都心から気軽に行ける、所沢・川越日帰り旅行へ
今回は、埼玉県の所沢(ところざわ)・川越(かわごえ)に行ったときの話をします。
今回は、東京都心から休日に気軽に行ける日帰り旅行として、西武国分寺線(せいぶこくぶんじせん)・西部新宿線(せいぶしんじゅくせん)でゆく所沢・川越の話をします!
ぜひ秋の行楽シーズンのご参考になれば、幸いです!
まずは東京都の中央線・国分寺駅(こくぶんじえき、東京都国分寺市)から、西武国分寺線・西部新宿線で北上してゆきます。埼玉県所沢市(ところざわし)の航空公園(こうくうこうえん)、さらには埼玉県川越市(かわごえし)の「時の鐘(ときのかね)」を見に行こうと思っています。
東京都・国分寺駅をスタート
スタートはまず、中央線・国分寺駅(こくぶんじえき、東京都国分寺市)からです。
東京都国分寺市(こくぶんじし)は、奈良時代に聖武天皇の勅願(ちょくがん)によって造られた、国分寺(こくぶんじ)に由来する街です。
国分寺市については、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
中央線鉄道唱歌 第7番 川越方面への分岐点、国分寺に到着 聖武天皇勅願による寺のあと
また、上記の中央線鉄道唱歌にもあるのですが、国分寺は今回は向かう川越(かわごえ)方面への分岐点でもあります。明治時代の当時は川越鉄道(かわごえてつどう)と呼ばれていたのですが、現在では西武国分寺線(せいぶこくぶんじせん)となっています。
国分寺駅からは、先も少し触れた通り、北の埼玉県の方面へ向けて、西武国分寺線(せいぶこくぶんじせん)という、私鉄・西武鉄道(せいぶてつどう)の路線が出ています。
西武国分寺線(せいぶこくぶんじせん)は、明治時代の1906年に開業した川越鉄道(かわごえてつどう)を原型とする路線であり、西武鉄道では最も古い路線になります。また、現在では国分寺駅~東村山駅(ひがしむらやまえき、東京都東村山市)を結ぶ区間になります。なので、所沢・川越方面へと向かう場合には、東村山駅で西武新宿線に乗り換える必要が出てきます。
西武鉄道(せいぶてつどう)は、埼玉県所沢市を本拠地とする西武ライオンズと同じ西部グループの会社です。
西武グループは、主に西武鉄道をはじめ、例えばホテルやリゾートなど、人々に対して楽しい余暇・休暇といったサービスを提供することを目的としている会社です。
西部ライオンズや、西部鉄道は、この西部グループの一部となる会社になります。
西武(せいぶ)とは、武蔵野(むさしのくに)の西側、という意味です。武蔵国とは、昔の東京都・埼玉県を含む領域のことをいいます。
東京都・埼玉県の西側で鉄道路線を展開しているため、「西武」という名前がついているわけですね。
この当時は、日本の旧国名(奈良時代の律令制における国名。「国」とは現在の都道府県のこと)が、例えば「会社名」や「路線名」になることはよくあることでした。例えばJR総武線(そうぶせん)だと、千葉県北部にあたる「下総国(しもうさのくに)」と東京都にあたる「武蔵国(むさしのくに)」からきています。
また、埼玉県の東部を走る「東武鉄道(とうぶてつどう)」というグループもあります。
所沢市・航空公園へと向かう 東村山駅で、西武新宿線に乗り換え
国分寺駅から西武国分寺線で北上すると、西武国分寺線の終点である東村山駅(ひがしむらやまえき、東京都東村山市)に着きます。
東村山駅は、特急「小江戸(こえど)」も停車します。小江戸(こえど)とは、まるで江戸のように綺麗な町並みをもった風流ある町のことであり、後述する川越市(かわごえし)などのことをいいます。
千葉県香取市(かとりし)の「佐原の街並み(さわらのまちなみ)」も、小江戸(こえど)の一つです。
東村山駅では、東の新宿方面から延びてきた西武新宿線と合流します。つまり新宿区・歌舞伎町(かぶきちょう)にある西武新宿駅から延びてきた、西武新宿線とここで合流するというわけです。
そして、ここまでやってきた西武国分寺線は、ここ東村山駅が終点です。そのままでは所沢・川越方面までは行けないため、東村山駅で西武新宿線に乗り換えてる必要があります。西武新宿線に乗り換えてしばらく北上していくと、埼玉県へと入ります。
やがて西武池袋線との合流駅である所沢駅(ところざわえき、埼玉県所沢市)に到着します。
