南九州の旅1 新八代→新水俣 九州新幹線でスタート

今回からは、南九州(九州南部)の旅について、全・十数回にわたって書いていこうと思います!

おおまかに説明すると、熊本県南部の八代市(やつしろし)にある、九州新幹線・新八代駅(しんやつしろえき、熊本県八代市)から、鹿児島県・宮崎県・大分県を反時計回りに進んでいくということにしようと思っています。

南九州または九州南部は、かつて大昔は隼人(はやと)とよばれる民族が住んでいました。北海道でいうアイヌのような方々ですね。さらに本州よりも南にあるために暖かい南国のイメージがあるため、まだ海外旅行が一般的でなかった高度経済成長期に新婚旅行のメッカとなってきたり、また太平洋戦争(大東亜戦争)のときは戦闘機の燃料節約のために、最も太平洋に近い飛行機の基地が存在していたりと、南九州にはさまざまな歴史があるのです。なので、ただ鉄道で旅をするというだけではなく、こうしたダイナミックな南九州の歴史にも迫ってゆきたいと思います!

ちなみに「南九州の旅」とはいっても、鹿児島県にある南九州市(みなみきゅうしゅうし)の旅ということではありませんので、ご注意ください。元々は「南九州」と「九州南部」はそれぞれ同じ意味の言葉だったのですが、2007年に鹿児島県の知覧町(ちらんちょう)などが合併して南九州市が誕生したため、南九州市との混同を防ぐためにもあえて「九州南部」と呼ぶことも増えてきているとのことです。

ではなぜ今回は新八代駅からのスタートにしているのかというと、以前に当サイトで紹介・解説した鉄道唱歌 山陽・九州編で、八代駅までの紹介だったからです(そもそも鉄道唱歌の内容そのものが、八代までが南限・南端となっているからです。明治時代は、八代までで鉄道が止まっていたのです)。

鉄道唱歌 山陽・九州編の南限・南端については、以下の記事をご覧ください

鉄道唱歌 山陽・九州編 第57番 球磨川の流れの速さ 西は天草の海 九州もかなり南へ

なので今回は、八代駅から南の鹿児島県方面や、まだ当サイトでは解説・紹介していなかった宮崎県・大分県についても扱っていこう、というわけです。あらかじめご了承ください。

熊本県・新八代駅からスタート!

新八代駅(熊本県八代市)

新八代駅(しんやつしろえき)は、2004年に比較的新しく開業した、熊本県南部の八代市(やつしろし)にある、九州新幹線の駅です。九州新幹線は元々は鹿児島中央駅~新八代駅との間で、2004年に部分的に先行開業していました。新八代駅は、そのときに新しく出来た駅です。

八代市(やつしろし)の中心部は八代駅のあたりになるわけですが、市街地中心部が九州新幹線のルートよりもだいぶ西へと外れてしまっているため、やむを得ず市街地から外れた位置に「新幹線の八代駅」を作ったというわけです。新幹線は高速運転をするので、なるべく直線を確保しないといけないため、八代市の中心部へと新幹線を通せなかったのですね。なので「新幹線の八代駅」「八代市への玄関口駅」というような意味合いで、新八代駅となったわけですね。

またその当時は、博多方面からの高速列車はまだ在来線・特急列車の時代だったために、新八代駅においてリレー方式によって、特急と新幹線の乗り継ぎが行われていました。リレー方式とは、新幹線と特急列車の乗換えが同じホームで(対面で)スムーズに出来るというやり方のことです。つまり、特急列車を降りたら、同じホームのすぐ向かい側で新幹線が待機している(スタンバイしている)という状態のため、階段でホームを移動したりすることなく、すぐに新幹線に乗換えができるというわけです。

これは2024年現在、武雄温泉駅(たけおおんせんえき、佐賀県武雄市)でも採用されています。博多から長崎方面へは特急リレーかもめで武雄温泉駅まで向かい、降りたらすぐ向かい側に新幹線・かもめ号が待機しているため、ホーム移動することなくスムーズに乗換えて西九州新幹線で長崎方面へと向かえるというわけです。

