東北・日本海側の旅7 羽越本線・鶴岡→鼠ヶ関→村上→坂町→新発田 笹川流れの横をゆく

鶴岡駅を出て、鼠ヶ関・村上方面へ

鶴岡駅(つるおかえき、山形県鶴岡市)を出ると、羽越本線(うえつほんせん)をひたすら南下してゆきます。

そして現代では県境となる鼠ヶ関(ねずがせき)より新潟県に入り、村上(むらかみ)・坂町(さかまち)・中条(なかじょう)・新発田(しばた)を経て、白新線(はくしんせん)から、今回の旅のゴール・新潟に至ります。

奥州三大関所・鼠ヶ関(ねずがせき)を通る

鶴岡駅を南下していくと、山形県はここまでであり、徐々に新潟県との県境に入ってゆきます。そして奥州三大関所(おうしゅうさんだいせきしょ)の1つといわれる鼠ヶ関(ねずがせき)を通ります。

奥州三大関所(おうしゅうさんだいせきしょ)とは、以下の三つになります

白河の関(しらかわのせき)
勿来の関(なこそのせき)
鼠ヶ関(ねずがせき)

白河の関(しらかわのせき)は、栃木県と福島県との県境にあり、今も昔も「東北地方への入口」として認識されている、名高い関所です。

勿来の関(なこそのせき)は、茨城県と福島県の県境にある、太平洋側の「東北地方への入口」になります。

白河の関については、以下の記事でも分かりやすく解説しているため、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第18番 白河の関、そして戊辰戦争の古戦場

勿来の関については、以下の記事でも分かりやすく解説しているため、ご覧ください。

関所は、やはり現代でも「県境の位置」に存在していることがよくあります。鼠ヶ関(ねずがせき)も、現代でも山形県と新潟県の県境となっています。

鼠ヶ関は、かつて九郎判官(くろうほうがん)と呼ばれた源義経(よしつね)が、兄の源頼朝(よりとも)と対立して、頼朝の追っ手から逃れるために、東北地方へ逃れるために通った関所でもあります。この鼠ヶ関から東北地方に入った義経は、岩手県・平泉(ひらいずみ)に本拠地を構えていた奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)によって匿(かくま)ってもらうのですが、これが頼朝にバレてしまい、義経と奥州藤原氏は滅ぼされてしまいます。

義経平泉・奥州藤原氏については、以下の記事でも分かりやすく解説しているため、ご覧ください。

鉄道唱歌 奥州・磐城編 第33番 平泉に到着! 金色堂、安倍氏、奥州藤原氏など戦いや栄華の歴史

新潟県に入ると、ここからは中部地方に入ります。つまりここからは東北地方ではなく、中部地方に入るというわけです。

海の絶景「笹川流れ」

新潟県に入り、羽越本線をさらに南下すると、窓の右側(海側)には笹川流れ(ささかわながれ)の景色が登場します。

笹川流れ(ささかわながれ)とは、新潟県村上市(むらかみし)にある絶好の景勝地になります。

窓の右側の日本海側には、

鷹巣岩(たかのすいわ)
恐竜岩(きょうりゅういわ)
などといった、様々な特徴的な岩が登場します。

越後早川駅(えちごはやかわえき、新潟県村上市)は、早川寺(そうせんじ)といったお寺にちなんでいます。

新潟の日本海に浮かぶ「粟島(あわしま)」

日本海の向こう側には、粟島(あわしま)というポツリと浮かぶ島があります。粟島は、佐渡島(さどがしま)のやや北東に位置する小さな島になります。

粟島の歴史については、明確な根拠が残っているわけではないのですが、たとえば以下のような伝承(=言い伝え)があります。

飛鳥時代、奈良県に拠点を置いていた大和朝廷(やまとちょうてい)は蝦夷征伐(えみしせいばつ)を行い、阿倍比羅夫(あべのひらふ)といったツワモノを東北地方や北海道に送り込みました。
大和朝廷からすると、東北地方・北海道の人々は蝦夷(えみし/えぞ)と呼ばれ、朝廷の言うことを聞かない者達として、征伐の対象となっていたのでした。

