鉄道唱歌 東海道編 第41番 粟津と木曽義仲 朝日将軍と呼ばれた武将の悲劇の最期

まずは原文から!

粟津(あわづ)の松にことゝへば
答へがほなる風の聲(こえ)
朝日將軍(あさひしょうぐん)義仲(よしなか)の
ほろびし深田(ふかた)は何(いず)かたぞ

さらに読みやすく!

粟津(あわづ)の松にこととへ(事問え)ば
答えがおなる風の声
朝日将軍(あさひしょうぐん)義仲(よしなか)の
ほろびし(滅びし)深田(ふかた)は何(いず)かたぞ

さあ、歌ってみよう!

♪あわづのまーつに こととえばー
♪こたえがおなるー かぜのこえー
♪あさひしょうぐん よしなかのー
♪ほろびしふかたは いづかたぞー

(湖西線)
山科駅→大津京駅→唐﨑駅→比叡山坂本駅→おごと温泉駅→堅田駅→志賀駅→比良駅→近江舞子駅→近江高島駅→近江今津駅→マキノ駅→近江塩津駅

(京阪電鉄石山坂本線)
石山寺駅→唐橋前駅→京阪石山駅→粟津駅→京阪膳所駅→びわ湖浜大津駅→三井寺駅→大津市役所前駅→京阪大津京駅→近江神宮前駅→滋賀里駅→坂本比叡山口駅

※上記は全ての駅でなく、鉄道唱歌に関連する駅及びその他歴史上重要と思われる駅を筆者の独断と偏見で抜粋

今回は「近江八景」の一つ、「粟津晴嵐」の旅

今回は近江八景(おうみはっけい)の一つである、「粟津の晴嵐(あわづせいらん)」について語っていきます。
そして、この地を語る上で外せない、朝日将軍(あさひしょうぐん)こと木曽義仲(きそよしなか)についても解説していきます。

京阪電車石山坂本線・粟津駅(滋賀県大津市)

粟津(あわづ)とは、東海道線石山駅(いしやまえき、滋賀県大津市粟津町)の周辺およびやや北側にある地名のことです。
青嵐(せいらん、又は「あおあらし」)とは、草木の上に吹きつく風のことを言います。
青い木々や、草の上を吹き付ける風ということで、青嵐という風にいうわけです。

旭将軍・木曽義仲の滅んだ、粟津

粟津という場所は歌詞にあるように、旭将軍(あさひしょうぐん)と呼ばれた源義仲(よしなか)、通称・木曽義仲が滅んだ場所でもあります。
木曽義仲は、簡単にいうと源平合戦のときに破竹の勢いで戦に勝利し、見事に京都入りを果たすもそこでトラブル続きでうまくいかず、粟津にて散った悲劇の武将です。
以降、さらに詳しく解説します。

木曽で育った、源義仲

源義仲(よしなか)、通称・木曽義仲(きそよしなか)は、現在の埼玉県の秩父の辺りで生まれました。そして、義仲は幼い頃に長野県の木曽路にある宮ノ越(みやのこし)に引っ越しています。
宮ノ越は中央西線(ちゅうおうさいせん)宮ノ越駅(みやのこしえき、長野県木曽郡木曾町日義)が最寄駅です。

宮ノ越駅(長野県木曽郡木曽町)

これは中央線鉄道唱歌 第53番でも歌われていますね。以下の記事で解説しています。

中央線鉄道唱歌 第53番 朝日将軍・木曽義仲の育った地、宮ノ越 平氏を討てと旗揚げをした「南宮神社」

彼は長野県の木曽地域で育ったことから、木曽義仲(きそよしなか)の通称があります。
そして源平合戦の時の1180年、以仁王(もちひとおう)の挙兵の時に全国の源氏に対して呼びかけられました。そして、それは源義仲に対しても同じことでした。