西武池袋線も、池袋から西へ延びてくる路線です。
埼玉県所沢市(ところざわし)は、先述の通り西武ライオンズの本拠地になります。
所ジョージさんの芸名も、出身地が所沢市であることに因(ちな)んでいます。
幹部自衛官の医者を育成する防衛医科大学校(ぼうえいいかだいがっこう)も、所沢市にあります。防衛医科大学校は学費は無料のうえに給料までもらえ、しかも将来は医者になることが約束されているという超エリート学校になります。しかし、そもそも偏差値が67と高い上に、全寮制という超キビシイ世界が待っています。もちろん一般ではパワハラ同等ともいえるような教官や上級生の命令には絶対逆らえません。さらには、卒業とともに自衛官になることを拒む「任官拒否(にんかんきょひ)」をもしやってしまうと、約5200万円にもおよぶ高額な学費返済を求められるそうです。決していいことばかりではないので、防衛医科大学校の受験にはかなりの覚悟がいりそうです。
航空公園に到着
そして所沢駅(ところざわえき、埼玉県所沢市)を過ぎると、そのまま西武新宿線に沿って進み、やがて航空公園駅(こうくうこうえんえき、埼玉県所沢市)に着きます。
零戦(ゼロ戦)の発祥地・所沢市
所沢市は、1911年に日本ではじめての飛行場が出来たため、航空の発祥の地と言われています。また、航空公園にはたくさんの飛行機が展示されています。日本の歴史におけるたくさんの戦闘機のうち、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本軍の戦闘機の一つである零戦(れいせん/ゼロ戦)があります。
零戦は、堀越二郎(ほりこし じろう)という人物の設計によって作られました。
零戦(れいせん/ゼロせん)こと零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、太平洋戦争(大東亜戦争)のときに大活躍した、日本軍の戦闘機です。
零戦(れいせん)の名前の由来は、日本の初代天皇とされる神武天皇(じんむてんのう)の即位からちょうど2600年経過した、1940年に名前がつけらたことに由来します。当時の日本軍の戦闘機は、その「年」によって名付けされたいたのでした。太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)は1941年12月8日なので、その前年ということですね。
神武天皇(じんむてんのう)は、「古事記(こじき)」などの日本神話において、紀元前660年2月11日に奈良県橿原市(かしはらし)にて初代天皇として即位したことになっています。この2月11日に日本を建国したことになっているので、この日は建国記念日と呼ばれます。
奈良県橿原市(かしはらし)と、神武天皇の即位に伴う建国記念日については、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。
鉄道唱歌 関西編 第38番 畝傍山と橿原市 神武天皇の即位した、日本のはじまりの地
皇紀(こうき)とは、日本オリジナルの「年」の数え方です。皇紀では、先述の神武天皇が即位した紀元前660年を「0年」として数えます。
今年は西暦2024年ですが、「皇紀」では2684年になります。つまり現在は、神武天皇が即位してから2684年が経っているということです。
西暦:紀元前660年=皇紀:0年
西暦(せいれき)とは、西洋における暦(カレンダー)のことであり、こちらはイエス・キリストが生まれた年を「0年」として数えます。
しかしイエス・キリスト(ナザレのイエス)は、実は西暦0年の生まれではなく、実際にはそれより約数年前の、紀元前4年~紀元前6年頃の生まれだった、と言われています。
ちなみに神武天皇の生誕は、紀元前711年だとされています。あくまで生誕ではなく「即位」した年が紀元前660年(皇紀0年)ということなので、気をつけましょう。
開戦当初は、とても強かった零戦
話を元に戻しますが、零戦は神武天皇が即位してから2600年が経った西暦1940年(昭和15年)に、「零戦」の名前がつきましました。
その翌年の1941年には太平洋戦争(大東亜戦争)が始まっています。