しかし2012年に九州新幹線が全通したため、新八代駅でのリレー方式は不要となりました。

また新八代駅は、いわゆる大分県・宮崎県などの九州東海岸側を経由する東九州新幹線の起点の駅として、南東(右下)へと山岳地帯を貫いて進み、宮崎駅(宮崎県宮崎市)に接続する、という案も存在していたりするのです。宮崎県は九州のなかでも特に新幹線からやや取り残された感があるため、少しでも早く新幹線で宮崎県へと接続したい、という思いがあるからですね。

今回の旅の主な経路

今回は、おおよそ以下の行程に沿って進めていく予定です。

新八代駅→(九州新幹線)→新水俣駅→(肥薩おれんじ鉄道線)→水俣駅
新水俣駅→(九州新幹線)→川内駅
川内駅→(鹿児島本線)→鹿児島中央駅
鹿児島中央駅→(指宿枕崎線)→指宿駅→西大山駅→枕崎駅
鹿児島中央駅→(日豊本線)→隼人駅
隼人駅→(肥薩線)→吉松駅
吉松駅→(吉都線)→都城駅
都城駅→(日豊本線)→宮崎駅→延岡駅→佐伯駅→大分駅→別府駅→小倉駅

となる予定です。途中で、肥薩おれんじ鉄道(ひさつおれんじてつどう)で水俣市(みなまたし)に、また指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)でJR3南端の駅である西大山駅(にしおおやまえき、鹿児島県指宿市)や、JRの南の終着駅である枕崎駅(まくらざきえき、鹿児島県枕崎市)へと寄る予定です!

メロンと「い草」の街・八代市

まずは先述の通り、新八代駅(しんやつしろえき、熊本県八代市)からのスタートになります。

熊本県八代市(やつしろし)は、熊本県南部にある、かつて昔は熊本県最大とも言われたこともある街です。

八代市メロンや、(たたみ)の原料になる「い草(いぐさ)」の生産がとても盛んです。

メロンの生産量は茨城県が日本一ですが、熊本県はそれに次ぐ国内2位の生産量を誇っています。3位に「食の宝庫」とも呼ばれる北海道が続きます。

また熊本県は「い草」の生産量は日本一であり、なんと国産の約8割のシェアを占めています。日本の伝統文化である「たたみ」の原料の8割はここで作られているわけで、これは素直にスゴいですね。

八代海の「不知火」とは?

八代市(やつしろし)は、不知火(しらぬい)と呼ばれる蜃気楼(しんきろう:Mirage)が見える八代海(やつしろかい)、通称・不知火海(しらぬいかい)に面している街でもあります。八代海不知火海)は、九州本土・宇土半島(うとはんとう)・天草諸島(あまくさしょとう)などのさまざまな陸地に囲まれているため、夜になると「遠くにある陸地の光」が空中に浮かびあがって見えやすくなるのでしょう。

不知火(しらぬい)はいわゆる「蜃気楼(しんきろう)」の一つですが、それは「温度が違う空気どうし」で「屈折面」が生じてしまい、曲がった光のために「ありもしない光」がはるか遠くに浮かび上がって見えてしまうというわけですね。

地平線の少ない日本ではなかなか蜃気楼が見られる機会は少ないと思いますが、似たような現象として「浮島現象(うきしまげんしょう)」がよく現れます。それは海のはるか遠くに、微妙に島が浮いて見えたりするわけです。島がリアルに浮いて見えるため、かなり驚きます。列車の窓からも見られることがしばしばあるので、海の見える区間では注視してみましょう。ちなみに私(筆者)は、静岡県・伊東線からの相模湾と、山口県・山陽本線からの広島湾、そして北海道・室蘭本線からの噴火湾(ふんかわん)で、それぞれ浮島現象を見たことがあります。