その大和朝廷・阿倍比羅夫らによる蝦夷平定によって、地元の東北地方・北海道などの土地を追われてきた蝦夷(えみし)たちが、粟島(あわしま)に上陸してきて、住み着くことになったのでした。

まだ当時ほとんど何もなかった粟島の土地に、例えば田畑を耕し、家を建て、洪水や干ばつ・飢餓などに苦しめられ・・・といった具合で、初期の粟島での暮らしは決して一筋縄(ひとすじなわ)ではいかなかったことでしょう。

平安時代 松浦党の、粟島への進出

しかし平安時代の西暦800年代になって、九州に拠点を置く松浦党(まつうらとう)の一族が、粟島の東海岸地域へと上陸してきます。

松浦党(まつうらとう)とは、現在の長崎県佐世保市(させぼし)の北あたりにある、松浦市(まつうらし)あたりで勢いづいていた武士チームのことです。
現在でも「松浦鉄道」という鉄道路線がでていますね。

その松浦党が、先述のように元々粟島の東海岸に住んでいた蝦夷たちを、なんと西海岸へと追い払ってしまい、東海岸よ地域に生活するようになりました。

粟島の東海岸は、現代でもメインの港がある、村上市や新潟市との「海のつなぎ口」のような重要な地域にあたります。なので東海岸は非常に便利な土地であり、粟島に住むのなら誰もがここに住みたくなるような土地です。なので後から急に入ったきた松浦さんたちが、この土地を欲しくなるという気持ちもわかります。

しかし、先に住んでいた蝦夷の皆さんたちからすれば、急に他所(よそ)から入ってきた松浦氏によって土地を奪われるというのは、かなり忸怩(じくじ)たる思いだったでしょうね・・・。

元々は大和朝廷の手によって東北地方の地元を無理やり追放されてしまい、命からがら粟島に逃れてきて、必死の思いで粟島での生活の地盤を整えたのに、そこへ松浦氏がやってきて東海岸地域を追放されて、西海岸へ追いやられてしまったわけです。

ちなみになぜ九州の松浦党が、わざわざ新潟県の島である粟島までやってきたのかは不明です(調べたのですがよくわかりませんでした)。

松浦氏も、後から来た本保氏に住みかを追われる

しかし、その半世紀(約50年)後、今度は越前国(えちぜんのくに:現代の福井県)の本保氏(ほんぼし)一族たちが、松浦氏が住んでいた粟島の東海岸へと上陸してきます。
そして、既に住んでいた松浦一族を、なんと西海岸へ追い払い、松浦氏たちは仕方なくそこで住むようになったといいます。
松浦氏からすれば「過去にやったことが、自分達もやり返された」という形になってしまったわけです。

しかし松浦一族は、今度は西海岸で生活していた(しかもかつて自分達が追い払った)蝦夷たちを追放して、さらに北に追い払ったのでした。これで、蝦夷は2回も追放されてしまったことになります。

かつて松浦氏に東海岸を乗っ取られ、今度は西海岸をせっかく開拓してなんとか生活基盤が整ってきたところを、再び松浦氏に乗っ取られ、北へと追いやられてしまったわけです。

ここまでくると、蝦夷さんたち、さすがに可哀想になってきます(^^;

ここまででわかることは、粟島の東海岸地域は「誰もが住みたい地域」「最も栄えた地域」であるため、歴史的に奪い合いになっていたということですね。

やがて北に追放された蝦夷たちはむなしくも絶滅してしまい、島には東海岸の本保(ほんぽ)一族と、西海岸の松浦一族のみが残ったということです。粟島の北部地域は、ほとんど海に面した崖のようになっていて、平地が少なく、とても農業をやったり居住したりするのに適した場所とは言い難いです。現代でも粟島の北部地域には、目立った集落はあまり存在していません。なので北へ追い詰められてしまった蝦夷たちは、北部地域での生活がままならず、むなしくも絶滅の運命をたどることになってしまったのでしょう。

