鉄道唱歌 東海道編 第36番 関ヶ原を越える 「天下の分かれ目」の古戦場

まずは原文から!

天下の旗は徳川(とくがわ)に
歸(き)せしいくさの關が原(せきがはら)
草むす屍(かばね)いまもなほ
吹くか膽吹(いぶき)の山おろし

さらに読みやすく!

天下の旗は徳川(とくがわ)に
帰(き)せしいくさの関が原(せきがはら)
草むす屍(かばね)いまもなお
吹くか伊吹(いぶき)の山おろし

さあ、歌ってみよう!

♪てんかのはーたは とくがわにー
♪きーせしいくさの せきがはらー
♪くさむすかーばね いまもなおー
♪ふーくかいぶきの やまおろしー

(東海道線)
浜松駅→舞阪駅→弁天島駅→豊橋駅→蒲郡駅→岡崎駅→南大高駅→大高駅→熱田駅→名古屋駅→岐阜駅→大垣駅→関ヶ原駅→米原駅

※鉄道唱歌に関係ある主要駅のみ抜粋

大垣駅を出て垂井駅(たるいえき、岐阜県不破郡垂井町)を出ると、かつて「天下の分かれ目」と言われた関ヶ原(せきがはら)のある、関ヶ原駅(せきがはらえき、岐阜県不破郡関ケ原町)に到着します。

関ヶ原(せきがはら)は、かつて1600年に起きた「関ヶ原の戦い」のあった場所です。
また、関ヶ原にはかつて不破関(ふわのせき)といって、古代の4つの関所のうちの1つがありました。

【古代の関所】
不破関(ふわのせき):岐阜県と滋賀県の境
愛発関(あらちのせき):福井県と滋賀県の境
逢坂関(おうさかのせき):滋賀県と京都府の境
鈴鹿関(すずかのせき):三重県と滋賀県の境

こうしてみると、いずれも滋賀県の東西南北に関所が接続しています。
それだけ滋賀県(近江国)が重要だったことでしょう。
かつて近江国(おうみのくに)では
草津(くさつ)を制する者は天下を征す」
瀬田の唐橋(せたのからはし)を征する者は天下を征す」
と呼ばれたこともあり、琵琶湖(びわこ)がある滋賀県は内陸部でありながら船が使えるため、交通の(もちろん軍事上も)重要な地域だったのでしょう。
なお、関所(せきしょ)とは、古来から不審者や武器などが勝手に自国領に入って来ないように取り締まる場所のことをいいます。
そして、上記をみてもわかるように、関所はいずれも険しい山岳地帯に置かれていることがわかります。
山岳地帯は険しいために交通の障壁・難所となることが多いですが、逆に言えば、山岳地帯はこれを逆手に取って防衛に使われるわけです。なので関所を置くには山岳地帯が適していたものと思われます。

鉄道唱歌関西・参宮・南海編第16番では「愛発(あらち)逢坂(おうさか)鈴鹿(すずか)とて 三つの関所と呼ばれたる」と歌われています。
ただし、この3つに加え、不破関(ふわのせき)も重要だった関所です。

関ヶ原の戦いとは、ご存じの通り1600年に起こった戦いです。徳川家康がこの戦いに勝利し、1603年に江戸幕府を開いたことは、歴史の授業で習う通りです。
徳川家康が率いる東軍と、石田三成(いしだ みつなり)が率いる西軍に分かれて戦いました。結果は、言うまでもなく東軍の勝利でした。

西軍の石田三成(いしだ みつなり)は、彦根(ひこね)近くの佐和山城(さわやまじょう)に城を構えていました。
佐和山城はかつて彦根城ができる前にあったお城です。

関ヶ原の戦いは、最初は西軍だった小早川秀秋(こばやかわ ひであき)が裏切り、最終的に家康率いる東軍につきました。
この関ヶ原の戦いの裏切りにより、 一気に西軍がピンチに陥ってしまい、東軍の家康に軍配(ぐんぱい)が上がるようになりました。

関ヶ原の戦いは、先程述べたように徳川家康率いる東軍と、石田三成や小西行長(こにし ゆきなが)が率いる西軍の戦いでした。
この「東日本 vs 西日本」のような、日本を二分する戦い。
勝った側に政権が置かれる。
すごく極端に例えれば、東軍が勝てば日本の首都は東京に、西軍が勝てば首都が京都になるようなものです(ちなみに、事実上の当時の日本の首都は、約1000年間にわたり京都でした)。
この戦いに敗北した西軍の小西行長と石田三成は処刑されてしまいます。
一方、この戦いに勝利した徳川家康は現在の東京にあたる江戸に、江戸幕府を開くことになるのです。1603年のことです。