不知火の語源・歴史は、第12代天皇である景行天皇(けいこうてんのう)に由来します。ちなみに「第12代天皇」がどれくらい古いのかというと、例えば飛鳥時代の推古天皇(すいこてんのう:聖徳太子が摂政についたときの女性天皇)が第32代天皇であり、古墳時代の仁徳天皇(にんとくてんのう)が第16代天皇ですから、第12代の景行天皇が相当に古い時代の天皇であることがわかります。また、景行天皇はヤマトタケルノミコト(日本武尊)のお父さんでもあり、現代の令和の天皇陛下は第126代になります。初代の天皇は神武天皇(じんむてんのう)です。

景行天皇(けいこうてんのう)は、その大昔、奈良県にある朝廷(天皇の本拠地)から南九州に住んでいた熊襲(クマソ)を征伐するために、九州を訪れていました。熊襲とは、先述の隼人(はやと)と同じように、南九州に元々住んでいた人々です。北海道でいうアイヌ民族のような存在です。しかしこの熊襲が、大和朝廷に対して全く従うということをしませんでした。そのため景行天皇は、天皇みずから九州へと、熊襲征伐のために赴(おもむ)いていたのです。

その景行天皇が八代海を舟で渡るとき、夜になってしまって完全に目の前の景色が真っ黒になってしまい、さっぱり視界が遮られてしまいました。しかし、はるか遠くに浮かぶ謎の光によって、その光をたよりにして、なんとか無事に陸地にたどり着くことができたのでした。

そんな景行天皇を救った謎の光ですが、地元民に「あの光は何だ?」と答えると、「しらないアイドンノー)」と答えたため、そこから「不知火(しらぬい)」と名付けられたそうです。まぁ、得体(えたい)の知れない光(火)という意味ですね。

これは、まるでオーストラリアに初めて訪れたある探検家が、跳び跳ねる動物を見て「あれは何だ?」と原住民に聞いたところ、「カンガルー(知らない)」と答えたことがきっかけでカンガルーという動物の語源となった、というお話に似ていますが、カンガルーの話の場合はどうやら俗説らしいですね(^^; 私は小学生のときにこの俗説を普通に信じていました。カンガルーとは「知らない」という意味ではなく「跳ねる動物」という意味だそうです。

日本三大急流「球磨川」

八代市(やつしろし)は「日本三大急流」の一つとも呼ばれる、球磨川(くまがわ)にも面しています。「日本三大急流」のうち、もう一つは静岡県の富士川(ふじかわ)、もう一つは山形県の最上川(もがみがわ)になります。

球磨川(くまがわ)は、肥薩線(ひさつせん)に沿った川でもあります。なぜ流れが早いのかというと、流れる山の傾斜がきつく急だからですね。

川は流れが早いほど、山や地面などを削りやすくなります。そして川の傾斜や勾配がきついほど、川の流れは速くなり、さらに地面を削りやすくなります。削られた土砂は、川によってどんどん下流へたくさん運ばれていきます。そのたくさんの土砂が海近くの河口部において、まるで(おうぎ)のような三角形の平野になって積み上げられてゆきます。これを扇状地(せんじょうち)といいます。

八代市も、球磨川などによって運ばれた土砂が河口部で積み上げらられた、扇状地の上にあります。

球磨川に沿った「肥薩線」現在は薩摩国とを結ぶ路線ではない?

球磨川に沿った肥薩線(ひさつせん)は、その名前の通り、肥後国(ひごのくに:熊本県)と、薩摩国(さつまのくに:鹿児島県西部)とを結ぶ路線だから、という意味からきています。

しかしながら、現在の肥薩線の終着駅である隼人駅(はやとえき、鹿児島県霧島市)は、鹿児島県東部の大隅国(おおすみのくに)の領域に含まれます。ここだけみると「肥薩線」という名前はふさわしくないように思えます。

鹿児島県西部薩摩国(鹿児島市のあたり)
鹿児島県東部大隅国(霧島市のあたり)

これの理由は、現在は日豊本線(にっぽうほんせん)に含まれている隼人駅~鹿児島駅の区間は、元々は肥薩線に含まれる区間だったからです。鹿児島駅(※鹿児島中央駅ではありません)はまさに「薩摩国(鹿児島県西部)」の領域に入るので、まさしく「肥薩線」の名前で適切だったというわけです。