調べたら、粟島では今でも「松浦さん」「本保(ほんぼ)さん」という苗字の方々が多いようです。
現代では(過去の出来事にとらわれず)島内でお互いが仲良くされていることを願うばかりです。しかし、あくまで私個人の想像にはなりますが、過去には「松浦(本保)の者と結婚してはいけない」などといった結婚差別も、恐らくですが存在したことでしょう。
昔は今よりも差別が酷かったですから、このように過去のイザコザにより、相手の家柄などが原因で近代の結婚差別につながった、といった事例は多いのです。

明治時代の1889年には「粟島浦村(あわしまうらむら)」が成立し、そのまま現在に至っています。

「新潟県の島」といえば「佐渡島(さどがしま)」のイメージがとても強いですが、粟島も「隠れた観光名所」のような感じで認知度が広まってきている印象があります。近年では多くのYouTuberの方が粟島の観光動画をアップされていたり、ネットでもたくさん紹介されている影響もあってか、観光地としての知名度がどんどん増していっているイメージです。

新潟県の移住先・粟島

粟島の唯一の自治体である粟島浦村(あわしまうらむら)は、現在では移住にとても力を入れておられます。

やはり粟島の魅力は「自然がたっぷりあること」でしょう。都会での暮らしであれば、遊びやお休みの過ごし方は例えば必然的に「お金のかかる趣味」になると思いますが、自然を楽しむ力があれば、お金のかからない生活が期待できます。

粟島では「自然が遊びのフィールド」となるため、お金のかからない遊びがいくらでも作り出せます。つまり「自分で遊びを作り出す」ことができるわけです。

完全にテレワークができる環境がある(会社に出社せずに、自宅で仕事をできる環境がある)方や、FIRE(資産を築いた上での早期リタイア)が達成できた人であれば、粟島をはじめとする自然たっぷりの地方都市への移住もよいものかもしれません。

新潟県村上市へ

列車は三面川(みおもてがわ)を渡り、やがて村上駅(むらかみえき、新潟県村上市)に着きます。

新潟県村上市(むらかみし)は、かつて江戸時代、村上藩(むらかみはん)の拠点として栄えてきました。

村上藩(むらかみはん)は、村上市にあった武士達の拠点です。
ちなみに新潟県の県庁所在地である新潟市は、江戸時代には長岡藩(ながおかはん)の管轄でした。
つまり「新潟藩」という藩は存在しなかった、ということに注意しましょう
 
村上市は、北限の「茶どころ」として知られます。お茶は基本的に暖かい土地でしか育ちません静岡県のお茶は、その代表格・代表例です。なので、村上市がお茶の栽培の「北の限界地」ということになります。逆にいえば、村上市より北の地域では(お茶の木にとっては)寒すぎて、基本的には(何か特殊な手を施さない限りにおいては)お茶は育ちにくいということです。育てたところで、静岡や村上のお茶に勝てるわけありません・・・(^^;

現代の村上市は、瀬波温泉(せなみおんせん)や絶景・笹川流れ(ささかわながれ)・伝統的な町屋通り、さらには先述の粟島(あわしま)へ向かうための航路など、観光都市としての側面が強いといえます。

豊臣政権下の1598年に、村上家という一族が現在の村上市にトップ・支配者として入ってきました。しかし、江戸時代の始めに村上氏は改易(かいえき:どこかの地域に飛ばされること)されています。その後、村上ではトップである大名が次々に入れ代わってしまいました。つまり村上藩のトップである大名は、江戸時代の前半はなかなか安定せずに、次々に変わっていたということですね。

しかし江戸中期の1720年には、後に安定政権を築くことになる内藤家(ないとうけ)が村上藩に入ってきました。内藤氏が村上藩のトップになってからは、明治時代になるまでの期間、9代・150年もの長きにわたってずっと統治してゆきました。
つまり内藤家になってからは、村上藩の政権は安定していったということです。