もし関ヶ原の戦いで、西軍が勝利していたら、現代の日本の首都は東京じゃなかったかもしれません(京都あたりが有力)。また、関東地方も、ごくごく普通の田園都市・地方都市という扱いになっていたかもしれません。
実際、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年当時の江戸は、ほとんど手付かずの未開の地でした。それが、埋め立て・工事・開削・治水など開発や発展を繰り返し、江戸は人口100万人の世界有数の大都市に成長し、現代の東京の基盤となっているのです。

「草むす屍」という歌詞については説明が難しいのですが、かつてここで激しい戦いが行われ、戦死した数多くの兵士の遺体も、今となっては草が生い茂った野原になってしまったのだなぁ、みたいな意味でしょう。
ここでかつて多くの兵士が戦ったのだ、としみじみ昔が偲(しの)ばれる、みないな意味となるでしょう。

大垣~米原の区間は、いわゆる青春18きっぷの難所いう風にもいわれます。
例えば夏のお盆の帰省のシーズンになると、大垣駅または米原駅で、大量の帰省客が乗ってきます。つまりこの区間は多くの帰省客によってごった返すことになるのです。
できれば、青春18きっぷで旅行する場合は、お盆や年末年始は避けるか、余裕あるダイヤでの乗車を心がけたいものです。

伊吹おろし」というのは、伊吹山(いぶきやま)から吹き下ろす、冷たい風のことをいいます。
この伊吹おろしの影響により、冬の名古屋は大変寒くなるのです。

伊吹山(滋賀県)

伊吹山(いぶきやま)は、滋賀県と岐阜県にまたがる標高1,377メートルの山です。
列車の右側によく眺めることができ、冬は冠雪しているので富士山のように綺麗です。
かつて日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が神話において、東国遠征(天皇の命によって関東地方を征伐しに行くこと)の帰りに伊吹山に寄った時に、大蛇によってフルボッコにやられたといいます。
そして山を下りてきて、滋賀県米原市の醒ヶ井(さめがい)に着いたとき、「居醒の清水(いさめのきよみず)」によって体の毒を消して慰められたといいます。

伊吹山(滋賀県)

伊吹山を横に眺めて柏原駅(かしわばらえき、滋賀県米原市柏原)からは、いよいよ滋賀県に入ります。
滋賀県は昔の呼び方で「近江国(おうみのくに)」といいます。

これはあくまで私の個人的な主観ですが、この関ヶ原を境に、日本は「東国」と「西国」に分かれると思います。

つまり関ヶ原よりも右側が東日本、西側が西日本という認識です。
実際、関ヶ原はかつて三つの関所である不破関(ふわのせき)があった場所です。

また、この鉄道区間は「東海道線」とはいうものの、名古屋~草津(滋賀県)までの区間は、実際には旧東海道のルールに沿っていなく、どちらかと言うと中山道(なかせんどう)のルートに近いです。

かつての旧東海道は、三重県と滋賀県の県境をなす鈴鹿峠(すずかとうげ)という難所を通っていました。
鈴鹿峠は鈴鹿山脈(すずかさんみゃく)という険しい山岳地帯であり、昔の東海道は現在の東海道線とは異なり、三重県から鈴鹿峠を越えて、滋賀県に入っていたのです。

しかし明治時代に入って鉄道を引く際に、鈴鹿峠があまりに険しい山であり、鉄道は坂道に弱いので結局このルートは断念し、中山道(なかせんどう)沿いである関ヶ原を通ることにしたのです。

スーツさんは鈴鹿峠のことを、鉄道と交通の文明を妨げた「罪深き山」と形容しています。

列車は近江長岡駅(おうみながおかえき、滋賀県米原市長岡)、醒ヶ井駅(さめがいえき、滋賀県米原市醒井)を過ぎます。
そして間もなく、北陸本線との分岐点であり、またJR東海とJR西日本の分岐点でもある米原駅(まいばらえき、滋賀県米原市)に着きます。

伊吹山(滋賀県)

そして、米原駅の一つ前の醒ヶ井駅は、中山道61番目の宿場町だった醒井宿(さめがいしゅく)があり、観光と史跡探訪には外せない場所です。
こちらは次回解説します!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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