東北・日本海側の旅2 五能線・川部→五所川原、津軽鉄道・津軽五所川原→嘉瀬・金木 太宰治のふるさとを巡る

川部駅からは五能線で、五所川原方面へ

今回からは、川部駅(かわべえき、青森県南津軽郡田舎館村)から五能線(ごのうせん)での旅になります。
まずは五所川原駅(ごしょがわらえき、青森県五所川原市)方面へと向かってゆきます。

五能線(ごのうせん)とは、五所川原(ごしょがわら)と秋田県の能代市(のしろし)を結ぶ路線という意味の路線です。
五所川原能代頭文字をそれぞれ取って、五能線になります。

しかし実際には始点は五所川原駅ではなく、少し南(弘前寄り)の川部駅(かわべえき)がスタートとなっています。ここは最初は慣れるまでちょっとわかりにくいため、注意しましょう。

リンゴ畑と、津軽富士・岩木山

さっそく川部駅を北上すると、ここからは辺り一面がリンゴ畑となり、リンゴの名産地となります。
青森県は、リンゴの生産量が日本一てす

岩木山(津軽富士)(青森県)

窓の左側には、津軽富士(つがるふじ)こと岩木山(いわきさん)がそびえ立ちます。
岩木山(いわきさん、標高1,625m)は、青森県最高峰の山です。つまり、青森県で一番高い山ということになります。ちなみに二番目は、青森市の南にある八甲田山(はっこうださん)であり、標高は岩木山より少し低い1,584mになります。
まるで富士山のような形をしており、長い裾(すそ)を持つので、津軽富士(つがるふじ)とも呼ばれます。

今回メインで紹介する、津軽出身の偉大な小説家・太宰治(だざい おさむ)は、自身の小説「富嶽百景(ふがくひゃっけい)」において、静岡県・山梨県の富士山を結構ディスっていたのですが、小説「津軽」において津軽富士についても(富士山ほどではなく、多少は岩木山を褒めてはいるものの)、やはり軽妙なディスをかましてくれています(^^; というか、「津軽」では津軽各地へのディスがあちこちに見受けられるわけですが、まぁ、太宰治は精神的に弱かったこともあり、大目に見てあげましょう(^^;

もちろん太宰治本人も「これは或いは私の観察の浅薄(せんぱく)なせいかも知れない」などのように、ちゃんと各地に失礼のないようにフォローを入れています。

五能線の歴史 真っ直ぐな線路になるはずだった!?

五能線の建設が始まったのは、大正時代の1917年の頃でした。当時はまだ自動車が一般的ではなかったので、人々はどこへ行くにも鉄道が必要だった、という時期でした。

建設をはじめた1917年は、ヨーロッパでは第一次世界大戦が起きていた時期です。
この第一次世界大戦によって、日本の製品が(戦争で疲弊し物資欠乏だった)ヨーロッパ諸国に対して飛ぶように売れたため、「大戦景気」が起こっていました。しかし好景気になって世の中が裕福になると、多少値段を上げたとしても人々はモノを買ってくれるようになります。そのためインフレーション(物価上昇)が起こります。というか好景気では人々がたくさん買い物をするため、商品の数が減ってしまい、買いたいという「需要」が、販売するという「供給」を上回ってしまうため、値段を上げざるを得なくなります。こうしてインフレが起こります。

この第一次世界大戦がもたらしたインフレにより、線路建設のための部品や資材などの値段が高騰してしまい、なかなか資材調達がままならず、建設工事もなかなか進まなかったといいます。

しかも建設の当初は「平坦な平野だし、まあ楽勝だろ」と思われていました。例えばもしこれが険しい山奥の線路建設だったら、クマやヤブカらと戦いながら、山を切り開いていかなければならりません。そうなると線路建設はとても大変です。
しかし五能線の川部(かわべ)~五所川原(ごしょがわら)の区間は、津軽半島のおだやかな平野地帯です。先述の通り、岩木山(津軽富士)の眺めも素晴らしいです。
だからこそ、線路建設にはちょっと楽観的で、建設者たちの間では「楽勝ムード」が漂っていたわけです。

しかし建設リーダーが「土木の素人だった」となどという問題があり、専門的知識が欠けた状態での建設工事だったため、ミスや「やり直し」などが連発したりして、線路建設のスケジュールは遅れる一方でした。