1941年12月8日の真珠湾攻撃では、日本は世界でもまだ例をみなかった「戦闘機」での攻撃を行い、大成功しました。当時は「航空機」という乗り物は、1903年にライト兄弟が発明してから40年も経っておらず、まだまだ歴史の浅い乗り物でした。なので当時はまだまだ軍艦が主流であり、戦闘機に「巨大な軍艦や基地などを叩き落とす」などというような主戦力になるとは、まだ当時は誰も考えてもいなかったのでした。しかし、真珠湾攻撃における日本軍の戦闘機による爆撃が大成功したため、戦闘機がとても強いということが世界に証明されてしまい、アメリカ側にも「戦闘機って実はかなり強いんじゃないのか?」的なことが知れ渡る結果となりました。そして時代はそのまま「戦闘機を制する国が、戦争を制する」という時代に代わっていくのでした。つまり戦争は、戦艦から戦闘機の時代になっていくのです。
戦争初期こそ、日本軍は圧倒的優位であったため、東南アジアでの戦いで日本は連戦連勝の快進撃を続けてゆき、欧米軍をどんどん撃滅してゆきました。そして零戦は大活躍したため、米英軍からは「ゼロファイター」として恐れられました。
しかし戦争が進むにつれ、アメリカの戦闘機の性能の方ががどんどん向上してゆき、零戦は不利に追い込まれてゆきます。日本はアメリカと比べて資源に乏しい国なので、物の量では(戦争が長引くほど)アメリカの方が有利になっていくのです。
開戦から半年間はずっと連戦連勝の日本でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦において、それまで勝ちすぎていて油断してしまった日本軍は、暗号がほとんど米軍に解読されてしまい、作戦がすべて筒抜けとなって(バレて)しまっていて、歴史的な敗戦となってしまいました。敗北したミッドウェー海戦では、多くの空母(くうぼ:戦闘機が飛ぶための「滑走路」を備えた船)を失ってしまった上に、多くの熟練パイロットも戦死してしまったのでした。
このミッドウェー海戦の敗北により、日本の連勝・楽勝ムードは終わりを告げ、今度はアメリカの反撃のターンとなっていきます。
苦戦する零戦 やがて米軍機には敵わない状態に
日本がどんどん不利になってゆき、アメリカが勢いを増していくと、零戦もだんだんと性能面でオワコン化していゆき、アメリカ戦闘機の性能に追い付けず、「撃ち落とされる」ということが多くなっていきました。
というか、撃墜されたゼロ戦を、こともあろうに米軍に「回収」されてしまい、ゼロ戦の機体は徹底的に分析され、弱点が露呈されてしまったのです。そして零戦は米軍によって対策されまくってしまい、もはやアメリカには勝ち目が無くなっていったのです。
零戦は「素早さ」「軽量化」などを徹底的に追究したために、とても薄い造りになっていました。最初こそその「素早さ」「機敏さ」によって米英軍を翻弄してきたのですが、戦争の中盤以降はその弱点ばかりが露呈するようになってしまっていったのです。
その後の零戦はなかなか改良も進まず、逆にどんどんアップデートを続ける米軍の戦闘機に対して、なす術もない状態になっていました。それどころか戦局が不利になってゆくにつれ物資不足・燃料不足も深刻化してゆき、戦闘機がまともに飛ぶかどうかすら危うくかり、さらには太平洋の南の戦場まで飛んで無事にたどり着けるのかどうか、という程にまで深刻な状況になっていました。さらにはまともなパイロットも次々に戦死していったために、短期間で練習した若者ばかりが操縦せざるを得ないようになってゆき、もはや「攻撃が命中しない」「撃ち落とされてばかり」の状態になってしまっていました。こうして残念ながら、日本は1945年8月に戦争に敗北し、終戦となったのでした。
川越市へ移動
航空公園駅を出ると、狭山市(さやまし)を過ぎて、やがて川越市(かわごえし)に到着します。
川越市には江戸時代からの古い建て物がたくさん残っており、先述の通り小江戸(こえど)とも呼ばれます。川越市は先述の太平洋戦争(大東亜戦争)のときに、空襲のターゲットにはなりませんでした(理由は諸説あり。恐らく東京の方が優先されたから?)。空襲を受けなかったために、川越市には江戸時代からの建物がそのまま残っているというわけですね。
また、他にも関東地方で小江戸と呼ばれる地域は、他にも栃木県栃木市(とちぎし)の巴波川(うずまがわ)の景色や、また先ほども少し紹介した千葉県香取市(かとりし)の「佐原の町並み(さわらのまちなみ)」などがあります。