おごり高ぶる平氏を打倒すべく、木曽で挙兵・旗揚げ

当時は「平家にあらずんば人にあらず」までに言われたほど平氏が驕り(おごり)高ぶっていた時代であったので、それに対して全国的に不満を持つ人々がたくさんいました。
そして、そんな驕り高ぶる平氏を討つべきとして、宮ノ越の南宮神社(なんぐうじんじゃ)と呼ばれる神社で旗揚げ(はたあげ)をしました。
旗揚げとは、皆で「さあ、これから平氏を倒すぞー!!」と一致団結するようなものです。
これも中央線鉄道唱歌53番にて歌われていますね。

一方、同時期に平氏を討たんと挙兵し、後に鎌倉幕府を成立させた源頼朝(よりとも)は、義仲とはいとこ同士の関係でした。
しかし、平氏を倒すという目的は共通のはずなのに、彼らは一切協力しませんでした。
この時代は身内同士で権力争いをしたり、手柄を奪い合ったり、恨み合ったりすることはごく普通にあったことでした。
1185年に山口県下関市で行われた「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」で勝利した源義経(よしつね)も頼朝の弟でしたが、後に政治的意見が合わず、鎌倉を追い出されて東北地方に逃げ、岩手県の平泉(ひらいずみ)に奥州藤原氏に匿(かくま)われていることがバレて頼朝に滅ぼされてしまいます。

福井・燧城にて敗北、北陸へ一旦撤退

京都を目指していた義仲でしたが、福井県の燧城(ひうちじょう)にて敗北してしまい、石川県、富山県の方まで大きく後退を余儀なくされます。
燧城(ひうちじょう)については、鉄道唱歌 北陸編 第64番でも歌われていますね。以下で解説しています。

鉄道唱歌 北陸編 第64番 福井を出て、鯖江市・越前市・南越前町をゆく 

快進撃の始まり 倶利伽羅山にて平氏を撃退

そして、ここから義仲の快進撃が始まります。

石川県(加賀)と富山県(越中)の境をなす、倶利伽羅山(くりからやま)において、義仲はなんと500もの牛に火を付けて平氏軍を撃退するのです
まるで500もの大軍が攻めてきたと勘違いした平氏軍は慌てふためき、次々に逃げ出しました。やがて行き着く先が崖だったので、平氏軍は次々に飛び降りて命を落としたという事態になったといいます。この谷は、「地獄谷」と呼ぶそうです。
この「倶利伽羅山の戦い」については、鉄道唱歌 北陸編 第53番でも歌われていますね。以下記事で解説しています。

鉄道唱歌 北陸編 第53番 「火牛の計」 義仲が500の牛に火を付けて戦った倶利伽羅山

なお、倶利伽羅山サンスクリット語に由来する名前であり、また倶利伽羅山は別名で「砺波山(となみやま)」ともいいます。

IRいしかわ鉄道線(旧・JR北陸本線)倶利伽羅駅(石川県河北郡津幡町)

平氏軍を追う義仲ですが、平氏軍はやがて石川県の手取川(てとりがわ)に到達します。
手取川(てとりがわ)は、逃げる平氏軍を追いかける義仲の軍が手を互いに取り合って渡った川であることから、この名前になったそうです。

手取川(石川県)

手取川(てとりがわ)は、石川県と岐阜県の県境をなす白山(はくさん)から流れる川です。
手取川と白山については、鉄道唱歌 北陸編 第60番でも歌われていますね。以下の記事で解説しています。

鉄道唱歌 北陸編 第60番 松任・美川(白山市)を過ぎて、手取川を渡る 窓の左に聳える白山

念願の京都入り 「旭将軍」の異名がつく

やがて福井県(越前)、琵琶湖を経由して京都を目前にしますが、ここで比叡山延暦寺に足止めを食らいます。
ここで、義仲はなんと「交渉」で突破するのです。後に京都で様々なトラブルを起こしたことからコミュニケーション能力に難ありのイメージの義仲でしたが、延暦寺との交渉をうまく進めたことを考えると、一定のコミュニケーションスキルはあったと考えられます。