また、途中にたくさんある用水路に対し「橋をかける」ための工事にも時間がかかったりして、これもスケジュールを遅延させる原因となってしまいました。用水路というのは恐らくですが、津軽地方はたくさんの作物が採れる穀倉地帯のため、田畑を引っ張ってくるための用水路があちこちに張り巡らされていたものと思われます。そしていざ線路を引く時に、この用水路が邪魔をしてしまい、たくさんの橋をかける工事に追われてしまい、時間が余計にかかったものと思われます。その用水路は今もあるのかわかりませんが、わかり次第追って報告します(すみません・・・)。

このように、とても線路建設に時間がかかった結果、当初の楽観値とは裏腹に、線路建設は遅々(ちち)として思うように進まなかったようです。

しかも、やっとの思いで線路が完成したとき、川部駅で接続している奥羽本線(おううほんせん)を行き交う列車に貨車(かしゃ:荷物を載せるための車両です。単独では動けず、機関車に引っ張られて動く車両です)を取られてしまっていて、なかなか五能線に貨車が配置されないという問題が起こっていました。

というのも、当時は人口増加の影響もあってか奥羽本線の需要がかなり伸びており、貨車を五能線に回す充分な余裕がなかったのです。
大正時代は年間180万人誕生するほどの「多子化(少子化の逆)」の時代であり、日本の人口がどんどん増加している時代でした(津軽出身の太宰治も、この頃はまだ幼少期でした)。しかも当時は、まだ自動車が一般的ではありませんでした。
なので当時の鉄道の需要は、とにかく大きかったのです。今のように自動車がないため、人々はどこに行くにも鉄道が必要だったわけです。そして、人々が増えると、貨物列車で運ぶ荷物の量も増加することになります。

そんな中、先述の通り奥羽本線はとにかく荷物を載せるための「貨車」がパンクしており、当初はなかなか五能線に貨車を回すことができなかったのです。

なお五能線は、津軽半島の人口が増えたことにより、地元のお金持ちたちから「鉄道を作れば、十分に儲かる」と判断されたことにより、建設が決まった路線です。
その「お金持ち」のなかに、後述する太宰治の父である津島源右衛門(つしま げんえもん)がいました。

かつて青森の港は「鰺ヶ沢」「十三湊」だった

江戸時代は、津軽地方の各地から集まった米(年貢)などの荷物は、青森県西海岸の鰺ヶ沢港(あじがさわこう)から舟を使って、天下の台所・大阪(当時は「大坂」)へと輸送していました。
それは年貢米を大坂へと集めるためですね。

海のルート

鰺ヶ沢(青森)→酒田(秋田)→伏木(富山)→三国(福井)→下関(山口)→瀬戸内海→大阪

といった具合でしょうか。
つまり、日本海をずっと反時計回りで移動し、下関の関門海峡(かんもんかいきょう)から瀬戸内海(せとないかい)に入り、やがて大坂へ着くのです。

これは「西回り航路」または「北前船(きまえふね)」といい、江戸時代に河村瑞賢(かわむら ずいけん)というお金持ちが私財を投じて作った航路です。
江戸時代は貨物列車すらなかったので、舟で大量の荷物を載せて運んだ方が効率がよかったのですね。

つまり「むか~しの青森の港」といえば、鰺ヶ沢(あじがさわ)や十三湊(とさみなと)といった、日本海側の港だったのです。
日本海側に港があった方が、秋田県の酒田(さかた)や、ひいては大坂(おおさか)にも近かったからですね。

しかし明治時代に入ると、青森港の発展に伴って、西海岸の鰺ヶ沢港(あじがさわこう)は衰退してしまいました。

明治時代になって鉄道が発展してくると、米をはじめとする荷物の大量輸送は、鉄道(貨物列車)がメインとなってきます。
そうすると「海上輸送」は衰退してゆくこととなり、鰺ヶ沢や十三湊といった日本海側の港は、必然的に衰退していくことになります。

さらには明治時代、上野~青森間の、今でいう「東北本線」が開通し、青森港から北海道・函館港へ向かう「一大鉄道ルート」が建設されたため、なおのこと青森港の方が栄え、一方の日本海側の鰺ヶ沢・十三湊などは衰退することになってしまったのです。