坂町駅へ 米坂線との分岐駅

やがて荒川(あらかわ)という川を渡り、山形県の米沢市(よねざわ)から続く、米坂線(よねさかせん)の分岐駅となる坂町駅(さかまちえき、新潟県村上市坂町)に着きます。

坂町駅(新潟県村上市坂町)

坂町駅から米坂線(よねさかせん)に乗り換えると、小国(おぐに)・米沢方面へと行きます。米沢(よねざわ)と坂町(さかまち)を結ぶ路線なので、米坂線です。
小国峠(おぐにとうげ)は、新潟県と山形県の県境をなす峠であり、めっちゃ険しいです。米坂線もこの小国峠を越えるため、なかなか険しくて閑散とした地域を通ります。

途中にある小国町(おぐにまち、山形県西置賜郡/にしおきたまぐん)は、米坂線の沿線においても特に重要な町です。

中条駅・胎内市

続いて、中条駅(なかじょうえき、新潟県胎内市)に着きます。

中条駅(新潟県胎内市)

中条駅は、胎内市(たいないし)の駅です。
胎内(たいない)」というとまるで「お母さんの(赤ちゃんが育つ)子宮の中」のような意味になるため、なんだか凄い名前のようにも思えますが、その地名の由来には諸説あります。

胎内(たいない)」の名称は、もしかしたらあのアイヌ語由来ではないか、とも言われています。
確かにアイヌ語由来の地名に「内(ナイ)」がつく地名は多いので、わかるような気もします。
アイヌ語では川のことを「(ナイ)」または「(ペッ)」ともいい、川はアイヌ民族にとってはとても重要な存在でした。なので北海道には、「~内(ない)」「~別(べつ)」という地名がとても多いです。

余談ですが、岩手県盛岡市(もりおかし)と宮古市(みやこし)を結ぶ路線である山田線(やまだせん)にも、腹帯駅(はらたいえき、岩手県宮古市腹帯)と呼ばれる駅があります。まるで妊婦さんが5ヶ月になってからお腹に巻く「腹帯(はらおび)」を連想させる駅ですね。

新発田へ到着 かつての新発田藩の本拠地

やがて、新発田駅(しばたえき、新潟県新発田市)に到着します。

新発田駅(新潟県新発田市)

新潟県新発田市(しばたし)は、江戸時代には新発田藩(しばたはん)の拠点として栄えました。

戦国時代の終わりの1598年、それまで越後(えちご)・新潟県を支配していた上杉景勝(かげかつ)は、福島県・会津(あいづ)に移封(=人事異動のようなもの)されることとなってしまいました。
その後、新発田(しばた)には溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)というトップが入ってくることになりました。

溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)は、1600年の「関ヶ原の戦い」のとき、徳川家の味方である「東軍」について戦い、越後・新潟におもむいていました。そして越後・新潟で発生した上杉氏(=徳川家の敵)の反乱を制圧したのです。つまり、徳川家の敵である上杉氏を倒したというわけです。この功績により、溝口氏は徳川家からとても評価されました。

これによって溝口氏は、幕府から新発田の地域を本領安堵(ほんりょうあんど:自国の領地であることを幕府から保証されること)され、新発田藩(しばたはん)がここに成立することになりました。

しかし当初の新発田は、草ボーボーの何もない湿地帯であり、まるで農業には適していない土地でした。
そこで新発田藩と住民たちは、干拓(かんたく:海や沼の水を干上がらせて、陸地を作ること)や治水(ちすい:川の水を引っ張ってきて、田畑に水を供給する、などのこと)などに力を入れてゆき、新田開発(=米の生産量を大幅に上げること)を進めていきました。
つまり土地を次々に耕してゆき、海や沼の水を干上がらせて陸地を作り、川などから水を引っ張ってきて、たくさんの農地を確保してゆき、米の生産量を増大させていったわけです。