しかし後に、隼人駅~鹿児島駅の区間が日豊本線へと編入されたために、肥薩線は(その路線名にかかわらず)「薩摩国」までは行かない路線、という形になってしまいました。こうなると、例えば「肥隅線(ひすみせん)」などのように路線名を変更しても良さそうなものでしたが、結局は名前変更されずに「肥薩線」のまま名前が残って現在に至る、という経緯があるというわけです。

さすがに路線名まで変更すると、膨大なコストがかかるために、難しかったのでしょう。路線名を変更すると、各地の駅の表記なども変えないといけないなど膨大な手続きが必要なため、そのまま「肥薩線」の名前が残されたのでしょう。

室町時代の八代市

鎌倉幕府が滅亡したあとの「建武の新政」のとき、後醍醐天皇にとても忠実に尽くした武将である名和長年(なわながとし)の子である名和義高が、八代の地を与えられました。

名和長年(なわ ながとし)とは、鎌倉時代の終わりに、島根県の隠岐島(おのしま)に(鎌倉幕府に逆らった罰で)流罪になっていた後醍醐天皇が隠岐島から脱出するのを助け、鎌倉幕府の滅亡と建武の新政のために貢献した人物です。

名和長年について詳しくは、以下の記事でもわかりやすく解説していますので、ご覧ください。

山陰鉄道唱歌 第20番 大山のふもと、御来屋へ 後醍醐天皇の御船を迎えた、名和長年の功績

この名和長年(なわ ながとし)の子が八代(やつしろ)の土地を与えられ、そして室町時代における八代市のトップとして支配するようになった、というわけです。

まあ、ここではとりあえず室町時代の八代市長は「名和長年の子だった」と覚えておけばよいでしょう。

そして長年の子は、古麓城(ふるふもとじょう)とその城下町を築いたのでした。
古麓城(ふるふもとじょう)は、現在の鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道線の駅である八代駅(やつしろえき、熊本県八代市)のやや南東にある、先ほど紹介した球磨川(くまがわ)のほとりにあった城です。

八代をめぐる、名和と相良の戦い

こうして室町時代の八代(やつしろ)のトップとして支配した名和氏(なわし)は、東隣の球磨郡(くまぐん)を支配していた相良氏(さがらし)と、室町時代を通じてたびたび争うことになりました。まあ「お隣同士」だと、どうしても意見の食い違いでイザコザというものがあるものです。

球磨郡(くまぐん)とは、八代市の南東の山間部にあたるエリアであり、人吉市(ひとよしし)を中心とするエリアのことです。ちょうど肥薩線が通るエリアでもあります。今でも人吉市のやや北東に、相良村(さがらむら)という村があります。

つまり名和(なわ)VS 相良(さがら)
の戦いになったわけです。

その結果は、相良氏の勝ちとなりました。
室町時代後半の1504年に起きた戦いの末、ついに相良氏が名和氏を八代(やつしろ)の地から追い払ってしまい、相良氏は八代に本格的に進出してきます。

相良氏の天下になった、八代の地

名和氏(なわし)を追い払って八代の地に入ってきた相良氏(さがらし)は、まず本拠地を先述の古麓(ふるふもと)に移すことにしました。つまり古麓の主(あるじ)が、「名和」から「相良」に変わった、というイメージです。住民からすれば「市長が入れ替わった」というようなイメージですね。

そして、現在の八代市役所のやや南にある、球磨川沿いに作られた港である徳淵津(とくぶちつ)が、大陸・中国との貿易港として、大いに栄えたのでした。当時の九州は、外国に最も近い場所です。現代では航空機が発達しているため、日本の玄関口は「成田空港」や「関西国際空港」などですが、当時の日本の玄関口といえば長崎などをはじめとする、九州の西海岸エリアです。八代も、同じような海外との玄関口として発展してきました。また、貿易をするとなると港で働く人達(人手)がたくさん必要になるため、住む人が多くなりこうした港のエリアは栄えやすくなり、徳淵港(とくぶちこう)のある八代市も大きく栄えていきました。