明治時代~大正時代には、地元のお金持ちたちが、お金を出しあって建設していました。
なぜなら日本は1877年に鹿児島・熊本で起きた「西南戦争」のために多額のお金を使ってしまい、鉄道建設のための国のお金は「すっからかん」状態になっていったのです。

なので1880年代頃からは、民間のお金持ちたちがお金を出しあって、「ここに線路を通せば儲かるだろう」という区間に対して、次々に鉄道を建設していったのでした。

こうした民間の線路は1906年に軍事目的のために国有化され、戦後になって国鉄→JRの管轄となっています。

今全国にあるJR社のさまざまな路線にも、明治時代から大正時代時代にかけて、地元のお金持ちたちが作った路線であるものは結構多いのです。
津軽地方もそうでした。

津軽の富豪・津島源右衛門 あの太宰治の父

その中の「お金持ち」の筆頭格に、津島源右衛門(つしま げんえもん)という、津軽の実業家がいます。

津島源右衛門(つしま げんえもん)は、明治時代に津軽地方にいた代表的なお金持ちであり、津軽地方でのお金持ち集団・津島財閥のトップでした。しかも税金をたくさん納めていたため、貴族院議員の資格までありました。昔の参政権は、今のように20歳以上の全員にあったわけではなく、多額の納税をしていた一部の大金持ちに限られていており、津島家はその数少ない参政権のあった一つだといえます。

そして津島源右衛門は、何を隠そう、あの太宰治(だざい おさむ)の父親なのです。
太宰治は、本名を津島修治(つしま しゅうじ)といい、1909年に名家・津島家の子として生まれています。

太宰治は、本当にお金持ちの名家に生まれたのですね。
太宰治の生家(せいか)を博物館にした「斜陽館(しゃようかん)」の豪華ぶりを見れば、津島家の「お金持ち度合い」がわかると思います。

太宰治は、幼少期はとにかく勉強が出来る天才であり、とにかく人を笑わせることが大好きな「愛されキャラクター」でした。美形イケメンなこともあり、とにかく女性からはモテました。
そして学生時代に芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)や井伏鱒二(いぶせ ますじ)などの小説にハマりまくってしまい、小説家を志すようになりました。
彼の書く小説があまりに面白いので、当時の地元の周りの生徒・クラスメイトたちは読んで大爆笑したそうです。

しかし太宰治は、青森から東京に上京して、東京帝国大学を単位が足りずに落第します。卒業が絶望的になったため、まるで津軽の実家の恥さらしのようになってしまい、恥の埋め合わせのように受けた東京新聞の就職試験をも不合格になってしまいます。
これに落胆・絶望してしまい、自◯をはかるなど、かなりの堕落・落ちこぼれぶりでした。
これだけでもなかなかメチャクチャで、かなり困った人物であることがわかりますね。

なので少なくとも1930年代(20代)頃までは、彼は小説だけでまともに食えるくらいの稼ぎは恐らくなかっものと思われます。
1930年代以降に「走れメロス」「富嶽百景」などのヒット作を飛ばして小説家としてまともに食えるようになるまでは、地元・津軽からの「仕送り」にかなり頼っていました。
それは代表作「人間失格」での描写からもわかります。
逆にいえば、それだけ地元・実家の財力が凄かったということですね。

薬物中毒や自◯未遂が酷くなってからは、青森の実家からも、家族がわざわざ東京にやってきて、何度も「(青森に)帰ってくるように」言われたりしています。

戦後になって「貴族(華族)」の制度が廃止され、しかも農地改革により「大地主」という地位も剥奪されたため、太宰治の実家である津島家はただの平民という扱いになり、それまでのように貴族として持ち上げられたり、チヤホヤされるというることもなくなり、津島家は没落してしまいました。それまではたくさんの農地を持っており、大地主としてその農地を小作人(こさくにん)に貸すことで収入を得ることが出来ていたのですが、それも出来なくなりました。
戦後は「皇族」以外は全ての国民は「平民」になったので、華族などの貴族制度は廃止となり、みんな「平民」となり特別扱いはされなくなったのです。
おそらく津島家も、それまでの「貴族気分」から抜け出せずに、現実とのギャップにかなり苦しんだことでしょう。
太宰治本人もその津島家の没落ぶりにショックを受け、そんな没落した貴族を描いたのが、後述する代表作「斜陽(しゃよう)」になります。