そして、義仲はめでたく念願の京都入りを果たします
まるで東の方から朝日のように登場したので、「旭将軍(あさひしょうぐん)」の異名がつきました。

京都での度重なるトラブル やがて孤立無援に

しかし、当時の京都は深刻な食糧難だったところを、義仲率いる大軍がそこに居座ったため、さらに京都の食糧難を加速させることとなりました
また、京都での義仲はそれまでの連勝の実績による過信からか自己中心的な振る舞いが目立ち、「義仲の思い通りにさせては平氏の二の舞になる」と周りから思われてしまい、後白河法皇の怒りも買ってしまいます。これに怒った義仲は、後白河法皇をお寺に閉じ込める(幽閉する)という暴挙に出たのです。
これにより、京都での義仲の信用や人望はガタ落ちとなりました。
これをチャンスとみた頼朝は、鎌倉から義仲征伐のために「佐々木四郎(ささきしろう)」という武士を京都に派遣します。
これを義仲は宇治川(うじかわ)で迎え打つのですが、既に人望を失い仲間の裏切りで離反が相次いで弱体化していたため、宇治川の戦いで敗北。
なお、「宇治川の戦い」や「佐々木四郎の先陣」については鉄道唱歌 関西・参宮・南海編ら第8番でも歌われていますね。以下の記事で解説しています。

鉄道唱歌 関西編 第8番 奈良線に乗り換え、京都方面へ 宇治川の戦い、平等院鳳凰堂など

宇治川での敗北 そして京都を脱出、粟津で滅ぶ

敗れた義仲は、命からがら京都を抜け出します。
この時点で、ほとんどの味方軍は戦死・裏切り・離反が相次いでおり、味方は数えるくらいしか居なくなっていました。
とりあえず北陸方面への脱出を図るのですが、滋賀県の大津にかかったところで追っ手に追いつかれてしまいます。
ここで、義仲の味方だった巴御前(ともえごぜん)という女性と別れています。
また義仲の幼なじみでありここまで共に戦ってきた今井兼平(いまいかねひら)という武将も、「もはやこれまで」ということで、口に刀を含むという悲劇の自害を遂げました。
そして義仲は大津の粟津(あわづ)にさしかかったところ、深田(ふかた。深い田んぼのこと)に足をとられて動けなくなったところを、無名の兵士に矢を打たれて命を落としてしまいました。
ここに旭将軍・義仲は、粟津の深田にて悲劇の最期を迎えたのでした。
ここは歌詞にある通りです。

戦いにめっぽう強く、連戦連勝の快進撃で見事に京都に入った義仲でしたが、人間的スキルが不器用だったためか、願い叶わず戦死してしまいました。
彼の恨みを鎮めるため、彼の魂は木曽の徳音寺(とくおんじ)にて葬られています。
これは中央線鉄道唱歌 第54番でも歌われている通りです。

中央線鉄道唱歌 第54番 念願の京都に入るも、虚しく散った義仲 宮ノ越に鐘が鳴り響く徳音寺

私(筆者)は、義仲とよく似たタイプの人間

余談ですが、私(筆者)はどちらかというと頼朝タイプというよりは、義仲タイプの人間だと思います。
私は社会人になってからも、勉強やスキル面では誰よりも自信あったのですが、人との関わりが下手で、空気が読めないところがありチャンスをもらえず、常に苦労してきました。
義仲の数多くの諸行については、私と似ているところがあるなぁ、と親近感を抱きます。

また、私は高校のときにセンター日本史が得意で、模試も8割~9割は安定的に取れるほどだったのですが、義仲については一度も出てこなかったと記憶しているので、義仲の存在を知ったのは鉄道唱歌を知ってからでした。
しかし、上記に挙げたように義仲は鉄道唱歌に何度も登場する重要人物です。
また、長野県歌「信濃の国」においても、第5番において長野県出身の歴史的人物が列挙されるのですが、義仲はその筆頭(つまり、一番初め)に登場します。それくらい重要な人物です。

皆さんが、少しでも旭将軍・義仲について興味をもち、鉄道に乗って彼にゆかりある旧跡を訪問されるきっかけになれば幸いです。

琵琶湖・粟津近くの湖岸(滋賀県大津市)。左側は近江富士・三上山、正面は矢橋帰帆島公園あたり。

次は、湖西線(こせいせん)に乗りかえ、沿線の近江八景の行程となります!

注意
この記事は、「小学生の頃の私(筆者)に教える」というイメージで書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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