ちなみにこの徳淵港(とくぶちこう)は、今ではかなり内陸部にあるため、当然ですがもはや港としては使われていません。昔は当然ながら海沿いにあった立派な港だったのです。それは、球磨川(くまがわ)の運んでくる土砂が溜まっていったことによって陸地がどんどん出来てゆき、海側に陸地が広がっていったことと、また江戸時代の干拓(かんたく:ダム・水門で水を意図的干上がらせ、陸地・農地を作ること)によって陸地が拡大していったことから、徳淵港は相対的にどんどん内陸部に移っていくみたいになっていった、というわけです。

相良氏の天下も終わり 島津氏の支配下に

しかし、戦国時代の終わりの1582年になると、相良氏(さがらし)は南の薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)地方から勢力を伸ばしてきた島津氏に屈服してしまい、島津氏の下につくことになりました。
そして相良氏は、それまで名和氏に代わって支配してきた八代(やつしろ)からは撤退することになったのでした。
そこからの八代は、島津氏の天下となっていくのです。

しかし結局は、島津氏の天下までも奪われてしまいます。
それは1587年に豊臣秀吉の天下統一のために行われた「九州征伐」によって、島津氏も八代の地を追われてしまうことになったのでした。

豊臣秀吉は、全国を統一して日本のすべての土地を我が物にするため(カッコよくいえば、戦乱の世の中を終わらせて日本を平和にするため)、九州にもどんどん攻めていったのです。
それで八代(やつしろ)の地から、島津氏を追い出してしまったのです。

しかし豊臣秀吉も1598年に病死してしまい、江戸時代になると日本は徳川家康の天下となり、その後の熊本(元々は「隈本(くまもと)」)は加藤清正(きよまさ)を代表とする、加藤氏の天下となりました。

つまりまとめると、八代市の歴代の天下・支配者は、

名和(なわ)→相良(さがら)→島津(しまづ)→豊臣(とよとみ)→加藤(かとう)

の順番になったわけですね。

(※ただし、後述する佐々成政小西行長などのように、上記以外の武将以外に他にもまだ存在します)。

かつて熊本県最大の都市だった、八代市

戦国時代の八代(やつしろ)の人口は、5万人にものぼりました。
戦国時代の日本の人口は約1,200万人でしたから、当時の人口感覚で5万人というのは、かなりすごい人口です。

単純に今の日本の10分の1ですから、今でいうと50万人にもおよぶ人口規模です。
現在の八代市の人口は約12万人ですから、いかに当時の八代が重要な都市であり、また「熊本最大の都市だった」というのがわかります。

秀吉の八代支配、そして佐々成政の失敗と肥後国人一揆

秀吉は島津氏を八代の地から追い出すと、1587年、肥後国(ひごのくに:熊本県)の各地を佐々成政(さっさ なりまさ)に与えて、支配を任せてゆきました。

佐々成政(さっさ なりまさ)は、豊臣秀吉からは「いきなり税金を取ろうとして検地をやっても、反発を招くだけだからやめておけ」と言われていたのですが、既に病気だったために、検地を焦ってしまいました。まぁ、検地という名目で許可も信頼関係もないまま、無理やり地元民の土地に入ったのでしょう。これが「土地権の侵害だ」として、豊臣秀吉から権利を保証されていたはずの国人(こくじん:地元の人々のこと)たちからの不満を招いてしまい、1587年に肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)が起きたのです。

まあ、これは今でいうと税務署の職員が、裁判所の令状(れいじょう)もなく、いきなり強制的に税務調査(=脱税をしていないかどうかを確かめるための調査)のために、むりやり会社の敷地内に立ち入ったようなイメージでしょうか。いかに公務員とはいえ、(税務署職員も警察官であっても)裁判所に対して令状を請求して持っていかなければ、他人の敷地内に無断で入ることは住居侵入罪にあたります。