五所川原駅・津軽鉄道 太宰治ゆかりの地へ

五能線・五所川原駅(青森県五所川原市)

五所川原駅(ごしょがわらえき、青森県五所川原市)からは、津軽鉄道(つがるてつどう)に沿ってゆきます。

津軽鉄道・津軽五所川原駅(青森県五所川原市)

太宰治のふるさとなので、「走れメロス号」という列車に乗って、津軽半島北部をひたすら進んでゆきます。

走れメロス」とは、太宰治の小説であり、主人公メロスが、身代わりになった友(セリヌンティウス)を救うために、約40キロという距離をひたすら走り続けるというストーリーです。

津軽鉄道は、残念ながらかなりの経営苦境にあえいでいます。
なにせ津軽半島の北部という、青森県でもかなり人口が少ない地域を走るローカル線であるため、なかなか仕方ない部分もあります。
なので「地元の移動の足」というよりは、むしろ太宰治ファンに向けた「観光路線」という側面が強いといえます。
ストーブ列車」という、冬の期間にストーブを炊きまくって走るという企画もあります。

津軽鉄道の列車内では、アナウンスで太宰治の小説の「朗読」が行われます。

太宰治の小説「津軽」は、太宰治がとある出版社から旅費をもらって、地元への帰省を兼ねて小説のネタ・題材となるべき旅行を1944年5月~6月にかけてしたときのことが書かれています。当時は太平洋戦争(大東亜戦争)のまっただ中で日本が既に劣勢だった時期であり、いつ戦争で死ぬかもしれないという不安から、せめて最後に地元の津軽を旅行しておきたい、という思いから津軽旅行をしたのでした。
ちなみに出版社から旅費を貰うと、彼の性格からしてそのお金でパビナールなどの薬物を購入してしまいそうなものでしたが、そこはきちんと旅費に使ったため、えらいと思います。

なお「津軽」は、筆者が好きなアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」で、図書室で国木田花丸(くにきだ はなまる)ちゃんが読んでいた本でもあります。
他にも花丸ちゃんは図書室で太宰治の「伽草紙」も読んでいたシーンもあり、花丸ちゃんはかなり太宰治が好きなんだと思います。

なお「伽草紙」は、太平洋戦争(大東亜戦争)のまっただ中にかかわらず、彼が疎開中にユーモアを交えて描いた作品になります。

吉幾三さんの出身地・嘉瀬駅(かせえき)

やがて、嘉瀬駅(かせえき、青森県五所川原市金木町)に到着します。

津軽鉄道・嘉瀬駅にて(青森県五所川原市金木町)
嘉瀬駅(青森県五所川原市金木町)
嘉瀬駅からの津軽鉄道・「走れメロス号」(青森県五所川原市金木町)

ここはかなり歴史を感じさせる駅舎で、津軽地方を感じさせるいい雰囲気の駅です。

そしてここは、昭和を代表する歌手・吉幾三(よし いくぞう)さんの出身地です。
吉幾三さんは「俺ら東京さ行ぐだ」という曲が有名ですね。

♪ハァ テレビも無ェ
♪ギターも無ェ
 車もそれほど走って無ェ

・・・などと、とんでもない田舎の様子が、これでもかという具合に歌われています。

他にも、歌詞によれば
カラオケ無ェ」「喫茶も無ェ」「い(集会)も無ェ
新聞無ェ」「雑誌も無ェ」「信号無ェ あるわけ無ェ
などの無無尽(ないないづくし)の地元だったようです。

そして極めつけは、
俺らの村には電気が無ェ!