江戸時代は戦国時代と異なり平和な世の中となったため、平均寿命も上がり、人口爆発となってゆきました。それにともなって、たくさんのお米が必要になってきます。なのでこうした新田開発は、江戸時代になってとても重要になっていったのでした。

こうして新しく出来た田んぼが、「新発田(しばた)」という地名の由来になった、とする説もあります。

その結果、新発田の地域は穀倉地帯(こくそうちたい)となるまでに開発が進みました。つまり、広大な農地として発展していったわけですね。
その収穫高は、表向きの石高(こくだか)の数値を大きく上回るまでにもなってゆきました。表向きの石高は6万石でしたが、実際の内高(うちだか)は40万石にもなっていた、という説もあります。ちなみに、参勤交代のときに江戸に全国の大名が終結したとき、大名ごとのランク付け(格付け)の基準となるのは「表向き」の石高です。この表向きの石高が高い大名の方が、江戸で優遇されいい気分(?)になることができます。

戊辰戦争、「裏切り」か「英断」か

新発田藩は、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんしう)においては、当初は新政府側の立場をとろうとしました。なぜかというと旧幕府軍は不利であり、近代的な装備を備えた新政府軍に対しては到底勝ち目のない戦いだったからです。
しかし、東北地方の周辺の藩が合体して結成した「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」からは、
もちろんお前達も、俺たちの仲間につくよな?
という圧力をかけられてしまい、逆らいきれずに、やむなくこの同盟に加入ました。
しかしこれは、明治新政府を敵に回し、天皇の敵である「朝敵」という扱いを受けることになります。もちろん負けたら、ただでは済みません。同じく旧幕府軍側だった新撰組(しんせんぐみ)の近藤勇(こんどういさみ)のように斬首されたり、また土方歳三(ひじかた としぞう)のように悲劇の倒され方をすることもあります。

奥羽列藩同盟は、まずは新発田藩を自分達の仲間に加えて参戦させようと、陰謀工作をはかります。つまり、新発田藩主(リーダー)の溝口直正(なおまさ)を、人質にとろうと画策したのです。
しかしこの作戦は、新発田藩の領民・住民たちからの強い抵抗にあったため、なんとか阻止されることになります。

その後新発田藩は、同盟につくことはなく、あくまで当初の予定通り、新政府軍に合流し参戦することとなります。
もちろんこれは、奥羽越列藩同盟に対する「裏切り」行為です。そして近隣の長岡藩(ながおかはん:現在の新潟県長岡市)は同盟側についていたため、これはお隣り・長岡藩に対する裏切り行為でもあったのでした。もちろん新発田藩にとってはこの判断によって戦場となることを回避できたので、「英断」でもあります。

その「裏切り」とも「英断」とも取れる判断の結果、官軍(明治新政府軍)のターゲットとなる予定だった新発田の地は、戦火・戦禍からは守られることとなりました。
その代わり、同盟側についていた近隣の長岡藩の街は、新政府軍によって攻めらるターゲットにされてしまい、長岡の街は戦場となり壊滅状態に陥っています。ちなみに長岡市は太平洋戦争(大東亜戦争)のときにも米軍による大空襲(長岡大空襲)によって壊滅状態に陥ったのですが、その後不死鳥(フェニックス)のように復興してきました。そのため、長岡市は「不死鳥の街」とも呼ばれます。

新発田藩は、先述の「裏切り行為」から、以降は周辺地域との間に大きな遺恨を残すことにもなっています。そのため、両者にはいまだに根深い問題を残してしまっているのです。そうなると、先ほどの粟島のケースと同じで、やはり「新発田の人間と結婚してはいけない」というような、長岡・新発田それぞれ出身のカップルが結婚を反対されるという結婚差別もあったことでしょう。差別は「本人に責任が無い部分で否定される」ということでもあるので、かなり根深い部分はあると思います。

新発田からは、白新線で新潟へ

新発田駅からは、白新線(はくしんせん)で新潟へ向かいます。こちらは次回以降に解説します。

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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