佐原の町並みについては、以下の記事でもわかりやすく解説しているため、ご覧ください。
房総半島一周の旅19 佐原の街並みを探訪 そして干拓の歴史・印旛沼
また、川越は昔から江戸方面への「水運」の街として栄えてきました。まだ「貨物列車」や高速トラックが無かった時代には、舟で大量の荷物を運んだ方が都合がよかったのです。なので、江戸時代の町には、町の中にたくさんの「運河」が張り巡らされていました。運河とは、舟が通れるように掘られた、人工的な川です。かつて江戸(東京)や大坂(大阪)にもたくさんの運河が掘られ、たくさんの舟が町の中を行き交っていたわけですが、明治時代以降は鉄道・自動車などが発展してくるため、水運は用済みとなって運河は埋め立てられてゆきます。しかし、上記の「佐原の町並み」や北海道・小樽運河(おたるうんが)などのように、観光・景観を保つ目的で、地元民の意向・努力により敢えて残されている場合もあるのです。
川越市のランドマーク「時の鐘」
川越市の最大のランドマークは、やはり「時の鐘(ときのかね)」です。
江戸時代ほどの昔には「時計」を持っている人少なかったため(一応ありましたが、大名や一部のお金持ちのみが所持していました)、このような大きな時計台を使って、音を鳴らして町の人々に時間を教えていたわけですね。
現代人の多くはスマホ等で時間を確認していると思いますが、当時は正午になったら「正午の鐘」、みたいな形で鳴っていたのでした。
こうした手段によって、人々は時間を知っていったわけです。
戦争中には、軍隊が正しい時間で攻撃するために、一気に時計が普及してゆきました。
それだけ、時計の存在はとても重要だったのです。
現代では、たくさんのIT機器(例えばコンピューター、サーバーなど)がネットワーク(「光ファイバー」や「無線」など)を通じて繋がっています。そのため、世界中のコンピューターやシステムで「同じ時刻」を保持してなければなりません。もし機器ごとに「保持している時刻」が違っていたり異なっていたりすると、万一の障害発生時におけるトラブルシューティングのときに、「何時にシステム不具合が発生した」などの原因究明ができなくなるためです。どっちの時間(ログ)を信頼したらいいのかわからないですよね。なので、世界中のコンピューターはNTP(ネットワーク・タイム・プロトコル)とよばれる仕組みによって、全てのコンピューターが「同じ時間」を保持(同期)できるようになっています。このNTPを使えば、システムやサーバーの管理者がわざわざ「手動で設定する」というような手間が省け、さらには管理者の「思い込み」に起因する「時刻設定ミス」などのヒューマンエラーを無くすことができます。
ちなみにこれ、応用情報技術者試験などの知識ですよね(^^; しかし、川越の「時の鐘」とNTPの役割って、なんか凄い似てるなーってふと思ったので、このように書いた次第でございます(^^;
「日帰り観光」旅も終わり
以上、東京都心からも「1日で日帰りで来られる、埼玉観光」でした。川越市に訪れたのは初めてでしたが、風情ある江戸の町並みがある一方で、駅前はとてもお店も多く、とても便利な街だと思いました!
Aqoursの諏訪ななかさんも、川越出身なんですよね。
今回はここまでです!
お疲れ様でした!
おまけ:筆者の自撮り写真
この日は、家族連れのみなさんもたくさんいて、なんだかとても癒されました!航空機の展示を見ているお子さんとか可愛らしかったです。私も、可愛い赤ちゃんや子どもが欲しいなって思いました!♪川越市には、ラーメンのとても面白い仕掛けがあったりして、びっくりしました!!
【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
もし内容の誤りに気付かれた方は、「お前は全然知識ないだろ!勉強不足だ!」みたいなマウントを取るような書き方ではなく、「~の部分が誤っているので、正しくは~ですよ」と優しい口調で誤りをコメント欄などでご指摘頂ければ嬉しく思います。再度こちらでも勉強し直し、また調べ直し、内容を修正致します。何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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