という強烈な歌詞があります。

この歌詞はさすがに「いや、それはないでしょ」とツッコミを入れたくなるところであり、しかも地元民からも「うちはそんなに田舎じゃない!!」という苦情が相次いだそうですが、実際に吉幾三さんが少年時代を生きた1960年代の嘉瀬駅周辺は、本当に「電気が無かった」のだそうです。

青森は「田舎と聞いて連想する都道府県」でいつもトップ(一位)であり、やはり「青森県=田舎」というイメージが強く、それもこの曲「俺ら東京さ行ぐだ」の知名度がバツグンに高いことも起因しているのかもしれません。

ちなみにこれを逆・「都会が嫌だ」バージョンにして替え歌を作ると、

ハァ海も無ェ 山も無ェ 川も無ェ 
自然も畑もなんにも無ェ

草原無ェ 牧場(まきば)も無ェ あるのは高層ビルばかり
俺らこんな都会嫌だ こんな都会嫌だ
青森へ出るだ
青森へ出たなら銭コア(=お金)貯めで
金木で会社やるだ
みたいな意味・歌詞になるでしょうか。

なので、もし都会の高層ビルに囲まれた暮らしにうんざりしたときは、青森への旅行・観光、ひいては「移住」も検討してみるのもいいかもしれません。

そして金木町でもし本当に会社をやる人がいたら、それは金木町としては大歓迎になるでしょう。
地元に企業が出来ると、新たに雇用が生まれたり、法人税などの税収アップにつながるからですね。

金木駅(かなぎえき)に到着

嘉瀬駅(かせえき)から一つ北へ行くと、金木駅(かなぎえき)に着きます。
金木町(かなぎまち)は、いわずと知れた、太宰治の出身地です。

津軽鉄道・金木駅(青森県五所川原市金木町)

太宰治のふるさと・金木町

金木駅から西へしばらく行くと、太宰治の生家である斜陽館(しゃようかん)があります。

太宰治は、先述の通り本名を津島修治(つしま しゅうじ)といいます。「太宰治」というのはあくまでペンネームになります。

太宰治こと津島修治は、明治時代末期の1909年6月19日に、この家で生まれました。

津島家は、明治時代における華族(かぞく)であり、地元の大金持ちとして君臨していました。なので、津島家の家はとても立派・豪華で大きいです。

しかし戦後になって、先程も少し述べた通り、華族(かぞく)にはじまる貴族の制度は廃止されてしまい、それまで津軽地方で栄華を築いてきた津島家は没落することとなり、残念ながら衰退していまいます。

戦後になって、太宰治が没落した津島家を見て落胆し、「斜陽(しゃよう)」という代表作のタイトルを思い浮かんだのでした。

斜陽(しゃよう)とは、元々は「傾きはじめた太陽」という意味です。
それが転じて、「それまで栄えていた者が堕落する」という意味になります。
まあ、今でいう「オワコン」という意味です。どちらかというとマイナスの意味ですね。
なので、既に終わった(オワコンとなった)産業のことを「斜陽産業(しゃようさんぎょう)」ともいいます。

太宰治の生家・斜陽館の二階にある、太宰治が幼少期を過ごしたという豪華な部屋では、ふすまのすみっこに「斜陽」の文字があります。
なので「斜陽」という言葉は、太宰治の人生においてはわりと馴染み深いフレーズだったのでした。

斜陽は、先述のアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」の舞台になった、静岡県沼津市(ぬまづし)・内浦(うちうら)三津(みと)の「安田屋旅館(やすだやりょかん)」で書かれました。
アニメでは「十千万旅館(とちまんりょかん)」として登場している旅館です。

朝、食堂でスウプを一さじ
ではじまる「斜陽」の冒頭文は、この沼津市・安田屋旅館で書かれたものです。

走れメロスの中にも「斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、・・・」というフレーズがあります。

たとえ「人間失格」でも生きていける、現代の世の中

太宰治は、その輝かしい名声の裏側で、落第・自◯未遂・薬物中毒・散財・常軌を逸した女遊び・モテ過ぎて愛人を何人も抱え逆に困るなど、とにかくメチャクチャで堕落した、そして激動すぎる人生を送ってきました。
まさに文字通り「恥の多い生涯」といえるでしょう。
しかし、私(筆者)も失敗ばかりで常に人に怒られてばかりの、ろくでもない人生を送ってきました。

