では常にピリピリしており、いつ争いが勃発してもおかしくないような地域だったのです。

さらなる問題勃発「相馬大作事件」

こうした形で南部氏には津軽氏に対する遺恨が残り、江戸時代の後半に、盛岡でついにその怒りが爆発してしまう相馬大作事件そうまだいさくじけんが起きます。

相馬大作事件は、江戸から参勤交代で青森まで帰ってくる途中だった津軽藩の武士を、南部藩(盛岡藩)の相馬大作そうまだいさくを名乗る武士(本名ではない)が、岩手県・盛岡の地で待ち構えていました。

そして相馬大作が、津軽藩の武士を暗殺しようとしたのでした(未遂)。
これがわゆる相馬大作事件そうまだいさくじけんとよばれるものです。

江戸時代の青森と、アイヌの交易

江戸時代、青森県の各地は「本州アイヌ」たちの居住地にもなっていました。

アイヌ民族は「北海道がメイン」だと思われがちですが、実は北海道のみならず、北海道のはるか東北の千島列島・カムチャッカ半島や、また樺太(サハリン)、そして青森県などにもアイヌ民族は広く住んでいたのです。

かつては「千島アイヌ」「樺太アイヌ」と呼ばれる人たちも存在した

なのでアイヌ民族のなかには「千島アイヌ」「樺太アイヌ」と呼ばれる人たちもいたのでした。
しかし現代では、それらのアイヌ語や文化はほぼ絶滅してしまっています。

青森県には、

  • 野辺地のへじ
  • 平内ひらない
  • 今別いまべつ
  • 竜飛岬たっぴみさき

などのように、アイヌ語由来の地名も見られます。

江戸時代後期、蝦夷地(北海道)へ向かう人々の増加

さらに江戸時代後期になると、アイヌ民族が住んでいた地域への和人(日本人)の進出が、かなり顕著になってゆきます。
それは先述の通り、江戸時代後半~明治時代にかけて、北海道(蝦夷地)の開発・防衛・探検・開拓などの目的で、

江戸(東京)~北海道

をゆきかう人たちが増えたことにあります。
その途中で、青森の地へやってくる和人(日本人)も増えたというわけです。

こうして江戸後期になるとともに、青森へと移住してくる日本人が増えたことになります。
こうして日本人と青森のアイヌ民族が結婚してゆき、交わってゆくことで日本人との同化どうかが進み、アイヌ民族の血は薄くなってゆくことになりました。

幕末・戊辰戦争のときの青森

幕末の戊辰戦争ぼしんせんそうになると、弘前藩・盛岡藩ともに、当初は旧幕府軍の味方である奥羽列藩同盟おううれっぱんどうめいに属していました。
戊辰戦争ぼしんせんそうは、明治新政府に納得がいかなくて抵抗しようとする旧幕府軍と、それを追いかけて倒そうとする明治新政府軍(官軍)の戦いです。

奥羽列藩同盟とは?

ちなみに奥羽列藩同盟とは、東北地方の藩たちが団結して、新政府軍に抵抗しようとしたグループ(同盟)です。
しかし同盟側の方が不利であり、新政府軍側についた方が勝ち目があったため、本当は新政府軍側につきたくて嫌がる東北地方の藩を、なかば無理やり同盟の仲間に入れたりしていました。

基本的には新政府軍(官軍)の方が有利であり、旧幕府軍は不利で、次々に敗れて北へ北へと追い詰められました。
最終的には函館の五稜郭ごりょうかくで、土方歳三ひじかたとしぞう率いる新撰組しんせんぐみが降伏したことで、戊辰戦争は終了し、明治時代の到来となりました。

戊辰戦争とその後

この戊辰戦争ですが、途中で弘前藩官軍かんぐんに寝返り(裏切り)ました。つまり、新政府の味方について戦ったわけです。
しかし盛岡藩は、同盟を裏切ることなく不利な戦いを強いられたため、むなしくも負けてしまいました。

このように盛岡藩(南部氏)は江戸時代を通じて、津軽氏と比べて不遇な扱いを受けたわけです。
津軽氏からは江戸の始めに裏切られた領土を奪われ、幕末に戊辰戦争で裏切り、そのおかけで盛岡藩は全体を通じてかなり不遇な感じとなりました。

しかし盛岡藩が明治新政府に降伏した後、津軽藩がさらに野辺地のへじに攻めてきて、盛岡藩とまた戦争になっています。
この野辺地戦争のへじせんそうにおいて盛岡藩は津軽藩に勝利していますので、盛岡藩は津軽藩にやられたばかりではなく、一矢報いっしむくいた形にはなっています。

津軽藩の拠点・弘前

青森駅から奥羽本線で新青森駅を南西に進み、津軽地方へと出てきます。

津軽富士・岩木山(青森県)

そして五能線ごのうせんとの分岐駅・川部駅かわべえきからは、奥羽本線をまっすぐに進み、弘前ひろさきへと寄り道します。

かつての弘前藩の拠点・弘前市

弘前駅(青森県弘前市)

青森県弘前市ひろさきしは、もうここまで何度も解説してきたのでおわかりだと思いますが、元々は弘前藩(津軽藩)の拠点でした。
はんとは、江戸時代におけるエリア分けのことであり、当時は実に300もの藩がありました。