公務員は権力が大きく(例えば、警察官や自衛官のように「武器を使える」、消防士のように「ビルに侵入できる」、政治家や議員のように「税金の使い方を決められる」など)、その使い方を間違えると誤って国民の権利を侵害してしまうことにもつながってしまうため、公務員の権力は憲法や法律によって、さまざまな制限がかかっているのです。例えば、武器を使うことが認められのは「本当にやむを得ないと認められるとき」だけですし、住居に侵入していいのも「やむを得ない場合(人の命がかかっているとき)」「現行犯のとき(犯人に逃亡のリスクがあるとき)」「裁判所の令状があるとき」などの正当な理由があるときだけです。また、法律や条例を作るときも、何重にもチェックや審査が入ります。つまりこのように、権力の濫用(らんよう)を防ぐために、公務員だからといって何でも出来るというわけではないのです。

江戸時代も、もし武士が「切り捨て御免」という行為・権限を濫り(みだり)にやってしまうと、幕府から厳罰を受けたといいます。つまり武士が相手を切り捨てるのに、相当な理由があったのだと証明できないと、武士は厳罰を受けたのです。

少し話がズレましたが、話を戻します。

検地とは、豊臣秀吉が、税金を正しく徴収するために、土地の広さをきちんと測ることです。それまでは土地を測る基準が「大名によってバラバラ」だったため、正しく土地を測るために、また正しく税金を徴収するために単位や測量のやりかたを統一したのです。

豊臣秀吉は、住民に不満を招かれてしまいまた戦乱の世の中が訪れないためにも、住民(国人)に対してはあくまで万全の配慮をしていたことがわかります。

そして、豊臣秀吉はあくまで肥後国の「地元民ファースト」で、あくまで国人たちの自治(つまり、住民による政治)を保証していました。そのために「3年間は検地を行わないように」と佐々成政に命令していたのですが、検地を焦った成政はこの命令に背いてしまい、反感を買った国人によって一揆を起こされてしまいました。この一揆には佐々成政は一人で鎮(しず)めることができず、秀吉側からの援軍がかけつけて、ようやく鎮圧できたのでした。

なんとか一揆は鎮圧はしたものの、その責任を負わされ切腹に追い込まれたのです。成政は謝罪のために、秀吉のいる大阪城までわざわざ赴(おもむ)いたのですが、会うことを拒否され、兵庫県の尼崎(あまがさき)に閉じ込められて、切腹に追い込まれたのでした。

佐々成政の滅亡、小西行長の天下に

このように肥後国人一揆という失態によって佐々成政(さっさ なりまさ)が滅亡した後、
新たに熊本県南部のトップとなったのは、小西行長(こにし ゆきなが)でした。

行長は、この肥後国人一揆の鎮圧において大きな活躍をみせたことから、それが評価されて秀吉により新たな支配者に命じられたのでした。

また行長は、先述の古麓城(ふるふもとじょう)を廃止することにしました。

そして小西行長は、新たに八代(やつしろ)を支配するための拠点として、現在の八代駅のやや西に位置する麦島城(むぎしまじょう)を1588年に築いたのでした。

しかし1600年の関ヶ原の戦いにおいて、小西行長は、石田三成(いしだ みつなり)とともに徳川家に敵対する「西軍」についたため、しかも西軍のトップクラスだったこともあり、敗戦の責任は重大なものとなっていました。

そのため、小西行長は罰として、京都の六条河原(ろくじょうがわら:京都駅のやや東の、鴨川(かもがわ)にある地域)で、斬首されてしまいました。

江戸時代になり、八代市では熊本城主・加藤清正(かとう きよまさ)が肥後国(ひごのくに)の領主(熊本県のトップ)となりました。

熊本は元々は「隈本(くまもと)」と書いていたのですが、「隈」の文字に「畏(おそ)れ多い」という文字が含まれているため、武士としてふさわしくないということで、強いイメージのある「熊」をつけた「熊本」に改められたのでした。

次回は、水俣市へ

新八代駅を出た新幹線は、新水俣駅(しんみなまたえき、熊本県水俣市)方面へと向かいます。

次回は、水俣市の話題となります!

今回はここまでです。

お疲れ様でした!

【注意】
この記事は、「旅行初心者に教える」ことを目的地として書いており、難しい表現や専門用語などは極力使用を避けて、噛み砕いて記述・説明することに努めております。そのため、内容については正確でない表現や、誤った内容になっている可能性があります。
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