Dear 太宰治さん。
私も「人間失格」です。
私も「恥の多い生涯」を送ってきました。

私(筆者)は、子供の頃から「変人」「頭おかしい」扱いされ、友達がおらず、いじめはもはや基本、アルバイトもまともに務まらず、会社でも使えない人間扱いでした

得意はことは「勉強」だけ。
いわゆる「社会不適合者」です。

しかし、私のような人間失格な「社会不適合者」であっても、現在では生きていけるような仕組みが整っていると思います。
それはフリーランスへの道(「クラウドワークス」や「ランサーズ」といったサイトに登録)であったり、他にも投資・YouTuberやFIRE達成など、必ずしも会社勤めやアルバイト等をしなくても、生きていけるような方法はたくさんあります。

太宰治さんがもし現代に生きていれば、自殺・心中を図る必要性は無かったのかもしれません。

たとえ人間失格であっても、今の世の中では生きていけるのです。

津軽半島のさらに北には、何がある? 義経の伝説も

津軽半島(つがるはんとう)は、青森県の北西に突き出た半島です。
逆に、青森県の北東に突き出た半島は「下北半島(しときたはんとう)」といいます。

本州最北端の地は、下北半島(しもきたはんとう)の大間崎(おおまざき)にあります。
一方、津軽半島の最北端の地は、竜飛岬(たっぴみさき)になります。
海の向こうは、北海道です。

津軽半島は、源平合戦で活躍した源義経(よしつね)にゆかりある(とされている)地域でもあります。
源義経は源頼朝(よりとも)の弟であり、「九郎判官(くろうほうがん)」とも呼ばれ、神戸の一ノ谷(いちのたに)、山口県・壇ノ浦(だんのうら)で活躍し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献しました。
しかし兄の源頼朝と仲が悪く、岩手県・平泉で滅ぼされてしまいました。

義経の激動の人生については、以下の記事でもわかりやくす解説していますので、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史

しかし死んだと思われた源義経は、岩手県・平泉の衣川館(ころもがわやかた)で敗れた後、なんと実は生きていたという都市伝説があります。
つまり、青森・津軽半島からさらに海を渡り、北海道に入ったとされているのです。

そのため、北海道にも義経に関する伝説がいくつもあります。
例えば、北海道の最初の鉄道である、明治時代の官営幌内鉄道(かんえいほろないてつどう)には「義経」という機関車もありました。
これは「北海道に源義経が生き延びたから」という伝説に因(ちな)んでいます。

北海道の義経の伝説については、以下の記事でも解説しているためご覧ください。

冬の【東京→北海道】鉄道旅13 倶知安→小樽 アイヌと義経の歴史のあと

さらに義経は大陸・モンゴルにまで渡り、なんとチンギス・ハンとして降臨したという伝説まで存在しています。 

竜飛岬(たっぴみさき)とは、津軽半島最北端の地であり、また津軽半島と北海道とが最も近く接近する(19.5km)場所でもあります(ただし、下北半島にある本州最北端の「大間崎」と、函館側の「汐首岬(しおくびみさき)」との方が、本州と北海道が最接近する場所(17.5km)になります)。
竜飛岬は、石川さゆりさんの名曲「津軽海峡・冬景色」でも歌われてますね。
竜飛岬と対になる北海道側は、白神岬(しらかみさき)と言い、こちらは北海道最南端にあたります。

十三湖と、十三湊

津軽半島の西海岸側には、十三湖(じゅうさんこ)もあります。
十三湖は、しじみがたくさん採れることで有名です。しじみとは、貝の一種です。
また、「しじみ」は島根県の宍道湖(しんじこ)でも有名です。

十三湖は、鎌倉時代~室町時代には日本海沿岸の交易港「十三湊(とさみなと)」のあった場所です。
前回も詳しく解説した、鎌倉時代に津軽地方の有力豪族(強くてお金を持った一族)であった安藤氏(安東氏)の拠点として栄えてきました。
しかし安藤氏が後に南部氏(なんぶし)によって敗れて北海道に追放され、新しい津軽地方の覇者となった南部氏が海運業にあまり力を入れてこなかったこともあり、十三湊は衰退してしまいました。

なお似たような名前であり、南方・白神山地(しらかみさんち)にある十二湖(じゅうにこ)とは無関係です。

次回からは、五能線で本格的に日本海側へ

次回からは、五能線での旅がいよいよ本格化します。
五所川原駅を出て、鰺ヶ沢(あじがさわ)・深浦(ふかうら)・東能代(ひがしのしろ)方面へ向かってゆきます。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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