現代では47都道府県のため、300もの藩というのはかなり多かったわけですね。
なので「藩」とは、現代でいう「都道府県」よりも、むしろ「市」のニュアンスに近かったのかもしれません。

弘前城跡(青森県弘前市)

かつて十三湊を通じて、蝦夷地・松前藩とも交易が行われた

江戸時代までの青森(津軽地方)は、先述の通り「十三湊とさみなと」を通じて、蝦夷地えぞち松前藩まつまえはんとも交易をやりとりしていたのです。
そこを通じて、蝦夷地のアイヌ民族とも交流していたことは、ここまでも述べてきた通りです。

弘前については、以下の記事もご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第42番 弘前や津軽地方へ寄り道 五能線や津軽鉄道にも乗ってみよう
鉄道唱歌 奥州・磐城編の歌詞を、わかりやすく解説しています!鉄道の知識のみならず、歴史や旅行を楽しむためのノウハウを、鉄道に詳しくない人でも楽しめるよう解説してゆきます!

格闘ゲームの神・ウメハラさんの出身地・弘前市

弘前市は、今や「格闘ゲームの神様」として知られる梅原大吾うめはらだいごさん、通称:ウメハラさんの出身地でもあります。

負けることを知らなかった、奇跡のプレイヤー

ウメハラさんは、7歳までは青森県弘前市で過ごし、その後ご両親の転勤の都合で東京にやってきました。
そして都内のゲームセンターで、まだ中学生にも関わらず年上・大人のプレイヤー達を相手に次々に勝利してゆき、あっという間に「日本一強い格闘ゲーマー」になりました。
そして10代の頃は、負けることを知らない天才的プレイヤーとして、また「ありえないような、奇跡的な逆転劇」などを披露したりして、海外にも広く知られるようになりました。

一方、私生活・アルバイト等ではかなりの苦戦も

しかし学校での勉強をおろそかにしてまでゲームセンターに通い詰めたため、次第にクラスメイトとは(「受験」「進学」「就職」などの話題などで)次第に話が合わなくなり、学校では徐々に孤立していったといいます
また、学業を疎かにしたせいか定職にも就くことはなく、卒業後にはフリーターとしてアルバイトを繰り返すも、どの仕事もほとんど務まらずにクビになったり自分から辞めたりを繰り返したため、ややうつ病気味になり、将来や人生に絶望してしまい、「学生時代にゲームばかりに熱中して、勉強をろくにしてこなかったこと」を後悔したといいます。

様々な実績が評価され、晴れて「プロゲーマー」へ

しかしウメハラさんは、格闘ゲームの戦いにおいて、日本・海外を問わず数多くの戦いで優勝してきました
もっとも稼いだプロゲーマーとして、ギネスブック認定もされています。

そんな数々の実績が評価されて、2010年に晴れて「プロゲーマー」という、自身にとって人生初の「天職」を手に入れることになります。
これは「スポンサーとなる企業からお金をもらって、格闘ゲームをプレーする」という形でした。
そしてこれが今や珍しくなくなった、いわゆる「プロゲーマー」の先駆け的存在でもあります

決して楽ではなかった、プロゲーマーの生活

一見すると「お金をもらいながらゲームできるなんて羨ましい」と思うかもしれませんが、決してそんなに甘いものではなく、むしろウメハラさんは企業や世の中からの期待や責任に「重圧」を感じ、1日に18時間くらいずーっとゲームの練習を続けてしまい、体を壊してしまったといいます。
この反省から、ウメハラさんは「1日1つだけ強くなる」という教訓を得ることになるのです。
たとえ1日5分の練習であっても、昨日の自分よりも、何か一つ身に付いていればいい。
以前の自分よりも、今日の自分の方が優れていれば、それは幸せなことなんだと気づくのです。

お父さんの教え ウメハラさん成功の秘訣

ウメハラさんが成功できた秘訣は、やはりそのお父さんの教えにあります。
それは

自分が好きなこと・夢中になれることに、死ぬほど打ち込め

という教えです。

あなたも、もし人生に何か行き詰まりを感じていたとしたら、

苦手なことはやらない(むしろ逃げる)
好きなこと・得意なことに全力で命懸けで打ち込む

ことを徹底しましょう!

あなたも、「全力で打ち込める」ものを何か一つ見つけよう

ウメハラさんの考え方は、ゲームのみならず、ビジネス・仕事・勉強などにも十分に通用します

まずは、何か一つ、なんでもいいので、これだったら全力で打ち込める大好きなもなものを見つけることです。

勉強・スポーツ・あやとり・射撃(のび太)・ゲーム・音楽・楽器・歌・漫画・イラスト・プログラミング・AI・動画編集・YouTuber・IT・クラウド・小説・ライティング歴史・経済・・・

何でもいいです。自分の好きなことであれば、その事だけは地球上の誰にも負けない人間になる。そのために、迷わずそこに向かって努力するのです。

あなたも、ウメハラさんのポリシーである

1日1つだけ強くなる
好きなことに全力で打ち込む

ことを実践していきましょう。
きっと人生変わるはずです

川部駅からは、五能線へ

川部駅からは、五能線ごのうせんに入ります。次回からは、五能線の旅にはいってゆきます!

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

ちゅうい!おわりに

この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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